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【壊れました】マルチオーディオレコーダーMA-89(クマザキエイム)を試してみた

※2018/12/15大型ごみ扱いで処分費用がかかりました。

2018/3/29,この機種、CDをまったく読まなくなりました。一年持ちませんでしたね。3枚くらいしかかけてません。駄目機種です。返品したいくらいですが、手間を考えると泣き寝入りです。ご注意を。レコード部はくれぐれもターンテーブルがLPサイズでないものを選ばない、選ぶとしたら著名メーカーのものを!

以下2017/5/7記述
ターンテーブルは廉価機特有のEPサイズ。コイズミはバカ高い位置にあったが、べスタックスほどではないにせよ適度に低くそのぶん安定感はある。アームが樹脂製で軽くちゃち。コイズミ同様、薄盤LPとなると安定感がなく、それもひっくるめてリッピング性能は悪い(下記)。しかし特製シートのせいもあってかコイズミのような不良品レベルの歪みはない。半面、すぐ壊れそうなアームが不安。SD直差し、録音リモコンはうれしい。
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by r_o_k | 2018-03-29 20:04 | ご紹介

怪物図録:アルタマハハ(追記あり)

以下のような記事がクリプトムンドにあがりました。このような「物質的な物」は久しぶりな気がします。ジョージア州アルタマハ川のUMAアルティことアルタマハ=ハではないかというのです。


地元紙とニュース動画がリンク先にあります。まだ検証中とのこと。見たところ前肢がイルカ、尻尾は深海サメに似ているようです。海獣類の胎児の遺体のように思えますが、形状は変ですね。大きさはおそらく小さい。
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はてさて捏造でしょうかどうでしょう。

(追記)ナショナルジオグラフィックが記事にしました。
(追記の追記)
フェイク動画の疑いが強いようです。状況証拠〜人の足跡が画像で消された痕跡が見られる、尻尾は作り物に見える、体が部分的にまるで生きているようにハリがある、何よりこれほどの物証がどこの研究所にも持ち込まれず、誰も見ていないこと、このUMAについての新刊が発売され、一方この動画の提供主と接触できない〜これら数々からフェイクとするのが以下。

by r_o_k | 2018-03-22 14:47 | 怪物図録

外部リンク画像が表示されなくなりました…(追記:パソコンからは見えました)

外部リンク(とくに画像表示)が機能しなくなってしまいました(スマホ)。エキブロのセキュリティ対策のせいだとおもわれます。ホームページからの転送部分だけかと思いますが、ホームページのバックアップとしてかなりの記事をアップしているため、書き直すのはかなりの手間になるので、現状のアクセス数の少なさをかんがみて、少しずつ直していこうと思います。かなりの影響でした。。Twitterの表示は治ったようですね。
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数寄屋橋側から泰明小学校と岡本太郎

by r_o_k | 2018-03-19 15:07 | 写真

神奈川、江ノ島いにしえの風景〜絵葉書と古写真で見る海の情景(箱根地蔵、司馬江漢、ザ・ファー・イースト写真、ライデン大学、横浜開港資料館、遊行寺、段葛、青銅鳥居追記、写真追加)

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先代の江ノ島展望台

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明治中期(弁天洞窟)撮影:小川一真写真館、前者は英国の写真集、後者は小川一真による写真集より。共に明治後期出版。同じですね。
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昭和初期

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「明治の日本」(横浜開港資料館)横浜写真から、明治前中期
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幕末と思われる
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明治末期
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昭和初期
大仏はたくさん写真があるのでこのへんで。
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〜七里ヶ浜図、好んで描いた(江戸後期)
江戸時代の洋風画(泥絵)の元祖として司馬江漢を。富士山は本来江ノ島の右、遠近感を出すための創作ですが、同じような創意をこめた泥絵が紅い鳥居や社殿を載せて幕末まで無数に描かれます。神戸市立博物館蔵(「新潮日本美術文庫 司馬江漢」「小田野直武と秋田蘭画」展カタログより)
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(渓斎英泉による模写)
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(北斎の洋風銅版画)
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(同、神奈川沖浪裏の最も古い原型とも言われる。波裏表現は富嶽三十六景神奈川沖浪裏の構図の元ともされる波の伊八晩年の欄間彫刻に似ている)
伝小田野直武「江の島図」眼鏡絵なので初期泥絵同様左右反転する。銅版画志向から線画のようなタッチの絵を描き、これはペンを使ったという説もあるそうです。龍口寺から片瀬海岸、砂洲と江ノ島、この角度はよく描かれ写された。直武は短命だったので司馬江漢とほぼ同時期の人にも関わらず少し遡った18世紀作品。(「小田野直武と秋田蘭画」展カタログより)

反転した絵。下にある実景にかなり忠実なことがわかります。夕景といいます(影の方向)。

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明治時代の案内図。藤沢市蔵(遊行寺宝物館「江嶋縁起」より)
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双六より

というわけで、
江ノ島へ。順不同です(明治〜昭和初期)
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(ザ・ファー・イースト明治4年12月7日砂州手前、7月17日小動岬前)復刻版より、三枚目のみ「明治の日本」横浜写真から(同時期と思われるが横浜写真は既存も含め彩色を施し土産物に売ったもので時期特定はすこし難しい場合も、作成は明治前中期)
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小動岬
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七里ヶ浜から
単体写真というがおそらくザ・ファー・イーストの異版か同時期のもの。以上二枚「文明開化期の横浜・東京」横浜開港資料館他
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「明治の日本」(横浜開港資料館)横浜写真から、江ノ島遠景。富士山は当時の技術では写らないことが多かった。大部分が書き加えか。明治中期まで。
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ライデン大学コレクション(当時)(朝日新聞社「甦る幕末」1987より)明治時代とあるがさほど下らない時期と思われる(橋は無い)
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(ザ・ファー・イースト明治4年8月2日 江ノ島神明様の社(江島神社中津宮))上は復刻版、下は「文明開化期の横浜・東京」より
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現代(向かって左手の堂に江島弁財天、俗に言う裸弁天などが祀られている。岩屋にはいない。江戸時代は人気だった。当時、奥、中、辺の三宮まとめて江島明神と呼ばれたという。)
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奥津宮(本来は岩屋が奥宮でこちらは本宮御旅所という)現代は不明
個人蔵、「文明開化期の横浜・東京」より
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明治4年7月17日 岩本の御前 江ノ島の長老神官という。ある大名の兄弟(こういう役回りなら弟だろう)、85歳。宿を経営。撮影を渋ったが死後の記念にと聞いてようやく居住まいを正した。(ザ・ファー・イースト復刻版)
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(ベアト写真、外国人居留区に近く手軽な行楽地だっただけあって、江ノ島もいくつか撮影されている。明治30年徒歩橋のかかる前、とくに幕末までは干潮時砂州を歩くか担いでもらって渡った。もしくは船。こちらは日芸蔵のもの(「F.ベアトの幕末」より引用))
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(同じ写真のトリミングのない版か?明治中期と書かれている。ベアトなら遡るはず。放送大学附属図書館蔵、「レンズが撮らえた幕末明治日本紀行」より引用)
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(龍口寺境内からというが龍口寺自体は麓にあるため裏山の先、左手に小動岬)個人蔵、「文明開化期の横浜・東京」より
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これは大正になってからか。(彩色はこちらで)
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「明治の記憶」学習院大学より 明治十一年天皇行幸時撮影
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1880年代とされる鶏卵紙の彩色写真。橋がかかっているので1897年以降と思われるが、いずれ架橋最初期のものとして参考に。
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「明治の日本」横浜写真 より

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神奈川、江ノ島いにしえの風景〜明治後半から昭和初期(絵葉書)

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近年まで江ノ島への道は高桁だったそうです
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(一部昭和初期に石橋になった)昭和五年の観光ガイドより

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(ベアト写真。幕末明治初期、橋もない時に江ノ島の今の参道がどうなっていたかはわからないが、この鳥居は現在の表参道入口の青銅鳥居。扁額は外されているが造り付けの注連縄と脚部下の鋳刻などから断定できる。日芸蔵「F.ベアトの幕末」より。「文明開化期の横浜・東京」(ファーイースト掲載(尾張徳川家蔵品からの復刻版には収録なし、他版か)だがややフォーカスが甘い)では江戸中期建立のそれと断定し左建物を恵比寿楼としている。参考に現在↓)
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もう少し遠巻きの写真がザ・ファー・イースト明治5年2月24日に掲載されている。干潮時(上、復刻版より:下、「文明開化期の横浜・東京」より)よく見ると並んでいる人が違うので異版。
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戦前、江ノ島の店や宿の数などたかが知れていたと聞いたのだが、江戸の栄えをまだ遺しどうしてこれだけ並んでいる。ファー・イーストでは明治新政府が江ノ島弁財天の処遇について検討していたことに触れられている。
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1890年代とされる鶏卵紙焼きの複製大判写真(鶏卵紙特有の退色がなくのっぺりしていて同時代の印刷かもしれない、安かったし)。これは鳥居などトリミングされているのではないか。英国の資料室のようなところにあった旨の書き込み。少し新しいような建物も見られるが、看板や小屋など下の横浜写真と似ている。鳥居脇の石積が顕著な違いか。人は少なく閑散期なのだろう。
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「明治の日本」横浜写真(横浜で鶏卵紙に施した土産用の彩色写真、明治中期頃まで)より江ノ島の各地。鳥居は少しトリミングが異なる写真(モース・コレクション「百年前の日本」所収)も。鳥居周辺の雰囲気がよりわかる。なお横浜写真についてスキャナ都合で色が赤方面にきつくなっています。最後の写真は冒頭で揚げた小川一真のもの。

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明治前期と思われる横浜写真、弁天洞窟内からの景色。内部にまだ足場がない。
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弁天洞窟へは舟が行くような険しい場所でした
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司馬江漢「江ノ島稚児淵眺望」寛政年間、仙台市博物館蔵(「小田野直武と秋田蘭画」展カタログより)烏帽子岩から富士山と崖に大袈裟ではあるがそれが司馬江漢の流儀を示している。同じような絵が他にもある。東日本大震災での被災家屋から発見された絹本油彩衝立で裏面に金沢能見堂。
以上、稚児ヶ淵(建長寺僧の寵愛を受けた稚児が身を投げたという)今のように歩行路が整備されておらず(現代でも台風で破壊されしばらく岩屋に至れなかったくらいだ)、崖沿いに岩屋まで険しい参道があり途中小さな洞窟などあった。「文明開化期の横浜・東京」より、個人蔵

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リアルでは江ノ島の入口にこのように建物ができたのは急だったと聞きました、いったん江戸の信仰が途絶えてから、本格観光化は案外と遅かったようです。
【付け足し】江嶋縁起(江島神社本)から、
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300年以上たって荒廃した社を復興させるよう宋にいた良真が宇賀弁財天の託宣をうけ、社殿の北の無熱池南東にあるガマに似た石がすべての障りのもと、を封じるため社殿を池の北西から池の向きにすること、と慶仁禅師から地鎮石を授けられ背負って帰るところ。
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それがこちらです。参道まっすぐいった門のところ。
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弁財天も見下ろしています。以上は最初の江ノ島案内図にはありますが、古い図にはありません。テーマパークだったんですね。
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まだ覚えている方がいる龍口園。日本一の屋外エレベーターで知られた、龍口寺の上にあった遊園地です。江ノ島への玄関口でしたが今に残るものはほぼありません

腰越海岸
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(ザ・ファー・イースト明治4年11月21日 鎌倉から江ノ島にゆく途中の砂浜に沿った漁村、とある)復刻版より、下は「文明開化期の横浜・東京」から

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段葛入り口、鶴岡八幡宮二の鳥居。明治末〜大正頃。
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(ベアト撮影、長崎大学附属図書館及び日芸所蔵「F.ベアトの幕末」より、ページ跨がりのため後者真ん中歪みすいません。前者はワーグマンコレクション所収(元ライデン大学蔵))

段葛および二の鳥居です。段葛は若宮大路真ん中を土盛りして参道としたものですが、二の鳥居から海、一の鳥居側は早くに失われています(最後の写真は同書キャプションに一の鳥居とありますが奥に見えるのは三の鳥居(太鼓橋前の最後の鳥居)なので二の鳥居です。別の写真集では正しく記載されており、いくつか併せてファー・イースト掲載のものとされています(ファー・イースト復刻版では一枚しか確認できず)。いずれベアト写真では失われていたかどうかはわからず、明治初期壊滅説は立証できません)。鶴岡八幡宮へ向かう、言い伝えでは北条政子による盛土ですね。奥になるほど細くなり、より遠近感を感じるようにされています。鎌倉時代には単に作道と呼ばれ、急な開発で崩れ流れ込む泥水を避けるため盛土をしたそうです(Wikipedia)。ここも近年までは絵葉書のように古い参道の雰囲気を保っていたようですが、2016年改修での完全改造にも象徴されるように、無数に改変されてきたと思われます。その過程は古写真でもわかります。
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ザ・ファー・イースト掲載、明治初頭(復刻版より)中央が掘られているものの、一応区切りがわかる。二枚目は「文明開化期の横浜・東京」より同じもの。三枚目も同書、個人蔵。
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1890年代とされる土産写真(彩色)なんと段葛が消えている!
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、、、なんてことはなく太鼓橋より内側の境内だそうです。鳥居は仁王門の痕に建てられたそうです。「文明開化期の横浜・東京」より、個人蔵
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「明治の日本」横浜開港資料館より(明治前中期)

ちなみにさきほどのような彩色写真は横浜写真と呼ばれ自然な配色が美しいのですが、なぜかまとまった資料に欠けており、横浜開港資料館の出した80ページ増補版写真集は絶版で古本屋にも出ていません。プレミア三万円!旧版は沢山残っているのに。(2003年より前のものは旧版、たいていのネットではちゃんと書いてないけど表紙の色使いが違うのでわかる。青は旧版、橙色は増補)
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鶴岡八幡宮参道脇の、有名な大銀杏。東日本大震災前に折れてしまいました。
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遊行寺の小栗判官墓は現在も似たような形で存在しますが、水輪は後から追加されたもので抜かれています。ここについては別項参照
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元箱根石仏群、大地蔵磨崖仏(近年覆堂復元により完全に屋内化)
箱根は早くから外国人の観光地だったため写真も少なからずあるが、廃仏毀釈運動で寂れ分散縮小した賽の河原同様に崩れたままにされたような小川一真の明治後期写真から絵葉書、外国人向け彩色土産写真と微妙に変化のみられる写真となっている。
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横浜芸者。手彩色絵葉書だが、
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こちらの横浜写真の歪な複写であるらしい。明治中期か。

by r_o_k | 2018-03-12 08:45 | 旅行

絵葉書でたどる高知ひとむかし。。

大杉
大杉漣さんが「漣ぽっスペシャル」で冒頭おとずれたところ。。
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越知
佐川よりしばらく行って仁淀川の深く分け入る山の中、「落ち武者」伝承が語源ともされています。背後に岩山の横倉山、アプローチが悪く横倉宮までは登ったことがありません。このへんの崖の風景を絵葉書にしたものも多くあります。「落ち」てきた安徳天皇陵参考地があります。
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鎌井田
越知よりさらに山を越え仁淀川沿いに行った先にある幅狭い集落です。手前斜面の竹林の中にうちの墓地が。ここの沈下橋は映画に使われ、清流は昔は木材の重要な搬路、今はしずかに川遊びもできたりしますが豪雨だと鬼のようになります。没落する前のうちには茶室などもあり、ほんとかどうかわかりませんが岩崎弥太郎がシーボルトに会いに行くとき寄って金を借りて証文を残したとか。うちの先祖は医者でシーボルトに学んでました。
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高知市を高知城天守から見下ろしたところ。写りが悪くてすいません。。
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桂浜
戦時供出されたと聞いていたのですがそのようなことはないそうで、これは現在のものと同じようです。ただ、紋付きの紋が見当たりませんね。坂本龍馬像、昭和初期。
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御畳瀬の鬼の袂石
現在もそのまんま鎮座ましましてます。すこし満潮気味ですね。帆の高い舟が土佐湾特有の釣り船だったとか。今は対岸は埋め立てが進み船のドックが並んでます(御畳瀬は昔ながらの感じ)夜釣りの風流は龍馬も楽しんだとか。田中貢太郎は向かいのさらに向こう、仁井田の出ですが船上一献、書いてますね。御畳瀬の近くや向かいの一帯は戦前まで高知市の海水浴リゾート地だったと。御畳瀬には別荘の残骸などあります。そして、人間魚雷の穴なども。
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狭島
土佐湾(浦戸港)の入口はこのような島が点在しております。その独特の地形が不思議な現象や災厄をもたらしたりもします。ここは名所でしたが通行の邪魔として爆破されました。近くに小さな海底遺跡のような地形もあったといいます。古来弁財天の島として、今は御畳瀬の奥に遷座してあります。
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土佐湾今昔
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土佐の海水浴
僅かながらまだ浜が残っています。仁井田は荒海で、早々に軍の管轄となり埋め立てられましたが、野太い松林が有名で、田中貢太郎が笑い婆の伝説をつたえています。
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by r_o_k | 2018-03-09 20:52 | 旅行

【2011/12/1-2】宮城岩手・東日本大震災の残像(twitterまとめ他)

震災の年は自粛ムードで、旅行者など珍しかった。西表島では毎年来てくれていた東北の団体さんが今年は来れないということで暇なんです、と聞きました。私自身はじつは結構いろいろなところへ行っているのですがそのものずばり震災の被災地というのはあまりにも状況がひどく、支援等はともかく旅としては足がどうもむかなくて、9か月をへて恐る恐る行ったわけです。記録もろくに残しませんでしたが写真と若干のツイートがありましたのでまとめておきます。気仙沼は震災前より何度も訪れており、ちょっとショッキングでした。田老は世界最大の堤防を破られたところを見ましたが、線路を超えてうしろの杉が赤茶けて枯れているところや、高台と低地の極端なギャップ、被害の差にがくぜんとしました。やっと動き出した復興電車は解説電車でしたのでよく理解できました。火事の地域と陸前高田は遠巻きに見るだけで寄りませんでした。理由はお察しでしょう。目的は買い物だったのです。この冬は大量の鮭を食ったおぼえがあります。最後に、この10年以上前に行った気仙沼などの写真(撮影範囲は港を除けば奇跡的にほとんど被害がなかったようですが、浄土ヶ浜遊覧船の二隻のうち一隻は失われたと聞きました)、そして最近行った仙台松島+福島の記事へのリンクをはっておきます。リンク先からさらにアルバムに飛べますが、瑞巌寺の変化がわかります。あと福島はアルバムで常磐線車窓の変化を見ると未だ終わってないことの一端を感じ取れるでしょう。廃トンネル一つとっても。

2011/12/1

14:48宮古市なう 復興凄い。瓦礫凄い撤去ぶり 残る建物基礎が考古学的な非現実感。。車ののづら積み。。
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16:11浄土ケ浜なう。。
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19:16I'm at 花巻温泉 (湯本, 花巻市) http://t.co/CEvv0HeC
22:17被災地を廻っている。今や何の感傷もない。ただ、カネは落とす。覚悟しいや。w
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※このあとなぜか電気を使わない防寒の話を書いていて、しかし当時エアコンを持っておらず窓の下半分は文庫本(劣化上等)を積み上げて塞いでいた自分は何の影響も受けなかったようだ。

12/2

8:28おはよごぜます 花巻
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12:52陸前高田はちょっとつぶやけないくらいだったが気仙沼は港が機能しているのでいくぶん落ち着く。
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19:18現地に行かなきゃわからない、なんてことはなかった。ただ、間違えちゃいけないのは、だから何もする必要がないなんてない、てこと。温暖で生活に不自由ない都会へ。力強い人たちだけど、ほんとに酷い地域については、どういう感情があるのか、わからない。
19:21瑞巌寺の洞窟群はやはり鎌倉時代のやぐらだったね。
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19:28見えなかった遠景が見渡せるようになった不思議、というのは何か戦争を思わせる。酷い地域とましだった地域の差がすごい、ということも。岩手と宮城、火災の有無。。産業は気仙沼を復興させる、しかし港を離れ住宅地に来ると。。
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19:30船が乗り上げた建物は永久保存せず解体したようだ。しかしこのでかい船は。。
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19:32大量の海産物をしょった鬼は東北を去ります。らさば。
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19:42はずれものの、のっぽの松の木は残った。そういうことなのか。
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23:42ちょっとこれ言葉もないす。。松原の残骸はメディアにもあまり出てなかったよね。失われる景観への感傷はまだその時期ではないとわかってはいても、こういう内容を提示されると悲しみしかない。
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アルバム:

宮古/田老
浄土が浜、花巻
陸前高田、気仙沼
~気仙沼、松島
〜松島、仙台スマホ撮影


震災前(岩手;気仙沼ほか、2000年前後)

最近の記事(仙台、福島浜通り、2017年5月)




by r_o_k | 2018-03-09 15:21 | 旅行

開化ヱリキ 大都画ぶし♪

開化ヱリキ 大都画ぶし
 
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うら若き女房連れて風船で地球めぐり、こんなネタは今高座に上げてもポカーンでしょうな。
 
うっかり絵師の名前を控えておかなかった。国貞門人、文政期の歌川貞信が大都画ふしなるものを描いていますが明治前期まではずいぶん時期が離れます。上方のものは江戸と一味ちがう趣があり、明治に入ってからの通俗本をひとつ持っていますが表紙はどぎつい紅など使った浮世絵、中身は洒落のめした戯れ歌と、一段落ちるとされるのもわかるがそもそも別種なのである。どこかの流派にはいたと思われるが名前が誰なのか、絵自体に書いてないのでわからない。その世界では簡単に答えが出ると思うけれどそこまで追求する気もないのでこのくらいにしておきます。
 
で、これは「開化」で「エレキ」なのですから新作の音曲噺なのでしょう。上方落語に疎いので以下はネット情報になります。内容は見て読めばわかりますのでデータをば。
 
<作ったひと>
二代目桂文都(1872-74に跡目争いに敗れ月亭文都へ改名)もしくは
三代目桂文都(1903-16)
 
名前の大きさ、なおかつ文明開化モノということでいえば圧倒的に前者なのですが、僅か2年というあいだに作成されたものとも言い難い。最初これは公演ポスターのようなものと理解していたのですが、評判をとったから落語家とは関係なく後年に出版したものですでに代替わり、もしくは空になっていた時期のものかもしれませんね。
 
<曲をつけたひと>
桂文歌(音曲噺をやるとして江戸で真打前の圓朝に帯同したとあるが時代も場所も合わない、上方に名跡を継いだ者がいたと思われる)
三代目桂文昇(インテリ落語家)
 
前者はよくわかりませんでした。後者は芸人としての最後は吉本所属だったそうで、比較的著名です。音曲にも長けていたというのでおそらく同人で間違いないと思われますが、文都がどちらかによっては少し新しすぎるかもしれません(二代目はよくわかりません)。
 
こんなものがあります。

by r_o_k | 2018-03-07 15:29

法春比丘尼の涙は本物だったか?江戸二大刑場にのこる谷口巨大題目塔の謎(絵金鈴ヶ森屏風、小塚原古写真追加)

戦前戦後の江戸本によくあった「江戸二大刑場のヒゲ題目は同じ女人が建立した、綱吉の世に息子が酔いにまかせて犬を害した咎で処刑されたことから出家し菩提を弔った」なる話、実は少し形が異なる故現況確認前にネット見たら行くまでもないことが。谷口ブランドの話。きちっと調べられてます。…

幕末にまとめられ明治中期に国書刊行会が出した(近年中公より翻出)「燕石十種」所収の有名な江戸真砂こと「江戸真砂六十帖」2巻より「本郷谷口何某横死之事」。
谷口一族は豊中から京都三条へ移り貞享・元禄・安永・正徳にわたって全国に巨大な題目塔を建立し続けた熱心な法華信者で、京都町人八幡屋谷口長右衛門自栄すなわち谷口法悦のみが明確に名を残している。特に刑死者供養に刑場跡や街道筋に建立し、百基以上あったという。現在半数ほどが谷口の発願と確認されている。この法悦の母が貞林院法春日陽。江戸二大刑場の碑にある法春比丘尼ではないかと推定されている。(但し谷口でなくとも刑場跡に七字題目が建てられることは珍しくない。寺名を刻まない題目塔の存在を根拠にそこに刑場跡を推定する人もいる。刑場や、刑場にされがちな街道筋に題目塔を建てることについては、日蓮の龍口法難(鎌倉龍ノ口刑場にて処刑されかけた故事)に由来し、日蓮が天命により刀が折れ救われたことから助命嘆願の意味ある塔ともいわれている。)

http://www.gatsuzouji.or.jp/page2/page2_2.html
受け売りである。堺市史第七巻に大野道犬治胤の追善とあるとのこと。京都で捕縛され堺で処刑された豊臣方のこの人は確かに谷口家が供養する意味はあろうが、建立が江戸なのは解せない。「犬」からの連想で犬将軍より谷口与右衛門刑死なる噂がたったのか。逆か。最初のツイートで紹介した記事は地元の同人誌掲載のもので論考は続くようだが、古いので在庫があるのかわからない。物証主義のわたくしといたしましてはやはり、刑場で確かめてきますね、まずは、ブツを。馬場文耕は18世紀前半の講談の祖といわれる人で小塚原の露と消えたことから言論弾圧被害者の祖とも。

wiki情報で申し訳ないが事件の私的裁定及び異説の流布が最極刑の原因ということで、この「犬を斬った谷口某を犬公方が断罪した」話も「異説」の可能性が濃厚だと個人的に思う。見てきたように物を言い、というようなこと。「江戸真砂六十帖広本」第三。

中公版第四巻目次にはありますねえ。しかしこれは本文省略になっていると冒頭のページにかかれています。燕石十種は数々の著名戯作者や絵師が筆をとった江戸風俗好きには非常にアピールする稀少本集成で続刊も2シリーズ出てますが、図書館にあったら読む程度かな。目次で選んで読まないと大量過ぎ。

ちな国書刊行会版は続・新を含めると大正時代まで下るものの、幕末の刊行を復刻した元祖の部分(のち編者は変わっている)は未完書の復刻集成を謳っており、当時においてすでに流通していなかったものが多く含まれ、その写本をうつしたままだそう。従って刊本としては中公のものが唯一となり、近年までは写本しか掲載本の根拠がなかったことに。

江戸真砂自体は有名な本で、のちに徳川実紀にも参照されたほどである。厳格な時代に風刺を含めた講釈をあちらこちらの武家屋敷などで披露したのは肝が据わっており、緩んだ時代にお上自身が参照するほどの記録とされたことから、内容の真偽を問われることが少なかっただろうことは想像に難くない。天一坊、紀伊国屋文左衛門の記述も希少なものと扱われている。江戸前中期当時の風俗を仔細に記した随筆としての価値は確かにある。
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(参考)明治中期、この頃は小堂があり鬼子母神堂とされていた(大題目塔がこの中にあったとする文献は誤り、入らん)。こちらが大経寺へかわって現在管理。題目塔周辺の配置については堂付属物を除けばほぼ現況通り(道路拡張による海側移動縮小はあり)。「東京名所図会」
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戦後。

参考。絵はあまたありますが幕末の作例として。
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浮世柄比翼稲妻鈴ヶ森、鶴屋南北より絵金屏風(赤岡、高知県)お若えのお待ちなせえ、と幡随院長兵衛が鈴ヶ森側にて郎党ども大虐殺中の美少年白井権八をスカウトする場面(てきとう)。
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雲助のしがみつくこれが法春塔。右に舟、左に木と崖がある。絵金は贋作騒動前に東都に出ているので現地を知っていたと思われます。
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ちなみに国周の大名行列図。題目塔がビルのようですがこのころのサイズ感はこのくらいアバウトでした。
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鈴ヶ森刑場近辺の写真をすこし。パンフにも書かれているとおり法春比丘尼というのは謎の多い願主のようです。谷口氏と別けて刻まれており、それは出家したからなのか、もともと谷口と関係がないのか?元禄十一年二月五日刻も半世紀後元文六年説もあると札には書いてある。
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〜明治時代の鈴ヶ森近辺。小堂のほか今とほぼ同じ遺物(大題目塔を中心とする)が配置を違えて同じようにせせこましく並んでいる写真も残っている。基本的に刑場自体への供養塔建立禁止だったため他の石塔類はほとんどない(そんななか日蓮宗は刑場供養を積極的に行なった)。今の石仏類は街道筋から集められてきたか江戸後期緩くなった時期の小品が殆どで、八百屋お七のお七地蔵など他の寺に移されている。
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〜鈴石、鈴ヶ森の語源(磐井神社、区書籍より)

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〜鈴ヶ森、中村不折(「東京名所」)このように松のばらばらと並ぶ場所だったのが、最後は数本に減ったよう。江戸名所図会では集中して生えているように描かれていた。この松林に隠れた強盗辻斬りが恐れられた。

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〜鈴ヶ森、小塚原の各刑場。日蓮宗の題目塔が刑場に建てられる理由は龍口刑場で日蓮処刑となったおり刀が折れたため助かったことから同じように助命を願うためといわれている。街道筋にも建てられるが、街道筋には名もなき刑場があったから、逆にお寺でもないのに題目塔があるのは移転したか、元刑場だった証拠とまことしやかに語られる(実際は刑場以外も西国に多い法春塔同様、確証無い模様)。
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〜鈴ヶ森刑場の犠牲者。道路拡張・東海道整備時のものか。明治時代の写真。(宮尾しげを氏著作より)


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改めて絵金の芝居絵、白井権八と幡随院長兵衛出会いの場面より題目塔。池上本門寺25世守玄院日顗(ニチギ、1681~1753)の筆によるひげ題目と伝承もあり、そうなると元禄年間はありえない。

話を戻して鈴ヶ森刑場の巨大題目塔は前記の通り谷口氏ないし法春比丘尼の銘を持つ。しっかりした文字が四面に深く刻み込まれていて、裏面に元禄年間に両名願主にて建立と。
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ヒゲ題目、というか全般的に位置がずれて整地されたように思うが気のせいか。裏面下に前記二名の願主が広く供養を行うため建立旨、元禄の文字は真ん中、問題の元文の文字は頂上にある。頂上だけ書体が異なる。ちなここは古い石造物が少ない。塔の台石に僅かながら幾つか窪み、鉢状穴じゃあないよね…


見ての通り、法春の春が欠けてるんですよね。頑丈な御影石が欠けるとは、このへんの震災か戦災か。先の鉢状穴だって明治神宮石灯籠みたいに焼夷弾の跡かも。いずれ、一番上の刻銘は後からのものな気がする。元禄銘下を後からは考えにくい。題目を書いたのは誰なのか?あるいは表面だけ彫り直したのか?

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小塚原刑場の題目塔。調べると街道沿いから移築した上、幕末には土に埋まった状態で掘り起こし立てた時に旨追刻している。回向院も今の寺も日蓮宗じゃないことと関係あるかも。様式は鈴ヶ森と同じ(従って鈴ヶ森の本門寺刻は追刻だろう)。埋まってたせいか願主がハッキリ。そしてここの標柱にはちゃんと京都の谷口家のことも書かれている。

形は同じですね。年月日も書き方もそっくり。材質がともに御影石とはいえ小塚原の方が色味が濃く黄色く見えるが、保管状態などによって表面が変化しただけでしょうか。大きさは台石の有無、特に小塚原は地面に掘り下げて立ってますので印象が異なる。違う点は追刻だけ。鈴ヶ森の脇も後彫りでしょうか。

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明治時代とされる写真とほぼ同じ配置。他の写真ではもっと狭く置かれたり題目塔を移動したりしたものもあるので、今は元位置へ戻したということかもしれない。(常磐線で回向院から別れ、近年まで敷地縮小で地蔵のそばまで外壁が迫っていた。また東日本震災で被災し少し場所もずらしている)
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ザ・ファー・イースト掲載の明治初期の写真。鉄道敷設前の本来の雰囲気を伝える写真です。既に題目塔が立っているので、この前にも配置替えがあったと思われます。

「本郷谷口与右衛門横死の事」

本郷三丁目に谷口与右衛門とて有徳成町人なり、吉原へ行き、帰るさに加賀屋敷脇にて、犬に引き包まれて難ぎして、酒に酔いていたりければ、思わずも脇差抜いて追いまわるにより、懐中物落としける然れども、犬一匹疵付ゆえ、外の犬は逃げ走る、与右衛門内へ帰りぬ、翌朝、犬の頭に切疵有之を町の若ども見付けて、其分に差置きがたく、町奉行所へ訴出ける。即検使下り、段々詮議の所に一切知れず、依て庭先の番人牢舎す、下の番人の申上るには廻りに出候節、夜明前、鼻紙一折落て御座候拾い置き候、是を取寄御覧下さるべしと申上、則取寄て御吟味有に、手紙二三通あり、皆与右衛門が名前なり。早速与右衛門召し捕われ牢舎、糾明に逢て一度にて白状に及千住小塚原にて磔に被行ける、年三十三歳なり、壱人の子にて、母は嘆きて、品川・千住に御影石の石塔に七字を彫て長壱丈もあらん、今に谷口の名掛け建り。出典: 

(中公版をさらに平易にされている。問題あれば中公版に差し替えます)


「江戸真砂六十帖広本」巻ノ三所収。まさに同内容が三田村鳶魚本に書いてあった(ほぼ全文訳出してたのだ)。石塔からの逆連想のように思われる。だいたい塔の形状も文字も違うように思う。3メートルの大石塔はこの時期に限らずとも江戸で庶民が発願した供養塔としては珍しい。小塚原も鈴ヶ森も江戸の街道出口ちかく人気のない荒れ野に設置された新刑場である。刑死者の供養は禁じられていたので御仕置場そのところではなく、街道側に置かれたと思われる。通る者に与えるインパクトはあっただろう。関西を中心として刑場や街道の要所に「法界の爲建之(無縁有縁供養のために建立)」として確認できるだけで100基以上を一気に建てた。前記のお寺のページによれば同様の塔には4メートルもの大題目もあるそうだ。


一人っ子とある。谷口法悦の母が法春比丘尼とするならば江戸本郷で裕福にしていたこの町人は誰の一人っ子だったのだろう(名前は次男ぽくもあるが)。大題目が谷口一族のもので法春は法悦とともに個人名のあきらかな建立者、しかも京都。法華宗徒には長くメジャーなテーマ故これ以上は詮議しない。

谷口長右衛門(法悦)と与右衛門・・・次男ぽくはあるが・・・

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江戸真砂の刊本記載法の不思議に関する話。国会図書館写本、国書刊行会(明治期)本、中公刊本(画像)でそも分け方が違うことからの混乱。中公では四巻の広本は拾遺扱いで、一巻に本編が略本として掲載されている。中公版四巻の広本で省略されている(目次に○とある)ものは略本掲載ゆえ重複を避けたに過ぎない。高尾考は読み応えあるなー。


限定本で別の出版社から再刊されてるもよう。けっこう安いが、紙本はかさばるのでいらんです。電子本より取り回しの良い紙本をこの巻だけ購入。いちおう借りてきたけど。
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三田村鳶魚本について。「江戸の思ひ出ところどころ」s11東京日日新聞連載、柴田宵曲編青蛙房蔵版「江戸の史蹟」s33収録に書いてあった。例によって典拠が詳らかでない。新聞連載コラムにそこまで要求するのは酷だ。ほぼそのまま現代語にしてるけど、与右衛門を旧字の與右衛門としてるのが気になる。とうぜん後者が正しいか。

(Twitterより補筆変更セルフまとめ)

by r_o_k | 2018-03-05 10:55 | 旅行