歴史小ネタまとめ(2017/1/21-31)とろけ地蔵めぐり、芝の原風景、吉原高尾稲荷、天妙国寺の武士の影、品川伊達屋敷近辺

歴史小ネタまとめ(2017/1/21-31)とろけ地蔵めぐり、芝の原風景、吉原高尾稲荷、天妙国寺の武士の影、品川伊達屋敷近辺_b0116271_11043847.jpg

クレイジージャーニー録画見。イノシシが鋭い下牙で股に入り大動脈を突き上げて殺傷しようとしてくる、という話は初耳。これは「股潜り」されると魂を失うという猪豚の妖怪の話と通じている。

柳田国男が学校の先輩だったことを、いま雑誌広告で知った、宮田登先生が教官だった学校にも通ったのに何故日民を専攻しなかったのか、、、あそこ難しい本たくさん読まなきゃならなかったからな、、、楽器捨てて本読まなきゃ単位くれなかったからな、、、仕方ないな、、
一方で現役最高齢級の漫才師も先輩というのもおかしなことだ どっちかというとそっちのほうが憧れる

宮田登先生が今ご健在だったら、実話怪談本の一冊でも書かれていただろうか たった一つしか聞いたことがないので学んだ人はどこかで話してほしいけど、故人が怖い学者先生となるとそうもいかないのだろうか

まあ学んだ先生みんな故人という時点で、もはや自分が語る番なのだが、生憎オバケなど怖くないほどに実生活で怖い目にあいつづけているから、過去の日記見たって「繊細だったなコイツ!」としか思わない ほんと、オバケって「何だったんだろう」

ギリシャの昔から、縄文の昔から都市は都市の上に築かれてきた。江戸時代だけでも災害や開発のつど埋められてきた跡が明らかに残っている(江戸東京博物館)。空襲跡も埋められた。被爆瓦礫もまた埋められて今の地面がある。発掘を待たずとも長崎など生活の瓦礫層の断面を見ることはできる。

今の創作(もはや骨董品の「時代劇」みたいなお約束物は別)って研究家レベルの凄まじく考証を重ねて行われないと許されない風潮が出てきているのは嫌だなあ、と思ったら、凄まじい考証を背景に名作が生まれるという現実を前に、いよいよ創作って大変だと。真田丸のようにずば抜けた脚本のみが赦される

目黒なので行人坂の大円寺へ足を伸ばし、とろけ地蔵を見たら高輪の「ゆうれい地蔵」にも行きたくなった。維新後に本芝二丁目(三田近くの芝四丁目、江戸の町割が残る)の源光寺を合併して光福寺となり、寺町として栄えた二本榎界隈にて所謂「飴買い幽霊」の噂をたてられた子安地蔵。塩地蔵だろう。 pic.twitter.com/hBa3czxzaz

幽霊のような姿は塩を刷り込んで願をかけた名残。そもそも芝浜の源光寺(写真の位置と特定)にあったものを高輪に持ってきたもので裏に白い跡。光福寺には昭和に近隣で掘り出された巨大な織部灯籠残欠が江戸前期の墓石と無縁塔に祀られ壮観。 pic.twitter.com/scivAnyAuW

源光寺のあった旧町名本芝町は芝四丁目の学校(都営三田駅出口側)と逆サイドの、大通りとの間の比較的狭いエリアに位置するエリアで、町会名として復活している。NEC本社をはじめとする巨大なビル群の間にあってエアポケットのように江戸の宅地が残ったのは寺のおかげだろう。半分原型を留めている pic.twitter.com/A87iJOJ2lK

江戸の切絵図(goo地図がわかりやすい)で本芝の砂浜から陸地側に入ったところを見ると、大名屋敷などほとんど無いあたりに隣町から続いて寺の密集するエリアが見られる。そのあたりの曲がりくねった小道が残っており、残存寺名と照合すると、源光寺は拡張道路に貫かれ移転されたことがわかる。 pic.twitter.com/jmtkIx4yTM

隣町と比べても砂浜から一層はなれたところにある寺で、境内や際にあったならば地蔵が浜風潮風を直接受けて風化したという説は疑問。廃仏毀釈で同じ浄土宗の寺院に吸収されたさい新たに作られたという説もあるが、そうなると風化ではなく人為的に幽霊化されたのだろう。水掛けに束子掛けもしたのでは? pic.twitter.com/3rbrQsfFaH

こちらは織部灯籠。戦後近所で出土した由来の分からない残欠で一揃の銘も無く、切支丹灯籠の形式は整っていない。しかし人物彫刻は明らかに仏教のものではなくしかも明瞭。もし十字部分や火袋などもあったとしたら目立って巨大なものとなり、切支丹と関係がなくても目をつけられた筈。不思議。 pic.twitter.com/B907xY6LBG

お寺の起源をみるのに無縁塔チェックは欠かせない。古い物は彫刻がなされ廃棄再利用を免れて残されがちだからだ。光福寺の無縁は江戸の寺では古いことがわかる。寛文年間のものは稀に見る大きさで銘も多く、その他小さい石仏も童子多めだが元禄年間が多く、17世紀のものである。珍しい形式もある。 pic.twitter.com/a567WgPjGJ

摩耗して痩せた地蔵は珍しいものではなく、むしろ何の名前も由来も付されず各地で見受けられる。水中出現と塩擦り込みと何らかの被災のパターンがあるが、漁師の網にかかったという最初の説は顕現と結び付けられがち。浅草寺が代表格。 pic.twitter.com/3QmvH41JBP

青森県むつ市のゆるキャラ「イタ子」ちゃん
南無〜 pic.twitter.com/yiAjXRcBfk

川崎じゃなくて広島というところがあまりに遠すぎて湯本ファンには寂しいが、これで稲生某ゆかりの三次に行く口実ができるので、早めに開館してほしい。それにしてもほんとの研究者というものは、目的を達成すると(あるいは引退すると)蒐集品に執着せず全部寄贈することが多いんだなあ。 twitter.com/asahi/status/8

水木先生の東京にのこる収集品もいつか境港に全部移送され展示されるのだろうか。


直虎の井伊家が古代から続く領主とか、ドラマならいいけどヒストリアでやったのには仰天したなあ。巨石信仰の発祥って古代に限らない。祭祀跡、須恵器が見つかったのは特筆すべき事だろうけど、それが井伊家とどう結びつくのか。

Franz von Bayrosみたいなデカダン画家きらいだけど、公立図書館でも寺山修司だのの本に載ってたなあ。親指強調表現は日本人(らしきもの)以外の絵でも少し見えるような、、悪魔の蹄みたい 1910年蝶々夫人はトスカニーニにとっくに初演されてて、そんな奇怪な衣装でもないか

芸者遊びの暗部(?)はまた違うだろうからともかく 蝶々夫人そのものとなると、1907年メト初演のときかな?ジェラルディン・ファーラーの写真がここに(さすがアメリカだ今でも通用する垢抜けた感じ) www.theoperablog.com/cheat-sheet-ma

プッチーニの滅茶苦茶な世界観はともかく、楽才は凄いんだ(ろうなあ)ドイツの絵師公爵様はプッチーニは描かなかった 独墺の作曲家しか描かなかったし、シュトラウス2世の娘とも悶着したようだし、音楽的な人ではあっても趣味は保守的で、ふくよかな見た目と違いいろいろ問題ある人でもあるか。。


秋葉原は駅名だけの秋葉ッ原で、広大な神田の一部だったことがよくわかる(というかついこないだまで駅周辺は空き地)
旅籠町は神田明神の参詣客のための旅籠があったのか?江戸には時折ある人名の付いた町も神田川沿い東側に。 pic.twitter.com/JThobjQMsX

戦争末期千葉へ疎開する要所となっていた秋葉原駅で厭な匂いがしたところ「覚えておけ、これが人の焼ける匂いだ」って言われたというの、ここだとどのへんが焦土と化してたんだろうかなあ


昨日の芝浜関連で高度成長期前の地図だと思う、このあたりはすごく変わった部分と変わらない部分があり、海沿いは昭和初期に既に大きな埠頭が出来上がり埋め立てられているからわかりにくいが、「本芝」が昨日呟いた「芝浜」、「芝浜町」と「芝浜松町」は確か大名屋敷があった辺りだと思う。 pic.twitter.com/k82BpdwBqJ

昼休みに芝浜へ。地図が混乱してるが現在の鉄路は元第一京浜(東海道)から海側に移設されたもので、それを潜って昭和40年代まで浜が残っていた。そこから運河が伸びて今も船溜まりとして残ってる。 pic.twitter.com/NM9bgG7cgy

わかりにくいけど鉄路を越えこの正面が芝浜のほぼ全景で、右半分に砂が敷かれています。元々のものじゃないだろうけど。北の端からの写真が二枚目。四枚目が南の端と思われる。この手前が三菱自動車本社、そして田町駅。西郷海舟が会った跡で、昔の本には旧藩邸の建物の写真が出てます。海へ突き出てた pic.twitter.com/OQsv5b97hb

田町駅内に西郷海舟会見の図がありますが藩邸は逆側、森永越して三菱自動車本社の更に向こう端に碑文があります。そこから線路(海)側へ入ると芝浜(本芝公園、ほんと狭い)の南端、御穂鹿島神社(これは本によっては真ん中あたりから移転したようにも書いてある)。最近新しく併合新築したそうです。 pic.twitter.com/A6O6tu0q16

今や芝浜はヘビが出ますよ pic.twitter.com/cppowjuE3B

夜の「芝浜」を札の辻から(田町駅のドーム状カバーの向こう側) pic.twitter.com/wwdTv1hQda

芝浜の四方のビルに行って見下ろせる場所を探すが、陸側三方は住宅か企業なのでムリでした。正面線路越しに区の施設が新築されてますが、陸地側を見下ろせる場所がない。プールからは見えるかもしれないけど、そもそも施設内撮影禁止とのこと。。結局駅2階から斜め見るだけ。往時の雰囲気や無し。 pic.twitter.com/jrSyEwFHL5

ついでに焼けた割に変わらない浅草界隈。ぼけたけど江戸町揚屋町角町京町が新吉原の四角形を浮き彫りに。火災で悲惨だった弁天様の池も見える。日本堤も山谷堀(山谷地区とは違う)も浅草馬道(道路の両脇が町となっている)も確認できる。一区〜六区まで書いてある。ちなこれ皇居内も詳細に書いてある pic.twitter.com/ZGMH0b8x2H

有名な神社やお寺が抜けている地図。敗戦ゆえの裏がありそう(今でも一部でアメリカ言論攻撃は禁忌とされる)。小塚っ原のスサノオ神社はまったく記載されず(塚があるので移転も難しい)、回向院(二分)と円通寺、大橋手前の八幡様のみ施設として残る。池はミニサイズ、柳は新植


この国の司法は日本とは違う概念なので引き続き外交問題としていくべき。当該倭寇が日本人である証明をせよ。
対馬で盗まれた仏像「韓国の寺に所有権」 韓国で判決:朝日新聞デジタル www.asahi.com/articles/ASK1T

「呪い」の正体はこういった「示威行為」で相手を精神的に追い込むことという説もあったな>釘刺した「わら人形」で女性脅迫容疑、51歳の男逮捕(TBS系(JNN)) - Yahoo!ニュース headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn? #Yahooニュース

東京湾の原風景はまだ残ってる。たとえ夕方のただのひとときだったとしても。ついでに木更津からちょいと南の方へ下れば、東京湾というより普通の鄙びた漁村。いや、東京湾の原風景は木更津より北に求めたい。子供の頃、晴海というとサイハテの地のように感じた。お台場はまるで巨大な土盛りの様に。

瀬戸内なら鷺なんだろうが、東京湾だと何になるのかな。どこにでもいる白鷺よりはアオサギのほうが様になるが、ユリカモメになるともう川鳥だからなあ。普通にその辺の川に住み着くし、さすが都鳥、銀座の空も飛んでるね。

すずさんが故郷でつくっていたのは海苔だった。東京湾ももちろん海苔。疎開中、雑煮に「はば」が欠かせなかったと聞いて、内房の南の方へ行って漁港のお婆さんに分けてもらったら、こんな大きな海苔じゃないと言われた。時期があるんだけど、こないだ築地で違う名前で生のが売ってて、買えばよかった。


あ!そんな場所あった、思い出した。何かで読んだあとテレビで見たんだ。むかし猫が踊る動画があったが、そういう動画ほかにもないかな。この駅行ってみたいというかこの電車のったことないや。RT横浜市営地下鉄踊場駅

"星めぐりの歌 宮沢賢治 (演奏)" を YouTube で見る youtu.be/9lVpA4iqT5k 素朴な味わいこそ宮沢賢治の世界だと思うのです 世界は革新的な文化を進めていた時代にすくない情報から我が世界を構築した 明治の洋楽受容史をふまえて聴かないと見誤ります

イギリス海岸にすわって旅の残りの時間を電車待ちについやした ブラタモリ的な意味でそこはイギリス海岸であったが、そのじつ多摩川下流の川岸と変わらない排気ガスと雑草と濁り水の普通の日本河川 でもあれこそファンタジーだと思う 見た目からしてファンタジーでは人は現実から逃れられないのだ


夢は夢の無いところに生える 夢のあるところに夢は生えない 夢が無いならそこに種が埋まっているかもしれない 水をやろう そして待とう 百年待てば百合の一つも咲いて微笑むかもしれない

そういえば墓参り言ったら墓の真ん前に百合が生えてて、引っこ抜いたけど、会いに来たとしたら残念だ

漱石にまつわる繊細な言動より、毎度毎度小石川の急坂をチャリで飛ばし下っていたいうような話が、なんだか帽子を抑えて走る金田一耕助のイメージとかぶって、漱石先生の探偵物を書く人いないかと思ったが、子孫がもめてるんだったっけね

遺品整理で出てきた和服を自分で仕立て直すなんて身近にしょっちゅうあったことで、まして戦時中の考証しようとしてもみなさん自己流でまちまちだから、そりゃ劇場でも、話題にするよね
和装は昔は当たり前の文化で大量の決まりごとも常識だったから目線も厳しいよね

うちにあった昭和七年のガイドだけど、那古観音の上に紫式部の墓があったらしいね pic.twitter.com/yCl3NvC0wg

しょーもない民話ばっかの大正時代の新聞投稿ですが、「沈黙」が映画になったので紹介。禁教時代に残るはずがない恋物語の一つ、カソリック教会で見たキリスト像に召される少年の映画を思い出す。雲仙の大寺相国寺が切支丹を嫌悪した。その小僧は南無阿弥陀仏と言い、海を示すマリア像と心中したという pic.twitter.com/uFDcrr307N

怒涛の横文字文章でまるで意識高い系の起業家みたいな文章です 戦前ってそんな時代

<どくろをまつる高尾稲荷>

さてと。吉原大門 pic.twitter.com/iNXRipWhIz

さすがに万治年間は遠くなりにけり。。 pic.twitter.com/rD5nh59o9c

ゆらゆらとされこうべが流れ着いたとさ(右端) pic.twitter.com/tNUjsslK6m

さすがにね、この墓石は後者がほんとうだとおもいます(最後の写真は巣鴨へ移転する前の場所、北斎が亡くなった長屋のすぐそば)標識は前者に立てられてますが、お殿様が立てたかも怪しい気がする
商売っ気でいうと後者なんですが、浅草から越した現在は綺麗にされてますね
二代目高尾太夫の旅は続く pic.twitter.com/0FHZEfLbBd

角の肉屋さんのあたりかと思ったら、江戸東京重ね地図なるものがあって、「土手の道哲」こと西方寺(西巣鴨に移転)はこの茶色の建物から後ろのビルにかけてあたりの庵だったようです。道標が現存するので角かと思ったら微妙にずれていた。そして薄雲太夫の招き猫発祥伝説は今戸神社より信憑性高そう。 pic.twitter.com/Ohk60zJ7nq

西方寺の元々の位置(但し明治時代になっての話)、グー地図で照合したら通りの角から狭い一帯となってますが、道自体が少しずれたようで、このスカイツリー写真のベルト屋さんのビルの敷地のようですね。墓地は更に引いて四枚目の山谷堀写真の右手ビルあたりのようですが。グー地図も厳密ではないかも pic.twitter.com/eU1pvhlRQe

遍照院(北斎終焉之地)墓地から山谷堀側。山谷堀はこのマンションの位置で支流のドブ川が二条別れていたようで、正面のマンションが境内北端にあたり、合力稲荷の場所は全く変わっていない(遍照院本堂も)。うーむ、マンション正面の写真を撮っとけばよかった。まあまた行くことあるでしょう。 pic.twitter.com/mnrzRRT6sw

はい。もと麻布仙台藩下屋敷内、高尾稲荷(現在は麻布氷川神社末社)に寄っておわりー。ちっちゃ!

案ずるに仙台高尾は二代高尾とは「別に」実在したがきちんとお殿様のところに入り、しかし若くして亡くなったことから祀られた(品川の下屋敷には梅一本生やした塚もあったとか)んではないかなあ。 pic.twitter.com/REY7HzTWiT

今回そもそものきっかけとなった、髑髏を祀る高尾稲荷神社の写真を改めて。髑髏は半世紀後の漂着でただの流行神だったにせよ、墨田の流れを中心とする江戸の風流も香る半日でありました。感覚的には巣鴨だな、タマシイが入ってるのは。 pic.twitter.com/BV5f4cP3nk

西方寺(もと日本堤際隅田川そば、現西巣鴨)の二代目高尾太夫墓には招き猫の石像があり知られざる参拝者の愛玩物となっていますが、これは元々門柱に載っていたものでボロボロ、最近も破損されたらしい。これは元禄期の薄雲太夫愛玩の招き猫伝承が、二代高尾と混同され猫塚まで作られたとのことです。 pic.twitter.com/tkiMhp21P1

西方寺は「道哲」と通称されたのは二代目高尾を不憫に思って祀ったことから始まり、新吉原界隈の「投込寺」3寺の一つとなったとか(悪い噂もありましたが維新後は積極的に名乗って土地柄「繁盛」したようで、釣り銅標があります)。童女塚は浄閑寺でいう新吉原供養塔。竹屋渡の高尾塚碑もあり。 pic.twitter.com/f8T033REac

メモ。三浦屋薄雲太夫(元禄期)について、商売繁盛の招き猫の由来説。西方寺の元位置について再考させられた。尤も切絵図ではまた少し違う感じ。 blogs.yahoo.co.jp/yutahon0281/41

メモ。見逃してた青物横丁の妙蓮寺に薄雲太夫墓あり、但し詳細不詳。もとから品川にある寺で新吉原との関係?強いていうと姉分の二代目高尾(初代薄雲説も)の吊るし斬りを間違われ近所の仙台公屋敷(張本人とされた元仙台公が蟄居)絡め作られたか?無事源六に身請けされ、愛猫家とも。三代いた説あり

新吉原近くから移転した投げ込み寺、練馬か板橋だと思うが思い出せない。という備忘録。

道哲和尚は二代目高尾の左脇に地蔵として祀られていますが、このような型式は異例にも思えます。共に江戸初期にはありえない庶民墓ですので後世造立でしょうし、道哲の死が高尾の死の直前ないし直後説もあって、道ならぬ恋説も芝居化されました。坂戸市の永源寺には高尾と道哲の駆落ち伝承と墓がある。 pic.twitter.com/P7HCdIgCOj

メモ。ネット情報だが日本堤の隅田川側端にあった刑場で仕置を受けた者、新吉原から密か運ばれ捨てられた遊女を初代道哲が供養したところから始まったという庵のち西方寺、巣鴨に移転の際二代高尾墓下から骨壷が2つ出て、道哲に違いないとして現配置になったと。線香畑は戦前浄閑寺の塔婆林立に近いな pic.twitter.com/oVq3Q3hnyx

右脇の無名遊女供養塔は昭和のものです。 pic.twitter.com/EILMNFMTwT

あと、西方寺の竹屋の建てた高尾塚碑も、最近まで猫と一緒で門前にあったらしい。何か理由があって世俗色を払拭したかったのではないかと思う。招き猫発祥とも書いてない。道哲の名は表札に残っている。いずれ何も説明もなく墓地は周辺寺院と共同の広大なもので、時間がないなら調べて行かないと困る。 pic.twitter.com/7dr71KCV0z

西方寺二代目高尾墓にくっついた石像群、なぜこれが?というのがこの小さな庶民板碑で、実際の刻銘時期は知らないが享保十二年に百十二歳!こちらDL注意、江戸は白髪三千条なので話半分。 www.google.co.jp/url?sa=t&sourc

戒名が信士とあるから男、伝説高尾に操を立てたのかも。 pic.twitter.com/QIpBSXfN1Y

西方寺と春慶院の二代目高尾の戒名は同じ(震災戦災で共に墓石の銘刻全貌は確認不能)。最後に西方寺の新造織部灯籠。 pic.twitter.com/jLNiIcTuK5

五島美術館の庭園は今でこそ周りが整然と改造されまくりですが国分寺崖線もしくは多摩川河岸段丘の森崖面を利用したもので、五島氏の奇妙な折衷趣味の現れた石仏石塔が配され、小型古墳まであり宗教的には外連味の強いところで趣味人にはおすすめです。展示物は時々度肝を抜かれるけど少し難し目。

五島美術館は椿山荘や三渓園のように実物の古建築や遺物を買い集め移築するような「本物志向」ではないようですが(そこまで広くない)神仏混淆はもとより異国趣味まで感じられる不思議な空間です。庭園目当てなら躑躅越しに多摩川が見渡せる4月にどうぞ。展示品により静嘉堂まで足を伸ばせば。

静嘉堂文庫美術館って、趣味人にはとんでもなく素晴らしい展示をするところで周辺環境もよい。二子玉川ついでに行くところ。このくらいで交通不便とか高いとか言うなら、庭園だけということでタダで見られる五島美術館にとどめておいて。タダだったよね?


メモ。幸稲荷情報。芝の幸稲荷は以下由来も。
「社号ははじめ岸之稲荷と称せられておりましたが、氏子・信者中に幸事が続出したためいつの頃からか、幸稲荷神社と尊称されるようになりました。」jinjamemo.com/archives/post- 品川、銀座にも由来不明の幸稲荷小社を確認。

はい。すぐ品川行って参りました。大井公園は伊達下屋敷の一部で「万治元年(1658)に仙台藩伊達家が麻布(現・港区)下屋敷を返上して、新たに大井村に拝領した下屋敷であった」と標識にありますから万治年間にここに蟄居したのは確かです、しかしのちに越前藩と交換し一部を残して移りました。 pic.twitter.com/HwpaUBLhcd

切通し右高台の公園に築山があります。「この屋敷内には高尾太夫の器を埋めたという塚があり、その上にはひと株の枝垂梅があったと伝えられている」近代埴輪片が表採され古墳とのこと。計三基確認、他現存せず。高尾塚ではないでしょう。ちな奥に山内容堂一家の大墓が纏められてます、見晴らしは良い。 pic.twitter.com/qSieqJjnf7

仙台坂は伊達屋敷の名残。尻目に東海道(第一京浜)を上って閉鎖的な海晏寺前を渡って旧参道らしき右脇に幸稲荷。芝の末社?新しいか。 pic.twitter.com/Ovx3AxDtab

さらに上って第一京浜沿い妙蓮寺に行き着くわけですが、ここ、来たなあ。思い出した。コンクリで本堂が覆われ見えないが雰囲気は良い。薄雲太夫の墓。綺麗に角柱成型され銘刻も前にしかなく質実。新しそうだが年代は江戸中期で合ってますね。左脇の尼僧さんが関係してそう。関東大震災被災者追悼碑が。 pic.twitter.com/t91YNF0xQx

丸橋忠弥の首塚はあくまで伝説。斬首されたその首が寝起きの和尚の枕元にあって、ねんごろに弔った。五輪塔様式を取り入れた特異な型式、ただ一言の刻銘の文字の形、これも新しいと思います。 pic.twitter.com/deOOdMnjSf

寺勢のすごい天妙国寺に寄りました。ここは無縁塔も有名だったのですが、一部分けられたようで戸惑いました。伝伊藤一刀斎墓(本当はその系統の剣士の供養墓らしい、伊藤一刀斎がそもそも伝説上の人)が分けられたと聞いて見に来たら、確かに。剣を下に構えたお姿も心なしかはっきり見えるような(笑) pic.twitter.com/7SzrlKXIX0

時間が余ったので、大井まで戻って少し先に。小泉純一郎さん手植えの桜まである来福寺。綺麗だけど庚申堂が焼失した模様。。阿波の藍商人大坂屋一族塔が有名です。徳島との深い関係。このあたり下町風情がありますが、近くに梶原稲荷。伝梶原景時の塚を祀ってます。狐塚として願掛け周回する。不思議。 pic.twitter.com/KuSXPtJMRp

そんなこんなで、まあ、江戸の人の足なら余裕な距離に分布してましたよ、薄雲太夫の墓と品川仙台屋敷。山内容堂墓には驚かされた。かなり敷地を狭められたようで灯籠が散乱し荒れてましたが、高知の筆山と同じような巨大石を脇に添え維新後の神道様式の土まんじゅうを築いてました。雑草は刈られてた。 pic.twitter.com/RbZS2mWPxn

仙台公麻布屋敷は万治年間と合わない?


伝死病鬼って青面金剛のことって書いてるのあるけど、このRT古代エジプト壁画みたいな擬人化姿を見ると、素直に疫病神に思えるなあ。青面金剛とか夜叉神とか仏教やら仏教に習合された神やらよくわかりません。伝死病鬼はトト神によく似てる。青面金剛に平癒祈願するのとトト神に平癒祈願するの同じ。

先程の漫画の爺婆さんは19世紀生まれかな、恋愛結婚じゃなかったと思う。愛はあとから育むもの、先に結婚が決まっている時代。この世界の片隅にを見ていて、すずさんが(原作は昔見染められたという設定だが)有無を言わさず呉に来るのも当時は当然。うちの祖父母は従兄妹恋愛ゆえ駆け落ちした。

メル・ギブソンの沖縄戦映画は人道的観点からの脚本にも関わらず残酷描写に主眼を置いた例のスタイル。日本公開は難しいかもな、、、予告編や断片しか見てないが、あの惨状じゃ米兵も気狂いのように殺戮してまわるようになるよな、と変な共感を呼んでしまう気がした

ほんと明治とその精神受け継いだ後代の偉い人たち嫌いだわ・・・

横綱町の慰霊堂行ったらこういうものもあることを知っておいて。当時の写真や絵からはパニック状態が見て取れ、復興記念館階段の夜警図は流言飛語から警戒する人々の絵。日本人の排外感情は過去のものではない。>関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑



by r_o_k | 2021-12-03 12:00 | 歴史小ネタまとめ | Comments(0)

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