なんのクレジットもないと不明な写真というのはいくつもでてきます。以下羅列していきます。
◆たぶん国内南国、南九州か伊豆静岡房総だと思う。しかしこの大きさのソテツは中途半端。この程度ならけっこうどこでもあると思われ、石垣と大きくない本堂の切妻屋根の形しか手がかりがなく。うーん。。根方の様子から日本寺の可能性あるけど本堂前なんだよね。
→八丈島(現存)と判明。別項
この山寺はあまり大きくはなさそうだ。問題の卵塔は圓海上人(享保年間)と刻まれ、これは関東の各地に名前だけある。
下北沢の圓海稲荷神社は江戸時代の人だが、埼玉の圓福寺開山とされる方は戦国時代に遡る。三枚目は出土品の石塔残欠でかなり大きいように見える。四枚目は残存物かな
→
やっと少しわかる。出羽三山近辺。4枚目安養坊山行尊塚の石碑、現存(安永4)。この塚について資料がない。圓海は時代が?だが一時出羽に入った僧。寺か社のようなものは現在の手向宿坊町内のどれにも似ていない。廃寺か? https://pic.twitter.com/ka4Xt7ia23<追記>石碑など現存し、羽黒山奥之院荒澤寺境内とみられるむねお教えいただきました。堂の屋根は銅葺きになっているとのこと。
◆当時けっこうお金持ちの個人年賀状等図案として刷られた絵葉書だと思うけど、絶対誰だか今になってはわからない代物。昭和はじめの段階で既に現代の年賀状とおんなじような写真構成になってるのが進歩を感じさせない。あなたの子供に興味ないのよ。。
◆バラで出てきて地名もないので全くどこだかわからない絵葉書ですが、昭和より少し古めかな。味がある風景です。
◆たぶん関東大震災。こういう絵葉書写真は報道写真のコピー(一般向け瓦版みたいな役割)だったりするのであんま貴重じゃないでしょう。2枚目は内外ビルヂングとあるので建築途中に倒壊した丸の内の旧内外ビルディングだとおもわれます。現存はせず。
◆どこやねんこれ(鎌倉周辺ぽい)→あらゆる手段で調べたが近現代の記念石碑らしく一切手掛かりなし
昭和初期のセルロイド乾板写真 めさ小さい
→判明。あこぎ塚(芭蕉句碑)別項◆金閣寺???遠近感がないし流石にボケボケすぎる。形式的には金閣寺だが背後の木が大きすぎる。。左右反転してるかもしれん
◆芦ノ湖を見下ろすところ?確かにそういう施設はあるけどこういう風情ではない
◆服装から学校がわからないかな
◆何の衣装?
明治時代の遊女写真だが、服に紙をたくさん貼り付けている。向かって右の首押さえ?反射板が写りこんでいるのもおかしいし、左の机も何か載っていて、正式な撮影ではないようにも思われる。紙は絵もしくは写真かもしれない。露出を測るために露光紙を体中に貼ったとは時代的に思えないし、、、
※確証はないがこちらは裏書きから「東京千垂」さんなので、千垂にかけて何らかの絵を衣装に千垂らしたという「表意衣装」かもしれない
◆榛名山麓?
※近年無くなった旅館と判明、別項
最初のは絵葉書を並べて撮影しカタログふうにしたもので、観覧車が貧相すぎてかなり小さな規模とおもわれ、何の博覧会なのか不明。二枚目は奉安殿?三枚目は大円寺とあるが目黒の大円寺はこんな本堂ではなく、他に崖地にある同名の寺はわからない。四枚目は長瀞ぽい。
三枚目は近代御陵の休憩所ということはわかる。ニ枚目はキャプションから推定することができませんでした。一枚目は知ってればすぐわかるんだろうなあ。
朝熊山かと思っていたら車幅も線路も違って(小さくて)なんにも書いてないのでなんだかわからないケーブルカーがこちらになります
<おまけ>判明したもの
遠近感の無い写真ゆえ小球場を調べていたが立派な壁を作るような球場はこの頃限られた鉄道系のとこしかないというアドバイスより有名球場に立ち戻る。して窓の形がどうも甲子園球場しかありえない。真ん中に銅像…あ。外山脩造か!阪神生みの親。当時の地図から広漠な敷地も妥当。昭和初期、貴重かも。 阪神電鉄創業者銅像は戦時供出され幻となっています。こんな画質じゃなんともかんとも場所しかわからんが。
奈良春日大社、修学旅行でしょう(何枚かある)
判明。左右逆だった。戦前上野(東京)最後の博覧会、昭和3年3月24日~5月22日の大礼記念国産振興東京博覧会。第2会場不忍池(産業館)朝鮮館。絵葉書も持ってた。https://www.nomurakougei.co.jp/expo/material/detail?goods_id=14826&return_url=%2Fexpo%2Fmaterial%2Flist%3Ftype%3D2%26sort%3D1%26e_code%3D1120%26return_url%3Dgoods_id%253D14777%2526return_url%253D%26p%3D3… きな臭くなる前の博覧会で子供も楽しめる最後の上野博覧会。巨大ビール瓶広告は記録にありまへん。大正時代から幾分縮小したとはいえ民営、猥雑な出し物はタイムスリップして見に行きたいほど。「昔懐かし見世物コーナー」とか。既に昔懐かしなのか。 https://twitter.com/ryookabayashi/status/998577367877484547…しかし…一斉に言ったのは、この家族どんな階級だったんだろう?関東どころか甲子園見に行って写真撮りまくったりこの写真みたいに富士山登ったり、昭和初期の家庭としてはかなり上の方だったんだろう。三枚目の写真、左端に御朱印僧いて頂上辺と思うが当時登った時こんな室無かったと聞いて保留。あと一枚。火口、別に今と変わってないと思うけど。 ちょっと検索したら三枚目、間違いなく富士山頂浅間神社奥宮でした。左端はまさに御朱印を受け付けているところでしょう。 三本マストの簡素な小型バーク型帆船、湾内に規格化された棟が並ぶことから地方商船学校&練習船?と推測。検索にて鳥羽商船学校の建物配置、練習船型式と係留場所が酷似した絵葉書多数。断定します。グラウンドから撮影したものでしょう。水面にしては平らか。船の下部が見えないのは・・・ 船は練習帆船あまきに見えますが、あまきは大正14年に失われております。また塗装が無いようにも見えます。これは昭和35年まで使用された地上レプリカだそうです。といっても同時に建造されたものです。 https://toba-archive.jp/content/detail.php?no=173
したがって海だから下部が見えないんではなく、無かったのでした。よく見ると石積みがぐるりしている。リンク先の画像と比べてみてくださいな。
元箱根石仏群、伝曽我兄弟と虎御前の墓(永仁年間の関西様式の入った大五輪塔で、各銘を総合すると箱根の地獄信仰の地蔵講により西大寺から鎌倉に下った忍性の息の掛った五輪塔と考えられる)
この家族の行動範囲からして関東から出ない、材木座の光明寺辺かと思ったがこんな堂宇はない。信貴山にこう灯籠が並ぶ同じく千手院がある。調べると堂の形も似ており右上の塔も似てる(朝護孫子寺は火災で堂宇が変わってる故他はわからない)。若草山春日大社とここに修学旅行で来たのか?昭和初期。 日光東照宮陽明門
鶴岡八幡宮大銀杏
西郷さん
へたくそ。楠木正成(皇居)