


安治の東京真画は元が安く大量に種類があるのでそもそも難しい。師匠の簡略丸写しが六割、ダリ式に名前だけ清親と入れ替えてるものが多い。自分の手元のものなんてほとんど清親コピーだと思う(わかってて手軽で安いから買っただけ)。刷る色違いがあるので自身のものでも別物に見えるやつがあるのだからほんとややこしい。また清親とは少し「変えた」劣化描き直し版も出している。梅若神社なんて師匠は特殊な技法で雨を描き、個人的には凝り方が元の情景を損ねて好きではないのだが、それを模写した安治は安っぽい感じはありながら普通に描いているので、雨の暗い雰囲気がまんま出ている(ブログに載せてます)。ややこしい。さてこれは清親。ほんとはもっと赤が出ているのだが劣化してしまった(水をかぶったか擦ってしまったか、恐らくもともと薄かったものが退色したように思われる)。写真対照、九段坂上の高燈籠(今は移動してる)





(下はワーグマンコレクション(オランダ→長崎大学蔵)より、古い柵)
清親は主観に景色を合わせるけど、安治は正確に書くのでこの九段坂上も安治のがあってる。構図は同じで人物・人力車をシルエットでかなり減らし、清親の味を消している(人力車は無人だが画面配置が同じで、構図だけ真似したとも言い難い)。清親が灯篭の高さを誇張し暗闇にまぎれた上部構造は色を赤っぽく変え明かりを表現してはいるが、省略したり位置を少しずらしているのは写真や現物を見ればわかる(位置は現存しない登攀台とのバランスで当時少しずらしていたのかもしれないが)。一番違うのは灯明台の下の石積みを小粒に省略していることで、安治はしっかり描いている。ちなみに柵の大きさを見ると灯籠だけを囲っている清親の方が古く、安治は偕行社側全面覆っている。この差は時期の違う写真で確認できる。個人的に清親が古い風景を後で起こしただけで時期は安治とあまり変わらないのではと思う(別項参照)。







絵について。この手前の靖国前の馬場風景では安治は清親を完全模写し、結果、小型ということもあってか劣化している。安治の、画題が小さい活字のはまず手抜き作か作風の確立期以降とでもいうのか。色がどぎつく絵が簡単で、後刷りかもしれないがこのへんは沼の住民の方々の領域だろう。堀切も簡略模写なんだけど、これらは銘もなく別人の作のような気もしてきた。九段坂に鉄路が通された写真。右に当時から独特の造り(石を積み上げて高くした)といわれた前記の燈明台が見えます。手前林中が偕行社。お堀際を掘り下げて通していたのです。今は地下鉄が通ってますが。
























前に麹町公園とか書いたが単に靖国神社の苑地だった。(九段公園かなんか名前があったような気もする) https://pic.twitter.com/Jg76aIwAyg











九段坂上今昔(傾斜や広さは割と変わってない)燈明台





それぞれの個性(だが基本的に安治がパクリ)明治十年代→後期(写真)→明治六年(再掲)灯台と九段坂、後ろが招魂社こと靖国神社 https://pic.twitter.com/v8EFQhQ8gT

〜「明治の日本」横浜写真(横浜開港資料館)より彩色写真(スキャンアプリの性質上赤く出ています)
posted at 18:07:11










参考:明治39年(1906)5月の臨時大祭のときの同所(この頃は既に今の拝殿ができています)、戦利品の小銃を積み上げて奉祝門が建てられていた。「明治三十九年五月靖国神社大祭写真帖」より。前年・後年と3年に渡り日露戦争凱旋の臨時大祭は開催されているが、他の年の写真は調べてません(資料はあるみたいです)

風俗画報web版しらべようと思ったら個人利用不可だった。
<日清戦争凱旋靖国神社仮設鳥居写真>
みつけた。日清戦役靖国神社臨時大祭、たしかにこの写真はその緑葉鳥居でした。陸海軍御用商人有志が建てて奉慰忠魂の額を掛けている。まだ馬場があって記念競馬やったんですって。


ここでは松谷さんかなり正確にかいてんだけど、明治中期はまだ正確さはそう求められなかった(読者があまり検証できなかった)だけにまったく信用できないものはあって。精細でやや安価になった写真が本格普及してくると風俗画報も写真が増えてくるのはそのせいだろう。しかしその時期のものは復刻無い



大手門から天守裏を抜けて北の丸公園突き通って九段坂まで歩いた(そのあと深川へ買い物に)。大手町、日比谷は銀座とともに最も長くいたエリアで、ここまで整理され外国人が来るような園地になっているとは。印象がまるで変わり気分転換になった。富士見多聞から覗くと綺麗。日本一の大城を実感







治四十年の本に昭和のことが書かれてるという。Wikipediaは面白いなあ。靖国神社の文化?というと大正くらいまでの九段坂の猥雑さや祭(みたま祭は戦後の新しいもの。だが結構頻繁に「招魂」してきた)での見世物や如何わしい出店の話だが、Wikipedia、お札と切手の話とかwおたくか。田山花袋だけ(写真の本、この人ガイドブック的なものもかなり書いてたがまだ手を出しきってない)。百閒の子供時代、土俵と門限の話あったな。 門限ができた話だったか。神社は寺と違い門限ないものだから。

政治的に独立させた一宗教法人としての性格から祭神も任されている。比較的開かれた部分もあるから祭の協賛など頓着しないのは他の神社にもあることだ。揶揄し批判するとこではない。いずれ国へ返すから本庁と協調してるだのなんだのというのは、形式的であくまで予定のない予定であり、現状「私企業」。不可解な部分も仕方ない。
Wikipediaに靖国神社の見世物としてフランスの馬の曲芸の浮世絵が出てくるが当時よく見世物のあった浅草寺で調べてみると良い。フランスの馬の曲芸の絵、ほとんど同じである。伝法院の裏に祀るお狸さんが開墾で棲家を失い悪さをしたとき鉄砲で追い回したのがフランスの曲馬師、明治5年3月という。









(後補)ちなみにGoogleストリートビューで見るとこちら>飯田橋の幽霊坂
検索エラーが出てもたぶんちゃんと写真は出ます(URLが長すぎるのです)。
ずいぶん地割りが変わっているので、前にサイトにアップした写真ももう古いかも。三本の坂でストリートビュー上確認できたのはこれだけ。地図で見ると靖国神社へ向かう道へ上る坂ということがよくわかります。(下写真が同時期の靖国神社(夜景トリックと思われる)です、向かって右手ですね)








つかこの人あそび人。つか、そういう時代か。
2005/8/18:東京魂やすめ。
・・・不謹慎かもしれない。が、ここで私はえもいわれぬ沈んだ気持ちを感じたので写真をとらせていただいた。「云」が抜けて鬼に見えた・・・靖国へ向かう人は誰も見向きもしない。
:日本最大の鳥居。
:芸術的?
:大村益次郎の日本初のブロンズ立像が今もにらみをきかせている。しかし日本の近代戦争の歴史はここから始まったのだ。
:つぎはぎだらけの零戦。全て南方に散った破片の寄せ集めである。カッコイイなどと言ってはいけない。血だらけ傷だらけで、未だにこの国を守ろうと空を向いているのか・・・
:旧軍各部隊が戦後それぞれに植えた桜樹が境内を埋め尽くす。部隊名をしるした札の裏には今も消息の分からない戦友へむけた連絡先が刻んである。戦に死ぬも戦後を生き抜くも、かれらの心は一本一本の桜に宿り、神仏関なくやすらかにいる。春になりせば桜散るらん故郷の地。
・・・
ミャンマー人は墓標を建てない 山中に屹立する石柱の下にも眠る日本人がいる…
いかにも遅い もう戦友の世代はほとんど残っていない 遺骨はまだ南方のあちこちに残る 忘れ去られるのだろうか 親切な現地人に頼るだけなのか… 「新たな遺骨を」作り出すようなことだけは絶対にしてはならない
コヒマ博物館はヨークにあるのか 客観的に見てしょせん帝国主義の領土争い、そのどちらにも分は「無い」
千人のイギリス兵戦没者墓地がある、石造りの整然としたもの 同じ所で死んだ三千人の日本兵戦没者に墓地はない それは戦争に敗れたという厳然たる事実とは別に、今に至るまでそれというのは、日本人は侍の時代から今も命の重さをわかっていないことの証拠にも見える そして最大の被害者は現地人。。
生前の最後に一言だけ「死に損なったね」さまざまな人が兵隊となり、色々な考え方があったろう(幸せだった大正時代の人々だ)だが戦友、友なのだ 過酷を極める環境で友のことを思わない人はほとんどいなかったのではないか 靖国が色々言われるが靖国に一度行きたい☓☓がいるからと、きくそれは救いなんだ

今年も靖国の桜は咲いたか、あれの道沿いの一本一本に、軍隊の部隊の名が下がっている 一本一本が思いである 宗教でもイデオロギーでもなく、これに訪うは何か、まずは慰霊であるが、死なせてしまったことへの贖罪なのである 公式にどうこうではなく、私人として参ることこそが真心と思ったりもする
むかしはスターウォーズですらコソコソ見てたな。「戦争」が暗黙にタブーだった。身体で覚え頭で感じた戦争は、耳で覚え目で読んだ戦争とまるで違う。このタブー感の有無が世代かそうじゃないかの差となる。ただ、郷愁を感じてしまうのか、染み付いてしまったのか、ミリタリー的なものが好きな人もいた
昔の人はホラ吹きも多いから、戦争体験を語ってたのに年を聞くと当時赤ん坊だったりもするので、ま、このへんは聞き取りとかやってる人はよくわかってるんでしょうから、聞き取り本のが精度高いかもしれない。横網町の東京都慰霊堂の横の古い建物でたとえば体験談の冊子を買えますね。空襲の話だけど。

日本には命を軽んじる文化があるが、爺さんが殺したり自殺したり、あれは理屈捏ねてもしょせんは古臭い風習のものだからな。手伝っても染っても駄目。教育を十分受け、公的に死を強いられることもない世代は彼らを悪い歴史として葬らねばならない。
日本ってそもそも伝統の方を命より重視する国なんですよ 人命に対する感覚がみんなどこかおかしくなっている国なんですよ じゃなきゃ過労死なんか発生しない 世界一の自殺大国にはならないですよ これが武士道の正体です
ひとつだけ。伝統がたかだか数十年しかないとかそういった言説は通用しません。支持を集め権威をまとったら3年でも伝統になる。時間は関係ない。そういうのは個人的には履き違えた考え方だと思う。時間で伝統の有無を決めちゃだめ。皆が伝統と言ったら伝統になってしまう、それが凄く嫌い。
ちなさっきエキブロのバグで消えた記事は日本レコード史。湯地丈雄・敬吾親子が生録して回った中の乃木大将のトーク(素人録りなのでこの時の名士講演会は歪んで聴き取れず唯一自分の名前を言った声のみ長田の働きかけでレコ化し大反響、YouTubeにある)、東郷行進曲が本人に受けて困った等々長田幹彦本より。既に軍神に祀り上げられた東郷元帥晩年のなんてことの無い凡人ふうの裏面を描きイメージの払拭をはかる長田の描写からは、ちょっと意図的なものも感じるが(自嘲通り行進曲の歌詞のおもねりっぷり!)、きわめて近くにいた一人の声なのだから精度70%であっても「当人を知らない人間の声」より遥かに上に置くべきだろう。橋本国彦である。YouTubeをさがしても長田幹彦版東郷行進曲は出てきません。ほぼ同時期に発売された方は今でも歌詞なしで自衛隊で吹かれているようで。
何とも言えん。時代の空気。
昭和16年_靖国神社・春の臨時大祭 http://nico.ms/sm26939454

イデオロギーとか解釈表現の問題とかをとびこえた何か深いところで残り続けている共通の「記憶」を穿り返すような番組だった。
そう、表層的な解釈なんかいらない、
どう感じどう思うかは人それぞれだ。
見る人も、本で読む人も、もう少なくなってしまった証人のかたがたにせっする人も、
底に眠る「ほんとうの記憶」をそれぞれの頭の中で、穿り返しておくことは重要です。
センチメンタリズムなどとうの昔に失い、ただ目の前の使命を達成するために、そしてただ腹が減りただ明日までも生きたい、明後日までも家族を生きながらえさせたいだけだった不幸な世代は、さばさばとしていてあっさりとしており、しかし、多かれ少なかれトラウマに囚われて、何枚ものペルソナを被っている。
ああいうドキュメンタリーは重要です。言葉どおりにとれない複雑な様相は見たとおり、でも死を前にした若き戦犯のかいたハモニカの音線は、凡庸であるからこそ時代の色柄をはっきりつたえ、解釈に囚われない原初的な「ほんとうの記憶」を呼び覚ます。
あそこだけは涙が溢れて仕舞いました。
現地を見るのも重要だし。靖国もきっと、行ったほうがいいのでしょう。これはイデオロギーとかそういった問題ではない。
ただ、見て聴くのです。



裸の飛行場で整備というのも厳しい。。テントしかなくなり夜、時限爆弾の破裂する音を聞きながらランプのもと割箸3本括って「コックリサン」が大流行、決まって増援が来るという「お告げ」となる…が、それは演者が自分で動かしているのだ、ということがわかっている。
よく記憶、記録された。。
なんてこと打ってたら棚から瓶が落ちてきた。まあ、今日も墓地にいたし、何か共振を起こしたのだろう。読んでいるとわかるが、戦闘機の整備兵なので航空機の描写は突出して上手い。当たり前だが浮遊するような人物描写と比べ立体的で動きもわかる。一部船もだが車は何故か簡単に書いている。
自然描写に異様な迫力がある。椰子の木の靡き、闇、霧、光、風、戦闘の背後に枯れ木の平原ができてゆく。突撃前夜、暁に祈るの歌詞が書いてある(西條八十の愛馬花嫁の表面)。傷病兵の丸腰行軍。死にに行くために長距離を移動し、力尽き死ぬ者もいる。何という不条理。島民は知らぬ顔で牛車を駆る。
記憶は陰影を濃くするものなので注意深く接するべきだが、「俺達が死ぬための戦車攻撃に出発するのに自分は笑いながら手を振っていた」などこの戦争を象徴するものだ。もっと上の士官は戦犯にも大して問われず、しかし戦後日本を率いて立て直した。この矛盾はしかしもう、かれら殆どいないのでね。。
同県民の自決の話が出てくる。斥候に行った後方で本隊がやられ、生き残った同県民に後を託され場所につれていきピンを抜いた手榴弾を渡した話。軍隊は県民単位で供養されることがあるが、摩文仁の丘も県民単位の石碑があるが、同県民という意識も今とは違う。同じ斥候の人も亡くなり十字架を背負ったと
玉砕といっても上官以外誰も死ぬ気は無いような描写がある。生きて帰るぞ、という意志に満ちている。「皆死ぬのはいやなんだ」これはほんと、個別に違うのだろうが、結果論として玉砕ということもある…この場合も。
狙われると味方がまずい両刃の武器だが絶大な効果のある火炎放射器相手の苦戦。見えない相手に使う武器で。これほど残酷なものもないと思う。
最後の戦友が竹林に入っていってニッコリ笑う絵は、きついな。水墨のような白黒の風景の中で、緑の戦闘服に子供のような顔。それを木陰で見守る氏。すぐさま死んだ兵士のヘルメットと帯剣を拾って銃弾の中を往く。なぜ白黒。
水木先生ほどには状況が厳しくないにしても、やはり怒られる。生還したのに。なぜ同輩を自決させず連れてこなかったかと。「「ごくろうさん」と一言くらい言っていいのに!!」上官を信用しなくなる、とある。何やらこの感じ、現代でも。。40程の老兵ばかり、若者はこき使われる。今度は斥候だと。
それにしても背景に目を奪われる。椰子。引きの絵が多い。兵は皆極度に単純化されているから悲惨さは文で読み取るしかない。「生き残った兵達が東海岸に追いつめられた。ひとときのやすらぎの場 一日後には米軍の攻撃でほとんど死体になった (美くしい砂浜であった)」夕陽だろうか、何故か影が桃色
陸軍兵と合流し食品倉庫の焼跡…広場の絵。中に乾燥味噌など見つけて夢中で拾っているところ椰子林から一斉掃射、11人がバタバタと。その後同地に行くと完全に焼き死体だけあった、罠だったのだろう。突然真っ白な絵、「パンの実をとりにいって二人殺された」。これは再び色鉛筆で細かく描いている。
どういうわけか玉砕後の絵はどんどん弱々しくなっていく。線も凡庸な感。牛を打ち海に漬けておいたら蟹に全部食われた、ココナツで命をつなぐいたるところに白骨があったトカゲ旨かった大カボチャ不味かったパパイヤはもう黄色くなったかな島民から盗む、服装はボロボロになってるがかなり充実している
…しかし食に惠まれているとはいえ単なるサバイバルではない。ここは敵の手に落ち、殺される危険に日々苛まれている。毎日米兵が掃討にまわってくる、戦友が殺されるたびに自分に迫り来る「死」に毎日おびやかされる…水彩からクレヨンないし色鉛筆が入るようになる。色彩が強い。逃げ、食い悲しい団欒
大きな豚に出くわすも人懐こく逃げない。眉間を撃ち腹一杯食う。時折白い絵が入る。ココナツを取りに行った二人の後をついてきた米兵に襲撃され一人が射ち殺された。畑の端にタピオカが植えてあった。サツマイモを食うようでおいしかったがあてられてえらい目にあってから苦手になった。潜伏生活。
敗残兵の掃討は六千名以上にのぼる。戦闘能力もほぼ失われこれはゲリラ戦などではない。ジャングルを探すよりジャングル前で待ち構え兵糧を求めて出てくる日本兵を撃ち殺す作戦。同郷の小林さんが椰子林の出口で死んでいた。白骨になるのを待って一つポケットに入れた。打って変わって文字が増える。
島民から盗む話が多い。パインは甘いが舌が痛い。米軍の監視哨すぐ下に芋畑。イモの根は掘らないで一本のイモの株から一本だけ掘って土をかぶせておく。農家出身のオレは、いただくのに、島民が苦労して植えて育てたイモだ。全部掘り盗むなんてできない、と思うのだ、とある。
米軍が日本兵狩りにジャングルへ向かった隙にテントへ行ってタバコの吸がらやパンの喰べ残し、ベットまで盗んだとある。だが同郷の兵と出会い仲間になった絵の次、その死体を蘇鉄の葉で埋葬する。「どん気持だろうか!アメリカの兵士は個人では良い人達だろうに自分が殺した日本兵のことを…」怒りの絵
絵柄と中身は一致しないが文字と描方は意味がある。2図描き込む時。糧達時陸軍兵二人の白骨に出会う。綺麗な靴を拾い上げる。音がして払うと足骨が落ちた。履いて帰るが急に屍臭に気づく。見廻したが屍もない。フト足から臭っていることに気付いた。耐えられず捨てたがいつまでも臭がついていた。白黒
故郷の夢。思い出の故郷で米軍と戦っている夢ばかり。綺麗な緑の野原の絵…白骨が散乱。食糧のため音をたてたら米兵の掃討で何人か殺される。食うことと殺されることしか出てこない。「日本兵を一種のスポーツのように射ち殺してゆく…鳥はいいなあ、追われる心配もなく、殺される心配もない」黒い絵。
「漁師をしていたという彼は白骨になっても海岸で海を見ていた」珍しく立体的な絵。米兵に真っ直ぐ撃ち抜かれる小沢上等兵。一人ひとり名前がある。一人ひとり描くことで、生きていた証になる。記憶の多少の揺れはあっても、その人がそこにいなかったということはない。兵隊は皆名前を覚えてるものだ。
この絵は続いて遠く海辺の松の枝に髑髏が刺さっていて、下で水を汲むという色鉛筆画に続く。どういうわけか叙情的だが、書いてある言葉は「ゾーとした 夕陽がきれいであった。何をオレに話かけているだろうか。小沢、又は尾沢、名前美貞又は貞美」連続画だが恐らくこの2枚伝聞からの想像かもしれない
安藤さんが死んだ。蘇鉄の葉をかけて埋葬した。夕陽で赤く染まり涙も赤く染まった。四人でずっと暮らしていたが一日おいて山下さんが殺され二人になってしまった。安藤さん画集では出身地名が消されている。そういう必要もあるのだろう。「安藤さんやすらかに」朱の水彩2種に赤色鉛筆で塗り尽くした絵
水木先生の描くとぼけた南洋風景のようで、食と死の極端に交錯する絵にくらくらする。米軍に忍び込んだら寝てしまい目覚めたら兵隊だらけで隠れるの辛かった。ニコニコ顔で崖上の緑の中に二人寝転んだ絵には「オレと片山さんでどっちが早々く殺されるだろうか」米兵動かない夜間動いたら待ち伏せされた
米軍のゴミ捨て場は宝の山で、服も靴も米軍のものでまるで米兵になってしまったが「国際法上では違反であるためジャングルではボロ服をまとっていた」この期に及んで!本が貴重で本土空襲を知る。ビールなど持ち帰り酒宴をする日々だったが気づかれて以後、焼却されるようになった。現グアム大の敷地。
闇の中出会った相手が「山」と言っても「山」と答えないので切りつけたがのち捕虜収容所で会った、パンの木から落ちて両親の顔が浮かんだが射殺された山下さんを埋めた土饅頭の上だったので命は助かったが腰が痛くて動けない…この次からやにわに描きこまれた細かい絵になる。思いと比例してるのか。
思ったとおりこのあと核心というか生還譚のクライマックス(このあたりナンバーが前後し編集されておりもとは錯綜していたようだ)なのでもう書くのをやめますね。小林喜一「南の島に眠る戦友へ」グアム帰還兵が描いた玉砕戦
横井庄一さんは凄い。
ちょっとところどころわからない一節もあったりするが、ひとまず目を通せたので、今後は何かにつなげられればいいなあ。ほんとはNHKあたりがしっかり取り組んで、本も一般流通させるほどの価値があると思うのです。
死んでいい命なんてないわ。何言ってようと死んでいいことにはならんし、日本人かどうかは問題じゃない。ひどいことを言われた過去を持つ当事者は何か言う権利はある(言うだけなら)。何だあの命を何とも思わないコメント一覧は。彼らが日本人。はあ。




古写真で本殿(今は名簿が収められている)の大きさが実感できず、改めて本殿を意識して垣間見ると、でか!屋根、でか!でかすぎて逆に小さく見えただけだった。





隣のお父さんがみんな兵隊に取られたと言っていた。戦争番組を絶対見ようとせず、飢餓の話をした。空襲も機銃掃射もあった。目の前で大空襲のキノコ雲を見た。敗戦後の敵艦隊を見た。今愛読しているのは産経。WILL。HANADA。反韓。見るのはYouTube桜。庶民の戦争史は今も続いている。2019
軽々しい感情や決めつけ、冷淡な研究には興味が無い。語る人がほとんどいなくなっても、欠けた石塔は煤にまみれ真っ黒で、崩れた石井戸には焼夷弾の当たった跡がある。文献や口承は誰かがやればいい。直接証拠はまだそこここにある。
右翼団体にいた親族は声帯を失った祖父を戦犯と非難した(思想のためによく勉強した世代だ、単純な左右の話ではない)。それと大叔父がそっくりだという。大叔父は軍功を急ぎ戦死した。曾祖母は尋常でなく嘆いた。探せば新聞記事も出てくるらしいがその気は起きない。靖国を見て思い返せば色々。
親族には左翼の大物もいて、地方で街宣車が挨拶に来て困ったという話もあったな。言ってないが直接関係ないうちの墓石に赤ペンキらしき跡があって消したことがある。ほんとに、軽々しく戦争も思想も扱う話ではない。
軍服を着るのに難儀した話をとぼけた調子で語る様子に、やはり水木先生を重ねてしまう。たぶん水木先生の漫画を大して読んでないのに、ここまで思い入れるのはこの勝手なシンクロのせいだろう。
戦争番組は録画はするが見ないのでタイムラインで知る。ただのミリオタも見てるかと思うとイラッとするのだ。NHK、恐竜みたいに何年かあとにサラッと違うことを言わないでね。登場人物全員退場してからじゃないと検証番組作りにくいのもモヤモヤするが。
ドローン使ってここまでできるなら遺骨収集はなぜ進まないのかな
アメリカの保存量に比べて自国に何も残ってない状況って…て先の番組の感想ツイートが山ほどバズってるが、資料残すどうこうより攻撃下の余裕のなさ、敗戦時の資料焼却(昔うちにあったような隠し持たれたものもあるはずだが)、そも占領下アメリカだったんだから残ったものもほぼ全部接収されてるわな。












