仙台のお殿様(三代伊達綱宗)が入れあげるも靡かず誰かに操を立て、ついに隅田川中州あたりで吊るし斬られた二代高尾太夫(仙台高尾、万治年間没)。その漂着頭蓋骨をまつるという高尾稲荷神社の話を聞いて、それは芝居じゃないかと思いつつ、万治の大昔の伝説的な花魁の影を地霊に問いました。
:『三浦の高雄を上尾』(三浦屋高尾太夫を千両箱積んで揚げよう、という超一級の花魁高尾を身請けするために金持ちや大名がかわるがわる現れたとされる中の一挿話。このパターンは竹取物語でしょう)国芳 :仙台堀の一部(伊達三代綱宗公が工事の幕命を受けたものの日本橋の芸者にいれこみ、永の揉め事の発端となったというのが史実とされる。このあたりその工事、俗に仙台堀の一部。駿河台は深く掘られた神田川の土を古墳の上に積み上げたものと言われる。日本橋がいつしか新吉原となり三浦屋高尾という伝説となったのだ、、、)井上安治
万治高尾墓(西方寺)→高尾稲荷(隅田川支流河口で伝高尾頭蓋骨を祀る)
(伊藤晴雨)
各コース半日ずつ。;
一日目コース:出発点:西巣鴨駅近く、西方寺
:浅草聖天町より移転、日本堤縁にあって投げ込み寺としても有名だった。開山ないし開山二代(通常二代が実質開山)の道哲和尚が二代高尾太夫を弔って自らも時をおかず亡くなった結果、二人が並んだ形で墓石が置かれており、実際に骨壺が二つ移埋されてあるそうです。共に石仏で、高尾のものは災害損傷が激しいです。和尚墓が地蔵であるのは不思議で、また江戸初期から遊女に個別に地蔵が建立されることがあったかどうかも怪しく、質素とはいえ特別な紅葉など装飾もあるから伊達騒動外伝として有名になった後世のものだと思われる。和尚と高尾の死が不自然な一致をみていることから道ならぬ恋の推測は芝居になりました。坂戸市の永源寺には高尾と道哲の駆落ち伝承と墓があります。
道哲和尚墓(右脇が万治高尾墓)
また、現在は広大な共同墓地になっている中に童子塚、いわゆる投げ込み時代の遊女を弔った無縁塔があります。
<万治高尾墓> ・西方寺、春慶院それぞれの万治高尾墓(後述)
・西方寺墓前の「投げ込み寺」道標鉄灯篭
元の場所をさがして。角の肉屋さんのあたりかと思ったら、江戸東京重ね地図なるものがあって、「土手の道哲」こと西方寺(西巣鴨に移転)はこの茶色の建物から後ろのビルにかけてあたりの庵だったようです。道標が現存するので角かと思ったら微妙にずれていた。そして薄雲太夫の招き猫発祥伝説は今戸神社より信憑性高そう。
西方寺の元々の位置(但し明治時代になっての話)、グー地図で照合したら通りの角から狭い一帯となってますが、道自体が少しずれたようで、このスカイツリー写真のベルト屋さんのビルの敷地のようですね。墓地は更に引いて四枚目の山谷堀写真の右手ビルあたりのようですが。グー地図も厳密ではないかも
遍照院(北斎終焉之地)墓地から山谷堀側。山谷堀はこのマンションの位置で支流のドブ川が二条別れていたようで、正面のマンションが境内北端にあたり、合力稲荷の場所は全く変わっていない(遍照院本堂も)。うーむ、マンション正面の写真を撮っとけばよかった。まあまた行くことあるでしょう。 ・西方寺元住所(日本堤土手下)
西方寺の寺宝(仙台高尾遺品)とされるもの。鏡と持仏は改葬時に骨壷から出てきたとされる。
:過去帳の二番目に記載される高尾
昭和四十年代には西方寺万治高尾墓はまだ折れた跡がきれいで、左紅葉を残していたようです。(「江戸 石仏の詩(上)」より)
→都営バス浅草雷門行
→吉原大門下車(柳跡、奥に大門跡)
→春慶院(ぽつんと二つ目の二代高尾太夫の墓があります。文化財標識のある立派な笠塔婆で陣笠部分に紅葉紋まであしらわれていますが(そのため仙台公(伊達家)のゆかりの者が建てたという説もある)、ここは現代まで場所を移動しなかったため戦災でひどくやられさすがに頑丈であっても西方寺同様欠けています。境内自体整然として往時の雰囲気はありません)
:「燕石十種」〜高尾考(中公版)より2つの墓石。道哲庵のボロボロの石仏の方は戦前までこのように紅葉と辞世がきれいに刻まれ、春慶院と一年違いのことを除けば全く同じ刻銘とあって、この本では道哲を写し、もしくは共に浄瑠璃や芝居となってのち作られたと推定している。さらに万治高尾が二人いて、仙台高尾の方は吊るし切りされたから墓はない云々と推定を重ねている。江戸時代の本なのでそれほど調べ尽くしてはいません。参考。
→(往復)元・西方寺跡地(葛飾北斎が亡くなった遍照院元境内の隣)
→三ノ輪駅→日比谷線
→茅場町駅
→湊橋南東詰(高尾稲荷神社・日本銀行跡標識説明板)→日本橋川南沿い(頭蓋骨が拾われたという場所)
→★高尾稲荷神社(説明版あり。1970年代に移築されたときに頭蓋骨をおさめた壺が発掘、現在は半分建物の小社の中に収められているとのこと。頭痛にきくとして戦前まで民間信仰を集めたらしい)
髑髏を祀る高尾稲荷神社。伊達綱宗公に近くの川中で吊るし切りされ投げ込まれたという二代高尾(万治高尾)の髑髏があがったといって祀り上げられたもの。しかしこれは半世紀後の漂着物でした。人の遺体は特に川だと引き上げる役目がおらず面倒を嫌がり放置されることが多かったと言われます。こういうものの漂着も普通だったようで信ぴょう性に疑問符がつきますが、たまたま拾われたので祀るしかなかったのでしょう。ご利益目当て賽銭目当てのただの流行神だったにせよ、墨田の流れを中心とする江戸の風流も香るウォーキングの最後がここというのも乙です。感覚的には巣鴨だな、タマシイが入ってるのは。
→元高尾稲荷神社(日本橋川(新堀川)河口(隅田川へ出る)豊海橋南西詰(現在は小さな三井倉庫が建っているが説明版あり。徳川家の船手組持ち場であったが、宝永年間(1708年)元旦に下役が見回り中、一帯の新堀川岸に首級が打ち上げられているのを発見、高尾太夫惨殺の都市伝説と結び付けて近在の庵の僧侶が手厚く葬ったのを稲荷と習合して建てられた(明治五年日銀建設により河口側に一度移転した)と一番真相に近そうなことが書いてある。社殿は3月20日空襲で焼失していた)今でもとても広々と景色が良くいかにも江戸時代遊興の船がまわりそう
まだ少し足を延ばします、蛇足。
→茅場町駅
→広尾駅
→仙台坂上(仙台公(伊達家)麻布屋敷近辺)
→麻布氷川神社末社高尾稲荷神社
はい。もと麻布仙台藩下屋敷内、高尾稲荷(現在は麻布氷川神社末社)に寄っておわり。ちっちゃ!案ずるに「仙台高尾」は二代高尾とは「別に」実在した。きちんとお殿様のところに入り、しかし若くして亡くなったことから祀られた(品川の下屋敷には梅一本生やした塚もあったとか)んではないかなあ。
(石材が後ろに少し残っているが現在は非常に小さな社、別の場所で維持されていたものの移築。さきほどの仙台坂上の逆側が屋敷隅にあたり江戸時代の切絵図で「イナリ」となっているが、それが同じものかどうかは明確な証拠はない、ただ、高尾という漢字をあてる神社は全国に極めて少なく高尾山のような地名由来のものしかない以上、伊達家との関係は否定できない)
案ずるに仙台高尾は二代高尾とは「別に」実在したがきちんとお殿様のところに入り、しかし若くして亡くなったことから祀られた(品川の下屋敷には梅一本生やした塚もあったとか)んではないかなあ。
→仙台坂下り向い韓国領事館一帯が伊達家下屋敷敷地
→麻布十番駅で終了。
二日目コース:伊達綱宗公蟄居跡(大井伊達屋敷と高尾塚跡)
はい。すぐ品川行って参りました。大井公園は伊達下屋敷の一部で「万治元年(1658)に仙台藩伊達家が麻布(現・港区)下屋敷を返上して、新たに大井村に拝領した下屋敷であった」と標識にありますから万治年間にここに蟄居したのは確かです、しかしのちに越前藩と交換し一部を残して移りました。
大井町駅→仙台坂上
→仙台坂のタブノキ(仙台公下屋敷の裏玄関に植えられていたという)
→大井公園(切通しの仙台坂側に伊達家下屋敷跡石碑、説明版。高尾塚が存在していたことが書かれている。逆側高台に小さな古墳が一つある。万治年間にはこの一帯全域が伊達家の下屋敷であったことも書かれているので、高尾惨殺の噂をたてられるくらい遊興にふけり2年で隠居となり、以後伊達騒動のきっかけとなった綱宗公が側室二人と後年を過ごしたまさにその場所ということになる。死去後は遺体は仙台に運ばれ厚く葬られた。側室(正式な側室ではない)のひとり品は仙台出身で、仙台に戻り余生をおくって伊達家ゆかりの寺に葬られたが、この人が伝承上高尾太夫と混同されたらしい。ちなみに若き綱宗公のいれあげた太夫も現在は高尾とは別の店の別人と推定されているので、三人の高尾がいたことになる。。公園は屋敷の角近くにあたる。ちなみに仙台坂と逆側に山内容堂公墓域もある見晴らしの良い場所)
切通し右高台の公園に築山があります。「この屋敷内には高尾太夫の器を埋めたという塚があり、その上にはひと株の枝垂梅があったと伝えられている」近代埴輪片が表採され古墳とのこと。計三基確認、他現存せず。高尾塚ではないでしょう。ちな奥に山内容堂一家の大墓が纏められてます、見晴らしは良い。
→旧仙台坂下(「くらやみ坂」標識)
仙台坂は伊達屋敷の名残。尻目に東海道(第一京浜)を上る。
→(往復)
→青物横丁駅近く、幸稲荷(別項の話ですが、芝の幸稲荷の下社の可能性が高いように見える新しい社)
→新馬場駅近く、妙蓮寺(薄雲太夫の墓。非常に立派な傘塔婆(少し欠けている)で典型的な江戸後期の様式だが、没年銘刻は元禄時代から少し下った年月となり猫の薄雲(身請けされた公式記録のみ残るので)の供養墓であることは確かか。題目と没年・戒名以外銘刻は一切ない。左脇の上の欠けた尼僧墓と関連がありそう)。ほか丸橋忠也首塚)
→旧東海道を戻る
→天妙国寺の剣豪伊東一刀斎墓(かなり昔の別項の話ですが、もともと品川区の文化財となっていた無縁塔にあったもので銘刻からすると弟子筋のものの模様。刀を構えた影が見えるということで再訪、たしかに。)
→戻る
→仙台坂を過ぎてしばらく
→山手に参道、来福寺(きれい。阿波の藍商人の石塔)
→裏口から山の手の道を戻って二本目でまた右折、右側に梶原稲荷神社(住宅街の中の小さい社なのに塚があり、梶原景時一族の墓という。半分社に覆われているが周回道とお百度石があることから狐塚信仰でぐるぐる回ったものと思われます)
→さきほどの道に戻り道なりにいって左に行くと大井町駅。おわり。余計な場所に寄ると半日かかりますが(縛られ地蔵などまわってたら一日がかり)仙台屋敷と薄雲だけなら二時間ですね。
・・・・・万治高尾とは誰?・・・・・
<出身と本名>
那須塩原
:二代高尾出身地とされる那須塩原温泉元湯の記念碑「高尾塚」。今はホテルの敷地にあるそうです。文化13年没後150周年を記念し本家末裔という太七を施主としてお寺と当時有力楼閣が建立しました。
(引用)高尾(幼名アキ)は寛永18年(1641)湯本村(現在の塩原温泉元湯)に生まれ、江戸浜松の遊廓「三浦屋」の四郎左衛門の養女となる。明暦3年(1657)の大火により三浦屋は全焼、三浦屋再興のため太夫となり、「二代目高尾」を襲名するも、辞世の句「寒風にもろくもくつる紅葉かな」を残し19歳で亡くなった。
才色兼備の名妓ゆえに「伽羅先代萩」「高尾ざんげ」「紺屋高尾」等の主役に擬せられ、諸説を生み、「塩原高尾」「万治高尾」「妙身高尾」とも称された。(引用おわり)
かなりはっきりと記録が残っている。塩原から売られていったという。
<伊達綱宗側室として>
仙台
これは実在の人物が仙台で高尾と呼ばれた話である。高尾は当時才色兼備の者の名を借りた賞賛の呼称かもしれないが、このあたり三沢初子の影のことなのでよくわからない。前記のとおり江戸屋敷に高尾塚があったことは事実のようだが、綱宗より先に亡くなった傍の者は有名では三沢初子しかいない。後代に何らかの風雅な理由で古墳を流用し作られたものだろう。
伊達綱宗公事実上の側室(側室は正式には三沢初子一人(正室なし))お品の墓。大井町の品川屋敷に万治二年から仕え、手を付けられた、と書いてある(もともと仙台の人という記述も見る)。三沢初子没後の側室扱いであり、綱宗没後尼となり仙台に暮らす。仙台で俗に高尾の名で呼ばれたが、遊郭との関係はないという。もともと立派な笠塔婆だったが昭和の地震でこの形に崩れた。
ちなみに三沢初子は邸宅とも東京目黒正覚寺に寄付され墓も銅像もそちらにある。伊達は家紋好きで知られ多数の紋がある。
三代が三代とも独特の別の埋葬方法がとられていたのは驚いた。正宗はともかく、あと二代はそれぞれ水銀、蛎殻石灰で固められ防腐措置が施されたというのもすごいし、何故か石材不足が原因と断定されてるが、確かに巨大自然石製の多い土地柄とはいえ古い板碑で石室を作るとか。綱宗は瓶棺を吊るされてた
ここで品に戻る。
スギハラ品、通称高尾と椙原2基。仙台駅歩25分江戸初期創建(元は福島にて中世まで遡る寺のため古い縁のお墓(右手駐車場奥から無縁のように並ぶが調査結果コピーを頂ける)もある)仏眼寺。幕末堂の内陣格子欄間に縦三引(確認できず)と輿2、地震損壊した笠石は木瓜紋。元は綱宗側室らしく立派だった。
昭和初期ごろの通称高尾墓(40年ほど前までの姿)三沢初子墓と共に名所絵葉書シリーズとなっている
高尾の名が伝説上は十代余りにも続いたため混乱があり、江戸後期には既に高尾考として考証学の対象となり、山東京伝の兄弟も詳細を推測し、姫路の榊原公が謀あって身請けしたために幕府より叱られたもととなった通称「榊原高尾」のことが、どうやら名高い薄命の美女二代万治高尾とたまたま同時代の伊達三代公(別の店の妓に通ったとの説が濃厚)、土手の道哲(実際は日本堤(元々そんなに大きくはなく、山谷堀沿いを含めた「二本堤」が訛っただけとの説がある)近所に江戸初期存在した狭いお仕置き場の死者、その他身寄りのない全ての者を弔うため、土手下に庵を営んだもので新吉原と直接は関係がなく、日がな鳴り続ける鉦が土地の有名だったのである※)に遡って投影され、またそれを縁とされる者や寺が売りにもしたため、すっかり真実とされた話が幾つも生まれたということのようだ。
そして、高尾の名は江戸一番の花魁の大名跡であり、美女の代名詞にもなり、それならということで伊達屋敷にも、高尾の名を頂いた者との縁がありそうだということでずっと後になって(あるいは伊達の手から離れた後で残された古跡の通称として)高尾を祀る社や紅葉塚などが作られたのだろう。
あるいは綱宗公自身、蟄居の前か後に名高くも儚くなった二代高尾のことを聞き及んでいて、風雅の心地に屋敷内名所として塚を作ったのかもしれない。伊達騒動のきっかけではあったがけして犯人ではなく、大井の豪華な屋敷の内に風雅人を招きあるいは狩野派の文人画家としても能書家としても相当の腕前を磨いた。最後は左下顎が大きく抉れるほどの癌で苦しみ亡くなったが、禁制の欧風文物をも屋敷に取り入れ秘蔵した、伊達ごとというようなお洒落を好み眼鏡や煙管を棺に収めた事実、殉死を初めて止めた(あくまで幕命ではあるが)ことも、面白い人物であったろうことは、鴎外が惹かれたゆえんであろう。
「東京名所図会」(明治中期)より移転前の土手の道哲
同、日本堤
(参考)明治中期の仙台高尾(お品)についての記事、お品は実際に身揚げされた高尾ということになっている。万治高尾ではない説による。杉原家について突っ込んだことも書いてある。
※西方寺について戦後の本にこれも信ぴょう性はどの程度かわからないが書かれていることによれば、絵にも書かれた庵は道哲の前、創建の僧侶のものであり、道哲の代で既に立派な堂宇を構え新吉原遊女の信仰を集めており、背の高い遊女供養塔も立て(巣鴨のものは再現だろう)投げ込み寺の名で呼ばれ、三浦屋の万治高尾も道哲に深く帰依しその死を悼むも四日後に自分も病で亡くなった。
二人は当時現物のボロボロの過去帳に並べて記されていた。そのため道ならぬ恋の相手は道哲という説が出た。四日という短さから殉死説も出た。
さらにかなり時代が下ってからのことだと思うが、道哲と万治高尾の墓石は向かい合わせに配置された。関東大震災とその後の都市計画で移転のおり、掘り返すと両者それぞれを土葬した大きな水龜が出て、一枚の石板で蓋していたという(向かい合わせだと不自然で、隣の間違いかもしれない)。巣鴨では今の形に一箇所にまとめられ、住職の図らいで一つの骨壷に収められ埋められたとかかれている(火葬し直した筈である)。
これは俗説によるものだろう。ちなみに噂として幕末には文字通り投げ込み寺として金をもらえば穴に遺体を放り込む強欲の話もあるが境内は狭くそんなに多くの土葬を受け入れた感じはしない。確かに山谷橋近辺は北斎が貧乏長屋に流れ着くくらい荒れた土地になっていたが、明治時代に大いに浅草名所とされたのも不自然ではある。また、薄雲は同じ三浦屋の大名跡であったが、招き猫のいわれとなった話が書かれている。
<実在の根拠について>
葛飾移転の遊女供養塔刻銘
新吉原の投込寺としても知られた正憶院の後を継ぐ善応寺の遊女供養塔は江戸前期、正保年間開基の刻銘のある古い供養塔で、無数の遊女等の戒名等が追刻を重ねている。この中に高尾の戒名があると言われる。
万治高尾とするとネームの大きさから年代の古いと思われる本堂側側面の「為転(?)誉信女妙身 一念」のことを言っているのではないかと思う。西方寺などで為転誉妙身信女と墓石に戒名が刻まれている。ちなみに「月桂圓心大師」という戒名が出てくることがあるが、戒名法名は後世に改めてつけられることもある。誰がつけたのか知りません。
これにていったん終わりとする。
仙台写真アルバム(福島など無関係の写真を含みます)
~高尾太夫は紅葉で表される(ふたつある仙台高尾の江戸墓にもそれぞれ紅葉が彫られています)芝居で大いに人口に膾炙した
~九相図にも描かれたようだ