「非現実の王国で~ヘンリー・ダーガーの謎」

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映画の前半は退屈だった。彼の外面的人生、実生活の状況変化を追うことが何になるんだろう?彼の人生は空想の中にあった。湧き出た妄想や自慰快楽、渦巻く葛藤や苦悩が色とかたちに80余年間結晶し続けて出来たカオス、それが彼だ。彼の頭蓋の形質的特徴、血管を流れる血液成分の経年変化を統計化するような外面的な分析で、その産物を評価しようとするのは無益な作業だ。真に内面的人間は外面的状況には全く影響されない。外のものは単に内なる発想の核、きっかけに過ぎない。人生の不幸や幸福を産物と結びつけて物語化するのは伝記作家に任せておけばいい。この映画もとある伝記作家の「作品」であることは自明だから、批判は的外れではあるけれども。

目の醒める様な色調、特殊な造形、コラージュを交えた構成、制約の無い大きさ・・・執拗に描かれる、他人の性夢を覗くようにムカムカする不快な登場人物のさほど前面に立ってこない、怪物や植物や自然文物が全面に踊る場面で一気に睡魔は去った。ナバコフの世界だけにこの人を押し込めるような見方は私は嫌いだし、この直接的な「生臭い人間たちの物語」は抽象化の作業を経ないと受け容れ難い部分があって、見ていて辛いところも多い。ところで彼の「非現実の王国」・・・素晴らしく意識的な題名・・・の骨格がほぼ完成していたと思われる20世紀初頭のアメリカ都市部では、新興国としての急激な産業振興にともなう個人の価値の差別化が露骨に激しかった。ダーガーのような「被差別者」はけっこういた。アイヴズが人知れず最後の「答えのない質問」をミューズに投げかけていたのはまさにこの頃であった。彼は世界音楽の先鋒に立っていたにもかかわらずこの後半世紀間忘れられたのである。マーラーも死んだ。ここで描かれたダーガー像はエリック・サティのそれにも似た姿をしているが、サティは病的な性格こそ極めて近似しているものの今現在思われているよりずっと音楽家として社交的で、既に偶像でもあった。彼は「プロの中のアマチュア」だ・・・アイヴズと同じく。ダーガーは「アマチュア」ですらない。

彼は「王」であった。

アーティストでありたいと一度ならず思った筈であるがそれは大した問題ではない。彼は王であり、王国を失って死んだのである。

認められたい、いつか誰かに発見されたい、そう思ったことも一度ならずある筈であるがそれは、たぶん、よくよく聞き込んだらきっと、大して重要なことではなかった。

彼は彼の中にしかない王国の王としてその長大な叙事詩の中を生きた。誰も叙事詩の筋書きに文句を言わない。結末を求めない(事実正反対のふたつの結末が生涯の終わりに描かれている)。彼自身を満足させればそれでいい・・・いや、ひょっとしたら彼自身にもこの王国のことは制御できなかったのかもしれない。人類の歴史がただの個人によって制御され続けることが無いように、王国の歴史もまたダーガーによって制御され続けることはなかったのだろう。混沌に目鼻をつけなかったからこそ延々と描き続けられたのかもしれないとさえ思う。

いずれ幸せなことである。

王国の王として、80を過ぎるまで食い繋げたのは凄く羨ましい。私は全くダーガー的な人間であるからこそ、彼の生き方に羨望を感じる。

彼自身に自覚があったか知らないが、彼にとってその「産物」が死後、評価されようがどうしようがどうでもよかった・・・「遅いよ」という老齢の台詞は不遇な芸術家に多々聞かれる脊髄反射の発言だったのではないか。本質的に王国は彼と共にあり、彼と共に終わった、彼の人生が王国にあったのだから、人生が終わったらその役割は終わったのだ。

あとは物好きやアイデアに困ったアーティストが勝手に啓発されるだけ。

ああ、何とカッコイイ生き方なんだろう!

映画としては☆一つ半。ダーガーの奇異な文物がアニメとして動いたって・・・別に・・・。絵として描かれたものを動かすというのは想像力をスポイルされる気がする。

・・・私は「アウトサイダー・アート」という言葉が嫌いだ。アートは本来アウトサイダーのものだ。メインストリームであろうとサブストリームであろうと。区分けや差別は享受する者にとっては不可解な狭い慣習に見える。
by r_o_k | 2008-04-15 00:46 | 映画

岡林リョウの日記☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi
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