歴史小ネタまとめ(2019/2/1-13)五反田地蔵めぐり、浅草橋明治初期、大谷観音明治、合力稲荷明治、風俗画報と東京名所図会、カセ鳥、日本寺鋸山、日清戦争
2021年 11月 10日
◆大谷石の大谷観音は洞窟磨崖仏。ですが何度かの火災で彩色と仁王門などを失い早くから現在のような姿になっておりますよ。明治中期とされる写真、明治末期頃の絵葉書。
◆ミステリアスジャパン武内宿禰。少し食い足りないが半期〆の二倍年歴という考え方を知る。長い歴史の中には300はムリだが150歳まで生きた人はいたかもしれない。不老水が御飯水という否定っぷりも潔い。香椎宮の神主さんが武内宿禰末裔というのもロマンがある。立派な体格なので長生きしそうだ。
◆ブラタモリ。福井は一度も行ったことないなあとおもったら一乗谷は行ってた。景色覚えてた。
青色凝灰岩の大きな石仏を見に行ったのだった。ブラタモリでタモさんが西日本訛りになったのはじめてみた。
あれが笏谷石なのか(買ってきた資料がなくなってることに慌てたが特に困らないのでやめた)
一乗谷の崖上に城があってうんたらかんたらとか結構覚えてるもんだなー、石造物しか興味なかったので寺院跡の石庭らしき石組みなどみた。
◆同じ角度の浅草橋(石橋)だけど、明治初期と前期ということでこの建物が違和感。なんだろ?
井上安治の浅草橋夕景。明治6年築の石橋。大変交通量があり鉄道馬車が見える。安治のデビュー作「浅草橋夕景」(13)から東京真画「浅草橋之景」(14)へ時期差。(東京真画)は袂の木がなくなりガス燈が立っている。左手前にレンガ建築。2枚目も東京真画でガス燈が。3枚目同じ構図。大きい二枚屋根は清親の松枝町大火図で真ん中にあるが何なのか? 料亭説あるが不明。https://
◆超定番スポットで清親はじめみんな描いてる不忍池
◆山谷堀そばの合力稲荷(剛力稲荷)。こんなだったんだ。今は日本堤跡と山谷堀暗渠にはさまれて、山谷堀沿いに簡素に鎮座しているけれど、焼ける前は日本堤下でこんなに立派だったのね。山谷村社が吉原行きの遊客が首尾の良きを願う稲荷となったと。
◆今日の江戸恋で二子新地が花街だった話で、二子玉川になぜ猫塚があるかというと藝妓に三味線はつきものだから(バケ猫が憑き物じゃなく皮を剥いで張った)、ってやってて、たまたま花街跡来てたのでなにげに見たらこんな線刻。これもそういう楽器店てことだよね。
◆高時腹切りやぐら
(風俗画報)
◆江戸と明治の違いを感じる
◆サン・マロの荒い海岸に立つ杭、お、千本杭だとおもったらムール貝の養殖の名残だそうで。しかし波除けに役立つようにもおもうけどな。。糠に釘かな
たしかに江戸の気取りはないな
◆新吉原の大火、明治三十年
短き春の夜の知らぬ間に明け初めて後朝を急く阿波座烏の太郎稲荷の森の辺りに騒ぎ初めたる本月二十五日午前四時半〜焼失せし妓楼の内火災保険を附しある分は三十戸程にて内「東京火災」十五戸「明治火災」十二戸にて其他は「日本火災」の被保なり〜
太郎稲荷が出てくるのがポイントですよ。清親が寂しげに描いた太郎稲荷。
◆日清戦争凱旋靖国神社仮設鳥居写真
みつけた。日清戦役靖国神社臨時大祭、たしかにこの写真はその緑葉鳥居でした。陸海軍御用商人有志が建てて奉慰忠魂の額を掛けている。まだ馬場があって記念競馬やったんですって。
ここでは松谷さんかなり正確にかいてんだけど、明治中期はまだ正確さはそう求められなかった(読者があまり検証できなかった)だけにまったく信用できないものはあって。精細でやや安価になった写真が本格普及してくると風俗画報も写真が増えてくるのはそのせいだろう。しかしその時期のものは復刻無い
◆アシリパさんだ
日清戦争より日台戦争特集号のが分冊で大きいのは日清が拍子抜けの戦だったからだろうか。
◆ひこうき ブーン
◆ワラごもをまといて嫁を迎ふの図からの裸踊り
酔っ払って路端に落っこちて泥まみれのおばさんの絵を歌川広景含め2枚ほど見たが、どっちも幕末とはいえ似てて、何か原本あったのかなともおもった。そうすると浮世絵特有のウソが入るため信頼性は??
◆浅草で見世物の忠臣蔵人形からのニセ観音おでまし、でロウソクが倒れ火がついて大騒動。貴重な禽獣を焼かれては困るとゾウを逃がす、ハチャメチャな挙句けっこうな始末で凌雲閣からも寄付金が出たと。
◆明治中期のウェディング。
「不定形」が曲者だ。誰でもならされる可能性があり、その人だけではなく子々孫々が含まれてしまう。だから先祖は敵方武将という頭領がいたりした。家で決められた完全階級社会は現代は論理で覆せる。だが不定形なものは、それを利用して誰でも差別できるので、定義をずらされたら無限に広がる。
◆磐城市ではなぜか擬似出産する。名前だけカセ鳥とした別の祭りなんでしょ。
◆明治の切実な願い
弱虫
◆広島大本営現役の図(貴賓舘の中の写真もある)
今日のおじぞう。塩地蔵多め。街道の辻や河原道に並んでいたものがお寺に納められているの多め。五反田~武蔵小山のライン。ここ十年ですら様変わりしても顕微鏡で見れば江戸街道の痕跡。どこもでかくてびっくりだよ(最初の左はこの辺に見られる綱吉関連で珍しい像容)。斎場行の子別れ地蔵は物悲しい
白井権八は行人坂上にあった浄覚寺に潜伏していたところを捕えられ鈴ヶ森で磔となったが、鳥取の池田藩士の子であったため特別に密かに浄覚寺隣中根六右衛門が遺体を引き取り寺の裏に葬った。それが連理塚である。吉原を抜け出した小紫はその墓前で喉をついて果てた。芝居の流れである。昭和初期に浄覚寺廃寺のとき(この置き土産が今のビル建設で出た墓地跡の白骨だったのだろうか、一寺ではなかったらしいが)安楽寺へ改葬された。そのとき白い骨壷と確かに骨があったという。
一方、目黒不動の門前にも白井権八の墓があったらしい。東昌寺の跡で、今は比翼塚が建っている。今はこちらのほうが有名で、小紫が自害したのはこちらの話とされることが多い。どちらの墓も江戸時代から疑問符付きで語られるもので、処刑された罪人の骸を盗むことはおろか墓は武士であろうと時代が下らなければ建てられなかったと思われる。話としては近くの禿坂は戻らぬ小紫を追った禿が見つからず泣きながら帰るところ強盗に襲われ、近くの池で死んだ名残の名前とされる。禿塚、禿池がもともとあったから坂の名前にもついた。
長応寺土中出現出世不動尊(昭和十八年)桐ヶ谷斎場近辺の巨大なお寺の中でもとくに大きいけど、何か境内整備中のようで、少し前の地図にかいてあることとも少し違う。
幕末明治初期の戦争すぐ後に芝居がかった再現写真自ら撮ってるくらいなので、、、考証なんてできるのか、、、
◆崇元寺と御物城。(風俗画報別冊沖縄名所図会、実見してないのでは?)