歴史小ネタ(2019/4/16-末)平成の終わりに、霊柩車を見たら親指隠せ、戦争絵と靖国、昭和初期の運動会、戦前絵葉書、文京区白山の石仏と花、碑文谷散歩、日露戦争遺跡と乃木大将、桜田門
2021年 11月 18日
◆津田梅子墓は津田塾だけど父仙さんは青山霊園。同じ青山霊園の黒田清隆さんが岩倉使節団に理想の母親たる女性に育つ最年少としてうめ6歳を渡米させた。当時駐米森有礼さんも青山にいる。黒田の近くに寝てる中江兆民も使節団で英国に渡った。農学の仙さんの紹介で洗足池に農家を持ったのが勝海舟さん!(農家を模した晩年の別宅ね)明治開化後の権力者は青山霊園にだいたい眠っている(明治の元勲や皇族は護国寺)。それ以外の文化人や宗教人は雑司ヶ谷霊園にいる。時代が下ると多磨霊園まで行ってしまう。
◆岩倉具視さんは品川の古刹海晏寺の一番上の墓地で眠っており、入れません。ちな伊藤博文さんも近くに伊藤家の大きな墓域があり、何かの機会がなければ確か入れません。
◆石仏本に長年の失念について答えあり。新吉原3投げ込み寺、三ノ輪浄閑寺、土手の道哲(現在は巣鴨の西方寺)、もう一つは竜泉、吉原裏(吉原田圃)の大音寺だった。つまり「たけくらべ」冒頭の寺である。ただ安政年間以降なので千人程度だとのことで、他2寺とは桁が違う。
◆民間習俗や信仰は当時は当然みんな知ってるものでも廃れてしまっては記録にすら残っておらず困惑するものがある。京都の木娘はほんとにてこずったが関東で調べるものではないと放棄した(江戸時代から木息子・木娘等という「生真面目」の連語はあったので「生」の言い換えというのは信ぴょう性がある)。
◆石仏本に「仁王様が紙礫を満身に受けて汚らしい」とある。昭和50年代の東京本である。そんな場所があったのか?「又紙を噛むかと仁王にらみつけ」は厄介な習俗を伝える川柳だがこの本には「羊の反吐を浴び給う仁王尊」と返す、甚だ下品である。
乃木さんは息子をみんな戦死させてしまったという話も戦地に送り出すとき死臭止めの高級香水を母が持たせた話も以後子を持たず崇拝する明治天皇に夫婦で殉死し家絶えた話も職業軍人は現代感覚では捉えきれない。203高地に保典氏墓は今も建て直されてるが遼東半島に兄墓は無かったのか? https://pic.twitter.com/I15z1B1TXQ
ほぼこのまま残っているそうですが、木々は生え揃っている。水師営の会談には手術台が使われて現在も現地に置いてますが、その上に掛けた白布は乃木旧宅に飾られています。半分赤十字、半分日の丸が染められていたのを塗り直したのが今の状態で、赤十字等の跡はあります。おわり。 https://pic.twitter.com/jOhNkgeblj
松屋筆記巻二(十八公舎筆記巻之二)
松屋 高田興清文儒稿
二十五 魂門魄戸
同書十五の巻に「魂門魄戸」事問何答或云、
左大指ノ爪ノ本ト爪ト肉トノ間ヲ「魂門」ト云ヒ、
右ノ大指彼處「魄戸」ト云フ、
彼處ヨリ魂魄出入故「怖畏ノ事」有時ニハ余指ヲ以テ大指ヲ握リ彼處ニ隠也
「同書」は冒頭に眞俗雑記問答抄(文応元年十二月上旬、薩州頼順)とある。
松屋筆記を「霊柩車を見たら親指を隠す」の最古の例とするものが多いが、少なくともこの記述は書写である。松屋筆記は日記のように綴られた随筆で、文化十二年以降のものとされる。明治時代の活字本では晩年弘化二年まで続いたことが示唆されている。この文は冒頭近くのため文化年間で間違いないだろう。
親指の爪と肉の間が幽門(魂・魄は死者を構成する二要素)となり、新仏や狐狸の入り込む隙となる話は近世のもので、コレラの流行時に親指を隠す旨記録がある。だが幕末明治初期、写真を撮られると手がでかくなるから隠す風習(実際に手を隠した写真がある)と同根であることを期待して調べたが、そもそも写真が魂を奪うものだとしても、大きくなる意味がわからなかった。
◆蚤の宿禰?少彦名命のこと?
うわあ!お堂がない! https://pic.twitter.com/qy7q60flGV
白山の寺町は半分とうに宅地化され、探していた下僕の裃姿の墓標は無くなっていた(それどころか脇の古刹すら大改築で石碑が処分されている)。中にまだ石仏の寺風情を残すところがあり、木に呑み込まれたり、地に寝たりしていた。 https://pic.twitter.com/lHGxjzrcQi
昭和の墓標ですら無縁化して処分されるのだもの、仏像でなく人の姿を彫ったものなどひとたまりもない。ただ、崖面の少し残る端にいくつか朽ちる大墓があり、個人の宅地内のようだが、このあたりの墓地が主たる寺をなくし無くなっていった雰囲気のかけらが垣間見えた。
お七墓のある円乗寺は大改築中だが、明治時代の地図を見るとこの一角を浄心寺という寺と分かつている。浄心寺は確か十数年前には路地に小さくあって、お七坂とも呼ばれる円乗寺前の浄心寺坂の名の由来かと思ったがずっと先、焙烙地蔵の向こうに大きな浄心寺もある。この老僕はその古墓地にあったかと。 https://pic.twitter.com/aFhZ2JXQyR
「永代供養」って文字の刻まれた江戸墓が分解されてる様は物悲しい。
伝仁徳天皇塔と牡丹 https://pic.twitter.com/FUrVZSNkPO
痛心に耐えず。今は現実を丁寧に生きていくのみ。 https://pic.twitter.com/3eSKyDaeP2
支え合ういのち https://pic.twitter.com/b0Bwpete5r
中世青石板碑の残欠に喫驚。年号等は折れ失す https://pic.twitter.com/KXa2XtUDG4
この時期の白山の寺社は花の海
これから根津神社も近い https://pic.twitter.com/vrmFF7sBvM
私の命は少しはいいので、かわりに延してくれといったら両方縮められるのか
そんなことはないと信じて頭を垂れる
大仏眠る https://pic.twitter.com/k1zXNEV2aW
◆儂は大正ぽくてこの書生ぶしが好きだな≫
「書生節」についての資料はないか。日本の音楽の元となったと言... | レファレンス協同データベース http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000254774… https://pic.twitter.com/B8puHQEG6g
やさしい陽射し https://pic.twitter.com/wOdtvbdxEv
雲がかかるのを待っていたら物好きな近所の人と話してる間にかかって終わったらまた晴れるそんなかんじで。 https://pic.twitter.com/hFC8adf1yI
式亭三馬墓(浅草から移転)
割と久しぶりの円融寺。仁王門も16世紀の創建とは知らなかった。改築されてるけど。 https://pic.twitter.com/0VtIqV0YXJ
やさしいおばあさんだったんだね https://pic.twitter.com/VeGczjq7vK
円融寺裏手の広い境内にある真公稲荷。明治時代、檀家の旧家で熱病に冒された人が言うには我かつてこの寺で経を聞き覚え法力を得て祀られていた稲荷也、荒廃してなくなってしまったが今ぞ再建すべし利益あらん、となって建てたそうです。お寺には時々ある話ですね。京都にも伝通院にもあった。 https://pic.twitter.com/rk5P5bVjTJ
式亭三馬経営の薬屋と化粧水「江戸の水」 https://www.po-holdings.co.jp/csr/culture/bunken/facial2/5.html… https://pic.twitter.com/vBPerd7bRe
屋号は「馬」をくずした「くくり猿」というけど、似てる?(最近京都の八坂庚申堂が凄いのね、むかしは知る人しか来なかった)
くくり猿は八坂の特産でもなんでもなく各地庚申堂におさめられた願掛けで、書いてあるとおり三馬の近所の浅草にもありましたよ。このような記号的な文字は確かに他にも見られる。 https://pic.twitter.com/CobnN4X91J
「る」とするのは何でだろう。あとWikipedia多分いいかげん。
◆馬場先門の絵葉書が出てきたので。(明治時代に火を出し撤去のち埋められました) https://pic.twitter.com/orGdMhh7gI
◆温泉場に卓球台、というイメージが昔の人と微妙にニュアンス違う理由がわかるわ https://pic.twitter.com/T500Ib0Ifs
船遊びができる別所温泉の愛宕池遊園地。愛宕池はまんま残っている。それにしても芸者さんを載せすぎ。ちんぼつするわ。 https://pic.twitter.com/NiMl5rpLeb
◆36.あたけ丸の船
元親記下巻高麗陣の条に毛利殿の日本丸九鬼大隅守の大アタケ元親の大黒丸此三艘は山の如しと云々 あたけ丸の事江戸砂子江戸志などにいひたるを考合すべし 武家盛衰記二十九安宅丸アタケとは大船の名也 甲陽軍鑑八巻十七品四丁甲州海賊衆の事をいへる条に小浜はあたけ一艘小舟十五艘と有
~松屋筆記五十八巻
広重初代名所江戸百景「大はしあたけの夕立」新大橋のむこうが安宅町にあたる(画像wiki)
良い摺りだとしっかりどこが御舟倉かがわかるように描かれており、現在の橋の場所が前の方にずれているのがわかる。現在の橋は御舟倉のすぐ横。
別項あり
https://pic.twitter.com/YRN8H85IGp
安宅丸は大型和船の通称とする説。
◆しらんかった。六道の辻という場所は京都以外にもあるけどここまで即物的なものは知らなかった。≫関内馬車道の裏手にある「六道の辻通り」の由来を探る|関内新聞 https://kannai.jp/rokudo/ @kannai_journalから
単なる六叉路!(しかも現存せず標柱位置もずれてる)
五百羅漢寺
◆ジェンダー論かとおもったら単なる子育ての知恵(男の子はビクトリア期の金具のたくさんついたズボン(ニッカボッカ)を脱いでトイレに行くのが大変だから6、7歳までスカートのドレスを着させる、ドレスを卒業するとお祝いする)みたいな。でも性別を明らかにしないで誘拐や攻撃から守るというのもなんか日本にもなかったっけ。。
鯉のぼりの起源説は明確なものがないらしい。江戸中期から東日本の武家の風習、最初は吹流しに鯉の絵、真鯉しかいなかったので黒だけというのが一般的な話だが、図案資料だと江戸後期からになり、もう既に商家にも拡がっていた模様。たぶんこの話はWikipediaはあてになります。
◆八女の寺坂吉右衛門 https://pic.twitter.com/vwaEPTJ3zn
◆お蝶夫人 https://youtu.be/0-2RkcOlhfo
https://pic.twitter.com/JZAaa7aSqC 長崎、上野
帰らせてもらうわ https://pic.twitter.com/BdDNKxGKND弥彦神社
神が人を呼ぶのは魂が欲しいか命が欲しい時だけだよ。。
190426 171301,平成最後 http://pic.twitter.com/93tjqv4Q60
付箋紙で仮留めしといたら印刷面剥がれてしまった(別の写真絵葉書)どマイナー旅館絵葉書なのでいいけど、新しくて綺麗だからといって安い印刷してることもあるのでほんと気をつけないと。
多良間村の本に写真があった。時期を選べば藪に入れるのかも。アコウが目印で看板の向こうに拝所があり、さらに奥にガーがあってすぐ水が汲めるが塩分濃度がとても高い。ここは独立した村だったが早くに統合され消えた。洞窟は仲筋村落の西部に続いているという。今も底は知れない。病人を隔離したとも http://pic.twitter.com/YGAQp1RKgh
ふと気がつくと昭和が追いこしてゆく
パイオニヤの明治と
自由気ままな昭和の谷間で
大正っ子の一生は
生まれたときから
日のくれの佗しさだ
スペイン風邪に悩まされ
いくさには駈りだされ
青春の思い出は
煙硝の匂いと軍歌であった
もう僕の坐る場所がなかった
虚しさが心につもり
あきらめを抱いて
人のうしろばかり
眺めながら
大正っ子の郷愁は
枯れ薄の唄であった
いまも
東京の裏街で
肩をすぼめて歩くのは
大正生まれの男たちだ
犯しもしない
罪に
おののきながら
ただこの像を見て遠慮がちに控え目なところが妙に大正っ子を連想しただけである。
ただそれだけのことである。