墓場鬼太郎四回目
2008年 02月 01日
せっかく板についてきた墓場版鬼太郎アニメだったのに、せめてシュールな感じにおさめられなかったんかなあ。ざんねん。
寝子の末路がちゃんと残酷だからいいか。音楽には過剰反応してしまうわ。
そっちでは鬼太郎やってんの?
俺が最後に見た鬼太郎はなぜかオカリナを持っていてそれが武器になると言うめちゃくちゃなのだったけどな。
なおそれらの中に「つげ義春の美少女キャラ見たい」という話もあったのですが・・・・水木の下で彼がアシスタント(背景と一部キャラ?)をしていたことを知らない世代が、昨今の出版リヴァイバルで、さも言説しているのが微笑ましい次第でして。
色々賛否ある原典回帰ですが。・・・・できうるならこの辺のかたには周知な竹内版をアニメ化してもらいたいといえば荒唐無稽の無茶でしょうね(笑)
私はマンガやアニメとしては余り執着はないんですけど、古来の怪奇因果物としての水木作品は好きですので、そこがだんだんとおろそかになってきた今、ちょっと苦言をていしたりしてしまいます。鬼太郎誕生話のオリジナルは京の「飴買い幽霊」で原本も他人の作ですし、猫娘も元は別の因果いんねん話ですし、その辺りおさえた上での怪奇な背景描写がどうも、説明もなく流されていって、おろそかな感じがします。反面、あの歌をえんえんと流すとは・・・日曜版鬼太郎でもよかったのでは・・・
別にコミカルな現代アニメの語法でやりたいなら、それはそれでいいんですけど、どうにも半端ですね。猫娘の変化顔が「怪奇猫娘」の顔だったり、どうでもいいデテールには凝っていたり(フランク永井氏への皮肉であるトランク永井氏はさすがに(→トランク重井氏→)トランプ重井氏になってましたが)、そういうヘンにマニアックな拘りも何か厭です。
しかしどこがつげ兄氏なのだか・・・そもそもつげ氏は色んな画風をことごとく真似できる(た)のが凄いところで、水木マンガの人物もどこがつげ氏作なのか識別困難だったような。。水木サン自身も「生きるために」いろんな画風を使い分けることができたみたいですけど、このへん考え方に師弟関係的なものがあったのでしょうか。劇画って案外単純で絵心のある人には真似しやすいとも言いますけど(「五円玉」というパロディ作品がありました)。「水木女性」の分類分析は後世にたくされた仕事の一つでしょう(笑)
その後が読みたいって気もしないではない。
子供向けと大人向けなど、掲載誌ごとに作風をはっきり描き分けていたので、今けっこう子供向けばかりが水木しげるだと取りざたされているのは滑稽で歪んでる気がしますが、この作品など、内容的になかなか表立って復刻を喧伝できないよなあ、とも思います(苦笑
日野日出志さんなどグロものマンガの源流をたどるとみな水木サンにたどりつきますね。。
水木女性の件では、デザインのオリジナリティーとしては、恐らく戦前の少女向けのカットあたりの、引用符がぷんぷんしておりますが、世間は水木=異形をしているのは明らかに間違いですね、妖怪図版ものの本でそのつど美形女性を書けるものと力説もしております。
>鬼太郎は貸本時代は少なくとも「お手伝い」は使って無い
この辺がつげの証言とことなっており、金銭問題も含め・・・一時期トラブルの対象となっていたような気がします。すくなくとも・・・時期はともかくアシスタントとしての仕事としてかなりの水準でこなしていたのは確かであります。
竹内版
>竹内画の鬼太郎は結構です(苦笑
反応しましたね(笑)人間の味方をする鬼太郎はこれが最初という価値などもありますが・・・公では難しいでしょね。まさに20世紀裏コミックスです。因みに貸本といえば水木より「人間時計」や「猫の喪服」の南徳のリヴァイヴァルが公になされればいいなと思うところもあります。
>類似や革新を単純に論じるのは難しいとも思います。
いまの日本の文化全般がサブカルチャーと芸術の区分というか様式を踏まえて受容がなされていない点が、利点にもなっているが、問題点も孕んでいて現在に重くのしかかっているような気がします。
>サブカルやらB級マニアの、ともすると作者すら眉をひそめる「時代背景を無視しそのもののフリークスぶりだけを取り出して面白がる」語法が、
これがそののしかかっている点の第一点でありますね。
実は昨今の日本の近代や現代音楽復刻ブームのある意味これらの虚構めいたところが通じる問題点を孕んでいて、招き猫時代から子とあることに警告しておりました。
つづく
これらを培ってきたのは、ニフティーあたりの閉鎖的環境であり、その後ネットラブルの火種となってもいるし。
昨今の秘曲発見と証する、大澤や須賀田という楽曲注目の牽引力ともなっていたのですが、本来の池内や諸井らのアカデミズムすらいまだ、受容されていない状況をみると、ポスト伊福部特撮音楽としての、単なるマニアックアイテムで売ろうとしているのではと邪推もしたくなります。
しかしこれを初心者がさも風潮や論説で楽しんでいる振りをしている様を見るといかんしがたいところもあり、今回の 墓場周辺にも そのタームが発生しているのにうんざりします。もっもセンスはいいので唯一の救いですが、なにか底の浅いものを感じるのは否めないですね。つづく
但し、「あーる」漫画歴史上ある区切りを明確化したような、つまり潜在していたサブカルへの記号手法を前面に確立した点では、重要なところがあるので全否定できません。
>風忍のなんやら変なマンガが復刻されていたときも余り読まなかったので
「竜」とか80-90年代徳間のオブニマス単行本のメディウムへの短編ですね
うーん丁度高橋のアダルト路線の夢幻もメディウムが初出ですね、あのオカルティズムと怪奇趣味がアングラしている、あたりは、今にして思えば受け継がれた血脈の最後の輝きだったのかとも思えます。
何故なんでしょうね。かつてはけっこう重視されていたこのあたりを押さえずして何故日本のクラシカルミュージックを語れるのか、、、「秘曲」は傍の趣味(サブカルってまさにこの意味も含んでいる言葉だと思います)として語るならいいんですが。
結局「世代」の問題なのかなあ、故伊福部氏への歪んだ受容というのは特撮、というキーワードが支配的趣味になる世代特有のもので、また世代交代が進めば違うものが・・・と思いつつ、結局ガンダム世代とかドラゴンボール世代とか、後者は「主題歌が世界的にヒットしている」というところなんてまさに似たような感じも受けるんですが、、、
パロディ含めマニア趣味がシラケ世代の一種ファッションとなっていた頃の気配の残る吾妻ひでお作品とか「あーる」あたりとか、あれは一回なら許せるんですけど、みんなやってしまうとどうかというところです。ジャンルの違う話なので、音楽に関する扱いはまあ、大目に見るべきかもしれないですけど、ただ、紙媒体は残るので、後代に変な影響が現れたりすると困ったもんですね。。
あれそうでしたっけ???けっこう新しかったんですね、というかメディウムは高橋葉介先生を読むための媒体に等しかったので、他はほとんど覚えてないんです。アマルガムという意味では少女漫画の語法と怪奇漫画の語法が結晶して生まれたのが「怪奇篇」ではあります。ああいう、時代をへても全く古びない作品は、それこそ何かに似ているとか影響があるとか言われてもやはり価値は磐石たるものがあります。
>けっこう新しかったんですね
しかしメディウム自体もうどれだけの人間が知っているかというぐらいの時代ががってしましましね・・同じ徳間物のキャプテンもしかり(笑)当時の看板連載のガイバーは場所を借りて今もやっていますが(遠い目)。
まあメディウムの奥付の記載を忘れたのですが・・・たしか一部書き下ろしで、再掲どうだったか不確で申し訳ないところです。
>時代をへても全く古びない作品は、それこそ何かに似ているとか影響があるとか言われてもやはり価値は磐石たるものがあります。
ですねこれに尽きます。
高橋作品の怪奇物はその筋の漫画雑誌が刊行されるまでは、短い一時期行き場を失った節があり、また夢幻シリーズ自体、多少内容に整理がされ始めており、最初期の陰鬱な要素が作者の何処かで、件の要素で結実したといえそうですね。
また高橋のタッチもあれを受けいるべく発展していったかのような気もしますが、この辺どうでしょうか。
実は最近またその手のガッカリする例を見せ付けられてしまったので、多少ネタにはなしますが、平成ゴジラ主要スタッフがからむ、タカラトミーのジェニーをつかったチープな特撮人形劇が、去年放映されていて講評で、最初は近い世代の文脈が生きた毒のあるパロディーと声優の好演もあり、中々楽しめたのですが、結局台本側の枯渇か怪獣特撮方面の要素が増してきて、最後は東宝ライヴラリーで所有の権利の伊福部映画音楽を、一部類似に作った他者の劇伴奏を導入に使用する状態なったのですが、使用方法がやはり、笑いに逝っているようであり、まあ楽しめるが?これによってこの世代の受容は半ば冷笑だったのかと再び思わされた次第です。
つづく
決して伊福部音楽をきらいではないのですが、あまりに目の色を変えている一部関係者は苦手な故なんですが、色々と思い起こされるところです。
これは自分自身が特撮経由でない伊福部の認識をしてしまった偶然ゆえなのかもしれませんが、冷静に考え直す時期にきたのではと思えます。あっ好評がが講評に・・IMS・・使えない自分もうだめぽ(笑)
なんだかんだ言われてましたが初期ひそかに好きでしたw
今も続いているといっても読む気が起きませんが、サイボーグ009的な感じで続いてるんでしょうか。掲載誌が休刊廃刊というのは、やたらとマンガ雑誌が創刊されたころ(スピリッツとかが創刊された頃でしょうか)に頻発していて、途中でぷっつり切れてしまった例に何度もであった気がします。そして今も記憶にはあっても、どこにもなく、読めないところは貸本の状況にすら似ているのかなあ、などと(苦笑)「ホラー科学マンガ」というのがあったんですが、単発だったのかなあ。アフタヌーンとかあっちに流れてそうだなあ。
自称ファンの立場からは余り言及したくない不可触領域でもあるのですが(笑)そのときに一番描きたいものを描く、という態度と現実的な生活収入という面の折り合いを、どちらかというと前者に重きを置いているようなところが漫画家の態度として好きで、興味を失ったら途中でもやめてしまう、しかし興味のあるときの勢いには余人を寄せ付けないものがある。昔は「話し」が素晴らしくて、しかし「絵」がなければ成り立たないという、非常にマンガらしい魅力がありましたが、アクが強く、個人的には折り合いのついた80年代以降のほうが好きなんですね、流行り絵にも敏感でその時々のものを取り入れていて、ただ現在は比重が絵にいかれているようですが、それはそれで他の商業的漫画家とは一線をかくし独自路線を貫いているのが素晴らしいです。あの描法は他にないです。多分、また飽きて別の方法を見つけられるでしょう。諸星大二郎さんとかかつて好きだったんですが、一時期同じような立ち位置のかたと見てましたね。今の諸星さんのマンガは余り読みません。
クラ畑は啓蒙活動の悪い側面について今一度考えるべきだとは思います。商業主義はキライではないんですが、芸術音楽を追求しているジャンルの人間を商業的にプロモートする要素として、まあ最初は依頼仕事としてプロフェッショナルな活動として受けているところですが、音盤化編曲化BGM使用など原点から離れさせていくと、被啓蒙側はそこを基点に全人的理解を構築しようとする。この部分はまあ、ご本人が納得していればいいんでしょうけど、仮にも「クラ側から」語ろうとするのであれば、いったん離れ本領を見極めるべきかなと思います。