カテゴリ:怪物図録( 194 )

怪物図録:沖縄写真書込系:アカマタ、ミルク洞窟の赤牛、識名坂の遺念火、焼金、アカカナジャー他

怪物図録(写真書込)2:沖縄

アカマタ、クロマタ、シロマタ
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八重山特有の来訪神で豊年祭の二日目に現れる。アカマタ、クロマタの男女もしくは子親の二人組、原型の西表島古見では後者に別の子のシロマタが加わる。猛々しい仮面に木の葉を纏い頭に稲穂、浜辺に現れると豊年、現れないと良くないとされた。山で行方不明になった子が蘇り山から来る神となったともいう。すっかり現れなくなってのち村人がその役を担うようになったのが今の祭であり、しきたりによって二人は御嶽より浜に出て祭を始め、石垣島宮良のように特定の家々を回るようなことをするらしいが、大元の世持神(古見での呼称)は集落に寄らず近くの御嶽まで来て戻ってしまう(形を取る)。理由は不明。そもそも古見は3つの集落が競艇を行うなど賑やかに行っていたが統廃合によりこの祭のみ残っている。石垣島、小浜島、新城島(パナリのうち上地島)、そして西表島の特定集落に残る祭祀だが、場所により完全秘祭とされ、少なくとも物見観光や撮影取材は激しく威圧的に禁じられている。パナリ(上地島)と西表島はかつて暴力的な話も伝わるが、秘密ということで如何わしい噂をたてられたことも理由にはあるようだ。穏やかな石垣島でさえ集落外の者は行動を制限される。恐らく普段は殆ど住民のいない上地島(西表島大原から近いためそちらに住む人もいるが多くは石垣島等に常在)が最も有名で盛況であり、信仰装置も綺麗に整備管理されている。かなり昔にタブロイド紙カメラマンがスクープ写真を載せ非常に問題となり、ぼかしのないものはネットからもほとんど消し去られている。ちなみに石原慎太郎の「秘祭」がここのことと言われたために、奇祭イメージを植え付けられたのである。鹿児島県甑島の隠れキリシタン集落も通俗小説で差別的呼称とイメージを植え付けられたが、それの現代版のような形だ。
念の為、この図は敢えて似せていない(一応イメージはシロマタ(白マタ)、実際の扮装とも違えているのはこれは神に似せた住民ではなく「元の神」を想定したからです)。もっと巨大で猛っているようだ。氏子に相当する家を訪れる様子はナマハゲという比喩もなされる。石垣島は平場の村落の中を旗を立てて練り歩き、ジャングルの奥から現れまた奥にて何かを行うといわれる上地島や西表島のものと姿は似るも、異なるイメージである。また神によって形が違う所もある。小浜島は地下から現れるとされ宮古島のパーントゥのようで、あまり知られてもおらず特に他とは違うイメージがある。写真の背景に使ったのは新城島は下地島(パナリの片割れ)の写真で、集落は消滅し元島民が時折祀りにくるだけだが、ここでも赤マタ神事は行われていた(この御嶽ではない)。来訪神なのでニライカナイ信仰からくる、つまり穴の中や海の向こうから現れる「てい」をとるが、目的と名称以外に、各種祭祀の呼び名ややり方は4箇所で全く異なるようだ。言わずと知れた伝説の秘祭は上地島だが、下地島とは違い殆どの元島民とその家族、仲間が船会社より出る島民限定臨時便でみっしり集まり賑わう(普段も通常便は無く、寄る船であっても島民の紹介が無いと舟券を売らないため宿の無い現在、日帰りツアーで往復するしかない)。現れる神も4神と最も多く、学者が僅かに入り込んで取材してはいるが、直接的な表現を避けている。憶測を呼ぶところだ。外国人まで訪れ、御嶽に狼藉を働いたと聞いたのもかなり前だ。昔はネットにレポートを書く者までいた。宿が無くなった理由かもしれない。
秘祭とされるのは祖先からの伝承を厳しく護るためというのが第一と思う。琉球王府による宗教弾圧からの秘密結社化が指摘されてはいるが現代でも続くのはその頃からの伝統、というわけでもなさそうで純粋な先祖伝来の決めごとを護ろうとする頑なさを感じる。祭は観光化したら観光ファーストになる、宮古島のパーントゥ神事然り。上地島も近年は友人ということにして一部元島民がかなり部外者を入れていると聞いた(逆に期待されるようなオカルト的なことや猟奇的なことは無いということでもあろう)。録音撮影写生は論外だが。
かつて上地島は祭を守るために暴力も辞さず、当日は酒も煽って危険な空気になることもあり、奇怪な噂も生んだし想像もされた。私は考古学者が前方後円墳を見つけて報告しようとしたところ崖から突き落とされ行方不明になったと数十年前聞いた。上地島に泊まろうとしたら西表島大原から来る元島民の民宿が引き払ってしまい渡ることができず断念した(当時。もっと前はヤマハリゾートが宿と展望台を整備していたが撤退廃墟になっている)。いっぽう、個人所有で昔は牧場であり(サイロが黒島からも見える)ワケアリの人や稼ぎたい人が宿舎に泊まって営まれていたが、今はそれすらない下地島がどうだったのか、、その寂しさをこめて筆を置く。


ミルク洞窟の赤牛

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宮古群島下地島の通り池近くミルク洞窟又はプトゥキ洞窟(仏形石筍が2つある)。ここは竜宮神がおり湧水を飲むなら褒めなければならない。古い木泊村に敵兵が来た時、小さな赤牛が飛び出て顎髭を掴んだ全員を金縛りにし洞窟に吸い込んだ。百年前、洞窟前に座る赤牛を捕まえ食べてしまった者は、皆伝染病で死んだ。 (続・ぴるます話、佐渡山安公、かたりべ出版h3)

調べたが資料が出てこない。通り池は海中洞窟を持つため脇の浅瀬から望める場所にあるだろうか。伊良部島に同名の洞窟(御嶽)が砂浜に面してあり崇敬を集めている。小さなミロク洞窟(御嶽)という所もある。写し方が違うだけで同一かも。前掲写真は近くの鍋底。全国の龍が集まり出ると言う人がいた。

木泊村は今の佐和田にあったという極めて古い最初の村落とされ、近世前まで遡るかもしれない(近世後期には明和の大津波による村落の消滅伝承(これも痕跡がないので疑問符付きだそうだが)が帯岩〜通り池辺に存在)。青の洞窟の断崖の先に船を隠せる大洞窟があり、二手の右側、龍穴は拝所で立入禁止、湧水があり飲める。近くに仏像のような石筍が3本並ぶ洞窟もあり、話には近いが場所が違う(フェイクの可能性を加味しても船でしか行けない場所ではない)。ここは砲弾がいくつか散乱し戦跡の一つと思われる。上にはトーチカ跡の穴もあるという。

赤牛は水神として全国的に聞かれる話で妙にリアルな生き物と描かれることもある。何か暗示しているのか。文字通り赤いわけではないのかもしれない。単なる主、暴れる怪物、いろいろ。ふしぎ。

焼金
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1952年頃宮古群島の或る御嶽の山に深夜三人の男が通り掛かると青白い光が渦を巻き何かが山の様に舞っている。戦中のお札だ!となり我先に拾う。朝方見ると冥銭の燃えかす。一人はムヌスに伺い絶対受け取れないと豚を潰し命乞い願いした。残り二人は迷信とし那覇へ仕入に出たがそのまま遭難したという。

ムヌス=物知り=ユタ、命乞い願い=ンヌツブーニガイ(まだあの世へ連れてかないでくれという豚一頭焼いて供える大掛かりな儀式)、細部省略しています。冥銭はウチカビ(打紙)のことでここでは焼紙と呼んでいる。あの世への献上品として積むこともある。地獄の沙汰も金次第。(ぴるます話、佐渡山安公h5)

   写真は宮古島大和井。

識名坂の遺念火

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写真が皆無だったので新聞使用すいません💧識名坂の遺念火。首里からの金城町の下り坂をおりて向かい側の上りの急坂。ここは古い真珠道という石畳の一部だった(最近発掘されている)。昔仲睦まじい夫婦が商売をして身を立てていた。その幸せな様子を妬んだ者が男に妻の不貞を吹き込む。嘆いた男は坂下の識名川に身を投げた。妻は嘆きあとを追った。程なく識名坂を川に向かう2つの人魂が見えるようになった。これを遺念火と呼んだ。遺念火じたいは火の玉の一般名詞。

シノーリ
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久米三十六姓の血を引く或る家に戦前から憑いている、黒い石炭のような塊。ガジュマルと、離れにいるが人に憑くと祓うとき口から飛び出ることもある。不幸に伴い出るときもあり、何でもないときに頭上に現れ手足が生えて逃げる姿も目撃された。大陸から連れてきたといい、キジムナーではない。謎の多い半動物。呼び名は人により少しブレがあるらしい。強いて言えば大根のような黒いタール状の塊の目撃が他所で報告されている。〜小原猛「沖縄の怖い話弐」

久米村はいまの那覇中心部あたり。継続的に琉球へ移住し商売した中国南部の人々を総称して三十六姓といい、どの姓かは検索してみれば出るが今もその姓であるとは限らんです。旧辻原墓地の中心になっていたとも。三十六歌仙のように語呂の良い数に過ぎず「たくさん」の意味。
写真は久米島

炙煩(あぶりわずらい)
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球陽に載っている古い怪異で、粟国島の荒れ野に紅い火の玉が目撃されることがあった。以降、人や家畜が次々と病に倒れ亡くなった。原因不明のまま、あぶりわずらい、という名前のみが残る。疫神ともとれるが、「炙り」という言葉が気になる。UFO目撃談に放射線障害を伴うものがあるのだ。。粟国島の風景から想像される。

アカカナジャー

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伊平屋島でいうキジムナー。砂州で繋がった野甫島ではフィーフィーといい洞窟に住み夜、海で光りながら魚をとるなどいうが、タコ嫌い屁嫌いなど典型的な特性も備えている。アカカナジャーは赤い髪というような呼び名からしてももっとキジムナー的で対岸の沖縄本島の本部など、キジムナー(方言多数)の源流的な地域に近いことから古い形が残っているかもしれない。伊平屋島は山深くハブもおり、まだどこかのガマにひそんでいるかもしれない(琉球石灰岩の島ではないから呼び方はガマでいいのかわかんない)。

ヒトシレズコンナトコロニ
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夜の公園で飲んでいると転がってくるものがあった。「人知れず、こんなところに」しわがれた声の主は女の生首が2つ。驚き逃げ出すも古墓のある小山に来て酔い潰れてしまう。夜明け前に目を開けると、周囲に生首が犇めいている。正気を失い警察に保護されたが、警察は生首の喋った言葉を聞き取るとそれきり黙った。
小原猛さん「シマクサラシの夜」h30より

辻原墓地の幽霊

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那覇。今は歓楽街となっている辻原にあった有名な辻原墓地。波上宮も近い鍾乳崖べりに、中世より築かれ始めた一大古墓ゾーンで1700基を越える多様な墓が見られることから戦前はペリーを含む外地の人間にも、海から陸から興味深く観察された。王族墓もあったといい人気のないにも関わらず不気味な話はなく、シーミーのときは賑わった。大きな墓が多かったため戦後区画整理の対象となり、石材は埋め立てなどに使われ、墓の機能自体は識名へと移された。その頃より墓地跡に幽霊の噂がたったという。戦後の大変な時期の開発とはいえ今なら文化財としても重要なものであったはずで、歓楽街にしたのも墓地を鎮める意味があったのかもしれない。子孫のいない古墓の骨は密かに焼かれ粉砕され肥料にされたり、結構そういうことは多いようで、いつのまにかなくなっている墓というのはあるが、ここのものも全部が全部きちんと移されたのかどうか、移されなかった者が迷い出たのかもしれない。話によれば石材は石塀に転用した例もあるという(これはよくある話で寺院の塀に角柱墓など一般的)。


シマクサラシの夜

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新しい写真だとスマホアプリで書くのしんどかった。シマクサラシ民話自体とは別の小原猛さん「シマクサラシの夜」より表題作から。何者かの瘴気に寄り集まってきた者たちの行為が、疫病除儀式を契機に寧ろその力を増すという不条理性、実は内側にいた、本人鎮まっても他の寄り来た者たちは…という後味。


仲西ヘーイ

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場所が違う&長さが違う&石橋じゃない&干潟じゃない&要素不足&手抜きとかゆうな!資料がなかったのと仮アップじゃ(潮渡橋の仲西ヘーイ) いくつか話があるようだが単純に言うとかつて那覇の大きな干潟をのぞむところにあった橋(橋の名前と川は現存)で仲西を呼ばわると異界へ連れ去られるという。付帯して民話や妖怪話が絡むことがある。https://pic.twitter.com/hG5YlNHuXe

よしやチルー
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手の届く場所にある資料が貧弱だったので別件で。よしやチルーさん。19にして琉歌の名手で知られた辻の類尾。想い人あるにも関わらず身請けされそうになり自殺してしまう。その骨を故郷へ運ぶ若衆が休憩のため藁の袋を路傍に掛ける度、歌を詠む声が響き人々を驚かした。埋葬後来た楼主へは恨歌を詠んだ https://pic.twitter.com/qLu7Ddu3vS

耳切坊主
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写真に書き込むのおもしろいんだけど、基本的にスマホ(むかしはガラケー)で無理して書くので、今見ると見苦しすぎるのも散見される。編集失敗するものもある。消えてしまったよ。なのでこれでおしまい。場所が違うとかゆうな。耳切坊主。黒金座主という悪僧が耳を切られて殺されたものが、屋敷の角に立つという。 https://pic.twitter.com/vzUI14cfYw

真玉橋の逆立ち幽霊

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遠景が多くて苦労する。。真玉橋の逆立ち幽霊。石橋の人柱伝説はヤマトの伝承にみられるもので、その一つの芝居を異化輸入したとも言われるが、原型の話は当地にあったのでは。神女が自分のお告げで埋められる因果。逆立ちは冥界を向いて立つ幽的の暗示か。戦前の橋は戦争で失われたが一部発掘された。 逆立ち幽霊は他の土地にもいくつも言い伝えがあり、筋書きにも姿にも幅があるのはやはりまた別の芝居が元になっているせいとも思われる。那覇のど真ん中を通っていた真嘉比道(マカンミチ)の逆立ち幽霊は類型的な話を組み合わせた芝居が元と思われるが元々松島中学校から古島の土手途中のデイゴの木の下に出る逆立ち幽霊の噂を採用したとも。一つ墓のいわゆる飴買い幽霊も逆立ちである。鼻を削いだ幽霊は北の岬に伝わるハナモー(鼻もいだ?)と共通する。これはかつて遊女が操を立てる指切りに似た行為でもあるかもしれない。

https://pic.twitter.com/lgydhSCaos




by r_o_k | 2018-08-17 11:01 | 怪物図録

怪物図録;東北北海道東京、山海経ほか;2018/7/10- 写真描きこみ(随時追加)

怪物図録(久しぶりに)山海経、沖縄妖怪ほか;2018/7/10-31

※一部別項と重複しています

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七尋女房ヶ岩
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山陰地方など広く分布する磯女をメロウにしたような危害を加える妖怪で、隠岐島(島前中ノ島)には酒を飲んだ侍が斬り倒し(異説あり)石と化した七尋女房ケ岩というものが残っている。写真は七尋女房ケ岩の遠景に加筆したもの。人面岩に切り跡という亀裂が走っている。首長説と巨人説がある。

ヤマノケ
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八尺様と同時期に語られた2ちゃん妖怪。夜間車中泊する親子に不可解な単語を呟きながら駆け寄り、窓外から驚いた子に取り憑く。頭のない体に足は一本、麓の住職はヤマノケと呼び完全には祓えなかった。女に憑き伝染することから帰れない、という投稿が発端のネット都市伝説。東北ということから田代峠という説も、別の話を創作した者もいる。(写真:八王子)

皇居のカッパ
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清水濠から竹橋の堀沿いの遊歩道から深夜に何かカッパのようなものが浮いて潜るところが目撃された。江戸城跡近辺では幽霊や妖怪のようなものがよく目撃されており、人骨も多く発掘されることから昔より因果を背負った土地であるともいう。(背景:戦前皇居近辺絵葉書)
ソース:
https://a.excite.co.jp/News/odd/20150515/Tocana_201505_post_6397.html

カッパコ
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岩手の川口村にいたという。川に住み、両腕は横に抜ける、波を立てず泳ぎ力強く、人が一人でいるところを襲って内臓を抜き、水を詰めて逃げる、などカッパに等しいものと思われるが、頭にランプの火屋のようなものを3枚重ねで載せるという不可解な姿をしている(ランプということから明治以降の話か) 。〜國學院大學民俗学研究会「民俗採訪昭和32年度号」s33、怪異・妖怪伝承データベース参照

天狗堂彦ェ門
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蒲原に天狗堂あり。ここで神隠しにあった彦ェ門なる桶屋が或家の屋根の上で気を失って発見され、以後人が違ったように世や人の予言をし的確、信頼集めこの堂を建て祈祷した。風もないのに御幣が動く等奇瑞もみえた。七、八ヶ月過ぎると俄に力を失い廃れ、天狗堂のみが跡に残った。役場を建てるとき壊すと周辺から骨が沢山出た。落城時の蒲原城兵と噂された。〜静岡県史話と伝説中部篇s31松尾書店
写真は東京市妙亀塚


有馬の猫塚

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江戸三大猫騒動の一つ有馬藩は自殺女中の仇討猫、退治されたが厚く弔われた。元より芝居噺だが舞台を江戸にし有馬屋敷に猫塚が作られた理由は単に風雅の為か。2学校敷地に跨る猫塚は古墳ではなく近世塚らしく、没落大名屋敷の築山か。永井荷風が放置と記した元の猫塚の石は広尾の自衛隊敷地内にある。以下参考記事イソ女
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栃木の水使神社は女の下の悩みに効くと大変な評判だ。独特の祀り方で賑わう。中世に近くの淵に落ちた子を救おうと入水したイソなる女が共に溺れ死んだ。以後災いあり淵に近づくと引き込まれるといい、お告げを受けた有力者が弁天又権現とし水使神社に祀ったところ収まった。昔は怪しい噂のあった記憶がある。

前後逆
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小石川下富坂町多助店子大工次助が第二子、天保十年八月五日昼産気づくも一月遅れの難産で、翌日午後生まれた子は腰から下が全て後ろ向きだった。その夜、産死した。(藤岡屋日記)

ヒトシレズコンナトコロニ
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夜の公園で飲んでいると転がってくるものがあった。「人知れず、こんなところに」しわがれた声の主は女の生首が2つ。驚き逃げ出すも古墓のある小山に来て酔い潰れてしまう。夜明け前に目を開けると、周囲に生首が犇めいている。正気を失い警察に保護されたが、警察は生首の喋った言葉を聞き取るとそれきり黙った。小原猛さん「シマクサラシの夜」より

奥尻島幽霊
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奥尻島最北端に6ヘクタール拡がる賽の河原は難所の海難者と幼児供養の地として広く石積の犇く場所となっている。北海道南西沖地震復興時には東日本大震災のように工事に来た人が夜道で老婆に会った、海岸に人が並んでいた等噂された。ここは公園整備されたが、石積の写真にことごとく人の顔が写る等噂が出ている。ちなみに追い込まれたとき幻覚で真っ先に起こるのは石や木の葉が全部人の顔に見えるということというが、写真に撮れるとなると話が違ってくる。

オシラサマ
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遠野物語で有名なオシラサマは広く北東北でバリエーションがあり地方によって姿も祀り方も違う。養蚕の神としては馬と娘の交婚から怒った父が馬を討つと首に乗って、皮に包まれて等して娘は天に昇ってしまう。そのかわり繭を口に含んでもたらしこれを育てよという。これは中国伝来の話ともいい、実際は目の神様とすることが多いそう。イタコとも関係深い。一般には馬と女の顔をした棒に布を巻き、土地によっては頭をも覆い隠す。遠野の伝承館では願い事を書いた赤い布を上から巻いたものが沢山納められている。

サナト・クマラ(鞍馬寺の魔王)

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鞍馬寺奥之院魔王殿のサナトクマラ。その名から火星から太古に降り立った異神との憶測を産み、二本の大杉と共にヒンドゥ起因のサナトクマラとして信仰されるなど鞍馬寺の独特の在方を象徴するもの(磐座)となっているが、実際は全く異なるものである。これら近世に異化された。


油取り

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東北地方の明治時代の都市伝説で、子供をさらい油を絞るという。余所者の排除や串刺しにするなど憶測も広く広まった。妖怪的な神隠しの一種とされるがこの話は明治初期の土佐の膏取り一揆から連想と思われ柳田氏はその姿とともに戦争の予兆とされると記録している。2年建造の高知市内の洋式病院にたった「鉄の寝台にしばりつけられ西洋人に油をしぼられる」噂が伝わり、山間で弾圧下の陰陽師など煽動者のもと攘夷的な農民反乱になった。但し一揆の直接の引き金は徴兵令で「血税」の文字が血をしぼり西洋人に取られるという全国的な血税一揆同様。遠い土地といえど維新後のことなので何らかの形で伝わった可能性が高い。


辻原墓地の幽霊

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那覇。今は歓楽街となっている辻原にあった有名な辻原墓地。波上宮も近い鍾乳崖べりに、中世より築かれ始めた一大古墓ゾーンで1700基を越える多様な墓が見られることから戦前はペリーを含む外地の人間にも、海から陸から興味深く観察された。王族墓もあったといい人気のないにも関わらず不気味な話はなく、シーミーのときは賑わった。大きな墓が多かったため戦後区画整理の対象となり、石材は埋め立てなどに使われ、墓の機能自体は識名へと移された。その頃より墓地跡に幽霊の噂がたったという。戦後の大変な時期の開発とはいえ今なら文化財としても重要なものであったはずで、歓楽街にしたのも墓地を鎮める意味があったのかもしれない。子孫のいない古墓の骨は密かに焼かれ粉砕され肥料にされたり、結構そういうことは多いようで、いつのまにかなくなっている墓というのはあるが、ここのものも全部が全部きちんと移されたのかどうか、移されなかった者が迷い出たのかもしれない。話によれば石材は石塀に転用した例もあるという(これはよくある話で寺院の塀に角柱墓など一般的)。


シマクサラシの夜

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新しい写真だとスマホアプリで書くのしんどかった。シマクサラシ民話自体とは別の小原猛さん「シマクサラシの夜」より表題作から。何者かの瘴気に寄り集まってきた者たちの行為が、疫病除儀式を契機に寧ろその力を増すという不条理性、実は内側にいた、本人鎮まっても他の寄り来た者たちは…という後味。


海坊主


写真は須磨の沖、瀬戸内海に分布する海坊主というと愛媛、かつ少し趣が違うんですが写真がやはり幅広すぎるのでシルエットしか書けないですおわり。 https://t.co/FwUZQiQhTW

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フケイ
アップロード終わらずネットが使えないのでおわりでーす
山海経でした https://pic.twitter.com/DI7J0rJoSy

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びしゃがつく
が流れてきたので https://pic.twitter.com/gdjqNoU54I
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三次の被害も大きいのか。。盆はだいじょうぶなのかな。広島おつかれさまです。稲生物怪録の妖怪 https://pic.twitter.com/TFyijF6YCo
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妖怪の夏らしいので適当に。レア妖怪とかもう書かない。高女 https://pic.twitter.com/nEsJRs66qM
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場所が違う&長さが違う&石橋じゃない&干潟じゃない&要素不足&手抜きとかゆうな!資料がなかったのと仮アップじゃ(潮渡橋の仲西ヘーイ) いくつか話があるようだが単純に言うとかつて那覇の大きな干潟をのぞむところにあった橋(橋の名前と川は現存)で仲西を呼ばわると異界へ連れ去られるという。付帯して民話や妖怪話が絡むことがある。https://pic.twitter.com/hG5YlNHuXe
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手の届く場所にある資料が貧弱だったので別件で。よしやチルーさん。19にして琉歌の名手で知られた辻の類尾。想い人あるにも関わらず身請けされそうになり自殺してしまう。その骨を故郷へ運ぶ若衆が休憩のため藁の袋を路傍に掛ける度、歌を詠む声が響き人々を驚かした。埋葬後来た楼主へは恨歌を詠んだ https://pic.twitter.com/qLu7Ddu3vS
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写真に書き込むのおもしろいんだけど、基本的にスマホ(むかしはガラケー)で無理して書くので、今見ると見苦しすぎるのも散見される。編集失敗するものもある。消えてしまったよ。なのでこれでおしまい。場所が違うとかゆうな。耳切坊主。黒金座主という悪僧が耳を切られて殺されたものが、屋敷の角に立つという。 https://pic.twitter.com/vzUI14cfYw
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遠景が多くて苦労する。。真玉橋の逆立ち幽霊。石橋の人柱伝説はヤマトの伝承にみられるもので、その一つの芝居を異化輸入したとも言われるが、原型の話は当地にあったのでは。神女が自分のお告げで埋められる因果。逆立ちは冥界を向いて立つ幽的の暗示か。戦前の橋は戦争で失われたが一部発掘された。 逆立ち幽霊は他の土地にもいくつも言い伝えがあり、筋書きにも姿にも幅があるのはやはりまた別の芝居が元になっているせいとも思われる。那覇のど真ん中を通っていた
真嘉比道(マカンミチ)の逆立ち幽霊は類型的な話を組み合わせた芝居が元と思われるが元々松島中学校から古島の土手途中のデイゴの木の下に出る逆立ち幽霊の噂を採用したとも。一つ墓のいわゆる飴買い幽霊も逆立ちである。鼻を削いだ幽霊は北の岬に伝わるハナモー(鼻もいだ?)と共通する。これはかつて遊女が操を立てる指切りに似た行為でもあるかもしれない。

https://pic.twitter.com/lgydhSCaos

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by r_o_k | 2018-08-14 13:58 | 怪物図録

怪物図録:アルタマハハ(追記あり)

以下のような記事がクリプトムンドにあがりました。このような「物質的な物」は久しぶりな気がします。ジョージア州アルタマハ川のUMAアルティことアルタマハ=ハではないかというのです。


地元紙とニュース動画がリンク先にあります。まだ検証中とのこと。見たところ前肢がイルカ、尻尾は深海サメに似ているようです。海獣類の胎児の遺体のように思えますが、形状は変ですね。大きさはおそらく小さい。
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はてさて捏造でしょうかどうでしょう。

(追記)ナショナルジオグラフィックが記事にしました。
(追記の追記)
フェイク動画の疑いが強いようです。状況証拠〜人の足跡が画像で消された痕跡が見られる、尻尾は作り物に見える、体が部分的にまるで生きているようにハリがある、何よりこれほどの物証がどこの研究所にも持ち込まれず、誰も見ていないこと、このUMAについての新刊が発売され、一方この動画の提供主と接触できない〜これら数々からフェイクとするのが以下。

by r_o_k | 2018-03-22 14:47 | 怪物図録

<怪物図録>応挙幽霊、侍さらう鷲、真説牡丹灯籠、揚子江の女神、垂水の丘の大師堂、中島飛行機の人魂、女臈ヶ瀬

応挙幽霊
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円山応挙幽霊の図は世に名高い。何故描いたか伝えによれば大津に愛妾あり一説にお雪という、遊歴中に死す。互いの思慕の情の余り一夜幽霊として枕元に顕わる、応挙直ちに筆をとり其の真を写したという。当時京の俗人、漢武帝の李夫人故事に倣い美人半身図を描き、掛けて戯れ見る流行りがあり、残る絵も多かったそうで、その流れのものの可能性も。反魂香は李夫人を呼び戻すことのできなかったためこの話とは違ってきますが、反魂香自体の伝説は別途日本に流れ着いてはいますね。

今は同じものが幾つかあると言われるが、この本では東京芳屋留右衛門の所蔵となっているとある。原本といわれるものは青森にあると聞きましたが(NHK「美の壺」)、谷中の全生庵の圓朝コレクション開帳が8月ですので、やや小ぶりながら至近で見ることができますよ(注:2017年夏のことです)。2017年は90年ぶりに発見された鏑木清方のお菊図が出ているそうです。こちら今のところはまだ画廊さんの所持になるそうで画集には収録されていません。原典「古今内外逸話文庫第八編」M25、これは当時よくあった新聞や個人コラムを勝手に集めたものらしい。けっこうな大冊です。

侍さらう鷲
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文政三年9月稲葉対馬守城中馬場での馬術稽古中。一点掻曇ると一人の侍に大鷲が襲い掛かり胸ぐらを掴み飛び去った。霧を抜けると眼下は海、正気を取り戻す。陀羅尼を唱え刀を抜きざま鷲の胸に突き立てると鷲は弱りやがて畑に落ちた。しかし、既に手足利かず髪も縮れ血だらけ、百姓恐れる。博多奉行の計らいで地元に帰った。
藤岡屋日記による。鷲の羽根を土産に持ち帰ったという。身の自由はそれを見せているときもまだきかないほどのダメージだったらしい。子を攫われる場面は歌舞伎にもあるがこれは神気を孕む出現の上3〜5メートルほどの巨大なものだったそうで、荒唐無稽又聞きの、もしくは嘘っぱちの見世物関係の可能性もある。

真説牡丹灯籠
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湯島の金三郎、横川堀向いの寮に肺の養生に来ていたお常と、女中お鍋の取持ちで恋仲になる。七夕の織姫彦星になぞらえ刹那の川越え逢瀬を楽しむが、気づいた寮番の告げ口でお常は本宅で許嫁を取るため呼び戻されることになる。もはやこれまで、と二人して川に飛び込んだものの、男は浅くて足がつき女は杭にひっ掛かり命拾い。だが互いに相手の生存を知らず、自分だけ生き残ってしまったことを気に病む。その枕元には毎夜相手の幽霊が立つようになり、相手の法要を上げるべく寺に出かけると、まさかの生きた姿で鉢合わせた。喜び抱擁後法具をそのまま祝言の道具とした。
矢田挿雲「江戸から東京へ」より圓朝の牡丹燈籠が底本としたもう一つの同時代のニュースとして掲げられている。死して二人で祝言を上げる話を裏返えして使ったという話は別で読んだが、圓朝牡丹燈籠とは気づかなかった。旗本の次男坊で時代柄刀を置いて職人に、とあるので幕末だと思うが、矢田挿雲氏もまだ前時代の踏み込みの浅いジャーナリスティックなところが依然あって(前巻の誤りを後巻で訂正するなど描写が細かい割に精度は鳶魚氏を真面目にした程度に感じる)芝居がかった話を原典載せず書いている。虚実入り交ざる徳川夢声氏よりは良いけど。
入れ子構造でお鍋もまた別の坊主と人知れずの仲で互いに秘密を共有していた。この話の肝は死んでもいない相手の幽霊が共についてまわるという話で、牡丹燈籠という落語の起源を探るという趣向ではござんせん、神経神経と矢鱈いわれたご維新後の「科学的」風潮をよくあらわしているのでほんと、江戸時代としたら幕末も幕末の話でしょう。

揚子江の女神
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4世紀頃江蘇省の陳?は揚子江の岸に魚道の罠を仕掛けた。潮が引くと女が全裸で横たわっていた。顔貌美しく長身だが砂の上で身動きが取れなくなり話しかけても何も喋らない。夜、女は夢枕に立ち、我は揚子江の神である、誤って罠に掛かったが、ある村人に辱めを受けた。天帝に訴え殺してもらう。翌朝?は潮が満ちて泳ぎ去る女を見送った。凌辱した者は病死したという。祖台之等作「志怪」晋の頃。※ほんらい簗とされているので図は異なっておりますが干満の差を利用した罠であること、何より書くのが面倒なので魚垣として書きました。
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竹垣なのでちょっと書き誤った。陸上で身体がフニャフニャなのは、日本の恵比寿神につながるような。蛭子さん。いろいろ呼び名や形態はあるけど、沖縄だと魚垣(ナガキ)っていって潮位変化の激しい遠浅の砂地に袋小路になるような魚道を作って、引いたとき袋小路の潮溜まりに追い込まれた小魚を捕る。揚子江のはもっと大規模なんでしょうか。

垂水の丘の大師堂
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江戸後期宮崎瓜生野に四国八十八箇所を二周し大師石像を背負って帰った者がいた。垂水の丘に堂建つも、三度目といって出かけたまま行方不明。三年後ふと出会った村人が会話した以外は、誰もその姿を見ない。維新あと間もなく飫肥から参拝者が大量に押し寄せる。枕元に白髪老人が立ち、ここへ参れと言われた旨口々に言う。みな野宿までして店屋もたち賽銭は山の様。だが切支丹の警告があると皆去ってしまった(維新後もしばらくは切支丹邪宗門は禁じられた)。

中島飛行機の人魂
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戦争末期空襲激しい夜、木製飛行機試作中の中島飛行機工場辺で人魂が頻繁に目撃された。フワフワ2つ3つ戯れるように青白い光が降り、敵の照明弾と解ったのはずいぶん後だが、そう遠くない被災バラックでは遠雷か時限爆弾か中島空襲の音かと震撼してひしめきあっているとき、毎晩橙色の丸い物が鈍く低く目の前まで来て消えることがあった。みな人魂と呼んでいた。祐川法幢「幽霊・妖怪考」原文「婦人公論」特集記事、他の話も懐疑的に分析していて、これは塩釜と中島飛行機工場をトラックで往復していた経験上さまざまな照明弾に雨あられと降られた中に、似たようなものがあったといい切って捨てている。しかし照明弾が目の前まで来て消えるだろうか?そんな至近で直視できる程度の照度なのは照明弾として無意味では。

女臈ヶ瀬
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新潟県南蒲原郡三條、城跡の下手にあたる信濃川の瀬。平頼盛の孫の三條左衛門の京都にいたとき恋仲であった女が三條城まで訪ね来たものの、兵に妨げられ会うことが叶わず身を投げた。以後川を往来する船は動かなくなったり遭難すること度々、水底に髪を乱した女の顔を見ることもあったという。底本「伝説の越後と佐渡 前」中野城水T14

【2017年夏の怪奇特集はこれにておしまい。】

by r_o_k | 2017-08-17 15:00 | 怪物図録

<怪物図録>五つ首、ゴンゴばかやろ、子を抱く先妻、井戸の中の家、人語を解する猫

五つ首
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那覇のとあるホテルは御嶽を潰して建てられた。裏に入ると雑居ビルが犇めくような場所で沢山人死にの噂がある。ゴミに埋もれ祠が作られているが、額に梵字入りのお札が貼られたマネキンの首が、5つ供えられている。方言で落書きされ内地の坊主や地元のおかしな信仰も集める。首吊りのあった部屋ではその男と何故か上半身裸の女が現れた 。(小原猛「沖縄の怖い話 弐」三十〜三十二)

現実的に、盛らずにこうだろうというありさまを書きたいのだが、複合要素がからみあい、わからない話はどう書けばいいのかもわからなくなる。資料を見ないことを徹底してるので、記憶にない光景はむつかしい。

ゴンゴばかやろ
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昔ある田舎にゴンゴという目の見えない乞食がいた。それが死んだ時、いたずら者が寄ってたかって遺体に「ゴンゴばかやろばかやろ」と落書きして葬った。しばらくして大名に世継ぎが生まれたが、その身体にありありと「ゴンゴばかやろ」の文字が現れてきた。あの乞食の生まれ変わりだと皆怖れた。(長尾豊「傅説民話考」S7)氏が幼時に伝え聞いたもので、古来生まれ変わりの説話のバリエーションとして因果応報譚がひっついたものという現実的解釈を与えているが、現象としてあればおぞましい。弱者を虐げ遺体損壊し挙句、統治者である殿様に祟るのである。

子を抱く先妻
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五世尾上菊五郎の又聞き。小道具の清という男、貧するも顔も声も良く、女のほうから言い寄られる質だった。女房も好かれて持ったが妊娠中、遊びの茶屋で女中と心易くなり、家に帰らなくなった。女房は産む前に死んでしまった。女中は跡に嵌り妊娠し、安産した。当時は産後しばらく籠で寝る習慣があったが、ある夜赤子を置いて水を飲みに立って戻ると、籠の中で見知らぬ女が我が子を抱いていた。引ったくるとすっと消えた。清は病付いた。(「百物語」幕末明治百物語、一柳廣考、近藤瑞木編)

井戸の中の家

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小石川植物園周辺は徳川綱吉の白山御殿だった。明治時代に不思議な抜け穴が見つかったが、こんな話がある。享保年間すでに御殿はなかった。元敷地に某が井戸を掘らせたところいくら掘っても水が出ず、ふと横穴に出た。井戸掘りが覗いてみて仰天、家が見える。主も降りるとそれは書院造の座敷だった。入って奥に行き襖を開けるとまた座敷で襖がある。それも開けようと思うと隙間から気味悪い風が吹いた。襖の草花の絵の端を切り取っただけで、慌てて埋め戻したという。(矢田挿雲「江戸から東京へ」第五巻、小石川区)同様の話が藤岡屋日記にあるが、浅間山噴火で埋もれた家で仙人と化した二人が備蓄で生きながらえているところを発掘されたという話である。こちらは整然として誰もいないところが物凄い。白山屋敷自体、綱吉元服後寄らず、没後荒れ果てたのだから、地下の屋敷が綺麗なのは…


矢田氏はこの巻の大部分を切支丹弾圧に割き、東京市下には珍しい小石川の渓谷とて切支丹屋敷界隈を描いている。かつては陰惨な(細部の信憑性には疑問もあるが明確な歴史的描写があり、狂気の時期の去ったあとは一律陰惨でもない一時の弾圧だったことが解るが、いずれ高札が幕末まで掲げられ刑場としての機能は残った)・・・川に血の流れる様な土地に相応しい友人二人の名、その一人が田中貢太郎とある。


人語を解する猫

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神奈川の主婦N子の家に老猫がいた。衰弱して定位置の座布団に腹這いになり動かなかった。ある朝掃除をしていると急に立ち上がる。体を伸ばして欠伸する。珍しいと目をそらすと、「いぬ」と声がした。見回しても誰も犬もいない。空耳かと掃除を続け、戻ると座布団はもぬけの殻。それきり戻らなかった。(「妖怪現わる」中山市朗)猫が命の最後に一言だけ人語を喋ることができるという話は、江戸時代にはしばしばあったが現代では珍しい。いぬ、は往ぬ、の意味だったのではないかと解釈したという。猫は昔は人に死ぬところを見せないと言われた(内田百閒のノラもそうだ)。座布団は燃やしたとのこと。


幼少のころ二子玉川園という遊園地があった。広々としジェットコースターが名物だったが、半分は体育館やふれあい動物園となっていた。山羊の群れに貰った草をやっていると、ひときわ年を取った様な山羊が若い山羊に押されてなかなか首が届かない。ふと、

俺にもくれよ

と喋った。ビックリして逃げ出した記憶がある。



by r_o_k | 2017-07-22 17:32 | 怪物図録

怪物図録<地下室のマリー、春千代のマリア、女の首、石塔磨き、竹王神、水道町の化物、火の見櫓の生首>

地下室のマリー
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古い楽器店。現代的に建て直されてもなお噂された怪談。かつて地下室に弦の一本足りないヴァイオリンがあった。米国の将来を嘱望された15歳の天才少女マリー(仮名)のものだったが、自分の楽器の弦で首を切られ死んだ。建て直しのさい楽器はどこかにいってしまったが、寒い夜には三本の弦だけで不自由にレクイエムらしき曲を奏でる音が聞こえる。ある日噂を確かめに降りた社員たちが、首のない少女の演奏姿を見た。最後にF、A、C、Eの四音を繰り返していたという。顔が欲しいのではないかという話をしていたが、その翌々日、ノースカロライナ州の田舎で、15歳くらいの少女の頭蓋骨と三弦しかないヴァイオリンが発見されたという。失われた楽器と同じものかどうかはわからない。弦を張りなおして手厚く埋葬されたというが、その後怪異のおさまったかどうかは定かではない。(「カイシャの怪談」カイシャの怪談調査委員会編、ワニブックス)

春千代のマリア
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島原を切支丹が席巻した頃。最後の仏教の砦ならんとする相國寺に春千代という稚児あり。やんごとない身分の出で長年修行にいそしんでいた。15の時、境内で見掛けた西洋の女性に不思議と心奪われ、崖上まで追いかけるも見失う。宣教師に出逢って住処を教えてもらおうとするが、困惑され、最後に見せられたのは教会のマリア像。するとまさしくこの人と抱え止める間もなく駆け出し、像の指す崖を見て共に逝きましょうと身投げした。遺言は南無阿弥陀仏であったとされる。漂着した遺体はしっかりとマリア像を抱えたままだった。筆者「長良川鵜之介」の天草生まれの祖母が、幼い頃に語ってくれた昔話とされる。有明の海にはこうした切支丹宗徒との間にはぐくまれた幾多の美しい恋物語があったという。(「海の伝説と情話」盛文館書店T12/7大阪朝日新聞連載編)

女の首
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身持ちのよくない新吉という者がいて、周りの者と組んで人さらいをし店に売り渡すなどやっていた。夕闇に沈む街角で獲物を狙っていると女学生のような娘に目をつける。道に迷うようなさまから田舎から出てきたものと思い後をつけ、池畔から離れるところでそれとなく声をかける。家出してきたとのことで今晩は家に泊めてやると連れ帰り、下宿屋の主人と組んでそのての店に売り渡す算段をする。店へ話をつけに行く間にと、女将は二階の部屋にカツ丼を持っていき囮膳しておく。新吉が戻って二階へあがり部屋を覗くと、机の上に首だけが載っており、にっと笑いかけてきた。転げ落ち外へ逃げ、人の沢山いる所へ行こうとするもうまくゆかず、しまいに大きい黒い戸が右へ左へ閉じて通せんぼをする。今だ!と飛び込むそこは線路・・・ひとたまりもなかったという。(田中貢太郎「女の首」)死者が語る形になって矛盾を生じる、おそらくほとんど創作だろう。舞台は上野、明治のころと思われる。虚実の境が曖昧で、一縷の実も無いとは言い切れない「実話怪談作家」なので、採録しておく。ここでは底本「怪奇物語」春陽堂。

石塔磨き
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文政十年に江戸府内に始まった石塔磨きは墓の貴賤問わず無差別にひたすら磨く奇行で、願掛けにしては誰も犯人を知らず見た者も稀である。大きな大名墓になると、動かしたり山へ上げたり、五六人もいなければままならないことが、ただの一晩のうちに行われた。他に三本並ぶ墓石の一本だけ戒名を朱塗りしたり、没年だけを朱塗りしたり、戒名の三字だけ朱塗りしたりなどバリエーションも豊富である。いったん収まってから再び関東に広く広がり、下館で一昼夜に数百本磨かれることもあった。関宿では女を見つけたが瞬く間に奔走し見失う。追いかけた五人の男のうち、三人はいつのまにか髪が切られざんばらになっていた。(桃園小説等多くの随筆に記載。こちらは藤岡屋日記による。)夫婦が捕らえられたりした記録もあったと思う。藤岡屋が続編の末尾に書いたほどには不可解ではないものの気はするが、それが何の教えによるものなのか、一種の講だと思うがサッパリわかっていない。墓石を磨くためには玉垣や灯籠を壊し、大きいと抜いて倒しっぱなしでピカピカに磨く等々。。

竹王神
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漢の武帝の時。女が川で洗濯をしていると三ツ節の太い竹が現れて足の間に流れ込み、いくらどけても流れ去らない。竹の中から泣き叫ぶ声が聞こえてきて、割ると一人の男子現る。成長につれ武勇の才現れ、中国西南部の部族の長、竹王となる。割れた竹は竹林となり、石を打てば泉が湧いた。脅威となったため蛮夷として朝廷の手で首を撥ねられたが、地元の皆がこれは人の血を受け継ぐ者ではないから人の手で裁くのはむごい、というためその三人の子は地方の官吏に取り立てられた。(「異苑」劉敬叔)この書は日本のものを含む類型的な話が比較的多く、宋代という時代から面白い交流や、思わぬ伝承伝播ルートが推定できる気がする。

水道町の化物
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牛込水道町の話。夜も更け小雨、初五郎ともう一人が職人仲間の家から帰る途中、飯田常助屋敷向かいの辺りで誰かに付けられていることに気付く。振り返ると高さ60センチ位のざん切り髪の極端に頭の小さなモノが走ってくる。慌てて裸足になって逃げるが速い。四足の様だ、近くの連れの家に飛び込み難を逃れるも、まんじりともできず明けて寝込んでしまった。(須藤由蔵「藤岡屋日記」を底本とした鈴木棠三「江戸巷談藤岡屋ばなし」)

火の見櫓の生首
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定火消役本田六郎の四谷屋敷で天保五年七月下旬、火の見櫓が震動することがあった。次の日も揺れた。三日目、特に大きく揺れ、見張役が中段まで降り止むのを待ち、上に行くと女の首級がある。驚き報告思案、すると隣家浅川より密に使いが来て、奥方が一昨日亡くなるも湯灌をすべく準備に目を離した隙に消えた。見せて欲しい、ああ間違いない引き取ります。理由もわからず渡して終いになったとの評判である。一説に全身があったともいう。(須藤由蔵「藤岡屋日記」を底本とした鈴木棠三「江戸巷談藤岡屋ばなし」)これの暗示するは「火車」だが落ち度のあった人とは書いておらず、異説も書いてるので、筆者の疑ってる節がある。わりと疑う人、というかもうそういう時代だったのだろう。

by r_o_k | 2017-07-17 12:49 | 怪物図録

怪物図録<安宅丸の霊(写真追加)、高岩寺小僧(補記、古地図再度追加)、與兵衛狸(写真追加)、加藤狐(古地図追加)、もと猫、恐山死霊の湯>

安宅丸の霊
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佐藤隆三氏によれば家康が三浦按針に命じて造らせた巨大洋船は見事で安宅丸と命名。按針再三英国帰国を願い出るも有能故叶わなかったが没後安宅丸、夜な夜な帰りたいと泣き始め秀忠が解体。板金を酒屋が穴蓋としたところ用人に物憑き我安宅なり下民に踏みつけられること耐え難く一々取り殺さんと言うので慌てて除き詫びると抜けた。今は祠に祀られている。また豊臣秀吉が作らせ云々の説については新著聞集によるもので似ている(以前書いた)。藤岡屋日記には後北条が造船した軍船を豊臣が奪い、徳川に渡って寛永十二年下田から江戸へ曳航され改めて装備を整えられたが、天和二年解体され安宅という地名(岡場所)になった、としているようだ。実際は家光が向井将監に命じて作らせた「和船」であり華美でかつ重装備過ぎ実用に供さなかったことから維持費の問題もありのちに処分の憂き目にあったようである。
2つの安宅稲荷〜
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妙泉寺、安宅丸稲荷堂(江戸川区)安宅丸解体の際、守護神(船玉)を抜いておさめた(ろくに出航しなかったので一度も沈まなかったことから、お札も発行されている)。
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屋根に波の意匠がある。
解体されたのは深川沖で、そのあたりに船蔵がありつながれていた(俗に唸り声をあげ解体後呪った)ことからそちらにも残骸の塚と共に安宅丸稲荷が作られ地名にも江戸話にも出てくる。今は移転し小さくて個人宅内のようなところにある(大橋)。
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〜御船蔵と繋がれた軍船(安宅丸の写真とされていたもの)

高岩寺小僧
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とげぬき地蔵の巣鴨の高岩寺が高巖寺としてまだ上野(下谷)屏風坂門前(正確には今の岩倉高校の辺り、上野駅入谷口正面)にあった頃、古狸が小僧に化け誑かした。皆恐れをなし小祠をたてたが、お狸様もおかしいと小僧稲荷と名付けた。江戸後期(1805年)不浄に厳しい和尚になつき、躾けられた狸が、和尚の代替りするたびに姿を見せては、境内近所に小便などする者を伸び縮みする三ツ目小僧や明滅する大提灯に化け、門前の大きな溝に落とし怪我などさせ続けた。肝試しで来る若者にも漏れなく祟り、近所の者は早朝必ず境内門前を塵一つなく掃除することが日課だった。上野戦争で山が焼けた頃には狸も姿を消したが、稲荷としておおいに栄え、共に移転し境内に今もある。(佐藤隆三「江戸伝説」)
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(こんな塀があった。桜の名所も維新のゴタゴタと共に潰された)
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明治2年、高岩寺がカタカナで見える。まだ山側にずらり寛永寺末寺が残っていて、塀際を溝が走っている。広小路辺からここに迷い込んだ酔客が化かされ落とされたのだ。
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明治10年代、上野駅によって山側が大きく削られ高岩寺が駅前になっている。これが今も地形として残っている(↓)。青い壁面のビルが元鉄道学校で高岩寺だった場所。正確にはやや手前側か。
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(上:旧高岩寺門前辺(下谷)、下:小僧稲荷(巣鴨、真ん中))

與兵衛狸
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維新前御徒町の屋台蕎麦の與兵衛が郷里古河より連れ来た小狸、大きくなり近所に悪さをするので困り上野の森に捨てた。侍や小僧に化け、よく寛永寺本堂に座っているのを坊主が見かけすぐに見抜いてほっておいた。菓子屋にぼーっと現れ菓子をやると狸に戻り逃げた。ある日山伏姿で来たのでなぜか聞くと、戦争になるから知らせて回っていると。間もなく山は彰義隊の戦争で焼けた。明治24、5年迄出た。菓子屋は千づかといい池の端にあった。予言の時は與兵衛山伏に乞われ饅頭を十四五振る舞ったと。そのように色々不思議な事を触れ歩いた話があったという。浅草寺も小僧稲荷もそうだが明治前期まで狸の話は生々しく語られていた。(佐藤隆三「江戸の口碑と伝説」)
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〜寛永寺根本中堂の焼跡(台東区所蔵)「よみがえる明治の東京」

加藤狐
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震災前まで上野の南、旧下谷御徒町小(現在中学校)と公園は加藤子爵の屋敷(上屋敷)だった。御徒町公園東側が庭園で、隅に立派な稲荷(実際は大洲八幡を勧請した八幡社と思われる(このあたり下谷神社の氏子なので稲荷信仰の地だったから混同されたのだろう))があった。今は北側に築山や庭石等遺物とともに移築(関東大震災被災し手放された)されているが、縁の下には狐が棲み大きな抜穴を掘り、土地では酷く恐れられた。明治前期出入りの鳶の長造、仕事中に植込で狐が無心に何かを転がしていることに気づく。わっと入ると狐は逃げ、毬を拾う。毛の塊だったが何なのかよくわからない。夜、戸をほとほと叩く音がする。母親が出ると女が大きなものを片手にボウと立っていて、あれは子育てに必要なものだから返してくれという。返すと大きな鯛を置いて帰った。狐は魚屋からよく魚を盗んだ。まだ空地や畑のあった明治25年頃までは加藤狐は人を化かしたり悪戯をして困らせた。目に余ると町内会で加藤家に掛け合いに行くこともあったとは本屋の主人談。(佐藤隆三「江戸の口碑と伝説」)

御徒町。町名が変わりましたが御徒町二丁目で通ります。二丁目はまるごと加藤屋敷でした。無残に減った大名屋敷の立花など残る(あたりはもう地主でもないところにも当時の池庭が散在しています)明治初期の陸軍地図だと、上記の話どおりこうなっています。

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池の右端が築山に見えます。赤が社でしょうか。庭園として立派です。ちなみに上が東、上野になりますね。

元の地図が二枚に渡るため縮尺違いすいません。



二筋南に行くと旧御徒町二丁目町会の脇にやはり緑の神輿倉があり、大きく鳥居が描かれびっくり。上に梯子でしか上がれないお稲荷さんがあります。距離もあり町も違うので加藤狐ではないでしょう、このあたりは下谷神社の関係だと思います。八幡神社のも旧御徒町二丁目の神輿だと思われますがこちらはどうだろう。僅かに古い雰囲気が。


※矢場稲荷神社と言う名だそうです。

もと猫
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文政年間。根岸芋坂の元右衛門、隣村の百姓を騙し全財産を脅し取る。百姓は首を吊ったが飼猫、元右衛門に付き纏い右手を噛む。その手が日に日に痛み出し医者に通うも平癒しない。ある晩に帰る途中、高岩寺で狸に溝に落とされた。頭を打ち年内死んだ。家は火事にあい家運傾いて一人娘お元は奉公に出るが、脚気で病付く。すると猫来て布団の上から動かず、母親不吉と見て何度払ってもまた来る。いつになく気分がいいという日、娘自ら捨てに出かけるがそれきり行方不明となった。お元は発見に5日を要した。野良犬が片腕を咥えて来たため大騒ぎとなり、上野の霊廟裏の竹薮で食い散らかされた姿で見つかったのである。「根岸のもと猫」の話。母親のみ残った。芝居掛かっているが古い話でもない。高岩寺の狸は上記の由縁。猫は全得寺の和尚預りの筈だが後知れぬ。(佐藤隆三「江戸伝説」)

恐山死霊の湯
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恐山には薬湯五湯という温泉がある。四湯は泊まらなくても境内の小湯屋で入ることができるが、夕暮れ時、今は男性のみ入浴可能な「古滝の湯」に浸かり窓を見つめながら死んだ人の名を呼んでいると、その人の顔が現れる。通り過ぎるところに決して声を掛けてはならないという(室生忠「都市妖怪物語」)

by r_o_k | 2017-07-09 12:49 | 怪物図録

怪物図録<江戸褄の怪、最後のキジムナー、千束池の七面天女、吉見の般若、新宿太宗寺の付紐閻魔、不忍池の怪女、貝坂の化け銀杏、夜這い地蔵>

江戸褄の怪
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戦時中の日本橋の話。担ぎの呉服屋(仕入れ元からセレクトした反物を担ぎお得意回りをして仕立てて売る業者)がいた。懇意にしていた芳町の芸妓が、役者衆などにおおいに持て囃されるも着道楽が過ぎ、懇意の客に似合う衣装を仕立ててあげてしまうほど浪費し大きなツケをためてしまい、旦那にも愛想をつかされ、戦火が及ぶに至り役者衆も足が遠のいて、ついには芳町が一斉廃業となってしまった。裏で商売を続けるみずてんもいたが、そういうことのできる性分ではない。いよいよ呉服屋、呼ばれて行くと何とか手元に戻したという江戸妻と丸帯を差出、あとは自分の身でどうかという。こちらも得意先が皆いなくなったことだし一枚でも取り返せればと思うのと、情が移ったため受け容れた。どこへ行くあてもない芸妓に心残りはしたが、柳橋に爆弾が落ちほうほうのていでトラックを調達し熊谷まで逃げた。

終戦後しばらくして戻り、知り合いの居候で商売を立て直そうとする。山の手空襲で全焼した芳町も再興するとなって江戸妻と帯を売ることにした。話に聞くとあの芸妓はおしゃく(見習い)とともに行方不明となり、戦後になって倒れた塀の下から黒焦げの髑髏が二つ出て、これはまさしく、かわいそうに、と近所の寺で弔ってもらったという。その夜、住まわせてもらっている土蔵の二階で妹がろうそくを灯すと悲鳴をあげた。壁に架けてある江戸妻に、彼女が現れたのである。恐ろしかったものの江戸妻と帯は若い芸妓に売り渡された。だが、しばらくして病みつき死んでしまった。それを別の芸妓がまた買うと、またおかしな病となって死んでしまった。土蔵の二階にはいまだにあの女が現れ、喋ることもあるそうである(長田幹彦「幽霊インタービュー」より(うろ覚え))

最後のキジムナー

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ある離島にはキジムナーがいて、島民と物々交換などして洞窟に暮らしていた。戦後みられなくなったが、Nさんは小学生の頃に友達と浜辺で見かけたことがあるという。見えなかった者もいたが、見える者がさまざまな方言で声をかけても応えないから、手元の駄菓子を持って近づくと、奪って林の中に逃げていってしまった。それが最後の目撃談であるが、戦後のことでろくな駄菓子もなく、おばあにもらっても美味しくないので食べなかった。出なくなったのは余程不味かったからだろう、とのことである。(小原猛「琉球怪談」より)

千束池の七面天女

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日蓮上人が高齢となって身延山から池上へ向かう道すがら、千束池の秋の夕景に見惚れて歩を止め、池畔へ降りるとうっそうと茂る松の一本に袈裟を掛け、疲れた足を洗った。するとにわかに竜巻が巻き起こり、池の底から天女が現れた。七面天女が身延山のみならずここにも現れ、しかもお慈悲をとしきりに懇願する。日蓮上人、自分はこのように高齢である、そのようなことはできないと突き放した。天女は哀しい顔をして沈んでいった。土地の者は七面天女に同情し、池畔に七面堂を建てた。そして池の名を洗足池と改め、袈裟掛けの松は枯れては代を重ね間もあいたが今も一応(なぜか二本)池畔の寺の境内に保存されている。悪人に禊の足を洗わせる習慣から「足を洗う」との言葉が生まれたともいう。(戸川幸夫「東京傳説めぐり」より)
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吉見の般若

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埼玉県の吉見百穴は上古の横穴墓群で、中世には近く城が築かれ、戦時中は地下工場として転用されようとしたこともあり、心霊スポットとして若者が夜訪ね来、また不良が集まり若者が襲われることもあった。その位置する比企丘陵の一角に稲荷がある。県道からそこに至る細い登り道はカーブが多く走り屋のコースとなっていた。昭和55年頃よりこの一本道で迷う、「脇道」に入ってしまう、ぐるぐると同じ場所を回るといった話が聞かれるようになった。さらに稲荷の前の内側にマンホールのある一番の難所で不思議な老人の目撃が相次ぎ、轢かれて死んだ人じゃないか、稲荷の祟りじゃないかと話題になった。一人の男は般若のような顔をしていたと証言した。皆そこを迂回するようになってほどなく、マンホールのあたりが崩落してしまったという。(室生忠「都市妖怪物語」より)

新宿太宗寺の付紐閻魔

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今も残る巨大な閻魔像は顔以外は度重なる災害で失われ、端正で綺麗だが、戦前まで彫りも荒々しく物凄い様相の像で、口元からはボロボロの紐が垂れていた。この境内は江戸時代には庶民の憩いの場として今同様に開放的でにぎやかだった。昼には子守の乳母が多くいた。ある姥、預かった子供があまりに泣くので閻魔様の前へ連れてゆき「閻魔さまに喰われてしまいますよ」と見せた。泣き止んだようなのでうとうととしていて、日も傾いてきたころ子供を呼ぶに返事はなく、人々で境内のどこを探してもいない。これは人さらいにあったかと悲嘆していると、大きな声があがった。見ると、閻魔さまの口から付紐が垂れていた。これは本当に閻魔さまに喰われたのであろうと、以後「付紐閻魔」との名前がついた。この閻魔は水晶の目玉を入れていたが盗賊が抜き去ろうとすると光を発して倒したり、また、この二つの伝承は昭和初期に異様な形に作り替えられた、これも巨大な奪衣婆のものであるという説もある。

不忍池の怪女
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巳之助という若者、朝の不忍池畔で美しい乙女に出会い、招かれるまま池に入った。再び弁天堂の裏から現れた時には憔悴しきっていて、家に戻ると熱病で寝込んでしまう。医者にも原因はわからず、厳しく戸締りのうえ両親の看病を受けるも、うわごとのように毎晩枕元にあの女が現れ手を引かれて出かけていると。ついに死んでしまい、悲嘆に暮れる両親は葬式を執り行うが、巳之助の棺桶の傍に女が離れずにいた。そこにいた誰もそれが誰なのか知らなかった。以後、不忍池の池畔にて、女と巳之助の姿が目撃されることがあったという。(柴田流星「傳説乃江戸」)

貝坂の化け銀杏
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江戸麹町に貝坂という坂があり、二本の大銀杏が聳え立っていた。八幡太郎義家が白幡を掲げたともいい、品川沖から入ってくる船の目印に旗を揚げることもあったという。いつ頃からかその下に夜ごと妖怪が現れるという噂がたった。怪坂とさえ呼ばれるほど話が広まり、五代将軍綱吉の耳に入ると城下にそのような妖怪が出るなどもっての他と怒り、腕に覚えのある旗本の若衆が次々と貝坂を訪れるも、妖女にたぶらかされ溝に落ちる、天狗に出逢い気絶するなど散々、その話は浪人の間にも広まり、名の知れた剣士が退治に訪れ天狗に首根っこを掴まれて逃げ帰るなどした。地元麹町で剣術道場を開いていた鈴木傳内兵衛はこれを聞いて貝坂の大銀杏へ来て、二晩は様々な妖怪変化の出没にじっと耐え、三晩めにここぞとそれを仕留めた。正体は何百年も経たであろう、班狐だったという(他書にも見える斑狐という妖怪、もしくは独特のものか)。綱吉聞き及び天晴と取り立て直参となるも、息子の鈴木主水に祟ったというもっぱらの評判。(佐藤隆三「江戸傳説」)

夜這い地蔵
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農村で隣村の若者同士が夜な夜な行き来して睦まじくすることがあった。延岡ではある娘が子を身ごもり、父は境の地蔵だと言う。無用な諍いを避ける意味もあり夜這地蔵として縄で縛った。のちに縄は解かれたが、ここまでダイレクトではないにせよ同様の伝説をもつ夜這地蔵ないし縛られ地蔵は静岡の袋井、埼玉の所沢、山形など全国に分布し、場所によっては女に化けることもある。悪さの度合いで太い格子で閉じ込めたり、楔を打った所もある。子授けの効果をうたうにいたったものもある。

by r_o_k | 2017-07-03 17:00 | 怪物図録

怪物図録(ボニー・ジョンストン、萬寿姫(図像追加)、勝軍地蔵、人魚、帝江、神鬼、麝香)

ボニー・ジョンストン
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東京西麻布の都市伝説で、オーストラリア人の集まるとあるバーに現れる美女。目撃証言はおろか普通に会話した話が多くあり、パース出身であるなど具体的な属性や容貌などもわかっているが、以下のような伝説がある。いわく何てことのないきっかけから会話を深め、自分の念願を口にして、そのまま深い仲になると突然姿を消してしまう。監視カメラの映像も消えてしまうなど不可思議な結末となるが、そのうちに願望が突然叶えられる。しかし喜ぶのも束の間、身体の一部を失ったり、その機能を失ったりするというのである。とあるユタ(沖縄の霊能者)に見立てを依頼したところ、それは幽霊とも人間ともつかないもので、人間としての肉体を得るために身体の部品を一つ一つ集めている存在だという。北芝健他「警察の心霊事件簿」より

萬寿姫(ますひめ)
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内田萬寿姫は元和六年高鍋藩生まれの神女。鵜戸神宮に籠って帰途突然神通力を賜り神仏を講釈し、父が悪魔祓いを寺に頼むも問答負けず本物と。一本足の下駄で鵜戸山を往復し新宗教を説き種々奇跡をなし寿法院の名で人気を集めた。飫肥藩主も帰依し桜井神社を造営。51で死んだ。日向は神女伝承が比較的多い。
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〜「宮崎の神話伝承」甲斐亮典より

勝軍地蔵
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将軍地蔵とも。その名の通り勝利を導く軍神とされ戦国時代にさかんに信仰された。日本独自の仏である。中世以降武家の信仰を集め京(愛宕山)より各地へ広まったといわれる。神格化していた坂上田村麻呂を地蔵菩薩と同一視して権現として祀ったのが始まりといわれるが、修験にて神仏混淆し、地蔵にもかかわらず武人の装いをし蓮座のまま軍馬に乗って武器を振りかざす姿は異様でもある。愛宕山では垂迹神としてはイザナミであるが、修験道と近しかったこともあり各地で天狗(イズナ)や道祖神(塞の神)とも混ざってしまった。火伏や飢饉除けなどの力も持つとされるようになった。

人魚
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「山海経」には魚に手足の生えた(だけの)図像がすくなくとも三つほど載っているが、こちらは「人魚」という名前がついている。北山の竜侯の山には草木が生えず金や玉が多い。決決の水が流れて東から落ち河に注ぐ、その水中に人魚がたくさんいるという。形はサンショウウオに似て、三ないし四指の四つの足を持ち、声は赤子に似ている。食べると痴呆にならない。山海経には人魚の名前ではないが、イメージ通りの下半身が魚の男の図もある。中国。

帝江
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「山海経」による。西山の天山というところは金、玉多く青雄黄とある。綺麗な水が西南に流れ湯谷に注ぐ。神あり、その姿は黄色い袋のようである。赤いところは丹の火のようで、6つの足、4つの翼、混沌として面も目も無いが、歌舞に詳しい。これを帝・江という。

神鬼
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「山海経」による。西山に剛山というところがあり、銘木名玉が採れる。水が流れ北へ向かい川に注ぐ。ここには神鬼という化け物が多い。姿は人面に獣身で、足は一本、手は一本しかなく、その声は呻くようである。似たものは同書にもあるが、そもそも洋の東西を問わず多く伝えられる属性の怪物で、日本では「一本だたら」に代表される一本足の妖怪伝承が雪国に多く、その姿を見ることを忌む。職能集団の特異な動きからくる属性である、何らかの理由で雪に残される一列だけの「足跡」からの連想、など複数の正体を設定できそうである。

麝香
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江戸時代の動物の区分は比較的あいまいで、小型犬(狗)と中大型犬(犬)は別の生き物である、山犬とオオカミは区別がはっきりしない、アナグマと狸は同じ生き物である、など一般的にはあまり分類的な意識がなかった側面がある。想像上の神獣と舶来の動物を同じ名前で呼ぶなどもその延長上と思われるが、こちらジャコウネコも本来の麝香猫ではなく犬と猫の中間種のようなものとされた。狗のことを猫と犬の中間として総称して狆と呼び種としての狆が区別されなかったのは当時の図像上確かめられることだが、それによく似たもので、かつ、麝香にかんしてはもとは中国の図像上の神獣であった。図像上は猫と明確に区別のつけられたものばかりではないが、長い尾をもちそこまで毛が長くついていて、鼻も少し長く、体躯も大きいように描かれることもあった。

by r_o_k | 2017-06-26 15:38 | 怪物図録

怪物図録(サハブ、鬼胎、ゴミ捨て場の生首、秋田の生首屋敷、スキンウォーカー、前世の敵、くだん(件))

サハブ
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ジョン・アシュトン編「動物学の奇怪な生き物たち」では19世紀当時にはすでに正体のあきらかとなった動物も含め、中世に世界中の生き物がヨーロッパではどう描かれ伝えられていたのか、存在非存在分けずに紹介されている(そのため図像の無く手がかりとなる特徴もよくわからないものの中には、たとえば「木になる羊」のような正体がいくつか推定されている有名なものも、ただわからないものとして含まれる)。サハブは海に棲息する大きな生き物で、体に比べ足は小さい。牛のものに似るが軟骨質である。一本だけ長い足をもっており、それを使って草などを食べたり、身を守ったりする。陸に近縁種と思われるものもいる。

鬼胎
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中世末期に伝えられた針治療の大成本「針聞書」にあらわれたもので、この書物によるとほとんどの病気は寄生虫による。鬼胎は左の脇に発生する。はじめは大きな杯のような血の塊だが、かならず渦を巻くような形状に育ち龍のような頭を顕わし、治療が難しくなる。これが動くと患者は凶暴になりヒステリー状態に陥る。荒い気性に反して動きはのろくナメクジのようなので、荒く手当てすることなく、いくつかある口伝どおりの手順で針を打つと良い。とされている。

ゴミ捨て場の生首
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沖縄のとある公営住宅の特定のゴミ捨て場に昭和50年代より目撃されるようになったもので、ゴミを捨てに来る人を睨むこともあるという。代々自治会に伝えられてきて、それを気に病む住民まで出始めたことで閉鎖されたが、周囲に花畑が作られると何故かぱたりと目撃が減った。王朝時代に刑場だったという話もあるが歴史的に証明されていない。小原猛さんの「沖縄の怖い話 参」~三十六、ゴミ捨て場の生首 より。

秋田の生首屋敷
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秋田のとある土地に元首切り場とされる場所があり、そこに朽ちるに任せた空小屋が建ててあった。その母屋に越してきた家族の一人娘が毎夜うなされるようになり、そのたびに泣き声を聞いた。眠れない日々が続き、その声がどうやら空小屋から聞こえてきていることに気付くと、恐ろしいながらも突き止めずにおれず表へ出て、小屋の扉を開く。すると奥の棚に四つの首級が並び苦悶の表情を浮かべていた。以後娘は高熱を出し寝込んだ。首のうちひとつは女で、それが時折しゃべるともいう。ある朝娘の姿が見えないので家族総出で探して回ると、例の小屋の中で血を吹いて死んでいたという。大陸書房刊「日本の怪奇」より。時代的に首斬り刑の記憶の生々しい明治頃の話か。「首屋敷」は室町時代の説話に出てくる、昔の乱暴者に惨殺された者の首に宿泊者が取り囲まれる話が有名で、著名な妖怪本の稲生物怪録にも首だけの化け物が出てくる。図像的には平清盛の平家物語の一節より鳥山石燕の描き出した「目競」が有名だろう。神経を病んだ清盛が雪の庭に無数の髑髏を幻視する趣向である。これはさまざまな浮世絵師の画題となった。

スキンウォーカー
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10数年前からUMA界隈で囁かれるようになった魔女の一形態でフォーマットはほぼ狼男である。ネイティブアメリカンの伝承とされており、魔女が動物の毛皮をかぶり呪術により(それは時に近親者の人身御供を伴う)動物に変身し超常的な力を得るというもの。もともとはネイティブのものというよりむしろ侵入者の見地から、動物の毛皮を被って変装し敵を討つもしくは身を隠す、さらに遡れば獲物に気づかれないよう毛皮を被って近づく狩りの方法が、典型的なヨーロッパの魔女の変身伝承、さらにジェヴォーダンの獣のような魔的な力を持つオオカミの怪物とも重なり、移住者たちの恐怖を誘ったように見える。じっさいオカルト界隈でこの名が出てくるようになったのは00年代になってだと記憶している。厄介なことにファンタジー小説の素材に使われたのである。むかしホームページに載せたことがあるが、その当時ネット(米)ではいろいろな動物の姿に変身するが結局オオカミ、というような語られ方をしていたように思う。実際そのような映画も作られている。シャドウピープル、ブラックアイドチャイルドと同時期だった。都市伝説化したのだろう。
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前世の敵
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行基が大阪難波に港を建築させ、貴賤老若男女問わず人を集めて説法を行った時の話。ある女の連れ子、もう10才も越えたのに歩くこともできず乳を乞い始終物を食っていたが、説法の最中に大泣きを始めて周囲の妨げとなる。行基、その子を淵に捨てよと言い放つ。泣くたびにそう言われるが女は子の可愛さに従うこともできず、周囲もあまりに酷いと同情する。翌日も子連れでやってきたところやはり子、泣き声をあげ説法の邪魔をする。行基捨てよと責め立てる。女は仕方がないことだと深い淵に連れて行き、子を投げ捨てた。するとその子は浮き上がり、水面に足を踏み鳴らし手を叩き目を見開き見上げながら「あと三年は”取り立て”、喰わんと思ったのに!」と叫ぶ。女は行基のもとに戻る。行基、あれは前世の借金を取り立てに来た者である。前世で三年分の食い扶持の借金をしたままだったために、貸主が子に生まれ変わり三年ぶんを喰おうとしたのだと説いた。「日本霊異記」にある話だが、もともとは中国の話だった可能性がある。中国には金銭の貸し借りが生まれ変わった後まで影響する小説が比較的多くみられる。それを行基菩薩の説話として翻案したのだろう。そしてこの話をベースに日本独自、特に江戸時代になってさまざまな生まれ変わり話、説話や怪談が作られていったと推測される。

くだん(件)
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もはや言うまでもない、一晩しかもたない人頭牛身の怪物で、予言をして死ぬ。江戸末から明治大正まで、おそらく仏教説話用の道具化、見世物としてそのミイラと称するものがはやった。予言の部分は同じような寄り来て予言し去る「予言獣」が、それこそ門前に来て疫病除けのお札を売りつける図像として使われており、それは伝統的な行事のような、職業のようなものでもあったから、実証のためのミイラ捏造もあったかもしれない。説話としては畜生道に落ちるなよ、という戒め(脅し)か。都市伝説化したのは図像的なイメージといくつかの小説によるものと思われる。また、実際に顔の潰れる奇形は世界のニュースではひんぱんに流れることで、薬物などなかった時代にも稀に人の顔に見える薄命の奇形が生まれたことはもちろんあっただろう。


by r_o_k | 2017-06-19 13:34 | 怪物図録