揺りかごから酒場まで☆少額微動隊

岡林リョウの日記☆Twitterまとめ日記。過去旅行の整理、歴史・絵画など。

変化

痛みはない。味わったことのない感触だった。
一瞬のこと、
まるで氷だ。氷がすっと通り過ぎた。とてつもなく冷たい氷が。
こごれる風が顎から頭蓋を駆け巡りぴゆと口から吹き出てすぐにやまった。
なんてことはない、浅井戸にさかさに落ちたようなものだ。
頭頂に全体重がかかったが痛みはない。身軽だからだろう。
頭蓋にかんじる桶の底は生暖かかった。
温いものがすぐに頭頂部を濡らした。またたくまに額を埋め、眼窩の上から次第に下へと下がっていく。
顎や口やその他顔にあいたすべての穴から暖気が吹き出る。ただ首だけが寒い。
温いものは蛇流となり悉く顔面の溝という溝を埋めつつ天頂にとぐろを巻いて蟠ってゆく。見えるわけではないがそう確信した。
赤黒い雲が今しも最後の審判を下さんとしている神の怒りのように思えてくる。もっとも、既に審判は下っているのだが。
首の下のほうからざわめきが、ぼうと聞こえてくる。頭上に地球を載せたような気分だった。
井戸の底から聞くようにぼうと響いてくる。耳にエコーがかかっている。
不快感はない。
痛みも何もない。
心すら失ったかのように気は穏やかである。終末は静けさの中にやってくるものだと誰かが言った。
ただ、歯を食いしばっているのが解けない。
頬筋の力を抜くのがあたわない。
つんとする鉄錆の匂いを防ぐ手立てもない。
鈍い音とともに木桶をかぶった私は、体のすべての制御ができなくなったらしい。
瞼も動かない。乾きつつある眼球の表面を潤さんとするように、どんどんぬらぬらしたものが満ちてくる。辛うじて睫がそれを抑えている。
頭が四方八方から引っ張られるように感じる。全部の毛根が引きつっている。
それは暖かくいのちを守るもの。今は不快な汚泥としか感じられないもの。
まもなく上の睫が両とも歪み、水面を押さえきれなくなる。表面張力が破れると赤黒い景色が一気に周りを染めてゆく。
湿った木桶の黒ずんだ茶色の、さかさまに見えていたものが、赤黒く霞んでゆく。
だがそれより早く、視界のすべての端から黄色い粒粒が増殖し始める。まるで真紅に染まった薔薇にたかる無数の油虫のように。
井戸が深くなる。どんどん深くなっていく。もう浅くなんかない。観衆の声がどんどんと顎下深く遠ざかっていくから。
そういえば遠い昔、井戸の底に落ちたことがある気がする。
見たことのある女の顔が浮かんだ。
怒りと安堵の入り混じったような顔。
遠くに羊が見える。
緑の屋根の家。
高い空。
黄金色の麦畑。
風の通り道。
ずぶ濡れの足跡。
陰惨な景色と安らかな景色が渾然一体となって、全てが痺れていく。
メデューサのように水面に広がる髪の毛が見えた気がした。
木桶の底にいるはずなのに高々と掲げられた木枠の上から眺めおろしている。
もはや引きつるとか動かないとかそういった感覚はなく、ただ、冷たく今おこっていることを見つめている。
鋼鉄の刃のように。
ロープに引き揚げられた鋼鉄の重き刃のように。
赤黒い染みの取れない刃となって私は木桶を見下ろしていた。
もう何も思い出せない。
何もできない。
ただロープによって上下するだけ。
吊られている間はただ見るだけだ。
深紅の泥水に満ちた桶から正装の男が黒い塊を掴み揚げる。両の手で掴み挙げた毛の塊のようなそれがボールのように投げられた。
検死官が制止しようとするがもう遅い。ボールは狂乱する観衆の間を行ったりきたりしている。小気味いいほどだ。
ゴールのないフットボールが続く。
私はどうしたのだろう。
あれは私ではないのか。
あの目鼻が潰れた毛の固まりは私の頭ではないのか。
疑問はただ沸くだけで解決するつもりも気も起きない。
言葉が思い浮かばなくなってくる。
わたしはなにをするのだ。
・・・わたしは冷たい鋼鉄のかたまり。
わたしはなになのだ。
・・・
・・・

・・・
・・・
by r_o_k | 2007-07-18 01:20 | Comments(0)
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