この時代は今と違い剥き出しだったの少し後の鳥居龍蔵博士の本で確認済
高麗郷の絵はがきに含まれてた
…尋常小学校のスタンプ何…














◆大正時代の沖縄(八重山)写真集
大正十四年の観音堂。宮古島。石垣島。現在との比較。ドンド焼きは行っておりません。




八重山観音堂はあきらかに磐座的なものを神体にしてるけど、今はどうなんだろう。あるいは移転したか別のものか。宮古島のほうは石碑一つ残して事実上失われている。このへん新しいお寺や御嶽など入り組んでる。
大正14年の黒島と現在。ノッチの形でぴんときた。当時大木が生えている写真もあり農地化完了前の姿がしのばれる。新城島や西表島がのぞめるのは変わらない。



大正14年の西表島、日本瑞逸の炭鉱として開発された琉球炭鉱。三箇所位稼働しておりここは今は横浜の全裸老人で知られる無人島、内離島に拓かれたもの。各地マラリア蔓延し逃げられない過酷な環境にはこの本では触れられていない。深く静かな湾は積出港として今の白浜近く仲良港が中心だった。


(この2枚のみ「沖縄県写真帖第1巻」、「望郷沖縄」として復刻されている中に含まれる模様)




仲良川を始めとする西表島西部のマングローブ、大正14年。しょうじきわけがわからないが、個人的感覚では整った今より自然に野性味が感じられる。




今は八重観のツアーは来るのだろうか、ここ二十年でも全く変わった船浮。船でしか行けない陸の孤島、は船中心の昔は沢山あった訳でここはむしろ残された一箇所。船浮湾は国際避難港で仰々しいブイも浮く。写真は内離島からのもので馴染無い。八重山の鳥居は小さいとある。水落の滝もすっかりメジャー。




川平湾。ミキモトの真珠養殖場。今もやってますかね。先の船浮でも黒真珠やってたけど今はどうだろう。川平湾は泳げなくなった。グラスボートしか見ない。外はマンタスポットがある。石垣島の南を観音堂方向へ走ってると竹富島見えますね。別荘群になった。おまけ。本島運天の源為朝碑。



運天港全景はこの写真が良いか。以上「沖縄写真帖1,2」と私の写真でした。

同じ写真のもっときれいなのが那覇市歴史博物館のアルヒーフにあるのでよろしければ。それにしても船と港のうつった絵葉書はどこにも見つからないなあ。昨夏ヤフオクにでてた。うっかり横から落とされた。



〜那覇の風景(日本名勝旧跡産業写真集下巻)T7
◆運天港の髑髏塚(通称だろう)はなんとなく調べます。多分こっちでは調べがつかないと思う。歴博はドイツ語文献に引用されたこの図版を使用している。洗骨施設が洗練されてこうなったのだろうか。大規模風葬ガマって割とまだあるが、これはあからさま。守り神的なものなのだろうか?

沖縄の古い風景、とくに離島を注視。国会図書館が欠巻してるため復刻版注文してしまった。。せいふぁーうたき、禿山だったの?


せいふぁーうたき対照はこう全山をのせとくしかない
久米島はここでしょ?
尖閣はしらん
大正6年でした、古いねー


与那国島(古来女護ヶ島と呼ばれる楽園、とあるが、昔フィリピンから直接出稼ぎ船が来てフィリピンパブが流行ってたのを見「こういうことね」と思ったよ) おそらくナーマ浜(久部良)


写真:ピナイサーラの滝
西表島の看板だが変わってるわけがない。水量は比較的頻繁に変化し、ここでは大水瀑とあるが渇水時は髭水ほどの量に減る。その時期の滝に打たれたことある(今は禁止)。


写真:昭和初期の西表炭坑と仲良港。前に揚げた写真の大正時代より3社が入っている。沖縄唯一の炭鉱地としてペリーの時代から西岸が先に拓けた。港は積出港に過ぎず本格的な大船を付けられるのは舟浮港(東郷元帥寄港で知らる)とある。西表炭坑は内離島だろう。




あともう少し。
◆宮古島で一番港に近くて有名な漲水御嶽。開闢神話。昭和初期よりも敷地が狭くなり、建物は近年、鳥居は最近リフォームされた。鳥居の向きが本来の方向の気もするのでこの角度の写真を。鳥居の左の石垣が中世の唯一の遺物でオヤケアカハチを征伐した仲宗根豊見親寄進。古写真ではわからない。


◆さいご。久米島の太陽石。作った人もはっきりしており、比較的新しいもので、用途も農耕用の暦で太陽光で読むから太陽石。しかし昭和初期の段階ではこのような状態だった。向きを逆にしたのは暦は裏側にあるからです(溝と穴)。


~主に写真集「望郷沖縄」第五巻(ホーレー文庫版)復刻「沖縄県人物風景写真帖(同刊行会発行)S8
一万五千円出して、読んだことのないものが5冊中1冊だけという惨事だったがその一冊が先の綺麗な離島古写真だったので、まあよしとします。
◆巫女もえ(小川一真M27初出)小川一真の写真は結構な割合で外国人土産に切り出されて使われてたんだなー 絵葉書や写真集に使われてる写真が入ってて同一性確認が面倒。奈良春日神社

◆甲子園画像が流れてきたので。阪神創業社長の銅像付きだぞ!(けっこう最近までミニサイズの写真はありました、これはネガだけど)

◆ああそうか、花火が苦手な人っている。爆弾の音に聴こえるから。戦争知ってる人は古今東西その傾向がある。ただ、どうも平気な人もいるらしい。遭った年令だろう。
学徒から敗戦復員して学校に戻っても学問なんかバカらしくなって暫く遊んで就職した、てな話を聞いて、そりゃバカらしくなるなあ、バカらしくならないご身分の人が学問の火を絶やさないように頑張った、その苦労もしのばれると思ったよ。遊んでる間に今後貴重になると戦争関連のものをたくさん集めたがそういうものを嫌う人に捨てられたといった。
◆ヤスジからのなんとなく銀座な気分なので昭和41年サッポロビールが販促に使ったヨルの銀座マップに、まだ残ってる店はないかと見てたが無いねー。新橋近く天麩羅屋があったと聞いたが多くない。名前のほか出身を前面に出す店(初潮は海辺かな)ハイカラな名、白ばら、野ばら、黒ばらがご近所さん。 https://pic.twitter.com/cvZ2cJkET9




:いずれも造立開始時期は恐らくほぼ同じで平安前期、臼杵は広く土地一帯を含めると、鎌倉時代まで造立され続けたのも同じ。ただ福島県南相馬の大悲山は近世まで線刻が加えられた可能性もあり、大谷は周囲も含めると夥しい磨崖塔などあって近代まで下ることから、現在は共に寺院内に保護されていることからも信仰は断続・継続していた。年代特定が難しいが縄文人も見つかる洞窟でもある大谷のものには奈良時代まで遡るものがある説もある。
◆たまに藤岡屋日記翻本など繰って寝物語とするが(目が悪くなったので文庫ではなく大判だがこれがまたよい)大名が給事の坊主の部屋で昼飯食うの禁止令(奥坊主が政の盗み聞きし表坊主がスパイ的に漏らしてたらしい)のあと、飛脚が馬を頼んで路中馬方ごと強盗された話がある。異常な能力が喧伝された飛脚の実情かも。
各地名所古写真対照
◆円満寺からの道後温泉本館、遠く松山城。同じ写真かと思ったら微妙に角度など違う。ずいぶん色合いも違う。城はこちらの写真集のもののほうがはっきりしてるが、石碑から本館てっぺんの紅いびいどろ太鼓櫓にかけては松山市のほうが明確。
松山市のリンク(配下に画像あり)→ http://www.sakanouenokumomuseum.jp

◆鵜戸神宮。同じ角度を狙ったが古写真の時代になかった石積みがあり角度を変えて。



◆城山から桜島風景の変化。
(1)
明治中期(小川一真)〜大正初期
海へ向かう道と右脇の寺(途中で建替え)で辛うじて同じ場所からとわかるくらい変貌している。絵葉書はこれらより下る時代のものがほとんど。




城山から桜島風景の変化。(2)昭和初期、現在


昭和初期のほうは手前が切れているが依然古い帆船のようなものが見える。町並みはまたがらりと変わっている。このへんは沢山絵葉書がある。先の寺は切れている。現在の写真には写っている。土地勘がないので寺名は書かない(天文館の方の角?)。
◆正午少し前、上衣を羽織り家内と初めて母屋の二階に上がりてラヂオの前に坐る。天皇陛下の御聲は録音であったが戰爭終結の詔書なり。熱淚滂沱として止まず。どう云ふ淚かと云ふ事を自分で考へる事が出來ない。〜昭和三十年八月十五日 百鬼園日記



タイムライン見てると「平和ボケ」とおもうが「平和ボケっていいな」ともおもう。
◆戦後の国際通り(現)。

ほぼ明治時代と変わらないありさまの写真ですが、それは伐採によるとありますね。小屋が残るのみ、とすると上り口の禊の井戸も荒れた有様だったんでしょかね。今もだけど。








◆栞に使ってる紙片みたらこんなこと書いてあった。どこからきた。



