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揺りかごから酒場まで☆少額微動隊

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先生の亡くなられた年...

先生の亡くなられた年,則ち大正六年の十月の事であった。私は少しばかりの用事を帯びて戸山ノ原を通りさる人の許に行かうとして、その射的揚の邊を歩いてゐた。すると向ふからやって來たのは漱石氏であった。丁度よいから私の宅よで來ませんかと勧めたが、先生は運動に出たのだから他人の家へ這入って話し込んでは却ってよくないのだと言はれるので、其處で立話を始めた。揚所は射的場の土手の邊りで道は坂になってゐたが,その道と平行してそれよりも少し高く尙一條の細い道があって、それが兵隊相手の休み茶屋の前を通ってゐるのである。私共は低い方の道に立って話をしてゐた。暫く會はなかった爲でもあったか、話はそれからそれへと移り随分長く続いた。送別會のだんまり屋はあれは正しく半面で、他面の夏目氏は實に巧妙なる談話家である。これは誰でも知ってゐることであるが、その話の面白いこと、あの書き物に顯はれるユウモアは寧ろその談話に於て却ってよく見られる。先生と話をしてゐると實に飽きる事を知らない位である。これは座談ではないが、嘗て上田敏君の洋行を送る会の時に於ける漱石氏の送別の辭の如きは私の長く忘れることの出来ないものの一である。扨て今その巧妙なる談話家と原の小道の真中で話を始めたのだからたまらない。話は何時までも何時までも続く。何でもその時に出來上った作の「明暗」の話なども出,その批評らしいことを私が言ひ出したので、話は愈々進み、「明喑」中の人物の話からデカダンの事になり、故人齋藤綠雨氏の話にまで及んで、話は決して盡きさうにも見えなかった。道は狭く細くて且つ足場は甚だ悪い。
立話はもう二三十分も續いてゐる。その間に通行人の妨げをした事どれ程であったか。多くは皆掛茶屋の前を通る小高い方の道を通って私共をよけて行ってくれる。その中にずるりつと道を滑ったものがあるので、私共は驚いてその方を見ると、盛裝をした美人と若い男とが相携へて來たのであったが、道が惡いのでその盛装の美人が足を取られて、傾斜をなしてゐる道を滑り落ちたのであった。見ると足はもとより着物も泥だらけになってゐる。特に戶山ノ原の泥は赤土であるから始末が恐い。私達はひどく氣の毒に思ったがどうすることも出来はしない。一寸その方を見、二人とも気の毒なことをしたといふ心を顔に見せただけで又候話を続けた。實は話の間にもどうせこんなに長く話すのなら、私の家は直ぐ近くだから茶でも飲みながらやらうと勸めたのも二三度に及んだのであるが,先生は前の通り一向に動かうともしなかったのであった。さうしてゐる中に話は盡きないが、足の方が疲れて來たのでそれではまたゆるゆる話さうと言ってー立話でも隨分ゆるゆるではあったがー分れようとした時、前の掛茶屋から先刻滑って顛んだ若い美人と男とが出て來た。二人はその家に這入って泥を落し装を整へて、恐らくは茶でも飲んで出て來たのであるらしい。孰れにしても可成な時間はあったのであるが、それ程私共は長時間立話をしてゐたのであった。

これが私の夏目氏に會った最後で、その年の十二月に先生は亡くなられたのである。初めの夏目氏はその氣むづかし屋であり、最後にはその打解けた方が出たので、初めと終りとに先生の兩側面を見た私は、面白い印象として此の事實を記して置く。
〜戸川秋骨「楽天地獄」
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by r_o_k | 2018-04-23 23:45

困惑と酩酊の一週間〜2018/4/17-23のツイッターまとめ

そんな話題の中でなんだが細かく彫ってあるなあ(靖国神社初期、鶏卵紙焼きの写真も残っているがまだ圧倒的に絵が多い) https://pic.twitter.com/TZ64nyz9eu

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東京名勝一覧 児玉又七編m15100702

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この神田明神は関東大震災で丸焼け、先の大戦で丸焼けのこてんぱんの結果、木陰で休むようなとこではなく石敷の垢抜けた今の様子になったんですが、門脇の塚は名物として知られ、右の獅子ののぼるほうは辛うじて現存します。写真めんどくさいので話だけ。この角度の絵も珍しいと思うんだよね(あることはある)。後ろ左右の謎の屋根の角度がうさんくさい。 https://pic.twitter.com/lJMmurW7iL

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関東大震災で全壊してた。獅子だけ残ってて平成二年に再建したらしい。江戸末期の文久年間に両替屋たちが奉納、獅子山と呼んだと。なら左のなぞの岩は??2つあったという記憶だけあったがなんだろ。 https://pic.twitter.com/QgUgeF9wtQ

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こちらは構図そっくり。人物配置も似ている(同じではない)。日本橋の版元(絵は浅草)の詳細な絵地図のものゆえ、浅草の先のよりちゃんと書かれている。この2つで同じような構図は他にも見られる(違うのもある)。共通の下絵があるのかもしれない。時期は下るか。 https://pic.twitter.com/i3OUHZs37j

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ものすごく小さい銅版画なので変な屋根とかあるしあんま考えないほうがいいか。神田明神で戦災も生き残ったといえば。 https://pic.twitter.com/zBeeYJr5Bc

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珍しい角度というとこの亀戸天神(宰府天神)、太鼓橋に超高い本殿。これだと超高いのがわかる。先の旧靖国神社社殿も高いけど規模が小さかった。何で戦後今のような形にしたんだろう。沢山残る絵写真はすごいきれいです。 https://pic.twitter.com/G6joIcRkys

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そうそうこれなんですよ亀戸天神戦前の姿。知ってる人に言わせると、本殿前の太鼓橋がこの構図では重なってしまうと。太鼓橋かどうかもわかりにくいよね。太鼓橋は復興時もっと後ろに再建、本殿はぺちゃんこに。 https://pic.twitter.com/Bw9wztMbas

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ぜんぶ載せてしまいそうだがこれだけ。海運橋から第一銀行、有名な現存しない建物。鶏卵紙焼きの写真も残ってて今ヤフオクに様々ひっくるめてとんでもない値段で出てる中にもある。その写真を撮ってる人の絵(何度載せるんだか) https://pic.twitter.com/RqIWKVYpDV

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江戸怪談って出オチみたいな印象与えるけどそれは一部で、ダラダラ説教臭い文章がついてたり、中途半端なレベルのお約束もののほうが多いからね(という実感)。出オチの突飛さが受けるんだけど、分析すればそれなりの裏があったりする(多くは宗教とか時には政治批判とか)

中途半端な江戸怪談の方がリアルを感じるんだよなあ。
猫と狸の区別もつかない人がいるような江戸時代に、たとえば熊と怪獣の区別がつくとは思えん。。

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知らん家族の写真を二百枚も見ててしにそう
服装から昭和二桁始めくらいだろ希少価値ないな、、、思ってたらこのオリエンタルハイパーパン乾板、いまのサイバーグラフィックスが昭和12年に発売したものだそうだ。かなりの金持ち道楽&右な家族だったようだ(いらんわ楠公の資料写真、、) https://pic.twitter.com/ElBbpVzSrN

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川村なんとかさんの切支丹屋敷研究基礎資料に対する未完成の反論本を二束三文で買ったのはこういう写真があるから。この本では否定している(庚申坂が妥当とする)川村説=現説の短い切支丹坂とその下の橋。獄門橋、暈して幽霊橋。どうも確証のない脇話が多いようだ。 https://pic.twitter.com/vMq5uiN5Kt

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おわかりいただけたであろうか
(とげぬき地蔵が上野駅前にある)まさに現在の入谷口前、鉄道学校の位置。めんどくさいので暇な時にブログに追加 https://pic.twitter.com/npW04Yz6Uy

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おわかりいただけたであろうか
(これもめんどくさいのですぐにはブログには反映しない)芝浜は西応寺あたりから薩摩屋敷の突堤までの雑魚場とされるが、元は屋敷を越して広い砂浜一帯を芝浜、芝浦と呼んだという。この地図は現代芝浜成立前後の明治20年版ゆえ、ほぼこのイメージ(浜西は高輪石垣道) https://pic.twitter.com/Dis7GSVORZ



やっぱなんだかんだ言って一度は何か掴んだプロはツイッターでバズるなんて赤子の手をひねるようなもんなんだなーと思う
でもなー。ツイッターって識字率低いから、画像はバズる確率が高いが文字だけだとバズりにくい。文字だと時事ネタか芸能ネタに乗っかって上手いこと言う、もしくは受けそうなネタを蔵出し(捏造)、みたいなのばかり。逆にそれ以外でバズったツイート見たことない。文筆業の方の苦労が忍ばれる。


すべてが記憶力の優劣で決まる仕事の世界で、「記憶にございません」は「能力がありません」の自白なんだよなあ。。

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北斎忌。今年もきました 混んでました、北斎漫画手にとって見られなかった(散々見たからもういいけど) 北斎の直の話を伝えられたお婆さんが亡くなられたそうです うーん、169「周年」つまり没後169年、あと… https://www.instagram.com/p/Bhs9JnFn7kV/

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心霊? https://pic.twitter.com/z69i3nn8CZ


法事ってミサに似てるなーと思った
立ったり座ったりしないぶん身体にはやさしい


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流行神といえば熊谷稲荷もありましたよ。福狐と認められる白狐社として全国に二社しかないという。戦争絡みのはなし塚のある本法寺って落語家さんにはお馴染みでしょうか、壁に錚々たる面子の名前が[江戸三大流行神を収集しよう(追記)お竹墓、国芳浮世絵、翁稲荷など追記] https://okab.exblog.jp/15758940/

https://pic.twitter.com/RXQhaWrYxA


クレイジーなマニアがついてるジャンルに首突っ込むと全財産する。屈辱の諦めを別の方向に向けてしまい、結果としてそれも同じクレイジー分野にかすってるという。幕末明治前期マニア=19世紀マニアというざっくりしたジャンルだと破滅するので絞らねば。。

幕末維新マニアではないところがミソなのだが、鹿児島に行くという何らかの呪縛


有名人が有名人のファンだったのがいきなり別の有名人のファンになってるのツイッターやインスタで見られるの好き ああ飽きたんだなとか、もめて嫌になったんだなとか


あとうちは墓場の上に建てられたんじゃないらしい。次々と人が倒れて一斉に家が更地になったり完全リメイクされてるあたりから先が江戸時代の仏山らしい。山じゃなくて斜面なんだけど、そのへんもきもちわるいよね。おだぶつおだぶつ。


麒麟児かと思ったら味醂児だった
ただの甘ちゃん


大量自動投稿したら一斉にミュートされたらしくほとんど読まれてないのにつぶやき続ける それがツイッター道 https://pic.twitter.com/GfgTp0jun1


鶏卵紙写真の魅力にとりつかれたらおしまい。(絵葉書は卒業した)


プロフ背景画像とプロフ見てから「あーこいつ可哀想なやつや」ってそれ以上覗くのをやめた。最近ほんと多い。心の病気の人が多いのは昔のほうが酷かったネットだが、それが思想系のアカウントに感化されて様々な「宗教活動」するので、戦争になるぞそれ。。リアル周囲止めろ。。


ユーチューブ見なくなった。短いブームだった。

かーらーすーなぜ鳴くのー声帯があーるからー

ウルトラ怪獣散歩2018新潟とかいう街ブラ番組を見ている ぜんぜん食レポではない
精神的に不安定なのでとにかく下らないものを見る 調べ物とか買い物とかぜったいだめ

中世史ブームだったのか。応仁の乱だけじゃなくて?自分的に空白期間であり、イマイチよくわからない。。後醍醐天皇だけは隠岐でいろいろ見たのでなんとなくしたしみがある。 https://pic.twitter.com/5E0A2JM9c4

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明智光秀が首を取られたとこの標柱さがしてたがみつからん。こんなあやふやなのしか出てこない。こととわん。 https://pic.twitter.com/CYkzgGAsEh

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北斎さまが見てる https://pic.twitter.com/jpui1cGvlc

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小布施


昭和五年というあんま中途半端な時期の全国鉄道旅行ガイドで写真も貴重なものはない(地方の貴重なものは大抵現存する)けど、山形地方の婦人の衣装として出てきた「モンペイ」、見るからにのち広められるモンペとして、「イ」は何?やはり紋平さんが語源なの? https://pic.twitter.com/oAGjo46ryR

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アマゾンの伐採開発が進むに連れぞくぞくと遺跡が見つかり発見の連続、という複雑な気分になる事象が発生していたのはもう10年以上前、それがもうすっかり農地になったうえで衛星写真から割り出したのがこの結果(地上絵と人口集中)ということなのか。最後の「虐殺されて滅んだ」という念押しがまたrt


「朝鮮戦争のころのことであるが、戦死した米兵の遺体が九州に運ばれてきた。寸断され損傷された遺体を、そこできれいに縫合接着し、生前の面影を蘇らせるかのように化粧をした。そして棺に入れ、飛行機でアメリカ本土に送って遺族に対面させたのである。そのような,いわば復元された遺体との対面をアメリカ人は感覚のうえで重視しているのである。それはむろん戦死者の場合にかぎらず、一般に遺体というものにたいするアメリカ人の感情をあらわしている。つまりかれらは、遺体の肉体的側面に重大な関心を示すのであって、日本人におけるような遺体の骨灰的側面にはほとんど無関心である。また、インド人におけるような霊魂的側面にも全くネガティブな反応しか示さない。」壇蜜が得意な伝統的エンバーミングと、宇宙葬含む多様化する葬儀への叙述;
~山折哲雄「仏教民俗学」講談社学術文庫h5
読み物として面白いが学術的な書き方にはなっておらず、思いつくまま随筆の雰囲気を漂わせる。何か絞った研究ではなく総花的だ。エンバーミングは沖縄でのベトナム戦死者を体育館接収して施した等聞く。キリスト教は復活を前提としている。骨では駄目なのだ。


「私は小泉先生の舊居と何の關係もないやうなことこんな事を言ひだしたが、この事につけて特に小泉先生が思ひ出されるからである。先生は私共學生に屡々いはれた、君達は西洋の書物から只その思想を探れば良いのだ。君達が英文を書いたって,どうせ本当のものは書けはしない?言葉は少し異なってゐたと思ふが,意味はさうであった?といはれた。発音や饒舌る事についても同様な事をいはれたと思ふが、それに就いては今明かな記憶はない。しかし上記の先生の訓育と、當時の先生の態度から察して、さういう事も同様に無用であるといふやうな考へをもつて居られたのは確であると固く信じられる。」
~小泉先生の舊居にて「楽天地獄」戸川秋骨集 現代ユウモア全集刊行会、第三巻s4
戸川秋骨は最後の小泉八雲邸を半分借りた。関東大震災にあった話も出てくる。竹林が安全ということでセツさんらと遭遇。近所からも集まってきたという。小泉八雲の日本人への危惧は著作集として別冊にある。帝国大学の授業が英語など教員の言語で行われた時代である。


おおーきなノッポの古時計 知らない人のとけいー

ツイッターで数の論理は通用しないですよ


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墨堤の思い出話を聞かされたでござる。。吉宗の頃から戦前まではこんなだったのが台風被害のため潰して堤防にしてしまった。からの東京市が時間をかけて段階的に現代化してったさまを親から聞いたという、、、東京が何とかして京都から首都のイメージを奪おうとしてたこととか、、、腹痛くて忘れてしまった。 https://pic.twitter.com/JGtgA7AotM

進駐軍が滅茶苦茶やって沢山信号機立てて車社会が始まった、までは聞いてた。感覚おかしくなってるのだが、昭和はもう現代すぎてついていけない。大正時代がボーダーだなあ。


とんこつラーメン頼んだのにとんかつラーメン持ってこられても困るよね そういうことなんだな

光線画ぽい写真ってあるよね しかしあれは幅がない表現でマンネリになりやすい けっきょく被写体が尽きるとオワリ 光線画を終わらせたのも浮世絵木版画の終焉以前にそういうことな気もする https://pic.twitter.com/4dNYanDqQ4


「中央新聞社に入社した時汽車で死ぬ自殺を、汽車往生とか、汽車自殺とか書いてゐたが、汽車で死ぬのだから「轢死」といふ字を考へて、使ったら大抵爍死といふことになった、こんなことは私ばかりではありますまい」~s12「銀座百話」篠田鑛造 岡倉書房版 https://pic.twitter.com/zI5lQQbtDS

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「明治期の幇間には、彰義隊(上野の戦争)の落武者、土肥圧次郎から一転して幇間になった松廼家露八、清元栄喜が有名でした。この露八は武士あがりとて芸は余り出来ないようでしたが(註:武士と言っても放蕩し勘当されていた)、仁王さまの真似をするのを持芸としていました。」~吉原下町談語 円通寺の墓は縁の榎本武揚筆だが、最近蹴割られたそうである (彰義隊は徹底して官軍に抑え込まれたがさもありなん、上野戦争は半日で終わっても彰義隊の残党による復讐の襲撃が起きていたそうで、滅びゆく者の美しさ、なんてものはあまりなかったように感じます。生き残っても墓守や道化者のような仕事しか無かったのも美というより無残です)https://pic.twitter.com/vPrrWK3ICF

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大正博覧会のエスカレーター(日本初)絵葉書がどっかいってしまったが、駅の絵葉書が出てきて、ついでに探してた亀戸八幡宮の手彩色絵葉書が出てきて喜んでたら、明治天皇と皇后皇太后の写真として載ってる絵葉書が全員代理人(名代)だったことが判明、ブログに載せる写真が不足

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気分転換に外へ。茶はしばかない。軽くなでる。 #要は昼ごはん #鬱々したものが晴れる #久しぶりなかんじ https://ift.tt/2HBlC3x https://pic.twitter.com/QoUsIB46Ay

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小田原城のお堀から大阪城の瓦が出てきたら大発見…rt


ネクロポリスからナイフ付き義肢を装着した男が発掘されていた、てだけで中二心を揺さぶられるが、一万年以上前て。>抗生物質も無い時代に腕を切断されながらも生き延びた男性 (ディスカバリーチャンネル NEWS) - LINEアカウントメディア http://news.line.me/issue/oa-dnews/e2da6dc16d07?utm_source=Twitter&utm_medium=share&utm_campaign=none&share_id=bCt24287458746… #linenews @news_line_meから


額縁の 落ちていて知る 地震かな

おとうさん 娘さんの預金を 僕に下さい!


(メモp.135)「東京・渋谷区にある広大な代々木公園の一角にそびえる銀杏の大木から、明け方の五時ごろ、おごそかなイエスの声が聞こえる。雨の日も風の日も、毎朝その声を聞いて、祈りを捧げひざまずく人がいる。ある霊感師によると、木の根本の右下中央に、鼻の高いうつ向き加減の外国人の霊、左下に頭を下向きにした、骸骨姿の女性の霊がいるという。両者の関連性はわかっていない。」~室生忠「都市妖怪物語」三一新書h1、当時はまだよくあった雑誌記事や本からの引用の寄せ集め本ゆえ原話掲載は不明瞭。


次に生まれ変わるなら、人間じゃなくて、人間の次に地球を支配するものになりたいなあ(結果:ゴキブリ)


歌舞伎座のエレベーターの閉ボタンを十回押すと地下百メートルにある大伽藍に降りることができる。そこで繰り広げられるは「地下歌舞伎」…地上では端役に甘んじる者どもが命を賭けた演目で裏贔屓筋を喜ばせる。「闇金幣猿島郡」は上空五千メートルからの宙乗り。中継画像が途切れ行方知れずとなった。


頭の中の想像ボタンが錆びついててだめだな。 https://pic.twitter.com/BtFIhXecjT

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巨大安珍vsアナコンダ清姫

ピエール滝夜叉姫


全文の意図はわかりやすいところだけど最初の話が琴線に触れました「絶対値的な「美」を「希少性」が凌駕する」…単純に骨董趣味、コレクターによくあるジレンマだなーと。レア物であれば「エラーコイン」のような使い物にならない廃棄対象に百万円つくわけですよ。希少性は多岐に応用できる言葉rt


三重の山の中で木でできた腕時計買ってそうとう愛用してたな。いまは普通にあるけど道の駅で、かつ女性にも使えるくらい小さく軽かった。軽く小柄の腕時計が好きでした。アナログ。いまは実用的に電波時計のGSHOCK海用。ごついがソーラーで電池切れない。


明治天皇ご容体悪化時の皇居前土下座祈念写真があり、田中貢太郎の承前のつづきに病に臥せってるときの話があるからそれのOCR読み取り→ブログにつけようと思ってはいる。誰の写真かわかんなかったが大正天皇は人気がなく臥せって崩御したので土下座は無いから明治天皇となる。江戸を終わらせた生き証人的人望があった。明治天皇崩御後の儀式や行列などは朝日などの正規の写真がありそれはネットに転がってるだろう。敢えて載せはしないし意味もない(完全に内側の形式的儀式や御陵に向かう絵しかないのでつまらない)。レベル的に、明治天皇に対する庶民感覚は江戸を終わらせ列強並みに近代化し世界に対して威力を見せ付けるほど国力を高めた伝説的な存在、昭和天皇は議論はあろうが庶民感覚は終戦後バブルまでの復興を象徴の立場からできる限りを尽くした、これも戦後まで伝説的な存在だった。個人的に長期在位の中で時代が変わった、似た存在に見えます。

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帝都復興式典花電車 天の岩戸s5
天の岩戸を開けたら開化文明のビル群がぐわっと飛び出した今じゃ考えられない、震災復興ならでは。光線も表現されている https://pic.twitter.com/LY625peXgv


大正博覧会の日本初のエスカレーター(野外移動)乗り場。エスカレーター写真自体はなくしてしまったので画像だけ。 https://pic.twitter.com/tGfd75K88e

(前掲の写真です)

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急に相場が上がってる鶏卵紙以前の明治前期までのしゃしん。日露戦争戦勝記念かな。船が見える https://pic.twitter.com/9GFs91hfxh

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厳島神社、貫まで朱い白木の鳥居(岸辺からの鮮明な写真はいくつか見られるが初期は島木までが朱だったと思われる、別掲の彩色絵葉書参照).jpg :My new photo! https://pic.twitter.com/pw37EaKafM

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震災後の池の端(浅草公園).jpg :My new photo! https://pic.twitter.com/1r8ekED4lQ

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別府大仏.jpg :My new photo! https://pic.twitter.com/pbWNP87vJ3

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兵庫大仏初代.jpg :My new photo! https://pic.twitter.com/9EuL1k1DGF


ヒトが犬に憑依することってあるんだろうか(江戸本レベルのギモン)

やっと上野大仏の完全体を描いたものが手に入ったよ。。ほとんどよくわかんないけど。。今のパゴダの向きではなく鐘撞堂の方を向いてたのね。 https://pic.twitter.com/9vxzkyIf4u

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しかもこの方、のちに二人組でそうとう名を挙げるそうで。選外でも6位だったか。

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漣ぽっ、おしまい。カラっと。今もどこかで、歩き続けているんだろう。DVDボックス、できればBDで詰め込んでほしい、、掛けかえるのが面倒なのだ(笑)

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流行神発見。浅草田甫の太郎稲荷。清親の浮世絵ではすでに寂しい野中の社、今はこじんまりとした社。 https://pic.twitter.com/tJronfAZt3

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明治40年代(東京名所図会)


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なかなかのカオスな衣装だなあ。。"H22/8/16 佐八かんこ踊り (三重県伊勢市佐八町)" を YouTube で見る https://youtu.be/NJ76mV002GY https://pic.twitter.com/HCzMCmfoRG

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これがあべのハルカスか https://pic.twitter.com/VhYCRA3pCJ

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敵機の標的になるといって壊された瓢箪閣(ひょうたん温泉展望台) https://pic.twitter.com/XBiIhySTeH

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笠森観音堂(国重文)もと笠森寺
昔から知られざる建築。。今はコンクリで固め桁は補強された形で安全だが、昔のお堂はコンクリなんかなさげである意味命がけ。四方掛崖の大岩に乗っかった構造はひょっとして巨大な磐座を覆ってるってこと? https://pic.twitter.com/Yfd0CKqDfG


AIRCD、音飛びがひどい一番の原因は「平置き」しないかららしい。Bluetoothよりも。音飛び防止機能が一応ついているが、その限界(60s)を越えると飛びまくる。平置きのようにしても電車の中で鞄の中から再生させると飛ぶことは飛ぶので、なかなか難しい。手に持つしかない。ワイヤレスてだけかなあ。

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善光寺(明治中期リフォーム時)


by r_o_k | 2018-04-23 19:54 | 純粋日記

陋巷小品●明治最終の日

陋巷小品
●明治最終の日
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明治四十五年七月二十九日は、明治天皇の崩御なされた前日で、明治の年號は其日で盡きた。天皇の御病勢は其前日の午後から革って、街頭の交番の揭示表や、新聞の號外は不安に滿たされて居た。其日私は、日本橋の書肆から歸って、淺草へ用達に出掛けた。夕方から活動寫眞もやまって居た。晴れた空に、 圓い月が出て、それが凌雲閣の屋根の上にあった。凌雲閣の最上層の軒には、電燈が光って居た。路傍の交番には、五六人の人が揭示表を見て居た。其内の三人は老人であった。其一人の愚直らしい顔をした老人は、片手を腰の上にのせ、片手の扇團でニ三枚重なった揭示表を捲って居た。翌日は、朝から雑司ヶ谷へ行って、午後になって神田に廻って帰った。東明館の入口に掲げられた某新聞社の掲示表にも玉體の四肢に紫色を帶びられたとあった。其夜は曇って居た。夜に入って、子供を連れて、池の端から廣小路に向って散歩した。暗い水の上は、一面に蓮の葉で、花は見えない。池の向ふの勧業博覧会の建物は、「やまと新聞」の納凉博覽會の會場になって、イルミネーションばかり華やかに輝いて居たが、物音がばったり絶えて非常に淋しかった。
三枚橋に出やうとする左側の料理屋の塀に、大きな貼紙をして居るものがある。近寄って見ると小學校の生徒を集める告示で、四學年以上のものは、明日の午後三時迄に学校に參集するやうにと記してあった。

廣小路には、夜店があって、人もかなりに出て居たが、大聲を立てる者も無いので、森として居た。蟲賣の籠に居る蟲ばかりが耳に立った。二人引の車に乘って、シルクハットを着た紳士が、往来するのが見えた。

其夜は蚊遣香を焼いて寢た。 一時頃でもあったらうか、路次の入口の氷屋に人聲がして居た。消魂しい號外賣の聲が聞えて來たが、睡かったので、夢心地に、遅い號外だなと思ひながら眠った。

朝になると、早く起きて玄關ロの雨戸をあけた妻が、號外を持つて来た。それが崩御の號外であった。新聞は、正午迄來なかった。私はがっかりしたが、又心のどこかに落付いた所があった。私は日本橋の書肆へ行った。途では、ボッボッ喪の國旗を出して居るものもあった。書肆では、主人が先帝と新帝との寫眞を見て居た。

五時頃帰つた。六時頃から大きな雨が降り出した。私は其雨に、意味のあるやうな氣がした。私ははじめて其日の新聞を見て、時々眼に涙の浸む事を感じた。雨の中に大正元年七月三十日は暮れた。私等三人の家內は、奥の薄暗い二疊で、雨の音を聞きながら改元の話をした。座には、三個の茶碗と、鐵瓶をのせた盆と、子供の繪本と、對を切った手紙などが、取り散らかしてあった。妻は、其時私の白縮の浴衣の肩助を仕かへて居た。

田中貢太郎「桂月先生従遊記」T4収録
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田中貢太郎は随筆家であった。独特の表現と不格好な描写、粗野な内容の怪談でしられるが意図的なものである。新聞記者として書いていたこともあるようで速記的な校正のないところもあるにはあるものの、流麗に読ませる技術とある種の味がある。田中貢太郎流に言えば独特の旨味がする。漢籍古典に影響を受け独自に進化させた漢字、言葉遣いはデジタルな、読み仮名や行間などの調整のできないネットには不向きではあるが、そこに骨頂もあるため読みづらい部分は容赦いただきたい。ちなみにOCRで読み取った自動記述のため誤りがあるかもしれない。

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by r_o_k | 2018-04-21 11:04

東京ミニ名所案内「新比翼塚」
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盛糸は品川楼の妓で、これも評判になったというのは、明治十二年ごろ、内務省属の警部補で、西南戦争の際に武勳をたてたほどの、谷豊栄という男と心中して浮名をうたわれました。のちに東京新聞の前身都新聞の伊原青々園が小説に書き、この盛糸·豊栄の新比翼塚が三の輪(荒川区南千住二丁目)の浄閑寺=俗に吉原の投込み寺=本堂前に残っています。

〜小林栄「吉原下町談語」s43総合編集社

名称は看板にあるがどれに該当するかはわからない。こうやって初めてわかりました。でも、けっきょく新聞小説が評判をとっての追善供養塔だからここに私たちはいません。境内かなり整理されてるので場所も移動しているのかな。日本堤そばの浄閑寺ならでは。

by r_o_k | 2018-04-18 10:48 | 旅行

今日の鉢状穴。自由ヶ丘には三箇所、石塔があります。いずれもバス通りを目黒通り方面に行ったとこにあります。ただ、昔と配置が違っていて、迷ってしまいました。ひとつめがこちら。目黒通りから二筋手前の右手、大きなマンションの入口脇に稲荷社とともにまとめられています。ここがまず迷った!旧家は大きいものから順にかなり減ってますねえ。マンション。
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大正十一年とあります。自由ヶ丘あたりは窪地で、芸術家などによって村が作られましたが、このあたりは坂上なので恐らく畑地と林が混在している感じだったと思います。昭和に入ってもバス通りの谷筋は小川が流れオハグロトンボが飛んでたそうで(オハグロトンボは近所に健在です)、これが作られたのは東急が九品仏に類する駅として開拓した頃。じきに住宅街になった、境目の時期の馬頭観音でしょう。簡素な切石ですが小さく馬の首があしらわれ、栗山銀兵衛さんの名前が目を引きます。地主さんかなんかだったのでしょうか。馬頭観音は道標の役割も兼ねて、鉢状穴が穿たれがちな塔ですが、その痕跡はなく綺麗でした。それにしても中途半端な場所、元は目黒通りの入口にあったのかもしれないですね。田中貢太郎怪談に港区の方からタクシーで目黒通りを飛ばしてくる、自由ヶ丘あたりで木々の闇が濃くなり…というものがありますが、聞くと昭和初期の段階ではもうそんな感じではなかったそうで、道も広く普通に目黒競馬場跡までマラソンしてたとのことです。競馬場はさすがに欠片も無かったそう。
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ガーデンのところで目黒通りへ。右折してすぐのところに四差路があり、正面のマンションの下に堅牢な石祠があります。まさに辻神ですね。立派な説明板がありますが綺麗に文字が消えてます。向かって左が馬頭観音になります。まさにこの場所にあったのでしょう、絶好の場所です。右は邪鬼を踏んでますし青面金剛、庚申塔でしょう。残念ながら青面金剛は剥落が多く顔もわかりません。このへんは部分的に空襲を受けており、そのせいかもしれません。左のほうはきれいです。しかし、よくよく見ると、共に上が不自然に欠けている。これは。スマホで覗くと(とくに左)鉢状穴ですねー。しっかり擂鉢状の穴が、おおまかには三つずつあります。石仏の頭を掘り込むのは悪質な感じもします。あまりないような。堅牢な祠はそれを防ぐためなのか。こちらも丁寧に拝まれている形跡がありました。銘は剥落してほとんど読めませんが、馬頭観音の左脇に明治六年とありました。鉢状穴は明治時代にはまだまだ穿たれていました。
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一番迷ったのがここ。逆方向に目黒通りを少し行ったとこに、生垣のお屋敷があって、目黒通りに向かって「九品仏名号題目道標」があったのです。それが真新しい大マンションになっていた!うわー、、と裏へ回ると、駐車場に立派な祠が。。たぶん文化財指定されてるので残されたのでしょう。すぐそばの九品仏への道標です。左右に題目名号が別個に刻まれ、裏に寛保年間の銘ほかがあります。昔は見えなかったものなのでこれは嬉しい。確か少し上に置かれていたので台石も気づかなかった、、、ボコボコですがな。道標はもう遠慮なく削られてます。一応石仏載ってるのに、これはもう典型的なボコボコですね。鉢状穴の見本です。過ぎると補修されるものですが、これは石がでかいので壊れないと思われたのでしょう、そのままにされています。鉢状穴はほんとありふれたものですが、こういうボコボコなのは呪術的な印象すら与えます。軽い願掛けとか煎じて飲むとかなんでしょうが、関東に広く分布しているのに今伝承がのこってないのは不思議ですね。山梨で、子供の頃、色の出る草を石で擦り付けて遊んだという話しを耳にしましたが、子供のイタズラにしては執拗で、また石塔の種類を選んでいるふしもあり(墓石はやられません)原型は民間信仰だったと思います。
by r_o_k | 2018-04-09 22:31 | 旅行

中國の紅卍敎

ーここに到って、吳さんは,兩手をあげて、ウキウキ踊る恰好をして見せた。これも放射能のナセルワザかもしれない。
今日の科學者は、現在の科學で證明されないものは、みなインチキ呼わりをします。飛んでもない思い上りだと思いますね。今日證明されなくても,明日は證明されるかも知れない。そう考えるのが、本當に科學的なのです。事實,人類の知識なんてものは…。
人間のタマシイの放射能は、具體的にやって下さいよ。
この調子では、私が、放射能敎の敎祖にでもなると、吳さんは早速信者になってくれそうである。これから、話は中國の紅卍敎のことになって、呉さんはその神秘性に就て詳しく語った。
二人の者が、T字形のコックリさんみたいなもの(フーチと稱す)を、兩方から支えていると、その足の方が砂の上に、天下の名文を書く、それも一時間三千字という速さであるという話など出る。四百字詰の原稿用紙にして七枚半だから大した速力である。これも何者かの靈から發する放射能が書かせると思えば、アリソウナコトになる。
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さて、この対談の席は、午後三時頃から御馳走が出て、六人の客が參加した。 一座は八名と相成る。私の組が、東日學藝部記者,漫畫家,寫眞班員と私の四人。先方が和田三造畫伯·日置昌一氏,この邸の御主人と吳さんの四人。畫伯の名は讀者諸君も萬御承知、日置氏は史學者で例の平凡社版「國史大年表」の著者である。
時に映畫は見られますか?
妹が好きですが、私はあまり見ませんです。每日會館の下で、文化映畫をやっている時、よく行きました。あすこは、いつも空いていたからよろしいのです。人混みが嫌いだもんですから。
ー映画の話から、私は龜井文夫監督「にはと
り」撮影中に起った、不可思議極まる體驗談を始めた。それは、播磨灘で慘殺された、田中河內之介父子に携わる怪異談で、いろいろと無氣味な出來ごとを語った末に、私が倒殿場の町で買った「田中河内之介」という書物に關する放射能的奇々怪々談をした。
「いや、その本なら私が著者です。」
と、日置氏が云ったので、一座のもの皆ゾッとするものを感じ顏見合せた。これは愈々、心靈放射能說を裏書きするような現像である。

この時、既に歸らねばならない時間となったの
で、引き止められるのを固辭して、外へ出る。玄関脇の紅梅は今が盛りである。私たちの木炭自動車が、長い坂を下りきるまで、吳さんは門前に立って見送ってくれた。

世問には、彼を狂人扱いにする者もあるようだ
が、決してそんなことはない。ただ,常人ではな
いだけだ。先日某誌から新九段吳清源に何か希望することを書けというハガキ回答を求められたので、「どうか遠慮なく強くなって下さい」と書いて返送した。

〜徳川夢声「同行二人」呉清源の巻、前記事参照
OCRソフトによる

by r_o_k | 2018-04-07 12:45 | 不思議

「江戸趣味テナー」

あなたの一番最初の舞臺は?
京都の南座で、新國劇の旗舉げ興行の時でした。東京の旗擧げが新富座で、散々の不入りで
中上、そのあとです。山川浦路や上山草大など居た。勿論その時は劍劇でなく、中村吉蔵の"信賴者"と、もう一本か二本何かあった。【註。新富座旗擧げは大正六年四月、出し物は、額田六福作「暴風の跡」、野上彌生作「一事件」、岡本綺堂作「新朝顔日記」、松居松葉作「急行列車」である。京都に行って急にそう出し物が變る筈もないと思われる。この"信賴者"というのは、「急行列車」を藤原氏が"寝台車"と記憶していて、その速記違いか?】
私は、松井須磨子の芝居を見て、是非ともシェクスピアの芝居が演したくなった,それで新國劇に入ったんだが、京都に行って、たまたま田谷力三の唄を聞くと、今度は急に歌唄いになりたくなって、それから淺草のオペラに入った。町田金嶺が中學の同窓で、それを賴って行った。一番初めに習ったのが”リゴレット"で、先生は藤村悟朗。


なんでも私が聞いた話では、日本館で、あなたが威勢の好い、江戶ッ子の職人になって、西洋式の唄を大いに罵倒して、オツな咽喉で小唄かなんかやつたというが…【笑】
いやいや、そんなオツな藝當なんか僕にはないよ。あの時は都々逸ですよ。 何にしろ、バタ臭いことが嫌いだったから可笑しい。學校の庭なんかで町田君がバタ臭い歌を唄うのは怪しからんと騒いだ方なんだから、…當時は、清元延壽太夫に夢中になってた僕なんだから。【大笑】
そのころの浅草オペラって、どんなもんだったんです?
ただもう面白オカシク見せりゃ好かったんだ。今は本物をやらなければ納まらない,ーレコードやラジオで教育されてるんだもの。昔ならこの臺辭は廢めよう、此處はオーケストラが難かしいからカットだ、てな風にして、勝手に省略しちまった。今、そんなことをしたら大變だ。忽ち投書がやって來て"私の持ってる楽譜にはチャンとあるのに、どうしてカットしたのか"って叱られる。
昔の客は暢氣だった。あれは大正六年ごろだったかな、赤坂の葵館で、三卷物の"カルメン"が出た時に、例のズボ達の黒田君が、今で云うアトラクションで出て、ハバネラの唄をやった。當時、ズボ達君は自分でバス唄いだと稱していたんですよ。【大笑】
バスで"ハバネラ"は、空前絕後だろう、これは受けるかもしれんなア。
所が客は笑いもしないで、感心の體で聽いてたんだ。【笑】そのズボ達君、イタリヤに修業に行ったら,お前の聲はテナーだと云われてテナーになり、日本に歸ったらバリトンになっちまった。
【大笑】

〜徳川夢声対談集「同行二人」養徳社、東京日日新聞連載s25〜藤原義江の巻

OCRソフト利用

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by r_o_k | 2018-04-07 12:02 | 本・漫画

昭和初めの本に琉球怪談があった。うろ覚えの聞き書きだという。〜

夜半、大肝な若者達が墓地に集まって、肝試しをやるといふやうなことから、中で最も强い男が、より掛ってゐた墓の中から髦を摑まれてゐるので、身動きが出來ないと打明けると、外の連中が驚いてその場を逃げ去ってしまふ。
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唯一人あとに殘つた若者は、よん所なく新仏のいふことを聞いて墓にはひる。此のへん彼の地の墓の様子がよく分らぬので確かり受取れないが、何でも幽靈を助けたと言ふよりは、墓の中で蘇生した娘を助け出して、その家に送り届けたが、その緣でニ人が夫婦になる。新枕の夜、新婦が自分の冥府で過した時のこと、卽ち、墓の中であった事柄を一切聞かないやうにと男に約束させる。それならば女房にならうと言ふやうなことだったと思ふ。ところが程經て日數がたつに連れ、男は約定の一件が氣に掛かるものか、冥府でのことを聞きたがり、約束を破棄して何でも聞かせろと毎夜のやうに妻に迫るので、妻は溜息もろとも、「仕方がないからそれではお話するが,誰にも言って貰っては困る。」と念を押し、夫の耳許に口を寄せて、

「実は冥府のことは真くらだった。」

〜類話は内地にもあるものだが、オチの空かしはいかにも沖縄ふうだ。琉球出身の人の語ったことだそうである。

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長尾豊「伝説民話考」六文館s7より

OCRアプリ使用
絵葉書彩色:ニューラルネットワークによる自動色付けに暖色系加工したもの
写真:多良間島

by r_o_k | 2018-04-07 00:14 | 不思議

20世紀大地震の予言者...

20世紀大地震の予言者
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「『日本に大地震がおこる。それは一九五七年九月六日である。銘記せよ!」

と、一九五六年の秋、恐るべき天災の襲来を予言した男がある。何しろ世界的に有名な地震国日本としては、うす気味のわるい話である。

占師が何をいうかといえばそれまでであるが、かならずしも笑ってすまされない事実がいろいろある。その一つは大正十二年九年一日の関東大地震がそれである。関東大地震を予言した男は小玉呑象という易者である。小玉呑象は大正十二年一月十五日、華族会館でこの恐るべき大天災の襲来を予言して、見事に適中せしめている。

小玉吞象の予言に有名なそのときの卦は、「火天大有」すなわち、火天大いに有り、と出て、夏に大地震があるといったのである。算木を図解すればわかるが、震央は東京を中心とする関東一円を示しているのである。

小玉呑象という易者は、どれだけの易学を修めていたひとか寡聞にして知らないが、彼の「地震の予知」についての経験や知識は、なかなか興味ぶかい。小玉象呑は、彼の経験上の方法として、地震の予知には星を見ることを第一にあげてい
一つの星をつねに観測して、その位置と光り具合をおぼえておく。ところが地震のおこる前になると、その星の位置が低く見えて、異常な光りかたをするというのである。

次は雷である。雷の多い年は地震を警戒しなければいけないといっている。俗に、雷の多い年は豊作だと称しているが、これは大地震の生気が天に昇って雷鳴となるのだという。これは、陰陽の電気が、電位差をおこして雷となると説明している。関東大震災の年は、八月二十四日から一週間にわたって毎日雷鳴がとどろいた記録がある。その慣鳴もニ時間から三時間もつづいているのである。

また、暖冬が二年つづき、豊作がつづくと大地に熱気をおびて大地震がおこるともいっている。これを適用して占星師レディの予言を考えてみると、一九五五、五六年とつづく神武以来の大豊作に日本はめぐまれている。また、暖冬の異変がつづいているのも、近年のいちじるしい傾向で誰もが知っていることである。

ところで、ナマズが地震と関係があると昔からいい伝えられている。今日では道なる俗説として片付けているが、科学的根拠があるとして研究している学者もある。

小玉呑象は、ナマズについて易者らしい説をのべている。ナマズはメスばかりで、オスがいない。ウナギはオスばかりでメスがいない。ナマズは陰であり、ウナギは陽の魚だというのである。この陰陽のナマズとウナギは繁殖のために交接する。そしてナマズは水底に潜んでいるので地震のおこる前に電流をかんじるのだという。

安政二年の大地震のときは、京橋三十軒堀から江戸川にかけておびただしいナマズが浮びあがった記録がある。関東大地震のときは六十万のナマズが相模川その他の川から浮んで、相模灘に流れた記録がある。

いずれにしても、易者小玉呑象は、「火天大有」の卦をたてて、大正十二年一月十五日、華族会館で堂々と次のように発表した。信ずるものは大いに恐れ、信ぜざるものは大いに嘲笑したものである。発表の予言はこうである。

「大有は大いなるものあるの意にして、震動多し。ことに海中と火山脈とに起因するもの、もっともその影響を受け、夏時、西南の分野、ことに驚き多し」

幸か不幸か、その予言は適中して、九月一日の大地震が襲来して、大東京は一望焼け野原となって全滅したのである。いまにしておもえば恐るべき予言であった。」

出典:松岡照夫「日本の怪奇」大陸書房s44
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どんな手段であっても当たればとりあえず、評価はされるだろうが、五十年代に果たして地震は、起きましたかね。


Textスキャナ(androidアプリ)試用

by r_o_k | 2018-04-05 09:50 | 不思議

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先代の江ノ島展望台

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明治中期(弁天洞窟)撮影:小川一真写真館、前者は英国の写真集、後者は小川一真による写真集より。共に明治後期出版。同じですね。
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昭和初期

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「明治の日本」(横浜開港資料館)横浜写真から、明治前中期
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幕末と思われる
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明治末期
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昭和初期
大仏はたくさん写真があるのでこのへんで。
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〜七里ヶ浜図、好んで描いた(江戸後期)
江戸時代の洋風画(泥絵)の元祖として司馬江漢を。富士山は本来江ノ島の右、遠近感を出すための創作ですが、同じような創意をこめた泥絵が紅い鳥居や社殿を載せて幕末まで無数に描かれます。神戸市立博物館蔵(「新潮日本美術文庫 司馬江漢」「小田野直武と秋田蘭画」展カタログより)
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(渓斎英泉による模写)
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(北斎の洋風銅版画)
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(同、神奈川沖浪裏の最も古い原型とも言われる。波裏表現は富嶽三十六景神奈川沖浪裏の構図の元ともされる波の伊八晩年の欄間彫刻に似ている)
伝小田野直武「江の島図」眼鏡絵なので初期泥絵同様左右反転する。銅版画志向から線画のようなタッチの絵を描き、これはペンを使ったという説もあるそうです。龍口寺から片瀬海岸、砂洲と江ノ島、この角度はよく描かれ写された。直武は短命だったので司馬江漢とほぼ同時期の人にも関わらず少し遡った18世紀作品。(「小田野直武と秋田蘭画」展カタログより)

反転した絵。下にある実景にかなり忠実なことがわかります。夕景といいます(影の方向)。

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明治時代の案内図。藤沢市蔵(遊行寺宝物館「江嶋縁起」より)
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双六より

というわけで、
江ノ島へ。順不同です(明治〜昭和初期)
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(ザ・ファー・イースト明治4年12月7日砂州手前、7月17日小動岬前)復刻版より、三枚目のみ「明治の日本」横浜写真から(同時期と思われるが横浜写真は既存も含め彩色を施し土産物に売ったもので時期特定はすこし難しい場合も、作成は明治前中期)
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小動岬
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七里ヶ浜から
単体写真というがおそらくザ・ファー・イーストの異版か同時期のもの。以上二枚「文明開化期の横浜・東京」横浜開港資料館他
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「明治の日本」(横浜開港資料館)横浜写真から、江ノ島遠景。富士山は当時の技術では写らないことが多かった。大部分が書き加えか。明治中期まで。
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ライデン大学コレクション(当時)(朝日新聞社「甦る幕末」1987より)明治時代とあるがさほど下らない時期と思われる(橋は無い)
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(ザ・ファー・イースト明治4年8月2日 江ノ島神明様の社(江島神社中津宮))上は復刻版、下は「文明開化期の横浜・東京」より
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現代(向かって左手の堂に江島弁財天、俗に言う裸弁天などが祀られている。岩屋にはいない。江戸時代は人気だった。当時、奥、中、辺の三宮まとめて江島明神と呼ばれたという。)
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奥津宮(本来は岩屋が奥宮でこちらは本宮御旅所という)現代は不明
個人蔵、「文明開化期の横浜・東京」より
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明治4年7月17日 岩本の御前 江ノ島の長老神官という。ある大名の兄弟(こういう役回りなら弟だろう)、85歳。宿を経営。撮影を渋ったが死後の記念にと聞いてようやく居住まいを正した。(ザ・ファー・イースト復刻版)
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(ベアト写真、外国人居留区に近く手軽な行楽地だっただけあって、江ノ島もいくつか撮影されている。明治30年徒歩橋のかかる前、とくに幕末までは干潮時砂州を歩くか担いでもらって渡った。もしくは船。こちらは日芸蔵のもの(「F.ベアトの幕末」より引用))
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(同じ写真のトリミングのない版か?明治中期と書かれている。ベアトなら遡るはず。放送大学附属図書館蔵、「レンズが撮らえた幕末明治日本紀行」より引用)
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(龍口寺境内からというが龍口寺自体は麓にあるため裏山の先、左手に小動岬)個人蔵、「文明開化期の横浜・東京」より
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これは大正になってからか。(彩色はこちらで)
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「明治の記憶」学習院大学より 明治十一年天皇行幸時撮影
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1880年代とされる鶏卵紙の彩色写真。橋がかかっているので1897年以降と思われるが、いずれ架橋最初期のものとして参考に。
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「明治の日本」横浜写真 より

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神奈川、江ノ島いにしえの風景〜明治後半から昭和初期(絵葉書)

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近年まで江ノ島への道は高桁だったそうです
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(一部昭和初期に石橋になった)昭和五年の観光ガイドより

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(ベアト写真。幕末明治初期、橋もない時に江ノ島の今の参道がどうなっていたかはわからないが、この鳥居は現在の表参道入口の青銅鳥居。扁額は外されているが造り付けの注連縄と脚部下の鋳刻などから断定できる。日芸蔵「F.ベアトの幕末」より。「文明開化期の横浜・東京」(ファーイースト掲載(尾張徳川家蔵品からの復刻版には収録なし、他版か)だがややフォーカスが甘い)では江戸中期建立のそれと断定し左建物を恵比寿楼としている。参考に現在↓)
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もう少し遠巻きの写真がザ・ファー・イースト明治5年2月24日に掲載されている。干潮時(上、復刻版より:下、「文明開化期の横浜・東京」より)よく見ると並んでいる人が違うので異版。
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戦前、江ノ島の店や宿の数などたかが知れていたと聞いたのだが、江戸の栄えをまだ遺しどうしてこれだけ並んでいる。ファー・イーストでは明治新政府が江ノ島弁財天の処遇について検討していたことに触れられている。
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1890年代とされる鶏卵紙焼きの複製大判写真(鶏卵紙特有の退色がなくのっぺりしていて同時代の印刷かもしれない、安かったし)。これは鳥居などトリミングされているのではないか。英国の資料室のようなところにあった旨の書き込み。少し新しいような建物も見られるが、看板や小屋など下の横浜写真と似ている。鳥居脇の石積が顕著な違いか。人は少なく閑散期なのだろう。
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「明治の日本」横浜写真(横浜で鶏卵紙に施した土産用の彩色写真、明治中期頃まで)より江ノ島の各地。鳥居は少しトリミングが異なる写真(モース・コレクション「百年前の日本」所収)も。鳥居周辺の雰囲気がよりわかる。なお横浜写真についてスキャナ都合で色が赤方面にきつくなっています。最後の写真は冒頭で揚げた小川一真のもの。

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明治前期と思われる横浜写真、弁天洞窟内からの景色。内部にまだ足場がない。
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弁天洞窟へは舟が行くような険しい場所でした
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司馬江漢「江ノ島稚児淵眺望」寛政年間、仙台市博物館蔵(「小田野直武と秋田蘭画」展カタログより)烏帽子岩から富士山と崖に大袈裟ではあるがそれが司馬江漢の流儀を示している。同じような絵が他にもある。東日本大震災での被災家屋から発見された絹本油彩衝立で裏面に金沢能見堂。
以上、稚児ヶ淵(建長寺僧の寵愛を受けた稚児が身を投げたという)今のように歩行路が整備されておらず(現代でも台風で破壊されしばらく岩屋に至れなかったくらいだ)、崖沿いに岩屋まで険しい参道があり途中小さな洞窟などあった。「文明開化期の横浜・東京」より、個人蔵

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リアルでは江ノ島の入口にこのように建物ができたのは急だったと聞きました、いったん江戸の信仰が途絶えてから、本格観光化は案外と遅かったようです。
【付け足し】江嶋縁起(江島神社本)から、
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300年以上たって荒廃した社を復興させるよう宋にいた良真が宇賀弁財天の託宣をうけ、社殿の北の無熱池南東にあるガマに似た石がすべての障りのもと、を封じるため社殿を池の北西から池の向きにすること、と慶仁禅師から地鎮石を授けられ背負って帰るところ。
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それがこちらです。参道まっすぐいった門のところ。
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弁財天も見下ろしています。以上は最初の江ノ島案内図にはありますが、古い図にはありません。テーマパークだったんですね。
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まだ覚えている方がいる龍口園。日本一の屋外エレベーターで知られた、龍口寺の上にあった遊園地です。江ノ島への玄関口でしたが今に残るものはほぼありません

腰越海岸
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(ザ・ファー・イースト明治4年11月21日 鎌倉から江ノ島にゆく途中の砂浜に沿った漁村、とある)復刻版より、下は「文明開化期の横浜・東京」から

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段葛入り口、鶴岡八幡宮二の鳥居。明治末〜大正頃。
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(ベアト撮影、長崎大学附属図書館及び日芸所蔵「F.ベアトの幕末」より、ページ跨がりのため後者真ん中歪みすいません。前者はワーグマンコレクション所収(元ライデン大学蔵))

段葛および二の鳥居です。段葛は若宮大路真ん中を土盛りして参道としたものですが、二の鳥居から海、一の鳥居側は早くに失われています(最後の写真は同書キャプションに一の鳥居とありますが奥に見えるのは三の鳥居(太鼓橋前の最後の鳥居)なので二の鳥居です。別の写真集では正しく記載されており、いくつか併せてファー・イースト掲載のものとされています(ファー・イースト復刻版では一枚しか確認できず)。いずれベアト写真では失われていたかどうかはわからず、明治初期壊滅説は立証できません)。鶴岡八幡宮へ向かう、言い伝えでは北条政子による盛土ですね。奥になるほど細くなり、より遠近感を感じるようにされています。鎌倉時代には単に作道と呼ばれ、急な開発で崩れ流れ込む泥水を避けるため盛土をしたそうです(Wikipedia)。ここも近年までは絵葉書のように古い参道の雰囲気を保っていたようですが、2016年改修での完全改造にも象徴されるように、無数に改変されてきたと思われます。その過程は古写真でもわかります。
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ザ・ファー・イースト掲載、明治初頭(復刻版より)中央が掘られているものの、一応区切りがわかる。二枚目は「文明開化期の横浜・東京」より同じもの。三枚目も同書、個人蔵。
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1890年代とされる土産写真(彩色)なんと段葛が消えている!
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、、、なんてことはなく太鼓橋より内側の境内だそうです。鳥居は仁王門の痕に建てられたそうです。「文明開化期の横浜・東京」より、個人蔵
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「明治の日本」横浜開港資料館より(明治前中期)

ちなみにさきほどのような彩色写真は横浜写真と呼ばれ自然な配色が美しいのですが、なぜかまとまった資料に欠けており、横浜開港資料館の出した80ページ増補版写真集は絶版で古本屋にも出ていません。プレミア三万円!旧版は沢山残っているのに。(2003年より前のものは旧版、たいていのネットではちゃんと書いてないけど表紙の色使いが違うのでわかる。青は旧版、橙色は増補)
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鶴岡八幡宮参道脇の、有名な大銀杏。東日本大震災前に折れてしまいました。
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遊行寺の小栗判官墓は現在も似たような形で存在しますが、水輪は後から追加されたもので抜かれています。ここについては別項参照
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元箱根石仏群、大地蔵磨崖仏(近年覆堂復元により完全に屋内化)
箱根は早くから外国人の観光地だったため写真も少なからずあるが、廃仏毀釈運動で寂れ分散縮小した賽の河原同様に崩れたままにされたような小川一真の明治後期写真から絵葉書、外国人向け彩色土産写真と微妙に変化のみられる写真となっている。
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横浜芸者。手彩色絵葉書だが、
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こちらの横浜写真の歪な複写であるらしい。明治中期か。

by r_o_k | 2018-03-12 08:45 | 旅行