瞳孔に、女が居る!
30半ばくらいだろうか、デニムのパンツにざくななりをしている。中国の古い話を思い出した。煮詰まった頭を冷やす良い機会だ、少し観察しよう。
彼女は薄汚れたエプロンをして、こまごまと動き回っていた。料理を作っているようなのだけれども、居姿以外のものは見えなくて、ただその手の動きや何かを捻り何かを開く仕草でそう感じた。いや多分”瞳の感触”でそう感じたのだ。
ずく。
痛。
思わず左掌が上がる。
右目の女が嬉しそうな瞳を左に向けた。走るような仕草をするから、むずがゆくて仕方ない。掻き毟りたいが、それもできまい。走るようには見えても、足踏みをするばかりで、瞳から出てくる様子はいっこうに無い。
”オカエリナサイ”
文字だけが頭に浮かんだ。左の瞳にちいさなスーツが見えた。再び痛みが襲う。歯を噛み締めて、再び顔を上げると、右目の女はいつのまにか左目に居た。スーツの男とじゃれている。左目が次第に熱を帯びてきた。
”・・・”
左目から、再び右目に痛みが走った。二人の人影が瞳の暗闇に蠢く。熱い。右目が熱い。
「どうかしたのか」
「・・・早退します」
疲れているのだ。余程だ。
ふらふらと揺れる頭を押さえつつ、薬店で目薬を買った。刺激的なやつだ。これで一発リフレッシュすれば、こんな妄想洗い流せる。
・・・とおもったのだが、
封を開ける気がせず鞄にしまうと、帰途についた。玄関を上がると狭い洗面台にそろり近寄る。どきどきした。
恐る恐る覗いた瞳には、仲良く食事をする夫婦の姿が、さっきにもましてはっきりと映し出されていた。
何故か安堵した。
痛みや痒み、そしてれいの熱にも直ぐに慣れ、奇妙な同居生活がはじまった。1週間もすると、たのしくもなってきた。昼間会社で覗くのが楽しい。ああ、掃除機をかけている。何かに水をやっている。化粧して着替え。何かの支払いにお出かけだ。ついでに夕食の材料を買って。鍵をあけて、ご帰宅。
ソファで何か食っている、太るぞ。
子供もいないアパートの一室で、ただ日々を暮らす彼女・・・たのしげな彼女の姿を瞳に焼き付けて、席に戻ると不思議と仕事もはかどった。だが、半年もたったろうか。
私は頻繁にトイレに立ち、鏡を覗く。同僚からはすっかりナル呼ばわりだ。
最近彼女は料理をしない。掃除も余りしていない。化粧もおおざっぱだ。外出も少ない気がする。食事の前だけに見える。コンビニ弁当かなにかだろうか。
・・・気の抜けたような目。
残業のさなか、暗いトイレで見る一人ぼっちの彼女の、空気に縋るような目は、とくに私の心を捉えた。亭主は遅い。このところ遅いのだ。私より遅いから、平日顔を合わせることはないだろう。それどころか、土日もいないことが多い。彼女の生活は土日も変わらない。
砂のような顔をしている。
何かを口にしているときだけ、暖かみが戻る。
何か話し掛けたい。でもそれはできない。
私も折角休みなのに、出歩かず日がな鏡に見入ってしまうことがある。我ながら危ないな、それでも見守っていたかった。ある日見知らぬ男が訪ねてきた。ふたりは深刻な顔をして暫く話し込んでいた。内容はわからない。嫉妬?を覚えた。が、最後に男は何かを受け渡すと、彼女の肩に手を置いただけで、去っていった。
彼女は泣いた。涙は流さない。が、気持ちが目の奥に染みてきた。同情する自分がいる。
同情、だ。鏡にぐっと近づく。
グラスを傾けている。今日も酔っている。そのうち寝てしまうだろう。私は寝顔を見届けてから席に戻ろうと思った。そうしなければ可哀相な気がした。
・・・
時折こちら・・・私を見ているような気がする。
考えてみれば、私は彼女の横顔ではなく、こちら(の方)をまっすぐ見る顔を見たくて、それでいつも、覗いてしまう。そんな私にとって残酷な、月に一度の・・・それでも月に一度は・・・熱い夜。ほんとうに熱い、、目が。目が熱くて、ろくに「観察」できない。目があついせいだ。・・・
・・・彼女の日々を観ていると、私は罪悪感のようなものを感じることがある。
亭主にたいする罪悪感かもしれない。私は亭主よりも長く、彼女といるのだから。
でも、私は家賃を貰えぬ家主のようなものだ。タダで瞳を貸しているのだからそのくらい構わないだろう。覗き見ではない、見させられているのだ。第一あの亭主は何だ。新婚だろうに、もう・・・
・・・
ある晩。
電車のなかで、私は何気なくひとりの男に目をひかれた。
どこかで見たことがある。
黒のスーツ、朱のタイ、せわしなく新聞をくる仕草・・・
あの男
瞳の亭主だ!
時計を見る。まだ6時だ。
今日は記念日なのだろうか?そういえば彼女の様子はいつもと違っている。今朝から何かを手に持って、じっと見詰めていた。それで身じろぎしない。あぶなげなのかといえばそうでもない。まるで柔和な顔をしている。嬉しいのでもかなしいのでもない。気持ちは何も伝わってこない。口元がしまって微動もしないのが何時に無く・・・
私は彼を追った。彼がどこへ帰るのか。
手前三駅くらいで別路線に乗り換え、程なく住宅街の一駅に降りた。まだまだ人影が多い中、怪しまれずに、とあるアパートの下に来た。私は電柱の影に隠れるようにして、鞄から手鏡を出した。さいきんは手鏡を使う。街灯のもとでまた瞳を覗くと、肘をついて椅子に座った彼女の顔が見えた。
いつものぼうっとした風だったけれども、
目を見た。
やはりいつもと違う・・・何か違った。
しばし見とれているうち、
男の姿は消えている。
・・・男が瞳の中に現れないことを願う。
このアパートは私の瞳ではないことを。
そして彼女が今晩もまた一人で居るということを。
願う。
・・・痛。
左の瞳に黒いスーツが見えた。てしまった。彼女の顔色が変わる。私は思わず息を漏らした。彼等は私の瞳に住んでいるのではなかった・・・。二階のあの部屋の窓、あの二つの影。動き、この鏡とそっくりだ。
ふと
私は別の気配を感じた。注意深くアパートの入口を覗く。脇の植え込みの中に、男が居る。若い。深深と帽子を被り、何かをしている。長いアンテナを伸ばし、良くは見えないが・・・
機械のような物を覗いている。
”キョウハドウシタノ”
頭に言葉が飛び込んできた。まるであの機械から来ている。
”ナンダ、ハヤクカエッテキテ、ワルイノカ”
”・・・ワルクナイ”
二人の影が重なった。
”・・・”
熱い。
右目が熱くなってきた。いつにもまして今日は・・・片目を覆いつつ若い男を見やると、にやにやわらいながら、赤いスイッチを押している。
「覗きだ」
”・・・ドウシタンダ・・・”
”ダッテ、ヒサシブリダカラ・・・”
・・・熱い!
どうにも熱くて仕方が無い。
なんてことだ。
確信する。多分あの盗撮電波が、私の瞳に飛び込んできたのだ。私は覗きの覗きをしていたのだ。知らずとはいえ、・・・私はただの覗きだった。
”ネエ、ココデイイワ・・・”
”ナニイッテルンダ・・・ウ。・・・ドウカシテルゾ”
熱い。でも鏡を見る気がしない。これ以上見るのは許されない。
分かってしまった以上。
あの男を捕まえるか。
それとも。
鞄に手をやった。
これでさっぱり洗い流してしまうか。
ずっと鞄に入れっぱなしだった、
「目薬」を取り出した。
箱を開け、封を切るとつんとミントの刺激臭がした。
上を向くと街灯に大きな蛾がとまっていた。
”アア・・・”
ぶーん、と大きな黒い影がよぎる。
「けけけ・・・」
茂みより押し殺した笑いが聞こえる。
ふと彼女の顔が頭をよぎる。熱い顔が頭を。
直接・・・
熱い。
熱い!・・・
ぽたり。
右の瞳にさっと広がった冷たいものが、ゆっくり室内の景色を滲ませていく。
通り掛かりのおばはんが妙な顔をした。涙を流しているように見えたのだろう。
彼女ともさよならだ。
”・・・”
すっと熱が、痛みが抜け、軽くなった。左目にも差し、
そして手鏡を見た。
最後だ。
揺れる二つの人影。何時に無く明るい中で、男の背に左手を回している彼女。
これほどはっきり見るのは初めてだ。
最後の姿を、目に焼き付けようとした。やけくそだ。
彼女がふと”私の方”を振り向いた。
・・・
ああ、あの窓。
灯が暗くなってゆく。人の気が消えていく・・・
”・・・サヨウナラ”
はっと、した。
”・・・イママデ、ゴメンナサイ・・・”
か細い声が聞こえた。頭の中から。
”ダレカニ、ミテイテホシカッタノ”
女が、肩越しにはっきり私を見た。
鏡越しに私を見ていた。
”ワタシヲ、オボエテイテホシカッタ・・・”
彼女の瞳には私が映っていた。
さらにその姿が、私の瞳に映っている。
そして彼女にはその私の瞳が。
無限回廊の先に私は虚無を見た。
虚無の先に灯火を見た。切ないものだった。
彼女は溶けだした。
まわした腕から、肩に乗せた顎から、短い髪の先から。
印象的な目も崩れはじめ、
まるで泣いているように見えた。
彼女は男の背中と融合し、水のように流れ、・・・
血のように流れた。
力の抜けた男の背に、
銀の刃先が光っていた。男は力無く崩れる。
”コレガ、ワタシタチノ最後・・・”
私の瞳は黒かった。黒くなった。
・・・
アパートの灯りは消えていた。
もともと、ついていなかった。
ふと茂みを見ると、男が、まだ何かやっている。私は、わけのわからない怒りに駆られて飛び出した。
「な、なにするんだヨウ・・・」
ラジコンの操縦器が落ちた。上を舞うヘリコプターのおもちゃが、ゆっくり旋回して、マンションのむこうに消えた。
ぶーん
・・・
翌日休みをとった。不動産屋に電話をして、あの部屋に行ってみた。がらんどうだった。築年数のわりに壁紙が新しく、すえたような、でも甘いようなせつない匂いがする。借り賃は格安だった。
「ここはねえ・・・安いから」
不動産屋はばつの悪い顔をして、
「前の借り主が・・・ご夫婦だったんだけどもね」
「わかってます」
窓際に植木鉢がひとつ残っていた。枯れた小薔薇が無残な茎を残していた。彼女が水をやっていたのはあれだったんだな。
キッチンを指でなぞると、埃が綿のように指を覆った。
「ここ借ります」
不動産屋は妙な顔をして鞄をまさぐる。
床に僅かな染みが目に入る。しゃがんで、手を触れた。
暖かかった・・・
書類を受け取りながら、私は漠然と考えていた。
私は部屋に居てやろう。
昼間だ。昼間に居てやればいい。
彼女の為にはそれくらいしても構わない。
・・・
さて、
亭主の方はどうしてやろうか・・・
(2000/10/12)