2021/3/24【伝承からオカルトまで】幽霊地蔵、お化け地蔵、歩く地蔵・・・【こわいものから巨大なものまで】
2021年 03月 24日
台座に貞亮院深心等の文字がある(院の墓もある)。新しく見えるがよほど硬い石のせいか。よく見ると割れ欠け多く、背に一瞬盃状穴と思う深い穴が穿たれている。恐らくいつか光背を付けたのだろう。綺麗に配置されているが元は奥にあったか。
橋場のお化け地蔵(酒買い地蔵)
おしろい地蔵(大正時代に再建、三田幽霊坂の大地蔵で地蔵の化粧をして肌祈願。)
図書館裏、七兵衛通りから少し入ったところに七兵衛地蔵がある。
:幕末元文年間の伝説的義賊、七兵衛の元畑地に地蔵を置いてまつってある。七兵衛は青梅は裏宿部落の比較的裕福な農民だった。相次ぐ飢饉にあえぐ村人たちを救うため最初は自分の物を分けあたえていたが、そのうち昼間は農業にいそしみ、夜は遠く甲斐や相模まで足を伸ばして盗みを働いては、獲物を貧しい家の軒先にばら撒いてまわるようになった。一夜のうちに50里を走ったといわれる俊足で捕り方を引き離しては恵んで廻り、貧しい村人を喜ばせた。しかしこういうことは長くは続かない。遂に捕まり土壇場に引き出された七兵衛、自分は仕方ないが妻子にまで危害を加えるなら怨霊となって災いをもたらさん、と言い残して首を落とされる。しかしその後七兵衛の屋敷や畑地は人の手に渡ってしまう。するとどうしたわけか畑には作物が育たず住む者には不幸が訪れるようになった。この「呪い」は後々まで続き、畑や屋敷跡は所有者が転々とし遂には荒れ果てる始末。昭和七年、災いに困った村民有志によりこの地蔵尊が祭られることになった。だが義賊として尊敬されていることには変わりなく、この地蔵や後に出てくる首塚は足腰に効くと信仰を集めている。特に俊足にあやかりたいという青梅マラソンの参加者の信望が厚いそうだ。今も呪いは続いているともいわれ、元所有地はいずれもこの図書館のような公営施設や公園になっている。
青梅マラソンの神にして怨霊伝説の主人公、七兵衛さんはほんとは幕府の隠密とかじゃなかったんかなあとおもった。ので怨霊だとか土地が祟るとか、七兵衛さんのことを喋っちゃだめとか、足が異常に早くて一尺ふんどしが地につかないとか、そういう話がくっついたんじゃないかなあ、幕末の義賊。居宅あとは七兵衛公園になって一キロ西のほうにあるけど、きほんてきにこの人にまつわる土地は忌み地として更地か公営地になっているそう。
首級さらし場あと(駅の右手の警察の裏あたり)
七兵衛さんの首が風雨で流されてきた宗建寺門前の小川。小豆ばばあが出たともいう(小豆洗いのように音を出すだけの妖怪。邪を祓う小豆をあてがったことから零落した家神や土地神の転化とも)。
宗建寺の三代前の住職さんが憐れんで首塚とした墓。マラソンの神、すなわち韋駄天に転化され今も信仰をあつめる。毘沙門天がまつられているお寺。その中にこの説明が。
現在は地蔵部分がさらに損なわれている。大きく見えるが身長30センチくらい。キリシタン屋敷跡にあり、八兵衛という切支丹を拷問して穴埋めにした上に三角形の石を置いた。苦しいか、と問いかけて触れるとグラグラ揺れた。この地蔵はその石そのものではなく、切支丹屋敷近辺のものが集められたと思われる。
上の石に触れて「八兵衛苦しいか?」と言ってみたが、体にしっかり接着されて揺れないようになっていた。。
今は路地となっている龍閑川(維新後早くに埋め立て)。この川は今でこそ小さな路になっているが元々すぐ南の神田金物通りなどより広く、丁度神田と日本橋の町境になっていた。井上龍閑の掘った用水路である。ここには縦に何本もの橋がかかっていた(名が残る今川橋は西に二本目の辻)。そのひとつが地蔵橋*、今の地蔵橋公園(三つの小さい公園が密集している)あたりにあったものである。
:歩道橋のあるあたりが丁度橋が架かっていた場所。
いずれ地蔵も立つような寂しい場所だったようだ。公園は高速を挟み左右に分断されているが、その真中、この幅広い高速の下ということになろうか。架かる橋の前を夜半に通りかかった町人の男が、橋の袂の榎の下にしゃがみこんで泣いている女を見かける。こんな場所で。
もし、お女中。
男はさかんに声をかける。飛び込みでもやらかされたら大事だ。
どうしたんだい、何かあったのかい。話してご覧なせえ。
女は泣くばかり。しかし不意に顔をあげて振り向いたその顔は・・・「のっぺらぼう」!
町人は無我夢中で逃げ出して知人の家にたどり着き、そのまま臥せってしまったそうである。
・・・だだっぴろい紀伊ノ国坂だけがのっぺらぼうの本籍地ではない。同様の話は江戸中、いや日本中に分布している。ハーンが「むじな」でたまたま紀伊ノ国坂を選んだだけで、落語的な起伏のある話とは違いこちらは剥き出しの伝説、環境もあいまってなんだかリアルな感じがするのだが。
* 地蔵橋という名の橋は八丁堀にもある。古くは八丁堀七不思議に数えられたこともあるそうだが、その説は他愛も無い。八丁堀周りに与力の住宅地があり、たまたま元与力、多賀仁蔵が架けた私橋だから仁蔵橋、曰く「地蔵も無いのに地蔵橋」というオチである。洒落の名付けではなく地蔵は実在したという説もあるそうで(別項の三田のおしろい地蔵)、真相はよくわからない。
:このあたり。
:歩道橋から見下ろすと、高速で削られているにも関わらず川筋が残っているのが左右の緑でわかる。その緑の下にはホームレスさんがいっぱい。本町派出所もあるので安心です。
:今、地蔵橋を渡りました!後部座席にはのっぺらぼうが・・・
少し南へ、問屋街に入る。元々大伝馬町と呼ばれていたが今は本町三丁目。異様に高いオフィスビルと異様に古い建物の合間に歯抜けのように潰れた空き地がたくさんあり、先ほどの地蔵橋でのホームレスとの邂逅を思い出す。
氷川神社(目黒)参道入口のおそらく塩地蔵。嘉永年間の銘文石碑があるがそれが正しいなら下の「キリシタン香炉」は何だろう。都下では現代にキリスト教などと混交した信仰様式?がたまに見られる。立川でインドの陶像の飾られた社、小石川で小さなマリア観音陶像の収められた祠を見た(現存せず)。
浦島信仰の存在をうかがわせる。幕末に本来の浦島寺だった観福寿寺焼失より浦島父子供養塔群を移したんだとか。慶運寺は今の浦島寺でいろいろうつす中、牛が寝てしまったところに浦島地蔵を設置した。(横浜反町)
八百屋お七の地蔵
吉三建立の濡仏(長野善光寺)
お七地蔵(石造お七地蔵は三回忌時鈴ヶ森刑場近く密厳院に建立された振袖地蔵もある)振袖地蔵を大森以外でも知ってるのだが、あれは様式化された石彫地蔵なんだろうか。そっちはたぶん幽霊成仏伝承からか子供を袖につかまらせて救うなどの意匠で明治以降に作ったものだと思う(浄真寺墓地)
お七地蔵(目黒大円寺(明王院)吉三満願建立)
土佐は他の土地からの人の流入が多かったせいもあって全国の伝承が変化して転用される例が非常に多い。天女の羽衣や耳無しほういちの話でさえ土佐の伝承として語り伝えられており、独特の怪としては七人みさきくらいではないか。
見渡し地蔵は高知龍馬空港そばに戦後移転したものだが、引っ越しのさい「ばちがあたるならあててみよ」と言った者の足が即座に動かなくなったという。しばてん地蔵は土佐に多い河童系妖怪をまつる地蔵のひとつで、五台山下に今も残る八州の狸弁財天のあたり、しばてんが化かした酔っ払いがよく地蔵と相撲をとっていたという。
ちよ地蔵は土佐にたくさん残る陰惨な、特定の人物の供養のためのもののひとつ。幕末頃朝倉で川を鎮めるため水神に人柱をたてることになったが、選ばれたちよという娘は母親の面倒をみてもらう約束でそれをのんだ、しかし約束は守られず、水害はおさまらず、村人は罰とみなしちよと母親の供養地蔵をたてた。水難よけ地蔵として今も信仰される。勝手でひどい話だ。新之丞地蔵も怪ではないがひどく勝手な理屈で、400年前に行き倒れていた遍路が村人に介抱を受け、礼にと苦労してたいへん美しい七色紙のすき方を開発し教えた。国入り直後の山内一豊の耳に入ったところ大喜び、土佐の特産にせよとの御達示、しかし役目が終わったとして遍路は国に帰るという。よそに七色紙を伝えるのを防ぐため、藩命で遍路は斬られた。災難よけの御利益とは皮肉。
空とぶ地蔵は鎌倉時代に日下の農民が家庭内のいざこざで母妻を殺した供養に京で作ったしっかりした木彫で、しかしじき堂ごと忘れ去られ荒れ果て猟師の獲物さばきと食事の場所になってしまう。あるとき一人が不浄のものを境内で食うと祟りがあるかもと言い出す。嫌なら出ていけ、と他の男が言うと、光を放ちながら飛び去るものがあった。後を追うと、この本尊だった。
ゆうげん地蔵は佐川の児嶋又玄という名医が殿様に呼ばれ、猫の脈を障子越しにとらされてからかわれた。薬はと問われかつをぶしになされと言い残すと、怒りのあまり自宅に火を放って焼身自殺した。以後たたりが相次いで、地蔵で鎮めたらしい。龕に安置されている。
中土佐のしゅむか地蔵は悪ガキが小便をかけながら「しゅむかや、これでもしゅまんかや」と囃し立てていたところ農民に罰があたると諌められた。すると農民は原因不明の病におかされた。太夫によれば地蔵が出てきて、子供にしゅむか地蔵と呼ばれて楽しく遊びよったにいらんことしゆがと大変怒ったという。御利益は子供の病。遠野に似た話がある。この地蔵には他に怨霊がらみの伝説もあるという。
西向き地蔵は大方にあり、はりまや橋の話に似た学僧と村娘の悲恋に絡んだもの。こちらは娘が命をたってしまい、その供養のため作られたもののいつのまにか坊さんの去った西向きになったという。似た話が非常に多く、沖縄は石垣島にさえある。後付けだろう。
物言う地蔵はやや不気味。中村近く峠にあり、江戸時代追いはぎにあった男が殺され、毎年妻子が供養に訪れていたところ、十年目、役人とともに峠で出会った男が、この地蔵は喋るのだ、十年前追いはぎしたとき、誰にも言うなと話かけたら、お前が言うなよ、と返しよった、と言う。役人立ち会いではからずも自ら白状したのだ。
瀬登りの太刀は高知市内の寺にある名刀で箱根権現から来たといい、曽我兄弟仇討ちのさい自ら鞘から抜け川を遡り敵を突き刺した、頼朝の家来から宿の主人が盗もうとしたが蛇となって川を逃げたなどいう。今でも不思議なことがあり、日下から山内家に召し上げられそうになったものの高知城内でいろいろな怪異を引き起こし、刀が場所を選んでいるとして今の龍乗院の本院におさめられた。
鍛冶が婆は野根山街道の有名な化け狼だが石燕本でお馴染みゆえ深くは触れない。同じ街道筋の木下由里は「身二つ」にせず埋葬した妊婦の、いわゆるうぶめ伝説の延長上にある実在の人物。小さな墓石には文政四年とある。番所の娘で山むこうに嫁いだもののろうがいになり里に帰され死んだ。が、赤子に乳を飲ませるため山をこえて通ってくるようになったという。墓石をどうにかしようとすると大雨が降る。赤頭は土佐化物絵本、山父のたぐいか。宇賀鬼女は不気味な噂のたえない深浦あたりに出没したらしい。未確認だが一領具足供養地蔵の敷地に供養墓があるという。
謎の墓で、弥彦の隣村の小さな地蔵堂の中に2体の地蔵と並んで鎮座しています(向かって右端)。供養墓には間違いなく、時代は室町以降に下ると思われます。
神社の境内に置かれている。女という。かつては各家に回され奉られていたのだろうか、伝説では自ら歩き回っていたという。一説に若衆に力石として投げられたり(丸石信仰の要素)玩ばれていたのを諌めた方が祟られたつー類型話。
東寺をこえて羅城門跡へも行きました。空海の身代わりで矢を受けたという矢負い地蔵(矢取地蔵)がここにもある。
この日は予定を詰め込めなかったので、再訪にはなるが西ノ京から太秦近辺をたどる形になった。つまり秦氏やその他、都とは異質の存在のいた西南周縁をなぞったわけである。
京都駅から亀岡行きバスに乗り、老の坂峠から酒呑童子の首塚へ向かう。ちょっと道がわかりにくいが、とりあえずバス停そばの地蔵堂へ。中は見られないが、この地蔵が京の町に入ってくる魔を退けていたという話がある。
安土城石段に石材として使われたという石仏(極端に画質が悪くなったのでまとめた、まだあるが似たようなものなので省略)摩耗した地蔵、二尊石仏(双体地蔵)凡庸な小さいもので近在の庶民の打ち捨てたものを再利用したか、石段固めの呪いで埋めたんであって、信長の仏教嫌悪ではないと思う。。 https://pic.twitter.com/V1Ripctx0Q