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東京失楽園:四谷津の守の瀧、幽霊に潰される(江戸七瀑布追記)

四谷左門町即ち於岩稲荷とは甲州街道はさんで逆方向、新宿歴史博物館ほど近く。荒木町にかつて美濃高須藩は松平摂津守義行の屋敷があり、急峻な凹地に大池を作り作庭していた。それは屋敷の四分の一に達するほどで、池の排水施設として作られた石樋は何百年も経た今も地下で機能しているという。明治維新後に武家屋敷が民間に払い下げられたときにここは風光明媚ということで人々が集いぐるりに店屋が建って名所化。
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明治5年、玉川上水から引いた水を西崖の上から落とし、懸泉とした。高さ四メートル。これを「津の守の滝」と呼んだ。一景のこの浮世絵はまさにその年に描かれたものです。津の守坂志ん瀧(新滝の意味。津の守坂は現存します。現存する小池は滝壺でこの写真の箇所に該当します、後年はかっぱ池と呼ばれました)。
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※同年、「四ツ谷伝馬町新開遊覧写真図」国輝。窪地の上、いまの荒木町公園辺に芝居小屋桐座ができると一気に茶店などが開かれ見世物や料理屋も出て栄えたといいます。

これは修行でも滝行でもなんでもない。「浴瀑」です。健康にどうのこうのという指南もあるそうですが、着ている浴衣は店屋のものでしょう。芝居の真似事をしているのは末広座があったからでしょうか。クーラーのない時代に涼をとる、リゾートだった。
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明治28年9月の風俗画報99号は表紙に松谷さんの津の守の瀧図を掲載し、最も近場で涼をとれる稀な場所として一文紹介されています。サマリーを書くならば、

〜避暑には懸泉。川は汚いし船が危ない。水鬼に憑かれるのは怖い。井戸から水を汲むのはしんどい。海は遠い。そこで江戸っ子が喜んだ四谷津の守邸の懸泉である。今は三井不動産の土地だが市街整備地図には四谷公園とあるから園地化が期待される。明治10年代は繁華な名所だったが既にだんだん荒廃し、今は僅かな雰囲気が残る。ただ西崖の懸泉は変わらない。玉川上水を支える岩の上から2条に別れて落ちる。崖樹天を覆い日光を通さず、むちゃ涼しい。左右に層亭がある。梯子で滝壺へ下りる。飲むこともできる水だ。
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水浴び場の側に策の井(鞭の井)がある(※徳川家康が鷹狩りのさい馬の鞭を洗った伝説からそう呼ばれた(西新宿にもある)、池をそう呼ぶこともある)。北崖に三層の浴楼を作り井戸水を沸かして策の湯とした。今はもうない。食堂や呑み屋はある。
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王子、目黒、轟(※等々力)、十二社など浴瀑場数あれど都心から最も近いのは津の守の瀧。
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〜松谷さんは誇大に描いてしまった。滝上の大岩はこうではない。これでは水浴に向く滝は落とせない。樋口より両条に落下し浴びられるようになっている。〜

最後の絵は松谷さんらしく「絵的にかっこよく描かれた」もので写実ではないのでしょう。一景の絵のほうがこの文章に合いそうです。報知新聞を読むスペースもあったかどうか。
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明治末年頃の本、たとえば「東京案内」を見ても「すっかり景色なし」。滝も竹筒より絹糸のような水が垂れて青息吐息。明治は長かった。写真があるとの話も見ましたが東京名所図会に無ければ無いでしょう。四谷は小さな屋敷ばかりでお岩さんくらいしか名所が無かったとも言われます。

昭和7年の花街の本に津の守の名が出てきますが、これは今もその雰囲気が残る花街としてのもので、避暑地のたぐいではなさげです。この坂地にかなり密集した花街だったようで、断腸亭日乗にも名が出ますが、国会図書館デジタルでも読むことができる「三都花街めぐり」で最盛期を窺い知ることができます。特に高級な三業地であり、庶民の憩いの地ではありませんでした。そこにはこうも書かれています。大正元年頃までは大池があり、西崖に滝があった。津の守の滝といい夏の遊び場だったが夢の如し。さらに、これは有名な話ですが、こんな話も書かれています。

明治33,34年頃、小よしという藝妓が某陸軍中尉と心中するという騒ぎがあった。以後ここに幽霊が出るとうわさになり、それをあてこんだ尾上松鶴が近所にできた末広座へ四谷怪談を出して大当たり。しかし興行中失火により小屋は全焼してしまった。
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これは小よしの幽霊のしわざというより、お岩さんの祟りとして知られた話だと思います。それにしても人工水道から落ちた人工滝に幽霊が出るとは何とも開化なもんです。滝には幽霊が憑き物、十二社も等々力もそんな話があったところですが、津の守の滝が無くなったのはひょっとするとこの噂のせいではないでしょうか。。
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池は小さいながら弁財天とともに現存します。駐車場や古木で面影が無かったところ少し整備して園地化されています。窪地はそのまま歩いて急峻なクレーターを実感させてくれます。

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等々力不動の滝は今もあります。
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勝海舟も浴びた目黒不動の滝は原型通りにあり、水量も確保されています。戦災を受けているのに浮世絵どおりの境内配置には驚かされます。等々力で浴びる人もいますが都内で自然水垢離場というと目黒不動以外には殆どないのではないか。
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江戸七瀑布(都内七瀑布)というのがありました。津の守滝は明治に作られたので含まれていません。王子、等々力、目黒不動も含まれます。こちらは嘉永年間(幕末)修築の氷川の滝(五反田)。目黒不動に近いです。近年に復元されたものでとっくに原型をとどめてませんでした。
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王子名主の滝。人工庭園で明治初期には外国人に大変人気がありました。メインのものだけでも4つあり、これは最大の男滝で岩はほぼ原型を留めています。水をコントロールしていて、オフには枯れてます。
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上野の音羽の滝、王子もうひとつの弁天の滝(金剛寺の境内にあった)は壊滅しています。新宿十二社は明治二十年代に滝、さらに淀橋浄水場により池を失いましたが、現代に人工滝が2つ作られています。もともと十二社の滝も人工だったといいますので、おかしくはないでしょうか。大きいような幕末写真がありますが(ベアト撮影、上掲)最後は等々力の滝状態だったようです。

by r_o_k | 2019-01-30 22:29 | 不思議

(過去日記)夏よさらば~心霊つぶやき総集編

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初代豊国、彩入御伽草「小幡小平次」芝居絵(早稲田大学演劇博物館蔵、別冊太陽より):女房の頸を咥える小平次、水木妖怪画「首かじり」はこのようなところから材を採っていたと思われる。芝居絵なのでこのような演出が実際に行われたのかもしれない。

(過去日記)夏よさらば~心霊つぶやき総集編

今日は取り立ててつぶやいていないので過去震災直前あたりのツイッターからワード検索。途中で病気になって完全に切り替わったところが読みどころです(自分で言うか)。



2011年02月16日(水)

本当に見える人・感覚でわかる人(意識・無意識問わず解釈してる)・見えない人・・・ほとんどは真ん中のパターンかと。幽霊は相手にもよるっていいます。 >あなたは幽霊を見たことはありますか? 大規模3000人アンケート http://getnews.jp/archives/99289

posted at 15:33:38

@kenzphoto 最近15年くらい前の心霊番組を見たんですが、霊能者がずらっと並んでそれぞれ勝手な霊視をするんです。しかし「見えてる」と称する人には明らかに「僅かな手がかりにあてずっぽうを盛ってる」人が多いんですが、中には「完全に当たってしまう」人がいるんですよね。

posted at 16:20:22

2011年09月25日(日)

神も霊も気まぐれに戻る。寄り来るモノだから、入れ替わっているかもしれないけれど、同じようにふたたび祈れば、同じように返してくるようになる。神も霊も自我のないエネルギーのようなものかもしれない。蛇を見たいから蛇に見える。孔雀は蛇を食う。

posted at 23:28:53

2012年05月24日(木)

UMAは見たことがない、といっても八丈島で夜に見た赤黒い裸の子供のようなモノはいわゆるキジムナーやカッパのたぐいだったのだろうか。肉体の存在を感じさせるはっきりしたものだったが、一瞬で走り去ったのと、暗い果樹園で蠢くさまがお化けっぽいので、UMA扱いしちゃいけないな。

posted at 01:01:03

2012年05月29日(火)

大阪の常宿ではよく変なことがあり。寝ていると、壁からずずずとワンピース姿で麦藁を被った少女のような形が付き出してきた。どうしたらいいかわからず、友人を名指しして、女のことならあいつのとこ行け!と叫んだ。消えた。翌朝、目に隈を作った友人。生まれて初めて幽霊を見たという。~怒られた。

posted at 01:22:56

2012年06月24日(日)

それ俗説ですよ。西表島のおばあが90で初めてお化け見たと言ってました RT @: 二十歳までに霊を見なければ一生見ない、というのを聞いて、十代後半はどうか霊に縁がありませんよーに!と祈っていたのを思い出しまし
posted at 22:26:16

海で蛸を採ってたら海上に直立する海坊主を見たそうです RT @: ええ、盲絶対見る事ないなと安心していたのに!!!!(TдT) 

posted at 22:34:43

2012年06月25日(月)

青山は出ますよ。うちの社屋が旧墓地跡にあって、廊下に墓石が据えてあったり怖かったです。 @: 失礼しました。東京だったら青山霊園に行って見たいです。

posted at 09:32:03

2012年08月19日(日)

ほん怖、だいたい見た。今年は霊能者企画とか妖怪スポット企画とか無かったのね。ま、霊能者はトラブル起こしたからもう無いか。生霊の話が凝っていて良かったけど他は食い足りなかった。もっとも、ドラマとしてちゃんと作ってるから「あな知ら」より楽しめる。新耳のドラマといい、カラーが似てるな。

posted at 12:37:50

2012年09月27日(木)

flickerの隅々まで見たけど心霊写真無いわー これだけ無差別大量に撮ってて心霊写真撮れないのもある種の才能 ただ、デジ化してない墓場写真の数々はどうかわからぬ。。

posted at 21:43:00

2012年12月23日(日)

「めちゃ怖2」で小池荘彦さんが道了堂の怪談を発掘したのは自分だと「元祖主張」。この世界、元祖主張多いよね。この人は早くから優れたものを書いてきたけど、ビデオでやたら饒舌になられると、アンビリバボー時代を思い出し見た目との相乗効果で胡散臭く聞こえてしまう(心霊ビデオ評論家談

posted at 01:17:24

2013年01月22日(火)

ツタヤディスカスで心霊ビデオを十数枚借りて(半数はキャンペーンでタダ)見たけど、スポットネタはまずは旅番組として成立しているか、が鍵。現場をぼかされると(最近はほぼ教えない)、どこでもいいんじゃないかと思って冷める。おちゃらけもヘタクソはNG。怪談語りはもう完全に、飽きた。

posted at 09:50:55

2013年04月11日(木)

寝ぼけているとき脳の恐怖を司る領域が活発化する瞬間があるので、寝起きに金縛りにあって幽霊見やすい、てのは合理的らしい。日本人は幽霊が怖いから幽霊、アメリカ人は宇宙人が怖いから宇宙人。むかし私が金縛りあったときライトセーバー見たのは、ジェダイが怖かったからか。シスなのか。そうか。

posted at 11:11:47

2013年07月22日(月)

なぞの青アザ・・・一昨日の鎌倉心霊スポットまんだら堂のあたりで痒いと思ったのだが、今見たらこれだ。おわかりいただけるであろうか。 http://fb.me/103yzEu6i

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posted at 11:58:44

2013年07月25日(木)

座敷童の宿は緑風荘が無くなってからけっこう増えたんですかね。ラジコンが動くのは比較的よくある電磁波のイタズラと聞いたけど、見た目おもしろかった。いや、ロケだけで番組作って欲しい。霊能者もいい具合に胡散臭くていい!昔を思い出す。

posted at 17:06:50

2013年07月26日(金)

法円坂ホラー研究会 はじまた 幽霊画特集!京都の掛け軸から出てきてるやつも出てる これどこだったっけ見たな

posted at 23:35:40

滋賀の徳源院の幽霊画だったか。京都で特別公開とか見た気がするんだけどな、呪われるとか冗談めかして掛けられてた 何処だったか

posted at 23:54:22

2014年03月02日(日)

幻解ミステリーファイルの再放送録画見てたら心霊スポットのくだりで山口さんの名前がアップになっててさすがだ。広坂さんの顔を初めて見た。東京怪談ディテクション大好き。

posted at 12:44:53

<<このあたりで長期療養に入り心境に変化>>

2016年02月04日(木)

ひどい悪夢の末に目を覚まし未だに血圧が上がらない。きもちわるい。見た夢は幽霊に祟られて、これじゃないかと人体標本室から男の首の口の欠けたホルマリン漬けを持ってくるというもの。夢を見ること自体珍しいし、まったくの架空の夢というのも珍しい。

posted at 06:56:01

2016年02月14日(日)

大峯の回峰行と比叡山の回峰行ってかなり印象が異なるけど(クレイジージャーニー見た時混同してしまった)、後者が元祖なのね。共通するのは心霊体験?達成できずに命を落とした霊が現れるとか?霧(ミスト)の中を霊が彷徨い幻の舟が往くという比叡山、一眼一足だの鬼大師角大師だの怖いやね。

posted at 22:02:55

2016年08月22日(月)

黒バックの幽霊画ってカッコイイけど、和室に夜飾ってあったら白抜きの幽霊だけ浮き上がってこわいだろね 若冲の器物怪も黒バックだった 表装にはみ出して描かれた幽霊画も結構あって、京都で見たのはデカかった 怪異伝承あるの多い気する 円朝の応挙幽霊は小さくて端正で、無足の神秘性は余り。。

posted at 22:28:05

2016年09月22日(木)

ここんとこ袋田の滝の写真がやたらアクセスあるが今日は鎌倉の写真が。よく見たら「心霊スポット」タグ付いてる。

posted at 22:47:00

2017年04月12日(水)

原典忘れたが宋代に無顎鬼という幽霊の概念があったなあとぐぐったら自分のサイトしか出てこないのでガセ率の高さに戦慄(図には朝鮮半島のものとあるのがまた)。。卵から生まれる聖人というイメージが江戸にあったなあ、元は日本霊異記臭いと見たら、人を導く菩薩となった尼、かつて顎が無く不遇と。 https://pic.twitter.com/2uV2YU5aGd

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2017年06月24日(土)

心霊が見えるっていう人、けっきょく見た目で選ぶ説

posted at 00:12:50

やっすい心霊ビデオを見せられた感じ。。笑える心霊とか、とりあえず人の死んでない心霊とか、明るい心霊が見たいよ(体調的には)死んでない心霊…?

posted at 00:53:33

2017年10月04日(水)

それはそうと昔のふしぎ発見で、タイかどこかの寺院で恐竜の夢を見た僧侶が掘り起こしたところブラキオサウルス級の化石が出た、とやっていたよ。亀と同じく万年単位で生きる霊もいるのだ。ほら、その大腸菌だって実は霊かも…RT

posted at 20:04:00

2018年07月22日(日)

陸海空に何となく似てる極タウン。というかディレクター世界取材物は大昔流行ったかと。ただ中身は良くて、特に英国幽霊屋敷生活は興味深く見た。やはり怪奇現象は「あの程度」である(但ししっかり起こる)。伝統ある英国だろうが業界人が起こす派手な現象は偽物としっかり暗示されてる。住民も素直。

posted at 23:18:10


by r_o_k | 2018-08-23 15:44 | 不思議

【軍事怪談】死んでも離さない

死せる勇士の戰車操縱

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昭和十ニ年九月、楊行鎭攻略後、呉家宅附近の戦闘で、 敵陣間近に進撃した岡林准尉の指揮する戦車隊は、阿修羅の如く荒れまはつて、敵の野砲陣地を打つ潰して、三百五十メートル手前の味方の陣地ヘ悠々と引きあげて來た。

其の岡林准尉の乗っていた戦車は、藤野清人上等兵が操縦して、甲斐大作一等兵が砲撃してゐたが、甲斐一等兵が重傷を負ったので、其の後は岡林准尉と岡村一等兵が代って砲撃してゐた。そして、味方陣地ヘ帰りついてみると、藤野上等兵もとうに戦死して、戰車のハンドルを握ったま操縦席を離れずに冷たくなっていた。其のエンヂンを見ると、エンヂンも止まっていて、かけてもかけてもかからなかった。エンヂンが止ってゐる上に、操縱者が戦死してゐて、どうして戦車が其處まで動いて來たのか、藤田部隊長以下一同は、

「これは死んだ藤野の霊が操縱して來たのだ」

と云って、何人もそれを疑ふ者がなかった。(田中貢太郎「天狗の面」)

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〜日本怪談実話(現行版)はかなり載せているようなのでこれも(キナ臭いとはいえ話としては相対的に軍国主義的ではないから)収録されたのではないか。旧版持ってるのに覚えてなかったので載せときます。田中貢太郎が何か権力に左右されて軍国物を書き、厭になって郷里に引き揚げた可能性にも思い馳せる。戦後似たような話が採録され創作物に採り入れられたが、源流にこの人がいたことを覚えておいてもらえるとファンとして嬉しい。それにしても田中貢太郎実録はかなりの割合が高知の人間の話で占められてるよな。苗字を見て苦笑。

写真:
読売新聞社「大東亜戦史前編 支那事変実記 第2輯」s17
遊就館展示

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by r_o_k | 2018-07-24 12:38 | 不思議

怪談 乃木将軍の愛馬

乃木將軍の愛馬
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日露の戦争の時、乃木希典将軍と、露将ステッセルが水師營に會見して、旅順開城のことを議した時、ステッセルが水師營の棗の木の下で、乃木将軍に贈った愛馬は、なかなかの逸物で毛並が真白であった。
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其の馬は乃木将軍が亡くなると、島根県選出の某代議士の許に引きとられてゐたが、昭和五年になって其の馬は死んでしまった。ところで昭和七年になって、それをひきとってゐた代議士も亡くなったが、其の代議士の葬送の写真を撮って現像したところで、葬列の中に交って彼の白い馬の姿が鮮に映っていたので、それを見た人びとは奇異の思ひをした。
(田中貢太郎「天狗の面」日本怪談実話に収録されていたと思う)
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有名なステッセルとの「武士道」談に含まれる寿号についての外伝。乃木大将は白馬を兵器とみなし個人的に受け取ることは拒否し、軍馬として受け取り騎乗したといわれる。のち退役となるとこれを愛玩し那須で余生を過ごさせたとあるが異説がある(乃木大将は明治天皇の死にショックを受け医師を糾弾するなどしたうえで殉死し神格化されたから、もう時間は残されておらず、田中貢太郎説に「近い」譲渡話を書いたものは他にもある)。下の写真は明治天皇に従い騎乗した姿で、もっと広角の写真があり馬の顔も見えていた、これは編集して幅を詰めたか、同時別撮りのものだろう(書籍より)。ただし寿號をメインの愛馬とはしておらず、日露戦争直後の銀座凱旋写真では有色の馬に騎乗している。後方に白馬がいるがこれはのちの寿號かもしれない。ネットに公開されている。ちなみに文中白馬は紛れもなくステッセルが贈ろうとしたアラビア馬とされる。小川一真出版部「日露戦役写真帖第14巻」大本営写真班撮影m37-39より。
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〜乃木大将、ドイツ皇帝、ステッセル将軍の有名な写真(書籍)

田中貢太郎は本来勇ましい話を書く人だ。怪談とも何ともカテゴライズせずに軍国調の小話を混ぜている。乃木大将の馬の怪談はこの本に多い写真怪談の中でも異色。他どれも王道の似た話なのが単調だが、逆に同じような話が違う人から聞かれたという点で真実味を増していて、同時に異色の話こそ、創作なのだろうと思う。日本怪談実話の底本のひとつ。元はやはりバラバラの新聞等掲載のものと思われる。いつもながら並べられた小話間の温度差がすごい。
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日露戦争の神軍の話はこの「天狗の面」にもずっしり載っている。鶴が日本軍を率いて飛ぶ話など、かつて大陸侵略論を唱え自分は王になるなど昔の征韓論者をも凌駕するタイプの夢想主義者田中貢太郎は、昭和になると健康悪化と共に過激の見る影もなくなるが、この本は昭和なのに結構攻撃的で黒い。現行本は恐らく問題になるからであろう何本か抜いていると思われる。
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:この有名な肉声録音についてはどこかに書いた。断片的にでも最新のレコード録音機材で時代の声を残して回った親子について。長田幹彦の証言もあるが、どちらかというと東郷元帥の思い出が長い。

by r_o_k | 2018-07-23 17:46 | 不思議

若紫哀話と若紫怪談、浄閑寺にて

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浄閑寺といえば新吉原の投げ込み寺として著名である。

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明治になってやや事情は変わるとはいえ娼妓は年季のあけるまで、即ち楼主に「全ての」借金(事実上買値+全生活費+利息)を返すまでは苦界の身分として、行き倒れ同様に死んだとしても墓石に名の一つも刻まれず、経も詠まれず夜中に墓守りへ幾ばくかの金と引き換えに共同墓穴に放り込んでもらうものだった、といわれる。これを投げ込みといい新吉原だけで3箇所あったと聞いている(西方寺、大音寺)。個別には供養されなかったという。この投げ込みというよろしくない話がいつの時代のどこの寺のものなのか、恐らくやり方の変遷もあり、生前の扱いや行いによって丸裸にし菰で巻いて人目を盗みこっそり門内へ投げ込む無残なこともあったし(人間として祟らぬよう畜生道のものとして扱うためとされる)、一方で浄閑寺等過去帖にはかなり遊女と思われる名前の記載があり、俗にいう変な名前ではなくほぼちゃんとした戒名もあるともいい、格下の宿場女郎ですらそうだが馴染み客のつくような者であれば如意輪観音の石仏一つも立てられたりした。自分で立てたものもあったろう、名のある花魁ともなれば太夫伝説とともにそのへんの侍より立派に供養されもしたが、かなりの少数派である(没後年月が経って何らかの理由で篤く追善供養されたものが残った場合もある)。遊女屋のあった場所の無縁塔に女人墓石が山積みになっていることはざらだが、しかし、新吉原は規模が違う。明があれば倍以上の暗もある。浄閑寺も昔はそれこそ土饅頭に塔婆や線香の立つのみで、地面に骨がちらほら見えていたということである。庶民の墓でも土葬のところはそんなものだった、小塚原のような場所や各地の地獄谷と呼ばれる風葬地には髑髏がころころ転がっていた、というのはともかく、新吉原累計何万体(かなり大袈裟な数かもしれない)の骨とあれば狭いお寺の墓地に土葬したら鮨詰めとなる。そのくらいの風情にもなろうものだろう。とまれ所縁深い永井荷風はそれを哀れんだのである。

「断腸亭日乗」昭和12年6月22日

若紫塚記

女子姓は勝田。名はのふ子。浪華の人。若紫は遊君の号なり。明治三十一年始めて新吉原角海老楼に身を沈む。楼内一の遊妓にて其心も人も優にやさしく全盛双ひなかりしが、不幸にして今とし八月廿四日思はぬ狂客の刃に罹り、廿二歳を一期として非業の死を遂けたるは、哀れにも亦悼ましし。そが亡骸を此地に埋む。法名「紫雲清蓮信女」といふ。茲に有志をしてせめては幽魂を慰めはやと石に刻み若紫塚と名け永く後世を吊ふことと為死ぬ。

墓石には塚ではなく墓とある。
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明治14年生まれで勝田信子という。幼少期に連れてこられ17で遊女となり、通常は衣装代や何やかやと借金を増やされ年季は遠くなっていくものを源氏物語は若紫の名に恥じぬ働きできっかり5年の予定のまま自由の身となる予定だった。その器量は写真からも伺える。これはいつか実物と差し替えるので今は仮掲載にて容赦願いたい。目下2枚しか確認できていない。

(後補)この写真は大正時代のものという話を読んだ。そうすると別人となる。写りが他の花魁道中絵葉書と似て綺麗過ぎる。古い大判写真もあるようだがどうだろうか。大正時代、文才に秀でた名妓稲本楼小紫(若紫に増し非常に多い名前で権八小紫からとっているのであろう紛らわしい、角海老楼に明治前期錦絵にまでなった小紫がいたが別、明治の花魁くらべ一等、人騒がせな稲弁楼小紫とも異なる)によく似た顔の写真があり、衣装や店名が異なるものの、店を移っていた可能性もなきにしもあらず、実際この写真に小紫と書く人もいる。このときほぼ同じ顔ぶれ、道具立てで少なくとも3人の角海老楼在籍花魁写真が入れ換わり撮影されている(花魁道中に前して写真師を呼んだのだ)。いつかソースを調べます。それまで疑問符付き。
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明治も中頃近くなってくると江戸のような全人的な格を求められないようになったと読むが、それでも器量だけではつとまらぬ。ご維新あと同輩とことなり色を避けた西郷隆盛が遂に気に入ったのは稲本楼の若紫だった。肴だといって火鉢より摘み出した炭火をすくっと刺繍の袖で受けメラ燃え焦げるのを笑い飛ばした。機転の利くのも必要だが、こちらの若紫は出の悪くない者とみえて雰囲気があり、優しく上品であったとも伝わる。すでに現代風の美人も多い時代、豪華な和装がよく似合う。大店角海老の看板であり身請け話も多かったが靡かなかった。年季明けて恋仲にあった某と一緒になるとわかると楼をあげて大いに喜び、客も一様に祝福して名残の酒もて送り出す様子だったという。
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だが通り悪魔はいるものである。無理心中するつもりの他の店で袖に振られた男が、気のふれたように匕首懐のままふらっと足を踏み入れてきた。そして禿や男衆の止める隙きもなくたまたま目の前にいた若紫の喉元めがけて匕首を抜きざま突き立てた。一面を血の海にして絶命する若紫と同時に男は刃を己へ向けて無理心中を果たした。年季の明ける5日前のことである。

嫁入り先の籍も貰えず、妓楼預かりの無宿の遊女のまま死んでしまったことを楼主や同僚は非常に残念に思い、馴染みだった客も加えて異例の墓石建立となった。それが現在は浄閑寺墓地へ潜る扉の右脇にある若紫の墓である。今も綺麗に供養されている。明治36年8月24日という、もう20世紀に入っての話である。
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ところでこの有名な哀話に異説を書いた人がいる。元より確からしい話は余り出てきにくい場所だからして、憶測と想像で固めた単なる創作に過ぎない。伝えられている性格とも違う。本人も題名にしているほどである。年代も違っている(明治2年に角海老の名はまだなく、しかし角海老楼の若紫のことには違いない)。怪談は意図的に時期や名前をずらすことがあるので、それはそうと思っておいて、書き起こした。明治42年4月。事件からさほど経ってない。

三昧道人「随筆 真偽不保証」

若紫

「明治二年頃の事である、吉原の角海老に若紫と云ふ娼妓があったさうだ。


其頃は吉原繁盛の時代であるし、此花魁容貌はヅントよし、年も若く、大の才物と来て居るので、楼中肩を比べる者もない全盛であったが、少し困る事には気に向かぬ客をば、容赦もなく振る、楼主も気を揉んで時時意見を加ヘるが、意見をすると、尚更意地にかかって振ると云ふ有様であるので、頗る持てあまし者であった。


此花魁の許へ本所辺から、坊主客が一人馴染で来たが、余り繁々は来ない。併し来ると相応に金をつかって、坊主に似合はず器用な遊びをするので、内外の者の受けもよく、殊に此坊さんが来ると、何故か花魁の機嫌がよく、其当座暫くは、客を振ると云ふ事もないので、楼主は殊の外有難がって、成らう事なら此坊さんに度々来て、居続けでもして貰ひ度いと願ふのであるが、さう誂へ通りには来ない。

元より年配の和尚ではあり、無論熱くなって通ふといふ譯でないが、来るとなかなか能く世話をやいて、頼みさへすれば、相応に利益にも成って呉れる、勿論色恋ではあるまいが、若紫の方でも、力に思って居たものであらう。


或時通って来ていふには己は拠ない用事が出来て、一年計り京都へ行く、暫くは来られないからといふので、其夜は殊更金を遣って、快よく遊んで帰ったが、五六日過ぎると、若紫の新造おなみといふ女の處へ箱根から手紙をよこした、其の文面は、若紫は剣難の相がある、彼にそれと知らせては成らぬが、其方の心で、気を注て遣ってくれといふのであった。


此おなみは二十二三、まだ年若の女であったが、花魁に対しては、鏡山のおはつ其処退けと云ふ極めて忠義者であるので、和尚も殊の外目をかけて、二なきものに愛して居たのである。


おなみは其の文を一読して、愕然として驚いた、決してよい加減の事を云って寄越す人ではない、たしかに見る所があって、心附けて下すったのに相違はないが、迂闊に人に相談はならず、花魁へは尚話されぬ、ハテ何としたものであらう、と気が気ではないが、予防の仕方もないので唯一日も早く本所の旦那が帰って来て下さればよいが、と神仏を念じて待って居たなれど、何にしろ一年は帰らぬと云ったのであるから、さう直ぐには帰って来ない、手紙でも出して、孤衷を訴へ様かと思っても見たが、行先きを聞いて置かなかったので夫れもならず、心一つを傷めるばかり、おなみは困り果てて居た。


すると其夏の事である、和尚の云ったに違わず、若紫花魁ゆくりなくも剣難にかかって、非命の最期を遂げた、是より先き花魁のもとへ、本町辺の呉服店の手代が通って居たが、遣い過ぎの結果、此節流行る無理心中だ。


何處から持って来たか、来国光の短刀で若紫の喉元を一刀突たが、花魁なかなか気丈なもので、手を負ひながら、男を剥退けて廊下へ駆け出す、男は最う是までと、我と我が咽を刺貫いて、無残の死を遂げたと云ふ紋切型であるが、其折の若紫の衣裳が好い。


白縮緬へ墨書に雲を描いた寝衣を着て、鴇色縮緬のシゴキをしめ、髪は洗い髪の投島田で、遅れ毛を用捨も無く顔に乱しかけ、白絖のハンケチで傷口を押へて、梯子段の上まで駆け出したが、弱ったと見えて、片手で傷口を押へたまま、片手で欄干へ捉って、両膝ついて休んで居ると、斯くとは知らず、下からおなみが登って来た。


これを見ると、急に気が緩んだと見えて、傷口を押へた手がゆるむ、鮮血颯っと迸って、其のまま冥途へ旅立した、正に是三寸息あれば千般に用い、一日無常なれば万事休すだ、おなみは肝を潰して、梯子から下へ転げ落ちた。


随分利益に成った女ではあるし、十九や二十で不慮の死を遂げたのであるから、楼主も殊の外不憫がって、己が菩提所へ手厚く葬送をして、跡をも念比に吊つてとらせたが、浮かばれないものと見えて、其後おなみの所へ花魁が来る、何と云って来るかといふに、私はあんな男と死んで、心外で溜らないから、何うかして此の鬱憤を晴らして貰ひたい、それでないと、私は成仏出来ないと云ふのである。

一夜二夜は、おなみも思ひ寝の夢と思って、気にも止めずに過したが、余り続けて来るので気になって来た、人に話すと、それはお前さん神経のせいだよ、と排斥されて仕舞ふのである、本人にはどうも神経とは思はれない、それが果じて気病となる、心だての善い女であるから、楼主も不憫がって、いろいろ医薬を勧めたが、おなみの云ふには、私は花魁と姉妹の約束をしたのでありますから、寧そ冥途へ行って、花魁の助太刀をしませう、娑婆に居たのでは、何うにかして上げ様と思っても、仕様がありませんからと云って、其まま次第弱りに弱って、若紫の死後二月計り置いて、此稀代の忠義者は、トウトウ花魁の跡を慕って、冥途へ赴いたので、ヤレヤレ不憫なものだ、彼の所願通り、若紫と一つに埋て遣るがよいと云って、若紫の塚へ合葬した、生きては室を同うし死しては壙を偕にする、例稀なる主従であった。


其の跡へ例の和尚が帰って来た、早速角海老へ遣って来て、若紫は何うしたと問ふと、遣手若者口を揃へて、云々だと云ふ、おなみはと問ふと、それも云々だといふ、前代未聞の事でござんす、と舌を揮って居るので、和尚も今更の様に残念がったが、併し兼て期して居たと見えて、左程には驚かない。とはいへ己の帰るまでは、何うかして活かして置きたいと思ったに、残念な事をした、何にしても残り多いから、彼の元の部屋で、元の通りにいっぱい飲まうと云ふと、あの部屋は其後閉切って、一切お客を入れません、と云ふにも構はず、掃除をさせて其處へ這入り、酒肴を取寄せて、遣手のおさよを始め、楼中の者を誰彼となく呼び上げて、若紫の在りし時に少しも違わず快く酒を飲みかけた、酒酣なるに及んで、自から出るは亡き花魁の噂である、朋輩女郎の中には泣出す者すらあった、和尚の云ふには、


「若紫は居るよ、おなみも居る、ソレさよの側に居る、
「ヒエッ、
と云って遣手は飛上った、
「へ、御戯言を、
と若者の喜助が云ふと、
「イヤ戯言ではない、真個に其處に居るよ、若紫は白縮緬に墨絵の雲を描いた単衣を着て、何だか桃色の様なシゴキをしめ、髪を島田に結って、白ハンケチで咽の傷口を押へて居る、おなみは藍微塵の袷を着て居るよ、


と云はれて、一座皆慄として身の毛をよだたせた、二人の死際当時の服装を、和尚が知って居やう筈はないのに、さながら見る通り指したのであるから、凡夫の目には見えぬけれども、和尚の目には、亡き二人が此席に列つて居るが、ありありと見えるのであらう、是は容易ならぬ事と犇めいて、気の弱い女連中は、逃げ出すもあれば、早く楼主へも此噂が聞えて、楼主も大きに驚き、早速罷出て和尚様に拝謁致し、何卒二人の者の妄執の晴れまする様、御方便もあらばと願ふと、


「宜しい、そんならこれを書いて遣るから、掛物に仕立て、絶えず此部屋へかけて置くが能い、
と云って筆硯を取寄せて、雪白の鵞箋紙全紙へ書いて呉れたのは、


莫言春色如流水 花笑鳥歌二十春
一夜清風吹不絶 山頭初月似眉新


其後は和尚も来ず、幽霊を見た者も無い、寺は箕輪の浄閑寺、浮いた話ではない。」


~幽霊だけに。旧仮名等ランダムに現代化などしておりますので全部が原文通りではありません。

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〜宿場女郎図、月岡芳年(圓朝コレクション)


by r_o_k | 2018-07-22 13:06 | 不思議

経を誦む舌

経を誦む舌

南斉は武帝の御世、東山(江蘇省)に住むある男
が土を掘っていると、妙なものが出てきた。形は両の唇に似て、そのあいだに鮮かな紅色をした舌がある。このことが上奏され、みかどより広く僧俗に下問があったとき、沙門の法尚が言うには、

「これは生前に法華の経文を誦し奉っておりました人が、死んでも不壊の姿をあらわしたものでございます。法華経をよむこと千遍に満つれば、その功徳はこうして顕われると申します」

ということであった。

そこで、法華経をつねづね持誦している人々をあつめ、くだんのものをとりかこんで経をとなえさせたところ、最初のひと声をとなえたとたんに、唇と舌とがうごきだした。このありさまを目にした人々は、さすがに身の毛のよだつ思いをしたという。この次第を奏聞したところ、みことのりがあって、唇と舌とを石棺の中におさめられた。

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〜「旌異記」隋 侯白 高橋信一郎訳 東洋文庫


by r_o_k | 2018-04-27 20:40 | 不思議

紅卍教、田中河内介怪談拾遺

中國の紅卍敎

ーここに到って、吳さんは,兩手をあげて、ウキウキ踊る恰好をして見せた。これも放射能のナセルワザかもしれない。
今日の科學者は、現在の科學で證明されないものは、みなインチキ呼わりをします。飛んでもない思い上りだと思いますね。今日證明されなくても,明日は證明されるかも知れない。そう考えるのが、本當に科學的なのです。事實,人類の知識なんてものは…。
人間のタマシイの放射能は、具體的にやって下さいよ。
この調子では、私が、放射能敎の敎祖にでもなると、吳さんは早速信者になってくれそうである。これから、話は中國の紅卍敎のことになって、呉さんはその神秘性に就て詳しく語った。
二人の者が、T字形のコックリさんみたいなもの(フーチと稱す)を、兩方から支えていると、その足の方が砂の上に、天下の名文を書く、それも一時間三千字という速さであるという話など出る。四百字詰の原稿用紙にして七枚半だから大した速力である。これも何者かの靈から發する放射能が書かせると思えば、アリソウナコトになる。
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さて、この対談の席は、午後三時頃から御馳走が出て、六人の客が參加した。 一座は八名と相成る。私の組が、東日學藝部記者,漫畫家,寫眞班員と私の四人。先方が和田三造畫伯·日置昌一氏,この邸の御主人と吳さんの四人。畫伯の名は讀者諸君も萬御承知、日置氏は史學者で例の平凡社版「國史大年表」の著者である。
時に映畫は見られますか?
妹が好きですが、私はあまり見ませんです。每日會館の下で、文化映畫をやっている時、よく行きました。あすこは、いつも空いていたからよろしいのです。人混みが嫌いだもんですから。
ー映画の話から、私は龜井文夫監督「にはと
り」撮影中に起った、不可思議極まる體驗談を始めた。それは、播磨灘で慘殺された、田中河內之介父子に携わる怪異談で、いろいろと無氣味な出來ごとを語った末に、私が倒殿場の町で買った「田中河内之介」という書物に關する放射能的奇々怪々談をした。
「いや、その本なら私が著者です。」
と、日置氏が云ったので、一座のもの皆ゾッとするものを感じ顏見合せた。これは愈々、心靈放射能說を裏書きするような現像である。

この時、既に歸らねばならない時間となったの
で、引き止められるのを固辭して、外へ出る。玄関脇の紅梅は今が盛りである。私たちの木炭自動車が、長い坂を下りきるまで、吳さんは門前に立って見送ってくれた。

世問には、彼を狂人扱いにする者もあるようだ
が、決してそんなことはない。ただ,常人ではな
いだけだ。先日某誌から新九段吳清源に何か希望することを書けというハガキ回答を求められたので、「どうか遠慮なく強くなって下さい」と書いて返送した。

〜徳川夢声「同行二人」呉清源の巻、前記事参照
OCRソフトによる

by r_o_k | 2018-04-07 12:45 | 不思議

冥府の正体〜戦前の琉球怪談(写真追加)

昭和初めの本に琉球怪談があった。うろ覚えの聞き書きだという。〜

夜半、大肝な若者達が墓地に集まって、肝試しをやるといふやうなことから、中で最も强い男が、より掛ってゐた墓の中から髦を摑まれてゐるので、身動きが出來ないと打明けると、外の連中が驚いてその場を逃げ去ってしまふ。
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唯一人あとに殘つた若者は、よん所なく新仏のいふことを聞いて墓にはひる。此のへん彼の地の墓の様子がよく分らぬので確かり受取れないが、何でも幽靈を助けたと言ふよりは、墓の中で蘇生した娘を助け出して、その家に送り届けたが、その緣でニ人が夫婦になる。新枕の夜、新婦が自分の冥府で過した時のこと、卽ち、墓の中であった事柄を一切聞かないやうにと男に約束させる。それならば女房にならうと言ふやうなことだったと思ふ。ところが程經て日數がたつに連れ、男は約定の一件が氣に掛かるものか、冥府でのことを聞きたがり、約束を破棄して何でも聞かせろと毎夜のやうに妻に迫るので、妻は溜息もろとも、「仕方がないからそれではお話するが,誰にも言って貰っては困る。」と念を押し、夫の耳許に口を寄せて、

「実は冥府のことは真くらだった。」

〜類話は内地にもあるものだが、オチの空かしはいかにも沖縄ふうだ。琉球出身の人の語ったことだそうである。

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長尾豊「伝説民話考」六文館s7より

OCRアプリ使用
絵葉書彩色:ニューラルネットワークによる自動色付けに暖色系加工したもの
写真:多良間島

by r_o_k | 2018-04-07 00:14 | 不思議

20世紀大地震の予言者...

20世紀大地震の予言者
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「『日本に大地震がおこる。それは一九五七年九月六日である。銘記せよ!」

と、一九五六年の秋、恐るべき天災の襲来を予言した男がある。何しろ世界的に有名な地震国日本としては、うす気味のわるい話である。

占師が何をいうかといえばそれまでであるが、かならずしも笑ってすまされない事実がいろいろある。その一つは大正十二年九年一日の関東大地震がそれである。関東大地震を予言した男は小玉呑象という易者である。小玉呑象は大正十二年一月十五日、華族会館でこの恐るべき大天災の襲来を予言して、見事に適中せしめている。

小玉吞象の予言に有名なそのときの卦は、「火天大有」すなわち、火天大いに有り、と出て、夏に大地震があるといったのである。算木を図解すればわかるが、震央は東京を中心とする関東一円を示しているのである。

小玉呑象という易者は、どれだけの易学を修めていたひとか寡聞にして知らないが、彼の「地震の予知」についての経験や知識は、なかなか興味ぶかい。小玉象呑は、彼の経験上の方法として、地震の予知には星を見ることを第一にあげてい
一つの星をつねに観測して、その位置と光り具合をおぼえておく。ところが地震のおこる前になると、その星の位置が低く見えて、異常な光りかたをするというのである。

次は雷である。雷の多い年は地震を警戒しなければいけないといっている。俗に、雷の多い年は豊作だと称しているが、これは大地震の生気が天に昇って雷鳴となるのだという。これは、陰陽の電気が、電位差をおこして雷となると説明している。関東大震災の年は、八月二十四日から一週間にわたって毎日雷鳴がとどろいた記録がある。その慣鳴もニ時間から三時間もつづいているのである。

また、暖冬が二年つづき、豊作がつづくと大地に熱気をおびて大地震がおこるともいっている。これを適用して占星師レディの予言を考えてみると、一九五五、五六年とつづく神武以来の大豊作に日本はめぐまれている。また、暖冬の異変がつづいているのも、近年のいちじるしい傾向で誰もが知っていることである。

ところで、ナマズが地震と関係があると昔からいい伝えられている。今日では道なる俗説として片付けているが、科学的根拠があるとして研究している学者もある。

小玉呑象は、ナマズについて易者らしい説をのべている。ナマズはメスばかりで、オスがいない。ウナギはオスばかりでメスがいない。ナマズは陰であり、ウナギは陽の魚だというのである。この陰陽のナマズとウナギは繁殖のために交接する。そしてナマズは水底に潜んでいるので地震のおこる前に電流をかんじるのだという。

安政二年の大地震のときは、京橋三十軒堀から江戸川にかけておびただしいナマズが浮びあがった記録がある。関東大地震のときは六十万のナマズが相模川その他の川から浮んで、相模灘に流れた記録がある。

いずれにしても、易者小玉呑象は、「火天大有」の卦をたてて、大正十二年一月十五日、華族会館で堂々と次のように発表した。信ずるものは大いに恐れ、信ぜざるものは大いに嘲笑したものである。発表の予言はこうである。

「大有は大いなるものあるの意にして、震動多し。ことに海中と火山脈とに起因するもの、もっともその影響を受け、夏時、西南の分野、ことに驚き多し」

幸か不幸か、その予言は適中して、九月一日の大地震が襲来して、大東京は一望焼け野原となって全滅したのである。いまにしておもえば恐るべき予言であった。」

出典:松岡照夫「日本の怪奇」大陸書房s44
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どんな手段であっても当たればとりあえず、評価はされるだろうが、五十年代に果たして地震は、起きましたかね。


Textスキャナ(androidアプリ)試用

by r_o_k | 2018-04-05 09:50 | 不思議

鉄飛坂に鉢状穴を探して

体調がすぐれないけど近所ならいけるかなと自由が丘から鉄飛坂経由で東工大まで抜けた。結論、鉄飛坂上の庚申堂にボコボコの庚申塔があったと思ってたのは勘違いだった。むしろ立源寺の門前題目塔(いわゆるヒゲ題目ですが左右のうち左は江戸時代の個人供養塔で右は近世の皆で建立したもの)に疑惑を発見いたしました。立源寺は江戸一ニを争う日蓮宗寺院だった近く碑文谷の法華寺が今風に言えば叩かれて解散・宗派替えさせられ円融寺になったとき、身延山配下に入り今に残る日蓮宗寺院。
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高級住宅街や古い住宅街の中に狭いながら大木をはやかしたお寺として知られます。鉄飛坂(テッピョーズというポルトガル人が住んでいた、だから鍛冶技術が云々はたぶん妄想)の庚申堂は立派な庚申塔こそ堂内に収められ覗くことしかできませんが、狭い敷地に新しい小さな庚申塔が2基移設されており、うち一基はこんな道標も兼ねたものになってます。
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左ハ池上
右ハほりの内

池上は池上本門寺、ほりの内は堀之内妙法寺、後者は法華寺の祖師像を頂いた、共に江戸の二大日蓮宗寺院となっており、立源寺と関係があるのではないかとおもっています。天保年間のもの。ちな
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これは鉢状穴ではないですよね。話を戻して、右の題目塔は土台こそ左と同じですが上は大正時代のもの。穴のようなものはありません。左はたぶん材質は同じなのですが、石碑の根本石の四隅に
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こんなすり鉢状の穴がある。こちらにだけあるのが怪しい。江戸時代のものということです。
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四隅のほかにもうっすらですが2つほど認められました。
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うーむ。
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どうなんでしょうね。四隅に何か立てるための穴かなとも思いましたが、石塔に笠をかけるとか聞いたことないし。
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2月上旬に水ごりをやってます。

このへんはほんと古いものがないなあ。。
by r_o_k | 2018-02-11 20:05 | 不思議