2008年 02月 20日 ( 5 )

ほんとうの「隅田川」とほんとうの「梅若塚」

梅若伝説、というのがある。

室町時代に成立した謡曲「隅田川」の原話とされる。「人さらい伝説」としては広く知られたもので、類話が芝居、小説によくとり上げられた。

平安の昔、京都北白川に住むやんごとなき身分の母子。父の吉田少将は既に他界していた。その子は梅若丸といったが、人買いの男より母が病気と聞いてついていき、そのままさらわれてしまった。遠く関東にまでつれてこられたところ病に罹り、隅田川に捨てられる。幸いにも村人に救い上げられたが12で命を落とした。一年して一人の都姿の狂女が現れた。一本の柳の植えられた塚にて一周忌法要が執り行われているところ、わが子の姿を見たと言い塚にすがる。これこそ子を追ってきた母の花御前であった。そののち尼となって庵を構えたが、悲嘆の余り塚の近所の沼池に身を投じた。池にうつったわが子の姿を追ったともされる。芝居では花御前は班女という名をつけられ(これは京都の伝説的な女人名で同名の女による怪談めいた話があるがそれは本サイトを参照されたし)尼となっては妙亀という名を得たとされている。妙亀もまた塚にまつられた。

これは現在東京は隅田川東岸の鐘ケ淵近くにある木母寺の若宮塚の伝説として知られている(関連エントリ)。石浜の妙亀塚は妙亀の塚とされている(実際は上に室町時代の夫婦の板碑塔婆が建てられていることからその頃のものと思われる)。池は鏡が池と呼ばれたが実在しない。隅田川岸は広い荒地で、浅芽が原といった。現在、浅芽が原の最後の痕とされるところに小さな公園と、「姥が池」がある。この姥が池が鏡が池だという説もあるが、同じく伝わる鬼婆伝説と混同しているかもしれない。そのあたり、浅草寺東になるが、花川戸という地名である。昔の地名や地図は上記エントリに詳しい。浅茅が原は広大で浅草は残り部分の一つにすぎず、現地に鏡が池ともどもごく狭い痕跡が幕末明治残っていた(だからといってそれも後付け伝承の可能性はありうる)。

ところで、埼玉県春日部市にも浜川戸という地名がある。古利根川という、かつての「暴れん坊」利根川の流路とされる比較的大きな川の、小さな、しかし深い支流は古隅田川といい、暗渠化されているところもあるが、残っているところもある。その分岐する西側が浜川戸になっている。もちろん運輸交通の要である川では珍しくない地名ではある。しかし、この「ふるすみだがわ」の先に、もはや移転して(現在中学校の校庭の場所)小さな祠になってしまっているが、三囲神社という社がある。言わずと知れた浅草の対岸、向島の三囲神社と同じ名前。ここにも同じような神狐の奇異な話が伝わっている。
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春日部のあたりは縄文時代には入り江であった。時代が下っても川は大きく乱れ、何度も流れ直している。それだけ起伏無く平地であり、人が住むにも便利な場所であった。そして交通にも便のいい場所であった・・・まだ海が大きく入り込んでいた江戸よりも。

そう、梅若伝説はこの「古隅田川」の伝説としても残っている。

現在の古隅田川は古利根川の単なる支流だが、流路を頻繁に変えていた室町以前においてはここが正真正銘の隅田川であったという(ちなみに「元荒川」もある)。

これは恐らく江戸時代になって考証家が言い出したことだと思われる。だが伝説がもし架空のものでなかったとしたら、説はおおいにありうるのである。

古隅田川の流れる先、新方袋という地は鏡が池の跡が近年まであったという地というが、川端に、そのまま梅若塚も現存している。
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伝承自体はまったく謡曲のとおりである。したがって江戸のものと同じである。
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塚は満蔵寺という古刹の門前にある。柳が一本植えられている。
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春日部には古の伝説が多く残り、江戸以前の関東の香りが残っている。

機会があればどうぞ。



蛇女房伝説の赤堀池のあった祟蓮寺
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古利根川の碇神社のイヌグス
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古利根川
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古隅田川
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春日部重行公首塚(最勝院)
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浜川戸富士塚(重行公居館跡)
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春日部八幡神社
~富士塚のすぐ脇。神馬の轡の音が聞こえるという。見事なイチョウは鎌倉の鶴岡八幡宮から飛んできたという「飛び銀杏」。参道入り口脇には、在原業平が都鳥の句を詠んだのはこの古隅田川近辺の地であるという説に基づいた江戸時代の古碑がある。
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業平橋
~業平が都鳥の句を詠んだことにちなんだ橋。古隅田川にかかる。ちなみに古利根川にはユリカモメ(一般には「=都鳥」)がいる。
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元秋葉神社の夫婦松
~銀杏と松が絡み合った珍しい古木。秋葉神社は区画整理のため移転しているが、落ちてきた天狗が静岡から勧進したもので、のち火事のとき屋根に立って風を起こし消し止めたという伝説がある。
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参考:

by r_o_k | 2008-02-20 23:41 | 旅行

怪奇百物語・碗貸し

古い墳墓に碗を貸してくれ、と言うと貸してくれる。返すときは倍にして返さねばならない。・・・いかにも古墳の埴輪や須恵器を借りて日用品として使わせてもらうという庶民の習慣に基づいた話のように思えるが、わざわざ気味の悪い古墳の、焼きの必ずしもいいとは限らない遺物を使わなければならないほど食器に困っていたのか、盗掘者への戒めとか、一種の信仰行為であったとか、もう少し掘り下げて考えなければならない話だという指摘がなされています。千体地蔵の信仰では地蔵堂内の小仏像を借りて願をかけ、返すときは倍にして返す、すなわち地蔵が無限に増えていく仕組みがあります。願掛けのため神域から何かを借り(しばしば人に見られないように)、叶えばお礼を返すという行為は民間信仰の土俗的習慣としてかなり一般的でした。「丑三つ参り」なんて典型的なものです。特に大きな古墳は(時代的に伝統の断絶が100年単位であったはずで、被葬者不明のことが多かったと思いますが)武人の遺物が多かったことから八幡信仰などと結び付けられ神格化されるとともに怖がられました。ひょっとすると戦勝祈願に遺物を持ち去る習慣があったかもしれない。返礼は盛大になされただろう。敗北は返礼をしなかったせいにされたかもしれない。案外いろいろと推測の可能な、単純でもない話です。
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by r_o_k | 2008-02-20 21:20 | 怪奇百物語

ササル歌詞ササル日常

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ジンとコルテモニカが好きって、なんでまったく違うオトなのに。

歌詞がわけわからんからです。

歌がわけわからないからなんですね。

なんでもかんでもわかりやすい時代に、韻と陰だけで曲書いてみたり、異様な歌い方で聞き取れなくしてみたり、でもそこでこっちがおっ、となる。聞き込もうとする。で、凡庸ならなーんだ、で終わり。

そこがなんか、凡庸じゃない。だからいいんだ。

洋楽はまったく化石になってしまった。化石を解凍してリニューアルしたような邦楽が今はいちばんおもしろい。

もっとおもしろい連中はいっぱい、いるのだろうな。

一昨日の朝、あたりは綿を詰めたように静寂に包まれていた。脳が腫れたような感覚とともに、両耳が聞こえなくなっていた。

わずかなオトと視覚と想像で、回復する昼までをしのいだ。

もっとおもしろい連中はいっぱい、いるのだろうな。

iPODshuffleを買い、ここ二年くらい買ったポップス系を詰め込んでみたが、一年ぶんも入らなかった。オトは悪い、鼓膜の痛くなる金属質の高圧縮音。でも管理が楽だ。シャッフルなのでアルバム管理はできないから、中田ヤスタカ関係で固めることにした。SOS復活に向けて耳をラウンジにあわせておく。

昨日、ご無沙汰しているかたが入院した知らせで病院に駆け付けたが、仕事場に外出中ということで花とメモだけ置いてきた。見舞いなんて人のためじゃなく自分の気持ちのために行くものだから、無事が確認できれば後はべつにどうでもいい。

さあ今日は何が起こるだろう。
by r_o_k | 2008-02-20 10:58

怪奇百物語・おとろし

恐らく実体のない江戸妖怪。口伝はほとんどなく姿は画本にしか現れない。前髪を一束垂らした獅子頭のようなもので、鳥居の上に居住まい、夜中に通ったり罰当たりなものが通ったりすると落ちてきて押しつぶす。教訓妖怪かもしれない。
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いかにも水木先生向きな姿であり、じじつ水木先生の絵で有名になったといえる。
by r_o_k | 2008-02-20 02:00 | 怪奇百物語

「アポカリプト」

これは史実ではないです。目に見える表面的な部分はともかく、内容的な考証はしていない可能性が高い。想像上の「征服王朝」インカ文明にはむかった一部族の生き残りと1戦闘部隊の追走劇です。ここで執拗に描かれる被征服者に対する残酷だとか横暴だとかいうのは、西欧的価値観のもとのものだ。特に、宗教が絡んでいる以上虜囚であっても生贄行為に対して露骨な恐怖や反感は感じていたかどうかは疑問だと思う。この映画では一際えぐく描かれていますが、王の小さなデブ息子が玉座でニヤつきながら生贄行為を眺めているとか、少なくとも神聖な空の神との対話の場であるピラミッドの上に王一家がずらっと揃いエジプトのように扇で涼みながら目の前の神官と斬首官を「鑑賞」しているといった、まるで西欧的な爛熟腐落の状態があったのかどうか、永の間に成立した文化というのは生まれたときから植えつけられた価値観に支配される世界なのだから、心臓を抉られ首を落とされる人間が居るというのは日常であった筈で、このような奇異なサディズム的感覚で眺めること自体はなはだ疑問(イギリスや日本がかつてそうだったように、頭でサッカーをするといったヘンに軽い感覚になっている可能性はあるが)。支配者階級が儀式自体みな無力であると自覚しており、てきとうに形式化しているというどこかで見たような設定も何かインカ文化にはそぐわない気がする。確かに文化的に殺戮的な側面はあったとしても、今もたくさん血を受け継いだ者が生きている大国家インカに対する侮辱でもあろう。連中を煙に巻いて生き残った主人公が最後ざまあみろ的な顔で「未来」を見つめるシーンに至るまで、思考停止してひたすらただ「西欧的な因果応報話」を愉しむべきなのだろう。ただの残酷映画にヒューマンの味塩が加わったかんじ。美術的なリアリズムを買って☆二つ。
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by r_o_k | 2008-02-20 01:07 | 映画