
文政三年秋、大伝馬町二丁目きせる問屋升屋善兵衛なるものの娘、ゑい年18に突然、祐天上人がのりうつり六字名号をかきて名を則祐天としるす。昔「かさね」を解脱させた祐天僧正を一目見たい、ゑいに又降りくるのを待たんと愚人多数集まり門前に市をなす。果たして時折むすめに降りては名号をしるすがそれを酒宴に持ち来たものを見て蜀山人、弥陀のふた文字を変えたるはまさしく狐狸のわざならん、貴き名をかくをはばかりてわざと書き間違えたものなるべし。折角貴き祐天上人のお手跡を拝もうと口をすすいだ意味が無い、とまた盃を傾けて座興の狂歌を詠む。
祐天がのりうつりたる名号のひかりをみたの二字にこそしれ
(みた=見た、弥陀)
余りに訝しきことなりとて大伝馬町の名主馬込氏が自ら升屋に出向きさまざまに詮議し問い詰めたところ追い詰められて本性をあらわした、まさしく狐憑き。いよいよ厳しく問答したところ脱けていった。この娘にきつねを付けたのは升屋の後家なるもの、出入りの絹商人と通じていたその商人のたくらみであったとのこと。露顕したところで絹商人は失踪、あるじはまだ年若きとて後家は実家にかえし娘ゑいは親類に預けたあと、しばらくは支配人に店を運営させた。(文宝堂散木しるす、「兎園小説」第十一集 十月二十三日海棠庵集会の席上にて披露した話)
文政八年一年間に月一で開催された奇談会「兎園会」で披露された話をまとめた兎園小説は幕末近い文化文政期の貴重な風物記録として今も親しまれています。滝沢馬琴が中心となっていました(著作堂という字を使った)が一人でまとめたものではむろん無く、また本編以外に外集など編まれた大冊です。大田南畝の逸話となっていますが、晩年に未だ平気で狂歌をよんでいたのか、ちょっと疑問はあるものの、5年前の話(南畝は既に亡くなっていたが)だということで信憑性は案外あるのかもしれません。
狐つきは精神的な理由・・・ストレス・・・によるものとするとすんなり受け容れられそうな道具立てです。祐天上人は元禄期よりヒーロー視されていた妖怪バスターであり(累ケ淵の芝居が更に名をたかめたのは言うまでもない)学のない娘にもあるていどの知識はあった可能性がありますが、面白いのは「字を間違う」という点で、これ、狐狸や物の怪の属性としてかなり知られたものであります。弥陀の威光うんぬんは江戸人らしい合理的思考ですが、全国に少なくない狐の詫び証文系のものとして注目される「誤字」だと思いました。現物はのこってないけれど、正確に「存在しない漢字」をうつしてくれているのが貴重です。
で、紙がなくなったのです。
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