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浅草十二階凌雲閣について(経蔵等、浅草田圃、展望、夜景、弁天堂、洗い髪、バルトン、公園地図、土台発掘等)~2017/9/1防災の日(関東大震災の日):歳時記

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〜おそらく上の絵葉書と同じシリーズだが、時期のずれた写真。絵葉書や土産写真は撮影と発売の時期がずれていることがある。

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アルバム
〜浅草六区の十二階凌雲閣は大正の大震災で半壊され危険なので、赤羽工兵隊の手で爆破した。明治二十三年に出来てから僅か三十四年の寿命でこの世から消えた。 十階までは八角形の総練瓦、十一、十二階は木造で高さは二百二十尺、総経費五万五千円。入場料大人六銭、軍人小児三銭也。日清役後は洋風画で台湾ボウコ島、遼東半島ののぞき絵や、東京美人の写真を各階に並べ、三階に西洋音楽を聞かす休憩所が二銭出すと入れた。九階に行くと官報と新聞の閲覧室。十一階に又休憩所、美少女が茶菓を持ってくる。勿論茶代を払う。十一、十二階に登れば遠望鏡の借賃一銭。富士と筑波を左右の雲間に望んで、秩父の連山、房総の山々、品川の海には白帆が浮び、南は羽田沖から東は鴻の台に達して、天気が良いと西は箱根、北は日光までが見はらかせた。〜「東京そのむかし」宮尾しげをs30アソカ書房

(2018/2/12-13工事現場写真等)
20180112浅草十二階(凌雲閣)土台発掘現場・浅草寺その他
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〜上部に白い部分(補強)があるのは改装後の写真という。

浅草十二階「凌雲閣」は明治23年に浅草寺北西の六区の北、千束に建てられた当時としては日本一の民営の高層タワー。当初周囲に何も高い建築物が無く、夜はまばゆい無数のアーク灯がぐるりをめぐる窓のすべてから光を放ち(いつもではない)、見た目の突飛さ、上階景色の秀麗さ、周辺風俗の華やかさから数々の文学・絵画作品に取り上げられた。

凌雲閣一に十二階の名あり。其十階迄は八角形總煉瓦造にして十一階十二階は木製とす。地盤の建坪三十七坪五合。高さ二百二十尺あり。同閣は明治ニ十三年一月の設計にして同年十月新築落成を告げ十一月十三日より開閣縱覽に供す。株式會社の組織にして。発起人福原庄七氏。五萬五千円の資金を抛ち泉好治郎氏工事を受負。当時技師と稱すべき者もなくて泉氏はダヴリウケ-バルトン氏を顧問と為し総て其指揮を待て建築に従事したり。開閣の際は特にヱレベートルを用ゐて八階迄登客を吊上げ來りしが其筋より却て危險なりと認められ僅かニヶ年間にして廢止したり。猶同閣に於ては之を遺憾とし水カを以て引上くべきエレベートル敷設の計畫ありという。設立の際都人均しく此高塔を以て極めて危険なる建築物と認めたりき。然るに去る明治ニ十七年六月廿日東京大地震の際煉化に聊かの亀裂を生したるのみなれば其堅牢無比。以て證するに足るべし。爾後閣の内外共に帯鉄を卷き固く鐵條にて締め増工事を施したれば永久震災の虞莫かるべし。※

縱覧料
大人一名金六銭
軍人小兒 半額

同閣は従来株式組織にして江崎禮ニ氏其社長たりしも本年一月荻野賢三及び同竹次郎の二人譲受け引続き興行す。猶同閣には征清の役に於る日本畵及油絵並に臺灣澎湖島其他遼東半島の窺眼鏡及内國諸方各地の寫員数十葉を陳列す
三階目に小休憩所あり。西洋音樂を奏す(休憇料金二銭)。九階目に新聞縱覽室あり(縱覽無料)十階目にまた休憇所あり。少婦數髮茶菓を進む(茶代を要す)。十一階十二階共に望遠鏡あり(見料一錢)。
登閣四方を眺むれば只見る東都百萬の人烟甍の波を打たせて人家盡くる處水田を見る。河流市内を橫斷して人の堤を歩める。歷々双眸に集まる。遙かに眸を轉ずれば富士と筑波を左右雲間に望み 秩父の連山房総の諸山遙焉として見るべし。品海の勝景風帆の洋中に浮べる。南は羽田岬より東は鴻の臺に達す。若又天氣朗かなるの日望遠鏡を以て眺むる時は西は箱根より北は日光を望むを得べし。
附言。凌雲閣は公園外にして千束町ニ丁目に屬すれと。
此回都合に依りて便宜上編入するものと知るべし。
〜「東京名所図会」浅草公園編 より 宮尾氏は一部参照している

※この亀裂がのちの関東大震災での折落に繋がったと言われている。この補強工事が最初の改装(上部カバー)となったかと思われる。
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明治23年開業最初期の写真とされるもの。「浅草地域のあゆみⅡ」江戸東京博物館調査報告書第33集h30掲載
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推定明治24年1月撮影(竣工二ヶ月後)〜「吉原下町談語」掲載
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開業広告(東京日日新聞)〜「変態広告史」掲載
<工事は一年とかからず極めて短期間で行われたという。頑健なレンガ造り(コンクリで継ぎコンクリ土台を敷いた、これは日本初とも推定される)だがエレベーターはすぐ危険だというので止められ末期は老朽化が指摘された。くすんだ茶色の煉瓦が池に映る姿は愛され、失われて後すぐ、同時代者にすでに研究される対象となっている。>
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〜設計者ウィリアム・バルトン。エジンバラ出身。水道工事などのほか多彩な活動を行った。大変尊敬されたよう。

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大日本凌雲閣之図(左に螺旋階段とエレベーターの構造図が見える)〜「図説浅草寺今むかし」掲載
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〜三代国貞m23「博覧都市江戸東京」江戸東京博物館h5掲載

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設計者バルトンによる十二階の写真。時期不明。イギリスからお雇い外国人として来日したが、写真家としての面もあった。明治28年まで実に8年間滞在している。小説「Ayame san」の挿絵がわり写真の一つ。「外国人カメラマンの見た幕末日本Ⅱ」より、国際交流基金図書館蔵
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ひょうたん池越しの写真としては池畔建築より最古級(竣工当時)とされるもの。「よみがえる明治の東京」より
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「明治の日本」より宮内庁所蔵、前期の浅草寺側入口付近の様子がわかる。十二階向こうに奥山閣が見えるので今の国際通り側からの風景(後の方にも同じ構図あり)
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〜明治時代の写真集より古いものを。
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〜明治中期あたりと思われる鶏卵紙焼き写真。
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〜「東京案内」掲載、後期の改装済の姿…と言われたがこの本は明治三十四年。
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〜最上階に「十二階」の看板が見える。改装前。
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〜夜景。最上階におなじく看板が見える。同時期の絵と思われる。下敷きは写真と思われる(同じような構図の写真がある)。
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〜夜景部分、前掲「東京そのむかし」裏表紙より。
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〜区史料より引用、改装後の十二階彩色写真だが、看板がみられる。
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〜「明治の日本」横浜写真(横浜開港資料館)より彩色写真(スキャンアプリの性質上赤く出ています)
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〜同じ写真(写真で見る江戸東京)
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〜「浅草地域のあゆみⅡ」江戸東京博物館調査報告書第33集h30
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〜同上、玉乗り全盛のとき。
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〜玉乗りより活動写真が主流になってきた頃。
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〜明治三十年代の石版画シリーズ「東京名所」より。十二階が簡単に書き添えられている。大正時代にこのシリーズで十二階を入れた浅草公園の絵も刷られている。
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〜明治二十六年の東京名所シリーズでは初期の周辺風景も克明に描かれている。(東京名所は大正時代まで描かれ続けたので同じモチーフが出てくることがある)
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〜浅草公園遠望。十二階と浅草パノラマ館の間が六区。「博覧都市江戸東京」江戸東京博物館h5
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〜明治四十一年「東京名所図会(復刻本)」上野の山から十二階をのぞむ。
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〜(参考)原本、合本しかないので展開して見られる復刻本の図版も残しておきます 綺麗です
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〜同書(復刻版)神田駿河台個人宅から浅草遠景、ここにも浅草寺奥に十二階が見える。
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〜「東京名所図会(復刻本)」浅草公園全景、綴じ目にちょうど花やしきが隠れてしまった。。この図は浅草区史にも流用されている。
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〜同、六区から十二階。
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〜隅田川対岸枕橋から。浅草公園内の位置は不正確。
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〜写真だとこうなります。確かに十二階大きく見えますが、奥です。
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〜河鍋暁斎
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〜後年の粗い写真ですが上野山からの絵と同じ方向。
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〜明治四十三年「東京名所写真帖」浅草対岸から浅草寺越しに十二階がみえる。
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〜向島の竹屋の渡しより(竹屋は店の名前、向島の渡しとも。言問橋竣工により昭和3年廃業になり一気にこのあたりの水上が寂れた)東京名所石版画、この趣向の土産絵は印刷方法を変え戦前まで続いた。
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〜夕景に十二階の遠い影

ちなみに、明治八年ベンジャミン・スミス撮影の銀板写真。隅田川対岸からの今戸(マサチューセッツ大学図書館蔵)
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浅草寺は見えますがその先は田んぼ、まだ十二階もありません。
少し遡る。
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浅草寺観音堂裏辺りから広がる浅草田圃は江戸時代から絵に描かれてきた。これは広重の名所本挿絵。のんびりした風景で狸が跋扈し、戊辰戦争後は上野から戦火を逃れてきた狸と争いになったという伝説もあるそうだ。またこの右手奥(北)に道が伸び突然区画された新吉原があらわれる(十二階上からの写真参照)。
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江戸名所百景「浅草田圃酉の町詣」広重、吉原楼閣からの風景。この有名なシリーズは図案化が激しく風景のスケール感も誇張されるので、同じ構図でも挿絵ものと違う印象があります。
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歌川広景の戯画。タヌキの名所でもあった。その他、新吉原周辺もこんな淋しいかんじです。
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芳虎、夜の日本堤でしょう。何もない。明治初期。
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一景の戯画。明治初期。高さは誇張されていますが吉原周辺の田園風情を感じ取れます。

幕末の流行神、浅草田甫の太郎稲荷(別項)もこの景色のうちにあり、明治になって開拓され十二階など建ち近代公園として整備される影に沈んでいく姿は、例えば小林清親がうつしている。現存してます。

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〜明治四十一年「東京名所図会」下谷浅草附近遠望、と称する写真。左上に薄く十二階が写っています。(復刻版よりはるかにクリアな写真です。。)
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〜同じ頃と思われる絵葉書。この構図で何パターンかあるようです。

千束は六区と違い建築規制がなかったのである(のち池側に有名な仁丹看板(仁丹塔は別物、雷門前から突き当りのファミマのあたりに80年代まであった「模型」で、今は貼り紙のみ)が立つが、ファミマがキーとなるとすればひさご通り(アーケード)のファミマあたり?角度が違うか?)。前年の大阪のものを凌ぐ外国人設計者によるモダンな本格煉瓦建築であり(上2階を除く)、塔高50メートルを越え、十二層にもなり浅草歓楽街の象徴となった。目的は産業振興等のためさかんに行われた博覧会の一つに供することだったが、他の博覧会建築と違い取り壊しを前提とはしなかった。もちろん突飛な建築物が江戸の象徴たる浅草の景色にそぐわないと忌み嫌う向きもあった。戸川残花は「東京史蹟写真帖」で大銀杏二本(辛うじて一本焼け残っている)と五重塔(空襲焼失)につき書き記し、墨田の夕暮れは筑波山とこの五重塔で面白いのに、唐突に十二階で一幅の名画に汚点を与えた。今戸、橋場の屋根の上にも電線の高く見えるは花川戸の助六も見下ろして苦笑するだろうと言っている。
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〜風俗画報より
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〜明治43年8月東京大洪水時の浅草公園。十二階をのぞむ人工池ひょうたん池(正式には大池というそうです。東京の古い人に聞けば知ってます)が溢れて、道を筏でわたりしまいには泳いで遊ぶ人が出る始末。仁丹看板が見える。この東京大洪水の写真は山ほど絵葉書になった。個人所持および前記参考文献各種から。

ちなみに、以下同じものを含む浅草公園の写真(絵葉書もあるとのこと)
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「明治の記憶」学習院大学より(最後は浅草本願寺と記載されている)
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〜日露戦争後ころの十二階、販売はおそらく明治末期か(後出の絵葉書と同じ凌雲閣のスタンプが押されている。この角度のこの色調の絵葉書は何種かあるよう)。有名な絵葉書。茶系の色合いは末期のそれを描写したものに似ている。赤紫のスタンプの押されたものもある。
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〜十二階で最も有名なのが東京百美人というコンテストで、時代柄ほとんどはプロの藝妓※だったが、立派なブロマイド写真を百枚、階段に飾りトップ5を競った。初回は名前もはっきりしないコンテストで、テコ入れ的な企画にもかかわらず大評判となったがために色々芸能人のような扱いをされる藝妓も出てきた。これは東京名所絵のていをとりながら、下に東京百花美人の名でエントリした藝妓を配している(熊澤喜太郎による明治24-25年の石版画)。趣は写実だが形式的には江戸時代の見立て絵ということか。背後に十二階が見える。隅田川をはさんでいるので今戸を俯瞰で見たら、このように見えた(大きすぎる気も)ということだろう。

※藝妓としてますがほぼ娼妓ですかね
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〜「バルトン先生、明治の日本を駆ける!」稲葉紀久雄、平凡社h18より引用(百美人とあるため初回ではなく、第何回かはわからない)

参考:一位 深川八幡の新橋玉菊
この絵もそうとう売れたようです。(他にも何枚か手元にありますが脱線するのでここまで)
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選外だが、当初撮影に髪結いが間に合わず洗い髪で駆けつけて、結局改めて結髪にて撮影され展示されたものの、話が漏れてむしろ洗い髪写真を表に出したところ大評判となり「洗い髪おつま(お妻)」として広告などに引っ張りだことなった有名人が花の家のこちら。洗い髪のポートレートを売りにする後発も現れました。手元の資料には二位とあるが、それほど伝説的な存在。研究もされている(本来はもう少し大きい写真でのちに他にも洗い髪のままの写真が撮影されたが、ほとんど現代のグラビア写真のポーズである)。没落した対馬藩士の娘という。のち伊藤博文や桂太郎などの愛妾となりかけるも40代で命を落とします。
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後発はけっこう長く出て最早奇抜なスタイルとして確立され、「自由な女性の象徴」とされることもありますが世紀末あたりでは特段特別なものではなかったようです。ただ、髪をセットしないのを好むのは男であり、娼妓はあくまでスッピンを晒すような恥として屈辱を感じたとも読みました。洋髪と同じく蔑む人もいたのです。以下は比較的後年のものですがお妻の直後に外国人向け土産写真の中に綺麗に色付けされた洗い髪の別人のポートレートが出回っていました。そちらは手元に原版がないので検索等で探してください。
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横浜の外国人向け妓楼に洗い髪というか、ロングの遊女がいたようです。いわゆるラシャメン、洋妾ですね。いずれも手彩色写真ですが片方白黒しか資料がなかったのですいません(前向かって左)。同一人物でしょうか(長さや若さは異なりますが撮影時期のせいかも)。幕末明治初期もしくは前期?
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横浜はこちらも。毛量の多さ。
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〜「写された幕末」アソカ書房

話を戻し、
初回百美人は十代中心。非常に若い藝妓らが選ばれました(のちに一般枠が拡大しプロ以外にも門戸が開かれます、母親が上位になって気恥ずかしかったという記述も読みました)。下は選外の芳町小てる。同時期のものでしょう、とても若いですね。話によれば初回のち、「花魁くらべ」というものが開かれ有名な稲弁楼小紫が一等になりました。娼妓の写真を公衆の面前に並べるとはと不評だったといいます。
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はなしをもどします。
※※
明治24年、風船玩具の包紙兼オマケと思われる。子供向けの名所でもあった(これが末期には裏に大人の店が密集する場所となっていく)。
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十二階は単独で威容を誇ったあと次第に周囲が拓け始め、浅草寺域内の「浅草公園」としてひょうたん池(最大で現在の「ひさご通り」南側周辺から花やしき脇パチンコ屋(十二階記念碑がある)周辺、JRA手前までくらいか)が掘られ、周囲に桜など植え込みが植えられた中から望める奇景として、さかんに写真の被写体となる。絵ハガキが売られ海外へも出回り、最初から最後まで多く残された。コレクターもいる。世界一周映画の一編としてリュミエールも映像におさめているそうである。※ネットではwikipediaのみの記述
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〜「浅草地域のあゆみⅡ」江戸東京博物館調査報告書第33集h30より別資料の転載写真。

大正時代はじめの十二階の玄関(芝居見世物看板)が映る動画はこちら。浅草の震災前の雰囲気が擬似的にわかるよう編集されています。

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もちろん当初の目的である、かつてない高所から低い建物しかない下町ひいては関東平野を見晴らし筑波山関八州までのぞめる、という売りはしばらく人気を呼んだ。

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〜前掲図の抜粋。左先に墨堤に隠れた三囲神社鳥居が書かれている。距離的に見えないと思うが(この鳥居の遠景写真をさがしてます)

名目上は美術館ということもあってまだ新鮮だった頃は「日露戦争ジオラマ」のような展示物があった。しかし周辺の発展と同時に建物も猥雑な雰囲気に埋もれていき、人気も落ちて、大正の頃には目の前に浅草国技館も建ってすっかり景色の単なる一部となった。
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〜日本名勝旧蹟産業写真集 より、国技館(遊楽館)と重なった不思議な角度。

下層階周辺とくに裏が酒場、「白首」と呼ばれる私娼の巣窟になるなど様変わりした(震災後に立ち退きを余儀なくされついに東向島へ移る、つまり玉ノ井)。このあたりも文学者の格好の素材となっている。西洋風に飛び降り自殺する者も現れた。
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(看板絵が同じのため同一写真と思われる。下は前掲参考文献より。)
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絵はがきのように十二階劇場という芝居小屋が目前に出来、お化け屋敷ないし見世物小屋(あるいは季節物の芝居)になっていて、東京の遊興者の評判はそちらに取られてしまっていました。
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参考。
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明治40年4月「最新東京明覧」掲載、博覧会見物者用の各名所地図が載っているなかのひとつ。不明瞭ですが十二階周辺が拓けているのはわかります。十二階も存在感があります。
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珍しい空撮写真の絵葉書。十二階のランドマークぷりがよくわかります。
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大正11年3月関東大震災直前の萬朝報附録「東京案内大地図」裏面掲載、浅草公園案内(左下隅に十二階が見えますがもはや付け足しのようです、この地図は表面も少し不正確なのでこれも目安程度か)
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〜「よみがえる明治の東京」より、十二階上から浅草公園を見渡す(なぜか十二階内部と上からのパノラマ写真は数少なく、絵葉書も一枚しか確認していない(書籍よりトリミング、問題あれば削除します↓))
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末期の十二階からの大池です。元浅草国技館の頭が見えます。手を加えないリアル写真ですとさらに。
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国技館ができる前の大池の景色。同じ写真の別彩色(後者は横浜写真、「明治の日本」増補版、横浜開港資料館より、赤が強く出てしまっています)
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〜「よみがえる明治の日本」より浅草寺方面。(原本:浅草区史)
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〜浅草観音と筆書き(明治二十年代か。撮影は日本初の商業乾板写真で初めて早取写真師の名を頂いた浅草の写真家江崎禮二※(のち浅草公園は観光記念の早取写真(ポラロイドみたいな感覚)が名物となる)、鶏卵紙に拡大複写販売されたもの)。季節が冬で上下の写真では見えない経堂が見える。(建物は戦災で本堂、五重塔や仁王門とともに焼失、中身は避難して助かった、今は元仁王門に収められている、別記)
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参考。
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参考。経蔵手前上から本堂を見おろしたていの誇張された構図。真ん中に奥山閣が見える。本堂前両側に鳩豆屋の台および手前に大丸傘、本堂上から奥山閣向こうまで鳩が飛ぶ。少ない色でよく表現したと思うのは五重塔五層目の屋根の色。昭和7年の白黒写真で5層目だけ色が違うように見えます。軒の反りが他の段と違うことはよく指摘されますが、日の当たり方だけの問題ではないと思います。空の色と混ざらないよう、立体的な色付けにした可能性もありますが。なお白い部分は雪かもしれません。(もともとは落ち着いた綺麗な色付だったようです、後摺)

(後補)東都吉原と筆書きされた同様の写真が十二階から吉原をのぞむ写真であったことが判明、以下リンクしておきます(さすがに画像は持ってこれない)江崎製の台紙に鶏卵紙、同じように販売された拡大写真(望遠写真)でしょう。うーん、盲点だった。気づかなかった。吉原まで田んぼだったんだよね、まだ。

下記パノラマ写真(西方)との比較
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※ちなみに凌雲閣社長として上記東京名所図会に名を連ねているが既に手を離れ、また、十二階が無くなってからも凌雲閣は株式会社としてはしばらく存続した模様。凌雲閣の名前の施設も繋がりはともかくあったようです。
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〜江崎写真店。飛ぶ鳥も撮るとして高名、客絶えず、浅草寺裏手にありました。5区6区は写真店が多く江崎館そばには引退した下岡蓮杖がタバコ屋を開いていたといいます。旧くはヒュースケンに聞き苦労して学んだという蓮杖が横浜より奥山へ越してきて富士山の看板を立て、対抗して北庭筑波の名を名乗る写真師※が夜間撮影をして評判となり、明治6年前後から同じく横浜からの引っ越しである江崎が台頭した16年頃まで富士/筑波と浅草の写真館の先駆けとなりました。競争の果やがて問題となる強引な客引きは大正ごろまで続き、簡単な早取写真師は花屋敷方面にまでテントの軒を連ね戦前まで続いた。別項参照。

※「明治百話」によれば新派俳優伊井蓉峰の父、花やしきの脇に店を構え北庭ヘブライと名乗る変わり者で、洋食ばかり食べていたという。

ちなみに江崎貧乏時代の話はこちら。↓
じゃまな網のうつらないパノラマ写真も実はあるようだ※。撮影用に外したのかもしれないし、江崎写真のように時代が古いのかもしれない(江崎は社長だったことがあり高名だから独占的に撮っていた可能性がある)。
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〜「浅草区誌上巻」大正3年より。時代の下る景色。前掲浅草寺方面はこの写真のコピーとのこと(国会図書館本では浅草公園方面の二枚は省かれています)

※こちらでした。隅田川のむこうの煙突群まで見える克明なものになっています。新吉原がはっきりしないほど建物が建て込んでおります。時期は下るでしょうが、大池の手前にはまだ国技館はありません。「博覧都市江戸東京」江戸東京博物館h5より
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以下同じ絵葉書のスタンプなし。(一枚三万数千円とかとんでもないプレミアついてます!)「浅草地域のあゆみⅡ」江戸東京博物館調査報告書第33集h30より
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〜このようなベランダから展望した(広告ポスターより)

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直径13m弱の塔には店舗などとともに日本初の電動エレベーターも敷設されたが故障のため長くは続かなかった。階段を登らせるため、平山蘆江によれば芸者写真を集め壁面に展示、当世美人コンテストのような「東京百美人(これはかなり長期に渡り実施されたようである)」等で人を呼んでいた。しかし結局、末期に十二階の人気回復のため再敷設されている。
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以下、「博覧都市江戸東京」江戸東京博物館h5より凌雲閣十二階の編年。一部重複等省略。
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花やしきにも塔ができて奥山閣と呼ばれ料理屋となっていた。天頂の鳳凰像の金ピカに輝くところもいかにも浅草らしい。
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:奥山閣から浅草寺参道側風景、以上2枚「明治の日本」増補版、横浜開港資料館より(スキャンで赤が強く出てしまっています)
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※花屋敷は嘉永六年設置の庭園パークで幕末すでに十年余り営業していた老舗※。浮世絵にも描かれ(最後の写真のみワーグマンコレクション(オランダ→長崎大学)だがキャプションはないものの明治初期の旧状を残した花屋敷内と思われる)、菊などの植物、あとは名物のこの虎の稚拙な絵、貧弱な展示に奥山閣。それが維新後の浅草公園の設置、繁栄により門構えがどんどんいかつくなっていく。明治後期の写真というがずっと前の写真か、奥山閣だけの入口として独立したものだと思う。他でも掲載される写真だがこれは国際日本文化研究センター蔵、「レンズが撮らえた幕末明治日本紀行」より

※参考文献の誤記が判明したため一部記載を訂正しました
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〜東京名所図会「浅草公園」復刻版より、十二階より遥かに頁数が割かれている。
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十二階上から奥山閣越しの浅草寺(このアングルは前掲三枚と同じで、人気だったのかもしれない)
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2枚の彩色版。前者はいわゆる手彩色、後者は土産用に横浜で彩色された横浜写真(「明治の日本」増補版、横浜開港資料館より、スキャンアプリの性能上赤くなってしまいましたが緑がよく出ています。前者は後者を下敷きにしたものという説明もあります。書籍掲載写真よりカットが大きい。)
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ちなみに同じ頃か少し前の洪水時に十二階から眺望した風景とされるもの(風俗画報)角度もさることながら三囲神社の鳥居まで見えるのはやりすぎ。。ふつうの鳥瞰図として捉えるべきか。

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ついでにいろいろ。明治末期〜大正初期ごろ。

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アングルはよくあるものだが、十二階手前によく写っている。

【脱線】弁天山と弁天池について
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明治前期に潰された弁天池写真だが弁天池と奥山閣を共に写した写真があったかと思う。これは尾張徳川家の写真を参考引用(ベアトの幕末写真は蓮の繁茂以外ほとんど同じ、別項掲載)。明治十六年陸軍省の測量図では鐘撞山を中心とした低い建物に囲まれた丸い池となっているが、ファー・イーストの写真を始め境内を浅草公園方面へ広々と見渡す写真に池が写っているものもある。測量は正しいかと思われるが池自体がやや大きかった、建物のすくない時期があったことは推測される。
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〜井上安治(探景)「金龍山之図雪月花之内雪」(「浅草寺今むかし」より、カラーは画像が発見できませんでしたが何年か前の台東区のカレンダーにあったそうです。北渓など古くから似た俯瞰図は描かれています)明治十八年、経蔵、五重塔、仁王門手前の配置がよくわかります
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〜広重、弁天池を手前に広大に広げるデザインしてます。ちなみに弁天山は築山ではなく関東大震災あと坪井正五郎博士らにより古墳として調査されたりしました。
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〜本堂・仁王門間から隅田川方向。コンパクトな版画なのでコンパクトに凝縮した表現。仁王門から奥に続く石塀は本堂と参道の障壁(神社の結界)で右に弁天池があるはず。他の絵同様恐らく広重模写でしょうが、原図を知りません。コレ自体は作者不明。幕末頃か。
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これは昭和初期の浅草本を読むと書いてある。曰く建物のない風景は関東大震災でぐるりと焼けてしまったものだという。幕末明治初期の古い写真にも拓けたものはある。しかしこの本によると「明治初年の、弁天山(鐘撞山)は鐘楼の傍に薄気味の悪い様な池があって、新派悲劇の舞台等にはうってつけの場面だった」。確かに薄気味悪かったらしい。
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アングル違い、
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初回「大江戸」で話題になった「高精細画像で甦る150年前の幕末・明治写真」浅草寺弁天池の有名な写真(ファーイースト明治4年1月17日号掲載、モーザー撮影)拡大写真、池は開化後すぐなくなりこの弁天祠があるが、原写真では提灯に交差大根が見えるという。これは右、経蔵よりさらに右奥の待乳山聖天から和合神を習合したのでは??
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この弁天は宇賀神を頂く(光背頂部にも3つの宝珠のようなものが見える)弁天像で、白髪ゆえ老女弁天として知られる本尊とともに新築弁天堂におわす。縁日巳の日(不忍池弁天島と同じ蛇の日ですね)法要で開扉される。写真は「浅草寺今むかし」から。
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放送大学附属図書館蔵の写真部分。ほぼ同時期とされるが精度のせいかうらぶれた雰囲気がある。このあたりは陰鬱で池のなくなる明治20年以降も情死に使われそうと言われていた。弁天祠には大根提灯は無い。時期の可能性もあるが少し下るのかもしれない。「レンズが撮らえた幕末明治日本紀行」 より部分
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弁天池から仁王門、「明治の日本」横浜写真(横浜開港資料館)より彩色写真(スキャンアプリの性質上赤く出ています)
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ワーグマンコレクション(オランダ→長崎大学)より、気味の悪い雰囲気は出ている。ちなみに中央が現在唯一残る大銀杏(戦災銀杏)だろう。明治前期。前掲のファーイースト高精細写真と同じか。
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参考、埋めた後(池際の障壁が残っています)
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もっと精度の高い写真もあるがついでということで。俯瞰で見ると弁天池は意外と広々としている。また弁天祠(宇賀神)をよく見ると縦長の大根提灯が2つ下がっていて最初の写真に似る。確かこれもファーイースト写真(復刻版には収録されていない)。時期は同時期だろう(同紙短期間しか出なかった)国際日本文化研究センター蔵を引用、「レンズが撮らえた幕末明治日本紀行」
※下は「明治の日本」横浜写真(横浜開港資料館)より彩色写真(スキャンアプリの性質上赤く出ています)
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ファー・イースト復刻版収録、池の向こう。幕末。
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五重塔と下の雰囲気(「高精細〜」より)同時期。

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ついでに。昭和7年、関東大震災復興大工事のとき観音堂最上階から五重塔を見る(彩色絵葉書にもなった)。公園化した境内は噴水などあり、関東大震災をへて整然としている。この塔も仁王門も戦争で失われた。
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現在は位置の変わった二尊仏坐像は幕末写真の至るところに現れる。大銀杏とともに江戸浅草の生き証人となっている。
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北斎2枚(参考)

経蔵。これも現存せず。
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経蔵と五重塔(観音堂(本堂)向かって右手前に並んでいた)
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観音堂内から同アングル(「明治の日本」より手彩色写真)
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観音堂手前左の軒
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浅草寺大銀杏二本ですが、右が経蔵と五重塔の間(現存する)。左は本堂裏で現存せず。
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経蔵と五重塔、参道沿いに灯明台、大灯籠ができている。
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なぜかあまり写真が出てきませんが前記の一切経蔵です。新門辰五郎らが鎌倉様式で再建したもので、最初の正面写真、向かって左軒にかかる銀杏は現存する戦災銀杏です。この写真だと右手前が五重塔。中には回転式の転輪蔵があり回して肖ろうとする人々で賑わいました。鶴岡八幡宮から明治3年5月神仏分離令で持ち出され塔の辻で焼却されそうになった元版一切経を、御徒町出身の貞運尼という僧侶が色々と貯めた資金に人々の協力を加えて買い取り、品川まで船で輸送したあと新門辰五郎の力を得て大八車に行列を調え翌三月、浅草寺に奉納しました。
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:ベアト撮影、明治初期の鶴岡八幡宮経蔵、手前に舞殿が見切れている
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:同、多宝大塔(横浜開港資料館蔵、書籍より)塔の辻とはこの前のことか
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:それより前の唯一の完形写真
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:「浅草寺今むかし」より鶴岡八幡宮江戸時代の配置(階段下大銀杏側に経蔵があり現存しない入口壁際に塔がある)

百八十箱五千四百二十八巻を収めたのが八面の転輪蔵です。経文はのちに戦災を避けて疎開し、今は仁王門こと宝蔵門楼上に保管されて国重文指定を受けています。経蔵も仁王門も五重塔も焼けましたが肝心の経文は助かったのですね。
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(関東大震災後の馬道から浅草寺五重塔、銀杏(現存)、経蔵、本堂※六区ではありません)
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江戸名所図 天 部分
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閑話休題。

愛宕山には十二階と標高が同じといって愛宕塔なる望遠塔も建てられた。他にも似たようなものがあった。大阪の十二階というものすらあった(凌雲閣より早かったらしい。形は円錐形みたい)。
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江戸東京博物館の復刻
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しかし

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浅草観音堂から十二階

関東大震災は浅草一帯にも壊滅的打撃を与え、十二階も免れえなかった。煉瓦のため火災による焼失を免れた一方、地震には弱く上半分が折れ落ち観覧客らを巻き込んだ(明治時代の大地震で既に亀裂が入っていたという)。営業側では復旧不可能と判断され、ぼろぼろと崩れゆく状態に危険性をかんがみて軍により二回かけ爆破された。これは映像が残っている※。これもまた画家の格好の題材となっている。バベルの塔になぞらえるような表現も見られるが、写真のとおり周辺の大建築が皆燃えてしまったから当初の単独峰の姿が復活しただけである。
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※京都大学がデジタルアーカイブで公開している関東大震災映像に含まれている。コレクションから辿っていかないと検索では探しにくい。題名もややこしいので注意。
前掲のような隅田川対岸からの浅草にもはや、十二階は見えない。
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罹災地図より、上野公園からの十二階。
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森田峰子編「写真記録 関東大震災」s55国書刊行会より
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(国際画報大震災記念号からの転載写真)
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花やしきから十二階、猛獣は逃げて被害が出る前に射殺されたが奇跡的に五重塔に結び付けられていた子象が助けられた。
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全焼の六区(右方向に浅草寺)前掲写真と同じ

瓦礫の始末は方々で問題となり、古来の池泉に投げ込むことで処理される場合も多かった。けっこう遠いのだが入谷駅近くに朝日弁財天(戦後私有から寄付された土地に建てられた名前でもともと姉弁天もしくは弁天院と呼ばれる)がある。もともと松山の水谷伊勢守勝隆が不忍池の弁財天とともに下屋敷内に建立したもので、つまり東西(朝夕)対となっていた。不忍池の広大さに対しなぜこちらが対になるのかといって、このあたり一帯も「水の谷の原」と呼ばれるほどの一大湿地帯であり、明治時代になっても8000坪もの池が多くの生き物を孕んで広がっていたという。
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明治12/20年の浅草の地図(まだ浅草公園は作られておらず田圃になっている)。現在地と少しずれるが鷲神社裏に大きな池が見える。このあたりが湿地だった。龍泉の地名は今も残る。
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(奥の緑が現在の朝日弁天公園だが、元はこのあたりまではあった。空襲もあり、そのため十二階の瓦礫はどこに埋まっている、もしくはいたのか不明である。)
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(児童公園になっているが、マンホールがいくつか目につく。水気を感じる。向かって右手にある小池は人工のもの。)
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ここに十二階やその他浅草の残土瓦礫が放り込まれることとなった。煉瓦は重い。牛馬が運搬の労で斃れることもあった。池泉の生き物たちもことごとく焼けた土砂の中に潰されていった。このことをのちに嘆く歌を詠む者もあったが、結局のところ池は全部瓦礫で埋まったようである。現在コンクリの小池が社殿向かって右脇にみられるが、空襲などですべてを失った戦後に宗教法人として整備された延長上で復興したものだろう。近年、瓦礫運搬の家畜や池泉の生き物を供養する観音像が建立されている。境内は池を含めればもっと広かったとのことで、どのあたりが十二階の煉瓦の眠る場所なのかわからない。
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近年再建され、最近解体された仁丹塔(現在はファミマと看板)
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:荒俣宏「異都発掘」1987

現在発掘調査により十二階の建っていた最も確実な位置と思われる浅草2-13-10~14-8の一角の地面をよく見ると、赤煉瓦の破片が見える。これは後世のものだろうか。※
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※当時のものでした。2018年に入り更地(もと台東医院)の開発が始まったところ煉瓦層が二箇所現れ、地固めのコンクリートがその下に発掘され、ここが角地であることが判明。同じ基礎は向かいの元焼肉屋の赤いビルを建てるときも出たという(それがここの場所確定の根拠となった)。そちらのときはイギリス積み?の煉瓦がかなりの硬さで難儀したとか。さて塗りの厚薄あるようですがどうやらコンクリートで煉瓦をがっちり繋いでいるため堅くなったようで、薄いですが重い煉瓦そのものは紅ぽいものと橙ぽいものがあるようにも見受けられました(光の加減か湿気のせいかもしれません)。壊滅はしましたが出土瓦礫の一部は保存され記念碑が検討されているそうです。このあたりはすべて浅草寺の土地で、どうやら再開発のターゲットになっているようで、現況保存の頼みの綱は公共であり塔の真ん中があるかもしれない「道路」だけですね。ただ、敷設や水道管埋納等工事のつど掘り込まれ土砂やコンクリートで侵食された可能性はあります(そもそも基礎が床面全部を支えていたかどうかも不明)。最初の発見の時の出土煉瓦は下町資料館に展示されているそうです。簡単な資料も存在します。
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左前のマンションをニ、三階低くした建物が、おそらくこの正面にあり、このあたりが入り口だった模様。
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ちなみに前記パチンコ屋前の標識では2-14-5(当地)となっている。浅草町会の標識には五区~千束2-38とある。後者は古い地番であり、発掘前にはこことされていた。
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ひょうたん池は昭和30年代までは辛うじて残っていたが商業地に埋められた。その名をのこすのが花やしき通り突き当り右のアーケード「ひさご通り」で(むかしはすこし怖い地域だった)、ここを少し行って老舗すき焼き屋手前を左に行くと先程の推定位置に出る。角の店はよく変わるので番地で調べていくと良い。四つ角より少し南、少し「国際通り(現在のビューホテルあたりは寺跡で、永らく松竹の国際劇場があったことからこう呼ばれている)」側が中心部であったようだ。下記ツイートのリンク先動画も参照。
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百美人の広告ほか。
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浅草寺側からの十二階
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〜浅草寺本堂脇。奥山閣から十二階がうっすら見える。
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〜ほぼ同じアングルから。
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〜同じアングル。
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〜浅草公園一帯が桜の名所でひょうたん池際の桜の絵葉書は彩色により咲いてないのに咲いてるように偽って販売されたくらい。
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〜ただの冬の風景に見えますが同じ写真の彩色になると花がわんさか咲いてます。枯れ木に花よ花咲かじいさん。

花屋敷側からの十二階
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〜上階の構造が比較的よく写っています。近かったことがわかる。
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〜彩色写真(横浜写真でしょう)

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〜十二階なき池の端。

その他、ツイッターから〜

2017/8/31浅草十二階跡地・ひょうたん池跡地・瓦礫処理地(朝日弁天池)


十二階幻影(Flickr動画)
十二階幻影20170831_145646浅草.mp4

資料


by r_o_k | 2018-02-12 17:30 | 旅行

鉄飛坂に鉢状穴を探して

体調がすぐれないけど近所ならいけるかなと自由が丘から鉄飛坂経由で東工大まで抜けた。結論、鉄飛坂上の庚申堂にボコボコの庚申塔があったと思ってたのは勘違いだった。むしろ立源寺の門前題目塔(いわゆるヒゲ題目ですが左右のうち左は江戸時代の個人供養塔で右は近世の皆で建立したもの)に疑惑を発見いたしました。立源寺は江戸一ニを争う日蓮宗寺院だった近く碑文谷の法華寺が今風に言えば叩かれて解散・宗派替えさせられ円融寺になったとき、身延山配下に入り今に残る日蓮宗寺院。
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高級住宅街や古い住宅街の中に狭いながら大木をはやかしたお寺として知られます。鉄飛坂(テッピョーズというポルトガル人が住んでいた、だから鍛冶技術が云々はたぶん妄想)の庚申堂は立派な庚申塔こそ堂内に収められ覗くことしかできませんが、狭い敷地に新しい小さな庚申塔が2基移設されており、うち一基はこんな道標も兼ねたものになってます。
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左ハ池上
右ハほりの内

池上は池上本門寺、ほりの内は堀之内妙法寺、後者は法華寺の祖師像を頂いた、共に江戸の二大日蓮宗寺院となっており、立源寺と関係があるのではないかとおもっています。天保年間のもの。ちな
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これは鉢状穴ではないですよね。話を戻して、右の題目塔は土台こそ左と同じですが上は大正時代のもの。穴のようなものはありません。左はたぶん材質は同じなのですが、石碑の根本石の四隅に
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こんなすり鉢状の穴がある。こちらにだけあるのが怪しい。江戸時代のものということです。
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四隅のほかにもうっすらですが2つほど認められました。
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うーむ。
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どうなんでしょうね。四隅に何か立てるための穴かなとも思いましたが、石塔に笠をかけるとか聞いたことないし。
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2月上旬に水ごりをやってます。

このへんはほんと古いものがないなあ。。
by r_o_k | 2018-02-11 20:05 | 不思議

【浅草寺仁王像追記】紙玉仁王と西郷隆盛像+瓜生岩子像(覚書)

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(浅草寺旧仁王門仁王像、戦災焼失)運慶作と噂された。「国際写真情報」s6/2浅草寺大観、国際情報社より
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(スミソニアン・インスティテューションより外国人観光客による旧仁王門(本堂側から)、仁王は本来本堂から向かって見ます。左右が阿吽となります、1903年)
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同じ角度ですが明治初期ごろ。灯籠はなく簾を立て掛けた板屋根の店が見られます。風神雷神像もありましたがそちらは戦火をくぐり閻魔堂に安置されたそうです。仁王門は燃えたあと同じく燃えた経堂から避難していた一切経を改めて納めるよう、今の形に再建されました。

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モース・コレクション「百年前の日本」より1900年頃の仁王

「浅草寺今むかし」金龍山浅草寺より以下〜

江戸時代からの言い伝えによると、仁王尊が「よだれ」をたらしたというので評判になり、子供に仁王さまの股を 疱瘡(天然痘)が軽くすむなどと、その霊験とともにいつも話題に上っていた。なお紙を噛んで丸めたものを投げつけ、それが仁王さまの身体に貼り付くと願いがかなうという俗信もあった。当時の川柳に「また紙を噛むかと仁王にらみつけ」とあり、仁王さまにとってはさぞ迷惑なことであったろう。〜

仁王さんに唾で丸めた紙(力紙ともいう)を投げつける民間信仰は江戸時代から続いたもので、もちろん仁王像を傷めるわけで廃れていって、九州など一部の地域に残るのみとなっています。これについてはネットを調べても結構情報が出てきます。仁王様の力を貰うという意味ですが、赤い色をしていますから魔除け、疱瘡よけの祈願で行われたことは想像にかたくありません。子供に股を潜らせるのも同じ理由でしょう。紙つぶてが貼り付いた仁王の写真は検索すれば出てきますし、鉄腕DASHでも取り上げていたそうですね。その形は疱瘡を想起させます。乾いてぽたりと落ちれば疱瘡も落ちる、ということだったのでしょう。

それが形式化したのが「上野の西郷隆盛像に紙玉を投げつける」習俗です。鼻に当たれば出世するというのです。浅草寺の仁王像はある時期以降網で覆われたようで、上の写真は阿像に少し白い跡が見えますがすでに途絶えていたと思われますが、露座の銅像では避けるわけにもいきません。ネットを調べるとかなりひどく投げつけられた絵葉書が出てきますが、名誉回復した西郷隆盛にそういう行為をなすのは不謹慎で、そこまで酷い写真を絵葉書にするというのはむしろ珍しく、多くはせいぜいこの程度です。
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:関東大震災直後、人探しの貼り紙の間にあいも変わらず紙玉が投げつけられている
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戦前まで行われたとされるのが一般的で、個人的にも戦後の例は聞いたことがありませんが、学生が半ばイタズラで紙玉を投げつけたという新聞記事があるそうです(出典Twitter)。これも含め上野へ上京してきた者が東京見物記念で口で丸めた紙を投げつけた程度のものと言ったほうがいいかもしれません。そこまで強い願掛けがなされていたようには見受けられません。本を見ると数行、よろしくない風景として書かれている程度でした(もっと色々読めば書いてあるのかも)。ちなみに現在も台座の周りは広く囲みがされて近寄れないようになっていますが、これは当初からのもののようです。明治時代の絵葉書には立札が写っているものがあり、ひょっとすると紙を投げるな鳩フンするなと書いてあったのでしょうかね。西郷みたいに紙だらけになりたくない、と言った明治の元勲もいたそうです(ネット情報、検索検索)。
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鹿児島の西郷さん。参考。
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掃除も頻繁にされていたようです。あと、浅草寺に日本のナイチンゲール、喜多方の瓜生岩子刀自坐像もあるのですが、これはもっと新しいのですが、
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紙玉にやられてました。浅草寺の仁王に紙玉が投げられていたのが、こちらに転嫁されたとも読みましたがいずれ推測にすぎないでしょう。今はこの像自体が知られてなさそうです。
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参考。スミソニアン・インスティテューションのコレクションに1903年撮影として観光客の写真が含まれていました。(インターネット公開、パブドメですがクレジットとして書いておきます)
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福島の記念館。
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以上、メモでした。

by r_o_k | 2018-02-10 16:51 | 旅行

アクセスが激減したので意味なくエントリあげます。2018/1-2歳時記

表題のとおりです。たぶんSSL開始日と宣言された日より先にすでにそうなってるぽく、画像付ツイッターまとめが不可能になった(過去記事のツイッター画像も消えてしまいました)ため、追々まとめようと思ってたものもこちらにいちいちエントリあげますが、それはめんどくさいので、とりま、失ったアクセスのためにも無意味にスマホの画像貼ります。今日のところは。(過去記事はリンクは残ってるので仕方なく放置します)

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近所で見つけた鉢状穴をともなう庚申塔(享保十三年銘)
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その近所とはこんなところです(奥沢神社)
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富士嶽神社の富士塚(明治初期)練馬
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その裏にある(焼けて小祠になってしまった)寺にある祠の白狐石。石田三成が豊臣秀吉より伝わるものとして秀頼から関ヶ原にて託された名石だが越後に落ち延びるとき何故か練馬の旅籠に置きっぱなしにして、それを末裔が守り続けていたと言い伝えられる。三成はこの石を置き去りにしなければ捕まらなかった、といって宿場の守り神になっていたが、いつしか寺に預けられ稲荷社として祀られた、とのこと。
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でもお寺、平成のはじめに焼けてしまいました。石も見やすく置かれていたのが祠内に薄暗く、ガラス戸越しにしか見られません。麻布(現在は鈴ヶ森近く磐井神社蔵、外から覗けマス)烏石とともに有名な動物紋様の石で市場に出たら今でもすごいかも。
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大雪。
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多摩川園大山下り(だいせんくだり)滑り台跡、大正末期

とりま。
by r_o_k | 2018-02-10 13:33 | 不思議