参考:神戸新聞「安産祈願し「亥巳籠」 日岡神社」
亥巳は「忌み」とのダブルミーニングと思われる。日本武尊命の生誕神話で、その安産を祈祷したことから始まったとされるが、明治時代の文献によれば今よりもかなり厳しかった。
陰暦初の亥の日(元日が亥の場合二番目の亥の日)から巳の日まで七日間を亥巳という。
氏子はその前日までに糧食を準備し、初日は全ての仕事を休んで、みな門戸を閉ざし、台所の刃物や竈口など厳重にしまったり蓋をする。戸や障子を開け閉めするのにも決して音をたててはならないから、布や紙で巻く。鋤や鍬は縄で堅く縛る。畳の上は渋紙か毛布を敷いて、内庭にはむしろを拡げ、下駄やぽっくりは一切履かず男女とも草履を履き、大笑い、大声は禁止、とにかく静粛にしている。御見舞と称して毎朝日岡神社に参詣する以外は一切外出はしない。夜は遅く寝るが、寝るさいには必ず焼餅を一つ二つくらい食べる。四日目だけは中の宵と称して風呂にも入り火も起こし刃物も用いる。この日に湯に入ることを御相伴という。さらに後三日ぶんの糧食を補給する。明治末の段階では商工家にかぎってご祈祷を受けると残りを免除されたといい、大半の家はそうしたという。
この物忌みのような行事では神罰がやたらと伴うとされていた。
まず夜に便所へ行ってはならない。無理に我慢する。
籠もり中に騒いだり、火や刃物を使うと日岡山が鳴動し、その者は必ず神罰を受ける。
籠もり中に出産すると、親子共死ぬ。そのため維新前までは、生月が正月になりそうだとなると、祟りをおそれて無理に流産させることも少なくなかったという。
ただ、氏子が正月に臨月を迎えることはたいてい無かった、とも言う。(大畑匡山「日本奇風俗」晴光館M41)
怪物図録(本編)

そもそも江戸時代、神仏でも神はひどく畏れられる存在で、神仏習合のさい仏を仲立ちにしてやっと神様へお参りができるようになった(伊勢神宮)、といった厳しいものであった。明治時代、天皇の権威が非常に高まったのはこの神様の極めて異様な権威がそのまま引き継がれたところにも理由があったと思う。じじつ江戸時代まで天皇は権威や型式は別としてかなり人間的な存在としてあり、武家に姻戚関係を利用され、幕末はとくに権謀術策にも関わっていたのである。