数年前に記事をあげたものですが、大量の写真と文章と動画をつけているため編集規制がかかってしまいました。少しではありますが資料も増えているため、記事を分けてこちらを更新することにします。
元記事(更新停止)
浅草十二階「凌雲閣」は明治23年に浅草寺北西の六区の北、千束に建てられた当時としては日本一の民営の高層タワー。当初周囲に何も高い建築物が無く、夜はまばゆい無数のアーク灯がぐるりをめぐる窓のすべてから光を放ち(いつもではない)、見た目の突飛さ、上階景色の秀麗さ、周辺風俗の華やかさから数々の文学・絵画作品に取り上げられた。
(以下東京名所図会より)
明治ニ十七年六月廿日東京大地震の際煉化に聊かの亀裂を生したるのみなれば其堅牢無比。以て證するに足るべし。爾後閣の内外共に帯鉄を卷き固く鐵條にて締め増工事を施したれば永久震災の虞莫かるべし。
・・・というが以下開業当初の絵を見ればわかるとおり、当初から白い枠が最上階に作られていた。
建設中の凌雲閣十二階
明治23年11月10日開業最初期の写真とされるもの。「浅草地域のあゆみⅡ」江戸東京博物館調査報告書第33集h30掲載 推定明治24年1月撮影(竣工二ヶ月後)〜「吉原下町談語」掲載
ひょうたん池(罪人などにより掘られた人工池)越しの写真としては池畔建築より最古級(竣工当時)とされるもの。「よみがえる明治の東京」より
「博覧都市江戸東京」江戸東京博物館h5
開業広告(東京日日新聞)〜「変態広告史」掲載
<工事は一年とかからず極めて短期間で行われたという。頑健なレンガ造り(コンクリで継ぎコンクリ土台を敷いた、これは日本初とも推定される)だがエレベーターはすぐ危険だというので止められ末期は老朽化が指摘された。くすんだ茶色の煉瓦が池に映る姿は愛され、失われて後すぐ、同時代者にすでに研究される対象となっている。>
〜設計者ウィリアム・バルトン。エジンバラ出身。水道工事のほか写真を含む多彩な活動を行った。大変尊敬されたよう。
開業当初の絵
〜「浅草地域のあゆみⅡ」江戸東京博物館調査報告書第33集h30より別資料の転載写真。国産エレベーターは最初しか駆動しなかった。危険性をかんがみ末期まで階段だけが使用された。
明治24年、風船玩具の包紙兼オマケと思われる。当時流行した風船が描かれている。このような絵は多くパノラマ館まで含む賑々しいものもある。周囲に高いものがなく、破格の見晴らしで、子供向けの名所でもあった(これが末期には裏に大人の店が密集するいかがわしい場所となっていく)。
「明治の日本」より宮内庁所蔵、前期の浅草寺側入口付近の様子がわかる。十二階向こうに奥山閣が見えるので今の国際通り側からの風景(後の方にも同じ構図あり)
隅田川方面か。珍しい構図。
〜明治時代の写真集より
:「絵はがき物語」
以下各書籍(書籍名は分散記載)
:石版画、写真を元にしている
〜明治中期あたりと思われる鶏卵紙焼き写真。
美人コンテストで大人の客を呼んだ。最初は芸者などだったが素人も増える。写真や絵をらせん階段にならべ、エレベーターが壊れているのを上まで登らせた。明治20年代より何度もあった模様。
〜「バルトン先生、明治の日本を駆ける!」稲葉紀久雄、平凡社h18より引用(百美人とあるため初回ではなく、第何回かはわからない) 建物の数はまだ少ない。上に補強とされる白い枠がない。
この構図の絵葉書(写真は微妙に異なる)はいくつかある。周囲から明治末期かと思われる。ゴム印に赤茶色と青がある。絵葉書自体がずっとあとまで再版され続けた可能性が高いと思う(青は後刷り?)
上に白い補強があるのは地震があったかららしい(明治27年)が、どうもこれを基準に写真を見比べても整合しない気がする。この写真は27年以降と思われるが、その後赤色を塗ったりしていたのかもしれない。
設計者バルトンによる十二階の写真。時期不明。イギリスからお雇い外国人として来日したが、写真家としての面もあった。明治28年まで実に8年間滞在している。小説「Ayame san」の挿絵がわり写真の一つ。「外国人カメラマンの見た幕末日本Ⅱ」より、国際交流基金図書館蔵
有名な仁丹看板。
百美人の広告ほか。 〜「東京案内」掲載、後期の改装済の姿…と言われたがこの本は明治三十四年。
〜最上階に「十二階」の看板が見える。絵葉書自体は新しいと思われるが写真は地震による白い補強?が見えない。
〜夜景。最上階におなじく看板が見える。同時期の絵と思われる。下敷きは写真と思われる(同じような構図の写真がある)。
〜夜景部分、「東京そのむかし」裏表紙より。夕景のこの構図は動画も残っている。
~伊藤晴雨(回想)
〜区史料より引用、改装後の十二階彩色写真だが、看板がみられる。
〜「明治の日本」横浜写真(横浜開港資料館)より彩色写真(スキャンアプリの性質上赤く出ています)
〜同じ写真(写真で見る江戸東京)
〜「浅草地域のあゆみⅡ」江戸東京博物館調査報告書第33集h30
〜同上、玉乗り全盛のとき。
〜玉乗りより活動写真が主流になってきた頃。
〜明治三十年代の石版画シリーズ「東京名所」より。十二階が簡単に書き添えられている。大正時代にこのシリーズで十二階を入れた浅草公園の絵も刷られている。
〜明治二十六年の東京名所シリーズでは初期の周辺風景も克明に描かれている。(東京名所は大正時代まで描かれ続けたので同じモチーフが出てくることがある)
〜風俗画報より ひょうたん池(俗称)はよく水が出た。
明治四十三年八月の大洪水。
〜明治43年8月東京大洪水時の浅草公園。十二階をのぞむ人工池ひょうたん池(正式には大池というそうです。東京の古い人に聞けば知ってます)が溢れて、道を筏でわたりしまいには泳いで遊ぶ人が出る始末。仁丹看板が見える。この東京大洪水の写真は山ほど絵葉書になった。個人所持および前記参考文献各種から。
ちなみに、以下同じものを含む浅草公園の写真(絵葉書もあるとのこと)
浅草公園の繁栄とともに六区より外れた十二階の裏あたりは魔窟ができてきた。かつてない高所から低い建物しかない下町ひいては関東平野を見晴らし筑波山関八州までのぞめる、という売りはしばらく人気を呼んだ。下に劇場もできた。前に結構な高層建築物もできてくる。
名目上は美術館ということもあってまだ新鮮だった頃は美人コンテストから「日露戦争ジオラマ」のような展示物があった。しかし周辺の発展と同時に建物も猥雑な雰囲気に埋もれていき、人気も落ちて、大正の頃には目の前に浅草国技館も建ってすっかり景色の単なる一部となった。
〜日本名勝旧蹟産業写真集 より、国技館(遊楽館)と重なった不思議な角度。
下層階周辺とくに裏が酒場、「白首」と呼ばれる私娼の巣窟になるなど様変わりした(震災後に立ち退きを余儀なくされついに東向島へ移る、つまり玉ノ井)。このあたりも文学者の格好の素材となっている。西洋風に飛び降り自殺する者も現れた。
浅草寺側からの十二階 〜浅草寺本堂脇。奥山閣から十二階がうっすら見える。
〜ほぼ同じアングルから。
〜同じアングル。
アングルはよくあるものだが、十二階手前に奥山閣がよく写っている。
〜浅草公園一帯が桜の名所でひょうたん池際の桜の絵葉書は彩色により咲いてないのに咲いてるように偽って販売されたくらい。
〜ただの冬の風景に見えますが同じ写真の彩色になると花がわんさか咲いてます。枯れ木に花よ花咲かじいさん。
花屋敷側からの十二階
江戸東京博物館の十二階復刻
しかし
罹災地図より、上野公園からの十二階。
森田峰子編「写真記録 関東大震災」s55国書刊行会より
(国際画報大震災記念号からの転載写真)
花やしきから十二階、猛獣は逃げて被害が出る前に射殺されたが奇跡的に五重塔に結び付けられていた子象が助けられた。
全焼の六区(右方向に浅草寺)前掲写真と同じ
危険性を鑑み陸軍工兵隊による爆破が行われた(二度に渡った)