2018年 04月 07日 ( 3 )

紅卍教、田中河内介怪談拾遺

中國の紅卍敎

ーここに到って、吳さんは,兩手をあげて、ウキウキ踊る恰好をして見せた。これも放射能のナセルワザかもしれない。
今日の科學者は、現在の科學で證明されないものは、みなインチキ呼わりをします。飛んでもない思い上りだと思いますね。今日證明されなくても,明日は證明されるかも知れない。そう考えるのが、本當に科學的なのです。事實,人類の知識なんてものは…。
人間のタマシイの放射能は、具體的にやって下さいよ。
この調子では、私が、放射能敎の敎祖にでもなると、吳さんは早速信者になってくれそうである。これから、話は中國の紅卍敎のことになって、呉さんはその神秘性に就て詳しく語った。
二人の者が、T字形のコックリさんみたいなもの(フーチと稱す)を、兩方から支えていると、その足の方が砂の上に、天下の名文を書く、それも一時間三千字という速さであるという話など出る。四百字詰の原稿用紙にして七枚半だから大した速力である。これも何者かの靈から發する放射能が書かせると思えば、アリソウナコトになる。
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さて、この対談の席は、午後三時頃から御馳走が出て、六人の客が參加した。 一座は八名と相成る。私の組が、東日學藝部記者,漫畫家,寫眞班員と私の四人。先方が和田三造畫伯·日置昌一氏,この邸の御主人と吳さんの四人。畫伯の名は讀者諸君も萬御承知、日置氏は史學者で例の平凡社版「國史大年表」の著者である。
時に映畫は見られますか?
妹が好きですが、私はあまり見ませんです。每日會館の下で、文化映畫をやっている時、よく行きました。あすこは、いつも空いていたからよろしいのです。人混みが嫌いだもんですから。
ー映画の話から、私は龜井文夫監督「にはと
り」撮影中に起った、不可思議極まる體驗談を始めた。それは、播磨灘で慘殺された、田中河內之介父子に携わる怪異談で、いろいろと無氣味な出來ごとを語った末に、私が倒殿場の町で買った「田中河内之介」という書物に關する放射能的奇々怪々談をした。
「いや、その本なら私が著者です。」
と、日置氏が云ったので、一座のもの皆ゾッとするものを感じ顏見合せた。これは愈々、心靈放射能說を裏書きするような現像である。

この時、既に歸らねばならない時間となったの
で、引き止められるのを固辭して、外へ出る。玄関脇の紅梅は今が盛りである。私たちの木炭自動車が、長い坂を下りきるまで、吳さんは門前に立って見送ってくれた。

世問には、彼を狂人扱いにする者もあるようだ
が、決してそんなことはない。ただ,常人ではな
いだけだ。先日某誌から新九段吳清源に何か希望することを書けというハガキ回答を求められたので、「どうか遠慮なく強くなって下さい」と書いて返送した。

〜徳川夢声「同行二人」呉清源の巻、前記事参照
OCRソフトによる

by r_o_k | 2018-04-07 12:45 | 不思議

浅草オペラ拾遺〜Wikipediaにあるけれど速記録だとこうなる

「江戸趣味テナー」

あなたの一番最初の舞臺は?
京都の南座で、新國劇の旗舉げ興行の時でした。東京の旗擧げが新富座で、散々の不入りで
中上、そのあとです。山川浦路や上山草大など居た。勿論その時は劍劇でなく、中村吉蔵の"信賴者"と、もう一本か二本何かあった。【註。新富座旗擧げは大正六年四月、出し物は、額田六福作「暴風の跡」、野上彌生作「一事件」、岡本綺堂作「新朝顔日記」、松居松葉作「急行列車」である。京都に行って急にそう出し物が變る筈もないと思われる。この"信賴者"というのは、「急行列車」を藤原氏が"寝台車"と記憶していて、その速記違いか?】
私は、松井須磨子の芝居を見て、是非ともシェクスピアの芝居が演したくなった,それで新國劇に入ったんだが、京都に行って、たまたま田谷力三の唄を聞くと、今度は急に歌唄いになりたくなって、それから淺草のオペラに入った。町田金嶺が中學の同窓で、それを賴って行った。一番初めに習ったのが”リゴレット"で、先生は藤村悟朗。


なんでも私が聞いた話では、日本館で、あなたが威勢の好い、江戶ッ子の職人になって、西洋式の唄を大いに罵倒して、オツな咽喉で小唄かなんかやつたというが…【笑】
いやいや、そんなオツな藝當なんか僕にはないよ。あの時は都々逸ですよ。 何にしろ、バタ臭いことが嫌いだったから可笑しい。學校の庭なんかで町田君がバタ臭い歌を唄うのは怪しからんと騒いだ方なんだから、…當時は、清元延壽太夫に夢中になってた僕なんだから。【大笑】
そのころの浅草オペラって、どんなもんだったんです?
ただもう面白オカシク見せりゃ好かったんだ。今は本物をやらなければ納まらない,ーレコードやラジオで教育されてるんだもの。昔ならこの臺辭は廢めよう、此處はオーケストラが難かしいからカットだ、てな風にして、勝手に省略しちまった。今、そんなことをしたら大變だ。忽ち投書がやって來て"私の持ってる楽譜にはチャンとあるのに、どうしてカットしたのか"って叱られる。
昔の客は暢氣だった。あれは大正六年ごろだったかな、赤坂の葵館で、三卷物の"カルメン"が出た時に、例のズボ達の黒田君が、今で云うアトラクションで出て、ハバネラの唄をやった。當時、ズボ達君は自分でバス唄いだと稱していたんですよ。【大笑】
バスで"ハバネラ"は、空前絕後だろう、これは受けるかもしれんなア。
所が客は笑いもしないで、感心の體で聽いてたんだ。【笑】そのズボ達君、イタリヤに修業に行ったら,お前の聲はテナーだと云われてテナーになり、日本に歸ったらバリトンになっちまった。
【大笑】

〜徳川夢声対談集「同行二人」養徳社、東京日日新聞連載s25〜藤原義江の巻

OCRソフト利用

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by r_o_k | 2018-04-07 12:02 | 本・漫画

冥府の正体〜戦前の琉球怪談(写真追加)

昭和初めの本に琉球怪談があった。うろ覚えの聞き書きだという。〜

夜半、大肝な若者達が墓地に集まって、肝試しをやるといふやうなことから、中で最も强い男が、より掛ってゐた墓の中から髦を摑まれてゐるので、身動きが出來ないと打明けると、外の連中が驚いてその場を逃げ去ってしまふ。
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唯一人あとに殘つた若者は、よん所なく新仏のいふことを聞いて墓にはひる。此のへん彼の地の墓の様子がよく分らぬので確かり受取れないが、何でも幽靈を助けたと言ふよりは、墓の中で蘇生した娘を助け出して、その家に送り届けたが、その緣でニ人が夫婦になる。新枕の夜、新婦が自分の冥府で過した時のこと、卽ち、墓の中であった事柄を一切聞かないやうにと男に約束させる。それならば女房にならうと言ふやうなことだったと思ふ。ところが程經て日數がたつに連れ、男は約定の一件が氣に掛かるものか、冥府でのことを聞きたがり、約束を破棄して何でも聞かせろと毎夜のやうに妻に迫るので、妻は溜息もろとも、「仕方がないからそれではお話するが,誰にも言って貰っては困る。」と念を押し、夫の耳許に口を寄せて、

「実は冥府のことは真くらだった。」

〜類話は内地にもあるものだが、オチの空かしはいかにも沖縄ふうだ。琉球出身の人の語ったことだそうである。

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長尾豊「伝説民話考」六文館s7より

OCRアプリ使用
絵葉書彩色:ニューラルネットワークによる自動色付けに暖色系加工したもの
写真:多良間島

by r_o_k | 2018-04-07 00:14 | 不思議