:画図西遊譚(西遊旅譚)司馬江漢
18世紀末の京都
三条大橋から四条
現在景色は建物や木々にはばまれこのようには見えません。当時も見えていたかどうか・・・
(参考、丸太町橋から)
★戦前(戦中だったっけ)に室戸台風で壊れた江戸時代からの三条大橋、唯一残った巨大な欄干が庭園装飾として残った。現地に石柱も残る。
極端な司馬江漢の描法で距離はバラバラだが方向はわかりやすい。
清水寺
子安塔??
八坂の塔?
方広寺大仏殿。
大仏殿は約四年後落雷で焼失、再建胸像の天保大仏仮殿が戦後まで残った
その右は?三十三間堂・妙法院や智積院は位置が被るか逆。。
:三十三間堂
(豊国 例)
鬼室神社。八角柱の「人魚の墓(古代に佐久良川の人魚を殺した角柱墳は別に現存)」は司馬江漢来訪の十余年後百済の鬼室集斯墓と比定。維新後西宮神社となっていた名前も浸透に従い改められた。小さく摩耗し石祠に納められ非公開。刻銘は江漢は読めずと書いたが中世以降の形式。野洲にあった話もある。
角柱の人魚墓のほうはほぼこの形で現存している。日本書紀と結び付けられている。
高津宮から大阪、木津川・大阪湾方面
芝居川は道頓堀(手前から奥にのびている)
西本願寺、東本願寺とある、北御堂、南御堂だろう。御堂筋。
全く正確でないとおもうけど、この場所からこの絵を遠近法を用いて描いたという事実が大事だよね。司馬江漢はおもしろい。
この独特の極端な遠近法って、いわゆる浮絵のやつで、初期泥絵(応挙も手掛けた)では覗眼鏡のようなものを使って立体視したらしい。芝浜の書籍街の泥絵師は司馬姓を名乗っており中に有名な絵師もいる。左右逆など本来裸眼用ではないものもあると思われる。
これが姫路城と言うくらいだからどう見ても萬福寺な二層屋根の仏殿でも多分三十三間堂なんだろう。。
川の位置からして角度はもっと左になるけど櫓が入る・・・ 長崎の平戸島の先、生月島。潜伏キリシタンで有名なこの島も、切支丹の欠片もない鯨の島として描かれた。司馬江漢よりやや時代の下る北斎は北斎漫画で同じ生月島を描いてるが、行ってない。遠見番所とあるのが今の番岳(やや北)。琵琶嶽は中国の逆だから平戸側だと思うが、集落は東側のはずで、これ逆側では。物見塔は鯨発見のためのもの。
北端の灯台から 番岳はかなり険しかったらしい。生月島の山は今は比較的簡単に登れる。といっても当時も子供が登ってた。顔。