2021/4/16【京都大仏とはりぼて大仏の話】京都の町を睥睨する大仏、昭和まで残っていた件【失われた神】
2021年 04月 16日
補陀落寺ではなかったと思いますがそのへんだと。
◆明治十年の関西摺りの錦絵だけど、、、この大仏、どこ?榊原鍵吉の倭杖の文字が背景にあり明治十年四月発売なのでそこは確定として(榊原鍵吉は江戸住みで浅草辺で売り出した)西国で大仏殿を失った露座のこのクラスの大仏は見当たらない。上る狼藉許されたとこは?仮仏殿の半身の方広寺も東福寺も違う。
このころまで興行していたというハリボテの見世物大仏だろうということにしておくけど、こんな登り方ができたのかな。
(参考)ハリボテ大仏の記録はけっこうあるようですね。江戸の例です、
品川海晏寺は紅葉の名所だった。維新後は岩倉具視らの墓を抱え(非公開)雰囲気を変えている。ここに銀杏があり1798寛政十年二月末油紙で覆って合羽細工の大仏が作られ、洲崎から遠眼鏡で望めたと聞の任(きくのまにまに)にある。芝全工が略縁起を売り大いに受けた。対面の品川寺の大銀杏の雰囲気。
<京の大仏と日本寺大仏>
寛政戌午七月朔日(1日)の夜四時頃、京都に雷が響き1つ2つ強く聞こえてすぐ止んだ。その深夜、方広寺大仏殿の屋根より火が燃え出し、人々は集まって竜吐水で水をかけたが一旦は消し止めたと思ったもののまた燃え上がり火勢がとても強く、高い所なので人力では届かず、ついに残らず焼失した。納入物の大黒だけやっと持ち出した。人が集まって何品も助けようとしたとて広大なため無理で、やる方なく口々に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱えるばかりだった。釈迦入滅の時もかくやと思いやられた。何より惜しむべきはこの大仏の姿は創建当時のものとして仏師たちの鑑としてあったものでいかなる現代人にも再現は無理である。
最近千葉でも自然の巌山が仏の体に似ているところからそのまま彫刻して大仏としようと、万人講が起こされた。その願主は京都人であった。寄付の勧請状に左右の手に墨を塗って押した。すると手相が立像のえびす大黒のようにくっきりと見える。それもありがたいことと寄付する者が多く、思ったより金銀が集まったので、もはや大仏大半出来上がったという頃に、京の大仏が焼失した。仏法東遷の証、この後数百年も経てば蝦夷地の末までも仏法が盛んになろうと盛り上がった。だがこの千葉の巌山の大仏、これほどの大事業をお上へ届け出ていなかった。どういうつもりだったのか、その後取り調べがあり、不届き千万とお咎めがあった。大仏は切り崩せと急に申し渡され、さしもの功労、水の泡(阿波国だけに)と消えて跡形もなくなったのも仕方がないことだ(梅翁随筆)
~方広寺大仏の焼失と千葉の日本寺大仏築造・破棄をしるしている。日本寺大仏は戦後に復刻されたのが今見られるものです。50年近く前まであった方広寺大仏も江戸時代のうちに胸から上を木造したもので落雷による焼失という真相でした。
司馬江漢はこういう絵ではあまり写実の人ではなかったようですが、焼失する直前の方広寺大仏殿の位置関係を簡略に示しています。
明治時代の方広寺大仏、大仏殿ふくめ江戸後期に簡易に作ったものが長く残った。