【近代特効薬考】生首の黒焼と鬼婆の生肝はどちらが鬼畜?【天印】

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根無しの藤(大中寺)

本草綱目52巻(27内)の末には人間の項目がある。よく知られたようにこの書物は中国ばかりか日本の江戸時代の薬学にも大きく影響している。
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分類的に効能を記されたものは生者の分泌物や生者の切った破片(有名な内股の肉は恩着せがましく削いで痕を見せながら食べさせた等の話があるが、本草綱目では「内脇」の肉となっている)などが大部分だが、魂魄の後者即ち死者のまだ崩れないうちの遺体だったり、木乃伊として蜜人(本来は修行僧が人民のために即身成仏を目指し最後に蜜のみ口にして、没後に蜜の味の薬として身体を喜捨したもの)も載っている。

これらは江戸前期に一般化しており注釈や日本版も編まれ、いわば江戸知識人の元ネタとなり、庶民の民間医療に発展した。死体は立派な漢方薬で、それを使うのはモラルに反した行為でもなんでもないという意識があった。

死体を得るのは墓地から盗むことも個人的には行われたが、専ら刑場だった。したがってそういったところで働き処理を任された人々が特権的に入手し融通するものになった(公売もされた)。人由来の漢方薬は堂々と薬屋の看板商品として売られていた。首切り浅右衛門が人肝を独占し伝来の製法による薬としていたのが、任を解かれた維新後困ったという話も有名だ。明治時代になってもその習俗が無くなることはなく、明治3年4月禁令が出て、倫理観が変わり西洋医学が定着してだいぶたってからもそのてのことが発覚し、問題視されることがあった。墓荒らしがメインになるわけだが、店頭では粉末で販売されるため証拠がなく摘発されにくかった。新聞記事では日清戦争時に大陸の肝で薬を作り大儲けした話もあるという。東京日日新聞によれば富山の大店に捜索に入ると9頭の東京で買い付けた人頭が出た。一方で人由来の薬の需要の高い中国へ向けて明治35年1月大阪から人頭(前掲本草綱目の「天霊蓋(頭蓋骨上部の意か)」)の黒焼きを輸出した事案が各新聞で大騒ぎになったりした。これらは天印と名付けられていたという。

〜生音の黒焼が薬になるか

明治三十五年の一月頃、大阪のせん民が薬種屋と結托して、土葬の新墓を暴き屍体の生首を切取り、それを黒焼にして「天印」と称し、支那人に売つて居た事が発覚した当時、大阪の諸新聞は「二十世紀の一大怪事」とか「文明国の大恥辱」などと大袈裟に書き立てたので東京の諸新聞までが物診らしさうに載せて「二十世紀の今日、然も三都の一なる大阪に在りて行はるると云ふに至つては、咄々怪事といはざるを得ず」なんかんと吐鳴つて居たが、斯んな事は怪しむにも驚くにも足らぬ事である。横浜や長崎や神戸などでも行つて居た事で、其秘密売買は中々盛んなものであつた。

既に先年東京でも此秘密のバレタ事があった(タシカ明治二十二年の夏頃と覚えて居る)東京品川の或意査交番所の前を、片鬢の禿げて居る二十歳ばかりの怪しい男が風呂敷包みを提げて通るのを、詰合の巡査が呼止めて「オイ鳥渡コイ」一声したのに、其男は大きに驚いて、展呂敷包みを其処へ投捨てたまま、一日散に逃出したので、此奴いよ〜怪しいと、巡査は跡追かけて引補へた上、風呂敷包みを開けて見ると、案外にも人間の生首がニつあッた、紙張子の首なら芝居や見世物師の道具箱には沢山あるものだが、真物の生首とは由々敷一大事、此奴見かけによらぬ不敵のシレモノ、殺入犯の大罪者よ、如何なる始末如何なる仔細あッて、何方へ首実検に行くものぞと、段々取調べて見ると、此怪しい男は麻布のヒニンであるが、常に横浜の支那人に頼まれて生首を請負ひ、長らくの間青山共同墓地の新墓を発掘して、生首を切取る事を営業にして居た者で、此日も亦横浜へ持つて行く途中であると云ふ事が分った。それで支那人は之を黒焼にして本国へ送り出すのであると、此男の特つて行く生首は一個七円以上十円迄に買つて呉れる約束だが、若し其生首が死後一週間以上を経たものであれば、薬としての効能が無いとてハネられるのであるから、可成葬式のあつた当夜、深穴でない貧民の墓を人知れず発掘し、跡は元の通り土を盛り花を立てて置いて、翌朝直ぐに横浜へ持つて行くのであるとの白状、そこで此男は検事局途りとなつたが、其後東京軽罪裁列所で刑法の墳墓発掘罪に問はれて重禁錮一ヶ年に処せられた、

古い話だから、今は姓名や月日を忘れて仕舞つた、此外生首の売買は長崎や紳戸にも現に行はれて居るらしい、それを知らない新聞記者共だから大業に書き立てて物珍らしそうに言囃すのである、我輩などは例のへラ可笑い事と思ふて居る、元来生首の黒焼が梅毒や肺病の薬になるとは信ぜられないが、万一そんな効能のあるものならば、ドシドシ生首を黒焼にして公然売買して貰ひたいものである、此世の中には一生涯只飲食するばかりが能で、一向世間の役に立たぬ穀潰し、即ち今の華族達や金持の馬鹿息子の様な、三文の値打ちない製糞器をはじめ、大きな面付をして議員でござるの紳士でござるのと、其實は賄賂や詐欺を営業にして居る奴等が多いから、こんな連中の生首を引抜いて妙薬にでも製したならば、十円内外にも売買されて、世間の商人や病人の助けになる、さすれば少しは生前の罪ほろぼしにもなるであろう。〜宮武外骨「つむじまがり」〜

同年の薬学雑誌に梅毒の薬として人頭の黒焼きが求められ、東京を含む全国各地の墓地が荒らされたとあるから輸出用だけでもあるまい。庶民を狙った素人薬として非難されている。最終的に罰金刑が設定された。

木乃伊は現在も漢方薬として薬屋の奥に存在するくらいで人とは別の扱いになっている。正保・慶安の頃「みいら」という胃薬が流行ったと「昔々物語」に見え、二、三の原薬を松脂で練ったようなものだったが、効なく毒にもならなかったという。これこそ木乃伊だったのだろう。蜜人とはいわれるが供給元はエジプトでミイラを製造するときに使用した没薬が布から染み渡っていて、それを蜜としたようで、何か効能を見出したらしい(科学的には知らない)。

参考



江戸に立ち返ると怪談のうちに人肉食が見受けられる。これも明治にも引き続き栄養不良や梅毒の書生、病人が墓場で夜な夜な人肉もしくは骨を齧るという話になる、安価で効く薬を求めてのものだろう。僧侶がふとしたことで損壊した遺体の一部を口にしたところ、やみつきになり食人に走った、という有名な話は、僧侶のところを別の庶民階層に替えた話もあり、説話めいているところもあって、中世にまで遡る噂話であって、実話ではないかもしれない。仏教は本草綱目の人項を認めはしないだろう。伝承の食人をいうのならば安達ケ原をはじめとする鬼婆(一部は人肝を薬に取る話)、文学なら上田秋成だろう。
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安達ケ原(鬼婆の岩屋)

<島原殺鬼の話>
島原の北有馬村に農民がいた。27で癲癇に苦しんでいた。ある人が死人を火葬するとき飯を握って入れ焼いて食えば治るという。両親が作って与えたが臭いがするといって食わず、無理に与えると何度目かに食い、遂には好むようになる。のち村に死人が出た時、夜になると必ず姿を消すようになる。村人、墓地を掘り返し死体を食う姿を見る。また3、4歳の子供を捕まえようとしたり、村に人が多く集まったときは半裸の者を見て、両腕で抱き付き喰おうとする。皆で引き剥がそうとするが数人がかりでも難儀し、やっと縛り上げ両親のところへ連れて行くと、その父、斧で喉笛を打ち破り殺す。断末魔の雄叫びは天に響き真に恐ろしかった。役人が来たがお咎めはなく、島原の人が鬼になったという話が広まった。角や牙が生えたと言う者もいたが、余、直接村に行ったが仏法に言う身ではなく心が鬼に変じたということだろう。(中陵漫録)

似た話が多く食屍鬼の類型なのだろう。鬼のミイラや骨が維新後も見世物にかかったのは、こういう恐ろしい話が仏教説話に絡めて人心に深く刺さっていたからこそ、粗雑なものでも恐れられたからだろう。

先史時代まで立ち返れば例は多い。削ぎ跡のある骨が出ている。これが何を意味しているのかはわからないが、習俗としては現代に続くものとして家族が肉を口にすることに霊的意味を持たせていることなど、ヒントくらいにはなる。従って薬ではない。もっと前になると敵を単純に肉として食べることもあったかもしれない。

等々力渓谷の崖面に横穴墓(古墳の石室部分だけを崖面に穿った古墳時代末期以降(大化の改新後)の大衆墓)がいくつか分布しているのだが、いちばん大きく整備されている3号横穴からは三体の家族の骨が出土している。その父親の骨にはあきらかな刀傷が検出されたが、それだけではなく、無数の細かい傷が見とめられた。3ミリ間隔で38本もの傷がつけられた骨もあった。


これは人肉食の跡と考えられている。


by r_o_k | 2021-03-13 18:38 | 不思議 | Comments(0)