元記事(更新停止)
十二階は帝都初のランドマークとなった。
〜浅草公園遠望。十二階と浅草パノラマ館の間が六区。上野から「博覧都市江戸東京」江戸東京博物館h5
〜明治四十一年「東京名所図会」下谷浅草附近遠望、と称する写真。左上に薄く十二階が写っています。(復刻版よりはるかにクリアな写真です。。)
〜同じ頃と思われる絵葉書。この構図で何パターンかあるようです。
〜明治四十一年「東京名所図会(復刻本)」上野の山から十二階をのぞむ。
〜(参考)原本、ただし合本しかないので展開して見られる復刻本の図版も残しておきます 綺麗です
~(参考)
〜後年の粗い写真ですが上野山からの絵と同じ方向。
〜同書(復刻版)神田駿河台個人宅から浅草遠景、ここにも浅草寺奥に十二階が見える。
〜「東京名所図会(復刻本)」浅草公園全景、綴じ目にちょうど花やしきが隠れてしまった。。この図は浅草区史にも流用されている。
〜同、六区から十二階。
〜隅田川対岸枕橋から。浅草公園内の位置は不正確。
〜写真だとこうなります。確かに十二階大きく見えますが、奥です。
〜河鍋暁斎
〜明治四十三年「東京名所写真帖」浅草対岸から浅草寺越しに十二階がみえる。
〜向島の竹屋の渡しより(竹屋は店の名前、向島の渡しとも。言問橋竣工により昭和3年廃業になり一気にこのあたりの水上が寂れた)東京名所石版画、この趣向の土産絵は印刷方法を変え戦前まで続いた。
〜夕景に十二階の遠い影
ちなみに、明治八年ベンジャミン・スミス撮影の銀板写真。隅田川対岸からの今戸(マサチューセッツ大学図書館蔵)
浅草寺は見えますがその先は田んぼ、まだ十二階もありません。
浅草寺の裏、浅草田圃から新吉原のむこう、幕末にはのどかな田舎風景で酉の市にあぜ道に大行列ができるさまが描かれています。浅草田圃がつぶされ近代公園として浅草公園に整理されたことになります。その端に十二階が生えた。
<浅草田圃>
浅草寺観音堂裏辺りから広がる浅草田圃はたびたび描かれてきた。これは広重二代の名所絵本。のんびりした風景で狸が跋扈し、戊辰戦争後は上野から戦火を逃れてきた狸と争いになったという伝説もあるそうだ。またこの右手奥(北)に道が伸び突然区画された新吉原があらわれる(十二階上からの写真参照)。
江戸名所百景「浅草田圃酉の町詣」広重、吉原楼閣からの風景。この有名なシリーズは図案化が激しく風景のスケール感も誇張されるので、同じ構図でも違う印象があります。
歌川広景の戯画。タヌキの名所でもあった。その他、新吉原周辺もこんな淋しいかんじです。
芳虎、夜の日本堤でしょう。何もない。明治初期。
一景の戯画。明治初期。高さは誇張されていますが吉原周辺の田園風情を感じ取れます。
幕末の流行神、浅草田甫の太郎稲荷(別項)もこの景色のうちにあり、明治になって開拓され十二階など建ち近代公園として整備される影に沈んでいく姿は、例えば小林清親がうつしている。稲荷は辛うじて現存してます。
浅草公園はのどかな景色を人工的に改変して作り上げられた。
<十二階からの景観>
浅草公園から浅草寺、新吉原を見渡せました。最初は公園に景観規制があり高層建築を建てられず、六区からはずれた千束に建てられた経緯があり、結果そのために公園の全景が見晴らせます。
明治40年4月「最新東京明覧」掲載、博覧会見物者用の各名所地図が載っているなかのひとつ。不明瞭ですが十二階周辺が拓けているのはわかります。十二階も存在感があります。
珍しい空撮写真の絵葉書。十二階のランドマークぷりがよくわかります。
大正11年3月関東大震災直前の萬朝報附録「東京案内大地図」裏面掲載、浅草公園案内(左下隅に十二階が見えますがもはや付け足しのようです、この地図は表面も少し不正確なのでこれも目安程度か)
〜「よみがえる明治の東京」より、十二階上から浅草公園を見渡す
〜「古老がつづる台東区の明治・大正・昭和Ⅱ」大正7年頃
(なぜか十二階内部と上からのパノラマ写真は数少なく、彩色絵葉書も一枚しか確認していない(書籍よりトリミング、問題あれば削除します↓))
末期の十二階からの大池です。元浅草国技館の頭が見えます。手を加えないリアル写真ですとさらに。
国技館ができる前の大池の景色。同じ写真の別彩色(後者は横浜写真、「明治の日本」増補版、横浜開港資料館より、赤が強く出てしまっています)
〜「よみがえる明治の日本」より浅草寺方面。(原本:浅草区史)
十二階上から奥山閣越しの浅草寺(このアングルは別記三枚と同じで、人気だったのかもしれない)
2枚の彩色版。前者はいわゆる手彩色、後者は土産用に横浜で彩色された横浜写真(「明治の日本」増補版、横浜開港資料館より、スキャンアプリの性能上赤くなってしまいましたが緑がよく出ています。前者は後者を下敷きにしたものという説明もあります。書籍掲載写真よりカットが大きい。)
ちなみに同じ頃か少し前の洪水時に十二階から眺望した風景とされるもの(風俗画報)角度もさることながら三囲神社の鳥居まで見えるのはやりすぎ。。ふつうの鳥瞰図として捉えるべきか。
〜浅草観音と筆書き(明治二十年代か。撮影は日本初の商業乾板写真で初めて早取写真師の名を頂いた浅草の写真家江崎禮二※(のち浅草公園は観光記念の早取写真(ポラロイドみたいな感覚)が名物となる)、鶏卵紙に拡大複写販売されたもの)。季節が冬で上下の写真では見えない経堂が見える。(建物は戦災で本堂、五重塔や仁王門とともに焼失、中身は避難して助かった、今は元仁王門に収められている、別記)
東都吉原と筆書きされた同様の写真が十二階から吉原をのぞむ写真であったことが判明、以下リンクしておきます(さすがに画像は持ってこれない)江崎製の台紙に鶏卵紙、同じように販売された拡大写真(望遠写真)でしょう。うーん、盲点だった。気づかなかった。吉原まで田んぼだったんだよね、まだ。
下記パノラマ写真(西方)との比較※ちなみに凌雲閣社長として上記東京名所図会に名を連ねているが既に手を離れ、また、十二階が無くなってからも凌雲閣は株式会社としてはしばらく存続した模様。凌雲閣の名前の施設も繋がりはともかくあったようです。〜江崎写真店。
転落防止網がじゃまですね(通常はこの状態だった模様、自殺者がいたため)
〜「浅草区誌上巻」大正3年より。時代の下る景色。前掲浅草寺方面はこの写真のコピーとのこと(国会図書館本では浅草公園方面の二枚は省かれています)
こちら絵葉書は隅田川のむこうの煙突群まで見える克明なものになっています(やや時期が下るか)。新吉原がはっきりしないほど建物が建て込んでおります。時期は下るでしょうが、大池の手前にはまだ国技館はありません。
「浅草地域のあゆみⅡ」江戸東京博物館調査報告書第33集h30より
〜人間には妙な性癖が有る。少しでも高い所から人を見下すと愉快を感じるらしい。明治十八年頃ださうナ、五重の塔修復の時、足場を掛けて登らせたら大変儲かつたと云う。そこで香具師が今の富士館辺に富士山の模型を築き上け金五銭で登らせたら案の如く大繁盛だ。すると、 最後に凌雲閣が出現して富士山を蹴散かして了つた、是が明治二十三年から今日に至る迄浅草の標的となつて肩をいからして聳える十二階。三人死んだから是真の三死十二階は落語家の云ひ草だが、自殺を企てる不所存者を防ぐ為めに十一、十二階は金網が厳重だ。その鳥籠のような中から、『あの丸いのが国技館かい』『彼方の白い燐火箱の行列が吉原だよ、どうだい公園にウヨウヨする人間共の小さいこと、 まるで姐虫だね」と怖る怖る覗き込んでは、征服者の得意さを顔の筋肉に表示させる。(吉岡鳥平「甘い世の中」T10)
<十二階の残骸処理と遺跡発掘>
浅草六区の十二階凌雲閣は大正の大震災で半壊され危険なので、赤羽工兵隊の手で爆破した。明治二十三年に出来てから僅か三十四年の寿命でこの世から消えた。~「東京そのむかし」宮尾しげをs30アソカ書房
瓦礫の始末は方々で問題となり、古来の池泉に投げ込むことで処理される場合も多かった。けっこう遠いのだが入谷駅近くに朝日弁財天(戦後私有から寄付された土地に建てられた名前でもともと姉弁天もしくは弁天院と呼ばれる)がある。もともと松山の水谷伊勢守勝隆が不忍池の弁財天とともに下屋敷内に建立したもので、つまり東西(朝夕)対となっていた。不忍池の広大さに対しなぜこちらが対になるのかといって、このあたり一帯も「水の谷の原」と呼ばれるほどの一大湿地帯であり、明治時代になっても8000坪もの池が多くの生き物を孕んで広がっていたという。
明治12/20年の浅草の地図(まだ浅草公園は作られておらず田圃になっている)。現在地と少しずれるが鷲神社裏に大きな池が見える。このあたりが湿地だった。龍泉の地名は今も残る。
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水舎朝日弁天は、水舎の池に中ノ島があり、そこに弁天を祀ったので、そこは三千歳と直侍の出る松源の寮だったんです。まわりは黒板塀になっていて、中は平家で、大正天皇の皇后が九つから十二、三までいらして、池で泳いだのを見かけたといわれてました。子どもの頃は塀の中に入って、池でよく釣をして叱られました。この松源の寮は関東大震災でなくなりました。(濱中藤一郎談)
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古老がつづる台東区の明治・大正・昭和Ⅰ
(奥の緑が現在の朝日弁天公園だが、元はこのあたりまではあった。空襲もあり、そのため十二階の瓦礫はどこに埋まっている、もしくはいたのか不明である。)
(児童公園になっているが、マンホールがいくつか目につく。水気を感じる。向かって右手にある小池は人工のもの。)
ここに十二階やその他浅草の残土瓦礫が放り込まれることとなった。煉瓦は重い。牛馬が運搬の労で斃れることもあった。池泉の生き物たちもことごとく焼けた土砂の中に潰されていった。このことをのちに嘆く歌を詠む者もあったが、結局のところ池は全部瓦礫で埋まったようである。現在コンクリの小池が社殿向かって右脇にみられるが、空襲などですべてを失った戦後に宗教法人として整備された延長上で復興したものだろう。近年、瓦礫運搬の家畜や池泉の生き物を供養する観音像が建立されている。境内は池を含めればもっと広かったとのことで、どのあたりが十二階の煉瓦の眠る場所なのかわからない。
近年再建され、最近解体された仁丹塔(現在はファミマと看板)
:荒俣宏「異都発掘」1987
現在発掘調査により十二階の建っていた最も確実な位置と思われる浅草2-13-10~14-8の一角の地面をよく見ると、赤煉瓦の破片が見える。これは後世のものだろうか。※
※当時のものでした。2018年に入り更地(もと台東医院)の開発が始まったところ煉瓦層が二箇所現れ、地固めのコンクリートがその下に発掘され、ここが角地であることが判明。同じ基礎は向かいの元焼肉屋の赤いビルを建てるときも出たという(それがここの場所確定の根拠となった)。
1981/7/12初発掘時(現在の居酒屋・焼肉屋、下記写真の対面側)(古老がつづる台東区の明治・大正・昭和Ⅱより)
(2018/2/12-13工事現場写真等)
道路部分がまだ残っている可能性はあるが、水道管など公共工事ですでにない可能性もある
前回はイギリス積み?の煉瓦がかなりの硬さで難儀したとか。さて塗りの厚薄あるようですがどうやらコンクリートで煉瓦をがっちり繋いでいるため堅くなったようで、薄いですが重い煉瓦そのものは紅ぽいものと橙ぽいものがあるようにも見受けられました(光の加減か湿気のせいかもしれません)。壊滅はしましたが出土瓦礫の一部は保存され記念碑が検討されているそうです。このあたりはすべて浅草寺の土地で、どうやら再開発のターゲットになっているようで、現況保存の頼みの綱は公共であり塔の真ん中があるかもしれない「道路」だけですね。ただ、敷設や水道管埋納等工事のつど掘り込まれ土砂やコンクリートで侵食された可能性はあります(そもそも基礎が床面全部を支えていたかどうかも不明)。最初の発見の時の出土煉瓦は下町資料館に展示されているそうです。簡単な資料も存在します。
左前のマンションをニ、三階低くした建物が、おそらくこの正面にあり、このあたりが入り口だった模様。