<弁天山と弁天池、五重塔、経蔵、仁王門について>
明治前期に潰された弁天池写真だが弁天池と奥山閣を共に写した写真があったかと思う。これは尾張徳川家の写真を参考引用(ベアトの幕末写真は蓮の繁茂以外ほとんど同じ、別項掲載)。明治十六年陸軍省の測量図では鐘撞山を中心とした低い建物に囲まれた丸い池となっているが、ファー・イーストの写真を始め境内を浅草公園方面へ広々と見渡す写真に池が写っているものもある。測量は正しいかと思われるが池自体がやや大きかった、建物のすくない時期があったことは推測される。
〜井上安治(探景)「金龍山之図雪月花之内雪」(「浅草寺今むかし」より、カラーは画像が発見できませんでしたが何年か前の台東区のカレンダーにあったそうです。北渓など古くから似た俯瞰図は描かれています)明治十八年、経蔵、五重塔、仁王門手前の配置がよくわかります
〜広重、弁天池を手前に広大に広げるデザインしてます。ちなみに弁天山は築山ではなく関東大震災あと坪井正五郎博士らにより古墳として調査されたりしました。
〜本堂・仁王門間から隅田川方向。コンパクトな版画なのでコンパクトに凝縮した表現。仁王門から奥に続く石塀は本堂と参道の障壁(神社の結界)で右に弁天池があるはず。他の絵同様恐らく広重模写でしょうが、原図を知りません。コレ自体は作者不明。幕末頃か。
これは昭和初期の浅草本を読むと書いてある。曰く建物のない風景は関東大震災でぐるりと焼けてしまったものだという。幕末明治初期の古い写真にも拓けたものはある。しかしこの本によると「明治初年の、弁天山(鐘撞山)は鐘楼の傍に薄気味の悪い様な池があって、新派悲劇の舞台等にはうってつけの場面だった」。確かに薄気味悪かったらしい。

アングル違い、
初回「大江戸」で話題になった「高精細画像で甦る150年前の幕末・明治写真」浅草寺弁天池の有名な写真(ファーイースト明治4年1月17日号掲載、モーザー撮影)拡大写真、池は開化後すぐなくなりこの弁天祠があるが、原写真では提灯に交差大根が見えるという。これは右、経蔵よりさらに右奥の待乳山聖天から和合神を習合したのでは??
この弁天は宇賀神を頂く(光背頂部にも3つの宝珠のようなものが見える)弁天像で、白髪ゆえ老女弁天として知られる本尊とともに新築弁天堂におわす。縁日巳の日(不忍池弁天島と同じ蛇の日ですね)法要で開扉される。写真は「浅草寺今むかし」から。
放送大学附属図書館蔵の写真部分。ほぼ同時期とされるが精度のせいかうらぶれた雰囲気がある。このあたりは陰鬱で池のなくなる明治20年以降も情死に使われそうと言われていた。弁天祠には大根提灯は無い。時期の可能性もあるが少し下るのかもしれない。「レンズが撮らえた幕末明治日本紀行」 より部分
弁天池から仁王門、「明治の日本」横浜写真(横浜開港資料館)より彩色写真(スキャンアプリの性質上赤く出ています)
ワーグマンコレクション(オランダ→長崎大学)より、気味の悪い雰囲気は出ている。ちなみに中央が現在唯一残る大銀杏(戦災銀杏)だろう。明治前期。前掲のファーイースト高精細写真と同じか。
参考、埋めた後(池際の障壁が残っています)

もっと精度の高い写真もあるがついでということで。俯瞰で見ると弁天池は意外と広々としている。また弁天祠(宇賀神)をよく見ると縦長の大根提灯が2つ下がっていて最初の写真に似る。確かこれもファーイースト写真(復刻版には収録されていない)。時期は同時期だろう(同紙短期間しか出なかった)国際日本文化研究センター蔵を引用、「レンズが撮らえた幕末明治日本紀行」
※下は「明治の日本」横浜写真(横浜開港資料館)より彩色写真(スキャンアプリの性質上赤く出ています)

ファー・イースト復刻版収録、池の向こう。幕末。
五重塔と下の雰囲気(「高精細〜」より)同時期。
ついでに。昭和7年、関東大震災復興大工事のとき観音堂最上階から五重塔を見る(彩色絵葉書にもなった)。公園化した境内は噴水などあり、関東大震災をへて整然としている。この塔も仁王門も戦争で失われた。
現在は位置の変わった二尊仏坐像は幕末写真の至るところに現れる。大銀杏とともに江戸浅草の生き証人となっている。

北斎2枚(参考)
経蔵。これも現存せず。
経蔵と五重塔(観音堂(本堂)向かって右手前に並んでいた)
観音堂内から同アングル(「明治の日本」より手彩色写真)
縁起より
観音堂手前左の軒

浅草寺大銀杏二本ですが、右が経蔵と五重塔の間(現存する)。左は本堂裏(恐らく石碑のある今の小さな銀杏が、幹の形を見るに生き残った「頼朝の箸が育った銀杏」だと思われる)
経蔵と五重塔、参道沿いに灯明台、大灯籠ができている。
なぜかあまり写真が出てきませんが前記の一切経蔵です。新門辰五郎らが鎌倉様式で再建したもので、最初の正面写真、向かって左軒にかかる銀杏は現存する戦災銀杏です。この写真だと右手前が五重塔。中には回転式の転輪蔵があり回して肖ろうとする人々で賑わいました。鶴岡八幡宮から明治3年5月神仏分離令で持ち出され塔の辻で焼却されそうになった元版一切経を、御徒町出身の貞運尼という僧侶が色々と貯めた資金に人々の協力を加えて買い取り、品川まで船で輸送したあと新門辰五郎の力を得て大八車に行列を調え翌三月、浅草寺に奉納しました。
:ベアト撮影、明治初期の鶴岡八幡宮経蔵、手前に舞殿が見切れている
:同、多宝大塔(横浜開港資料館蔵、書籍より)塔の辻とはこの前のことか

:それより前の唯一の完形写真
:「浅草寺今むかし」より鶴岡八幡宮江戸時代の配置(階段下大銀杏側に経蔵があり現存しない入口壁際に塔がある)
百八十箱五千四百二十八巻を収めたのが八面の転輪蔵です。経文はのちに戦災を避けて疎開し、今は仁王門こと宝蔵門楼上に保管されて国重文指定を受けています。経蔵も仁王門も五重塔も焼けましたが肝心の経文は助かったのですね。

(関東大震災後の馬道から浅草寺五重塔、銀杏(現存)、経蔵、本堂※六区ではありません)
池上本門寺に現存する経蔵は形式においてほぼ同じ(時期は江戸後期で遡る)と思われるので参考。東京名所図会によればもっと大きなものだったと思われる。こちらは中に入って動けるとは思えないかなり手狭なもの。栃木の国宝鑁阿寺の経蔵よりも大きい。池上本門寺の経蔵は中に壇を設け御幣が立てられている。
江戸名所図 天 部分