※眷属は本稿対象外です
犬猫供養はそもそも仏教的にどうなんかという感じもするが、初めから誰でも何でも供養のために設立された両国回向院には将軍自ら愛馬供養を依頼し、豪徳寺は井伊家ゆかりの猫の墓を作り以後どちらも貴賤問わずのペット供養のメッカとなっていたようだ。家畜の死骸を処理してもらうため持っていく場所だった小塚原も、同じ回向院として猫の墓が作られ、吉田松陰や高橋お伝などと同列に並べられていたと明治中期の記録にある。しかしながら過剰に動物を弔う行為はしばしば馬鹿にされ、戒名までもらって個別に墓塔を建てられることはさすがにあまりみられないように思う。
現在の両国回向院犬猫供養墓の一部
流行の巫女イチコに愛犬の口寄せをさせ皆に呆れられる滑稽話が出るくらいである。(式亭三馬「浮世床後叙」あるじが檀那寺からブチイヌに「斑犬(はんけん)」の戒名を頂き石塔を立てたあと巫女に梓弓を引かせるさま、それを覗き見て笑う様子が滑稽として書かれている)
将軍家の持ち馬でさえ小塚原の牛馬捨て場に持っていくのが決まりで、その他にも捨てる場所は決まっており、馬頭観音がしるしとなったりしているが個別供養と埋葬・さらに石塔建立は特別である。石塔は庶民ですら元禄時代くらいまでは許されない場合が多く、江戸初期を除けば大名ですら一部を除き大きな石塔の建立は禁じられたと聞く。江戸の墓がみな小さいのはスペースや衛生上の問題でも壺による屈葬(多層埋葬もされる)ないし火葬が一般化した以外にそういう理由もあろう。乗馬の供養塔は万延年間に表向き馬頭観音と書かれ裏にひっそり乗馬供養とした石塔が小塚原に残る※。そんなとき島津家が菩提寺の墓地に残した石塔の中に犬猫のものがあったと聞いた。犬は戒名と没年が刻まれ(4基)、猫はただ猫塔(1基)とある。縄文遺跡で知られる伊皿子遺跡の斜面の貝塚上にあったものである。
今は杉並にある大圓寺の移転時に残され、屋敷の隅に積んであったものを電電公社が斜面部をまるごとさらって壊滅するさい調査が入り、近所の三田資料館に保存されていたが、資料館移転にさいしていったん、今年は多摩の埋蔵文化財センターに犬猫埋葬例の説明とともに猫の塔だけ展示されている。(追記)白金移転後、犬塔2基と猫塔が常設展示されている。
猫の塔が最も古く明和3年(1766)、犬は文政10年〜天保6年(1827-1835)に集中して作られており幕末の鹿児島同様、特定の人物にまつわるペットだった可能性がある。文政13年2塔のうち「素毛脱狗之霊」と霊位のつけられた俗名「白」(左側面に御狆白事と刻まれる)の墓石は下に掲載した通り彫刻が明瞭だが、他は猫も含めて切石にそのまま文字を刻んだ簡素なもので、破損しているものもある。
:色はスキャナーのせいで赤っぽくなっているが緑。2番目の左に大奥の記載がある。染という(正面に天保6年の年号と離染脱毛狗之墓 三田御屋舖大奥御狆 名染)※当時一般的には犬と狆は種として区別されたがここでは戒名には狗、俗名には狆と記載されている。
「江戸動物図鑑」より。珍しく俗名戒名ともに亀という。亀毛俊狗之霊、俊狗なのに亀という矛盾はあるがこれは狆ではないと思われる。
折れており、年号は推定可能だそうだが他はほぼ不明。「○橋御狆 ○鼻養狗之霊」鼻というのは珍しい戒名だが鼻が利くということだろうか。
以上犬塔
島津は動物については特殊な感覚があり、琉球や南蛮の影響から犬を含む肉食を早くから復活させたが、一方で大奥では非常にペットを愛していたことも記録からも伺える。犬追物の古式ゆかしい中世儀式の維持も(その殺めない方法も含めて)関係しているかもしれない。また飛脚代わりとして通信犬(お伊勢さん代参の犬みたいな方法で飛脚のように使った)というものを早くから利用し各地の情報収集にあてたともいう(これは維新前後という時期ゆえか立派な墓があるとのこと)。ここにあるものは墓石としては粗末だが、回向院の猫塚と比べても本式の印象があり、また、あちら(伝承でしかなくはなはだ疑わしい面もある)が人間の名前で戒名を刻んでいるのに対し、こちらははっきり動物として厚く葬っていたのはめずらしいことだ。この件はいわゆる名犬・妖猫という物語性のあるものとは切り離して永に考えていきたいです。
:賢猫の塔、個別の名前がないことから議論があるようだ(ペット以前にネズミ捕りの益獣でもありその点で功ある猫を合同供養したのかもしれない)
<犬>縄文早期から人は犬と行動を共にしていたと思われる埋葬例がある。犬を埋葬すること自体は一時断絶もあろうが連綿と続けられてきたらしい。
綱吉以降とくに犬は庶民にも身近で、輸入犬も多く、また狆のように伝統的なもの含め室内愛玩種は主として大奥や金持ちの家ではポピュラーだった。
〜狆図(江戸時代)犬は狆(矮犬)、和犬、唐犬、洋犬の区別がされていたが、狆は別の種類とされることが多かった(他にも怪しげな分類がされることもあった)。ブランド犬でなければ体格も大きい洋犬が大名のステータスとなっており贈答用にもなった。狆はもっぱら室内犬で大名の奥にあったが、幕末には一般化したようである。北斎漫画におそらく写しも含めて分類がみられる。その一部。
犬は大名家にはよく飼われ大きな西洋犬はしばしば同輩に見せびらかされた(北斎が描き分けている唐犬もまた輸入犬で珍重された)。たいてい自邸内に無塔で自由に葬る。:武家屋敷への埋葬事例は多いものの、埋葬方法は家によりさまざまだったようです。横たえてそのまま埋めるもの、木槨の残骸のようなものが見られるもの、また白金館跡では三途の川の六文銭を載せた犬の骨が出ている。類例もある。
伊達屋敷(大井町)埋葬の大型洋犬の復元骨格(品川歴史博物館)
鹿児島県鹿児島市
福昌寺跡島津家墓所
この中に婦女子を集めて祀った場所があり、もともと別の寺のものだったといい、そこの一番うしろに愛玩犬墓が密集している。おそらく一部を除き幕末明治初期に一気に作られたもので、神道式?位牌型?(頭が尖る、しかし前面には卒塔婆型の窪みがあり戒名を刻む)の墓石に霊位ないし位として戒名もしくは戒名的な尊称をつけた俗名を置いている。一番右に同じ形大きさで尼と結ぶ戒名(同じく霊位と置き字)の墓石が並び、この人の縁の犬だったのかもしれない。あるいは犬の乳母のような人がいたのか?どれが犬の墓かは戒名に「狗」の文字が(維新後の新しいものを除き)必ず入っているのでわかります。一番右の墓所奥、亀の右手奥です。迷ったので。
慶応年間、珍豆俊狗霊位つまり俗名マメという犬。小さい狗だろうが、俊狗とあるからあるいは屋外犬か。
:ボケボケですが右端が尼名義の墓石。
他は以下に別掲
東京都目黒区
安養院
目黒不動近く天台宗の古刹、「寝釈迦」安養院。石仏の寺として古くから威容を誇っていたが、近代建築に整備され最近はコマーシャルでもおなじみの納骨施設を伴うビルとして建て直され、境内も結構変化しました。それで気づいたんですが、お寺の直接の施設でもないかもしれませんが、ペット供養塔の向かって右側に文政十一年に没した洋犬の大きな墓があります。裏面に長い文章が掘られてますが位置的に読めません。
「和蘭矮狗玄雋之霊」
オランダ小犬「玄雋」の霊、立派な犬の墓です。江戸後期と島津のものでも古い墓と同じ頃でしょうか。この寺は赤穂浅野本家が大檀家だったそうで、側室とゆかりがあることから、この「狆」もそのあたりと関係があるでしょうか。ほんとのところは聞いてみればいいのですがとりあえず。
両国回向院
慶應2年というから幕末の唐犬八之塚。「は組新吉」が施主とある。庶民による建立の例はこの時代は珍しいのでは。生き写しの姿は近代以降はまま見られる。
こうしてみると江戸後期以前のものはほとんどないですね。庶民でなくともほとんど幕末近い。
六世中村歌右衛門墓前の犬
忠犬ハチ公墓(飼い主の墓前)青山霊園
個人墓戦争関連。
靖国神社伝承系は別記します。
羽犬塚(筑後)羽犬は羽柴軍が島津を攻めようと九州に入るとき、立ちはだかった、もしくは役に立ったという羽の生えた(ような)犬です。妖怪というより名犬の系譜に連ねてもいいかもしれない。名犬の墓は研究されているかたがネットにも論文を出しています。ハチ公より古いものを含むハチ公の類がいます。こちらは香川の鬼無、桃太郎神社の犬の墓。猿、雉も並んでいる。こういうところは完全に後付けの民話系でしょうね。
<猫>
〜猫幽霊(黄表紙・見立て)
~猫と言えば三味線の皮、三味線屋が猫をさらうという噂は昭和にだってあった。だが使用する猫は良い音を出すにはかなり限られた種類となるわけで、昔はともかくたいていは輸入の犬皮だといわれる。四谷津の守の花街にあった三味線屋。三味線屋は猫の皮を使っていなくても今もこのような名前で各地に残る。旧二子新地花街の「ねこ塚」
新地消滅後、二子玉川(瀬田)の丘陵上の古刹、行善寺に移築されている。三味線に使われた猫の供養塔。二子新地自体が最盛期大正と新しいためこの石碑も新しいとおもわれる。
魚籃坂大信寺、三味線石村近江顕彰碑と累代墓がある。本堂前に移築され脇に供養塔があるのは三味線の皮に使われた犬猫のもの。本堂裏の墓地は小さいが大名墓など残り、こちらの愛猫塚は三味線屋「ねこや」看板猫「駒」のもの、刻銘が判然としないがここも合葬墓である。
大事にされる一方で無残に消費される。犬も猫もそういう面があります。古代エジプトで猫のミイラが作られたと聞いて、猫を大事にペットとして葬ったかどうかはわかりません。形式的な道具や副葬かもしれないし、宗教的意味が強いものだったことは想像にかたくない。現代の愛玩感覚のほうが異様なのかもしれません。
いきなり近代の三味線猫供養から始まってしまったが、愛玩猫についてはペット犬同様に大名に葬られた例がある。:それぞれの屋敷で犬同様に埋葬されている。これは汐留遺跡。犬、猫とも一方ではこのように葬られず肉を削ぎ切った跡のある骨が出ている。多くは主に江戸から遠い国で犬が食用とされた時代を象徴したものだが(仏教的には×)、猫は前記のとおり三味線の皮を取るため損壊された可能性もある。
谷中の仮名垣魯文墓のある永久寺の、魯文らによる猫塚などなど。骨があるかどうか知らないが愛猫のしかめっ面の板碑もある。大仰なめをと塚や塔などは興行も関連している。灯籠内に眠り猫がいる。最近メジャーになり賽銭がそなえられているがよく見えなくなるのでちょっと迷惑。
豪徳寺の猫塚〜豪徳寺の猫供養塔
豪徳寺の猫については別項も参照。もともと竹林中に井伊直孝の愛猫、ないし雨宿りを促した招き猫を葬った塚があったと江戸名所図会などにあり、江戸後期にはあやかって愛猫供養に持ち込む町人が跡を絶たず回向院とならんで猫供養(寺として正式な埋葬ではなかったようだが)で知られるようになった。石塔残欠や謎の石塊が戦後まで猫塚としてのこされたが、これが今の招き猫のお堂の元となっている。三重塔まで建ち寺には恩猫以外の何者でもあるまい。あくまで境内祠の形をとっているが、今やシーズン以外も奉納招き猫だらけの中にひっそり、さらに規模の矮小化した石塊の塚がのこっている。
:つい最近まで普通に露出していたが今は木の根方に垣間見えるのみ。
:昭和三十九年
:同時期。鼠小僧墓同様、金銭利益のため欠いていかれて無くなったのが実情のようだ。
・・・猫の場合、墓はないけど祠や伝承は犬よりはるかに多い。以下そういうものを追記しておきます。
両国回向院
猫塚
藤岡屋日記に文化十三年三月頃、深川の裕福な時田喜三郎の飼猫、出入りの魚屋利兵衛は魚をやって可愛がっていたが体を壊し困窮する。猫、時田家から一両小判を盗み置いていく。利兵衛持ち直す。十三両持ち出そうとした時、叩き殺される。話が明らかになると回向院に「値善畜男」と小墓を立てた。立てたのはむろん喜三郎の方。
回向院水子墓の脇とあるので人間と畜生の間のもの、と名目を立てて猫の墓を建てたのか(脇に時田喜三郎猫と彫ったと)。回向院がペット供養のメッカとなるのも遠い先ではなく、その先がけだったのだろう。ペット墓へ仏教的に合理性を持たせた例として興味深い。
猫塚はいくつか造立者の名が推定されていて、考えてみれば同じような話だ。奇異なものだ。
猫塚は台座正面に「木下伊之助」とあり、震災戦災か、はたまた鼠小僧墓と間違えてアヤカリ欠をされたのか、本体は三面摩耗してまったく刻銘が見当たらず、上も不自然に欠けている。後で整形して削った可能性大(左面)。時田(下の名前は複数記録あり)、福島屋、また落語では別名を付けられたが不一致。やや崩れた書体から伊之助としか読めない(申之助と読む人もいるようだ)。
瓦版で評判取ったとあらば諸説出ても止むをえまい。没年まで刻んだとあると少し眉唾感も。将軍家綱が愛馬を葬ってから庶民までペットを持ち込むようになった、回向院ペット供養は古いのね。
下にも引いた昭和二年「墓碑史蹟研究」第二巻に掲載された「銀猫墓」。台座から同じものだが、欠けた墓石の後ろに石を貼り補強しているのがわかる。前面には少し文字が見えるように思うが、戦災の酷かったこの辺では状態も仕方ないだろう。この猫塚については鼠小僧次郎吉の墓の横にあることから、鼠小僧と間違えて掻いていかれたため無残な姿になったともいう。豪徳寺の猫塚が金運祈願で欠かれてしまったのを思うと、鼠小僧は関係ないかもしれない。
猫また橋の異聞に鎌倉屋喜平の猫の話が出てきてよく似ている。寛永年間、小石川の話。これは恐らく芝居を底本とした仇討ち話のアクセントに取り入れられたもので本当の名前ではないだろう。(佐藤龍三「江戸伝説」)
珍しいもので、まだ死んでいないうちから祀られた猫供養霊塔(横浜反町、最近のもの)
霊能者により行方不明の猫を祀ると交通事故がなくなるといわれ、この角のパン屋先代が立てた。三角の石も猫のしゃがんだ石も霊能者の持ってきたものと言い、確かに交通事故は減ったらしい。猫は戻ってきたが亡くなった。霊能者も亡くなったそうだが、都会の真ん中に珍しい。
いわれはこちら
鹿児島県鹿児島市
仙巌園内の「猫神」
庭園内におかれた島津家縁の江戸前期の祠とされるが、昭和四十年代に整備したようで今の祀り方はそう古くはない模様。十七代義弘の慶長の役での「時刻計測」からきているという(瞳孔の開閉)。猫が祀られるのはそう珍しくなく、東国では養蚕の展開とともに鼠取として一般化した。階級関係なく重宝された益獣であり、ここでは猫の目の変化によって時を測るということに結びつけて時の神様としている。百日咳に益あるとも言われたようである(江戸時代は一般人が立ち入れた場所でもなかろうので詳しくは不明)。
さて妖猫や怪犬の墓はどこまで本気かわかりません。例として東京の元有馬屋敷の猫塚(石塔は近世のもの、元々の標石は自衛隊施設内にあります、別記)を下に貼っておきます。古墳を転用したもので江戸屋敷にあった。確かな伝承はなく、原話とは違うぽい。芝居がかっています。
〜ひらかな盛衰記より神崎揚屋の場面の猫化パロディ。傾城に身を貶した腰元の千鶴こと梅が枝が夫の梶原源太のため、富を得られるが死後無間地獄に落ちるという「無間の鐘」とみなし手水鉢を必死に叩くと小判が降ってくる有名な場面。しかし猫なので小判は無用(猫に小判)。降ってきたのはアジの開きということで、手水鉢もタコ。
鳥辺山妙見堂(京都)境内に猫が多く、縁ある猫の墓が散在する。
<オットセイ>
大正末年のオットセイ供養塔。こちらは曲芸のオットセイで、葬式自体も興行化したというが、ソースを知らない。そんなに古いものでもない。
<亀ほか>
最近横浜の反町にある「うらしま寺」慶運寺に最近作られた犬猫ならびに動物供養塔
動物塔(手前)に浦島太郎の亀にちなんだ亀像が置かれている。
江戸時代の浦島太郎の亀塔残欠は焼失した元浦島寺の位置ないし山に移転してきた別の寺に引き継がれている。
<伝書鳩>
軍用(靖国神社)
軍用すべて(荏原)
<馬>
基本的には家畜だが、侍の愛馬はペットに等しい供養をされることがあった。
もっともこちら小塚原の幕末乗馬供養塔は裏返しで、表向きは馬頭観音となっている。おおっぴらにできなかったことは確かだろう。※
<家畜>
〜はなぐり塚(岡山)肉牛供養をする施設。食肉に供された「鼻ぐり」を山積みにしている場所をはなぐり塚と呼ぶ。ちなみに有名な田倉牛神社の備前焼牛馬を山積みにした神座は、もともと家畜の病気平癒のための祈願で供養ではない(参考)
〜家畜を神にまつる例は個別にもよくある(馬頭観音のようなもの以外にも)。後ろにも掲載。鹿児島 ~家畜とあるが恐らくペット墓ではないか(谷中)