2021/4/20【禁教時代】妄想切支丹・江戸時代の多様な伝承とかたくなに守る人々【カクレキリシタン】
2021年 04月 20日
四谷の二七不動尊。鰻の寝床のような境内に何故か切支丹灯篭二基と石塔の頭だけが飾られている。ちょっと立派な織部灯篭なので見ておいて損はない。とりわけ立派な赤石の灯篭はしっかり頭(火袋は失われている)にラテン文字らしきものが刻まれている。石仏とされることもある人物像もあきらかにキリスト教の聖徒の姿を模している。いいのか?と思うが江戸時代(~明治前半)はそもそもこういうことに無知で偏狭な人が支配階級にいたため、家光時代の取り締まりのような「専門摘発官」の必要のなくなった時期においては誰もわからず気にする者もいなかったのだろうか。それにしても城下すぐにこんなものが散在するのもおかしい。元々ここにあったとは考えづらく発掘されたものであるかもしれないし、開化後に花街の芸妓が乙なものとしてあげたものだろう、あきらかに切支丹を信仰して造ったものではなく、西洋風で面白い様式として珍重されただけにすぎない。2005年時点でこのとおりだったがその後焼失あとは知らない。
路傍の織部(某個人墓に附帯、切支丹灯籠。一見新作の飾り用に見えるが果たして) 青山
品川の海徳寺で王さんのホームラン地蔵や千歳丸殉難碑は看過して慶応四年三月記のある切支丹禁制高札(五榜の掲示第三札)を。無造作に架けられている、レプリカだろうか(書籍やネットでは本物としているものもある)。品川宿。
例の記号論的なキリシタン炙り出しなのでかなり疑わしいところもあるが、「目黒キリシタン」について項をあげたとおりたとえば権之助坂にキリシタンが潜伏していた話があり、早い時期に行人坂上の高台(大円寺を見下ろす位置)に刑場と投げ込み寺が作られた可能性があるという。造成時に大量の骨が出土したからである。(五百羅漢の項参照)
(大火の火元として長らく堂宇を作ることを禁じられ、五百羅漢レリーフも被災者の冥福を祈る目的ははっきりしているが誰が作ったものか、配置も含めて変更や追加もあったよう謎が残る。堂内に入らないとはっきり見えないが、(元)吉三の彫ったお七地蔵は拝見できるものの、元大円寺下に庵を営み今は大円寺に併合された(元)吉三の像もあるとされる。但し本尊右手にあるというが外から見ることができない。その他、大黒天は家康の顔をまねた功徳あるものとして非常に有名だった。背後に平安仏の顔も見える。国重文の清凉寺式(鎌倉時代前期)は正月のみ開帳だが他はいつでも外からなら覗ける。墓地は檀家以外不可。キリシタン羅漢については以下参照。例の記号論的なキリシタン炙り出しなのでかなり疑わしいところもあるが、以前「目黒キリシタン」について項をあげたとおりたとえば権之助坂にキリシタンが潜伏していた話※があり、早い時期に行人坂上の高台(大円寺を見下ろす位置)に刑場と投げ込み寺が作られた可能性があるという。造成時に大量の骨が出土したからである。※目黒は潜伏キリシタンがいたとする説があり、実際大名屋敷庭園や寺地が多く隠れやすい(大円寺五百羅漢の中の洋風石彫や大小散在する切支丹灯籠はともかく坂の途中の商家内の一軒が切支丹というのも読んだ)。呪術イメージから陰陽師と混同されたり邪宗門と一括にされたりも。
封
別項「ぬべらぼう」にも書いた肉人の呼び名。慶長14年4月4日、徳川家康が駿河に住んだ時の或る日の朝、庭に小児くらいで手はあっても指は無く、その手で天を指し立っている者がいた。家臣たちは騒ぎ立て追い回した挙げ句、城から離れた小山に追いやってしまった。それを或る人聞いてしきりに惜しがるには、これは白澤図にある封というものである、これを食うと多力になって武勇に優れるという仙薬だ。何故捕らえて主君に食わせなかったのだ、主君に差し上げなくとも仕える家臣たちが食べれば、皆武勇に強くお役に立つべきものを、と言った。牧氏つたえるこのエピソード(異聞があったように思う)の頭には「この怪物は切支丹なり」としている。
江戸時代の旅は、とおい地方で不穏な動きが起きるのを抑える意味もあって、国毎の関所や役人の配置、馬の乗用をはじめとするさまざまな制約が設けられていたが反面、武士は参勤交代をはじめとして、妻子や親族から引き離され遠い地に封ぜられることを強要されるものであった。また蘭学を勉強する者や通辞を生業とする者は唯一長崎の出島に赴かなければならない。家族と離れて生活する者が多くいたわけで、みな国元に残した妻子や親の安否を気遣うことしきりであった。
国元を離れひとり通辞即ち通訳の仕事をしていた西長十郎という者がいた。故郷に遺してきた妻子のことが日々気がかりでならない。あるとき知り合いのオランダ人が帰国することになり、世話になった御礼をしたいという。長十郎はさしあたって欲しいものはないが唯一六年も会っていない国元の妻子が気になるばかりだと言う。すると何やら大きな鉢を取り出したオランダ人、水を満たすと、顔を漬け、まばたきをせずに良く見てみよと言う。言われるままに顔を漬けた長十郎、見る見るうちに水のなかに故郷の景色が見えてくるではないか。
長十郎は故郷の道をゆき、やがて自分の家の前までやってきた。垣根の外より家の中を窺うと、縫い物をしている妻が居た。
なつかしい顔に見入るうち、ふと、目が合った。
妻が驚いた顔をして何か口にしようとした。だがオランダ人が水をかき混ぜたため、懐かしい景色、妻の顔は消えてしまった。
我にかえった長十郎、
今少し時があれば話が出来たものを何故
その問いにオランダ人答えるには、
そこで話をすればふたりとも命を失うことになる、だから慌てて消したのだ
と。
しばらくのち、長十郎は無事国元へ帰ることができた。
妻と再会を喜び話しを交わすうちに、フトこのときの話しになった。
さても不思議な幻であった
と笑う長十郎、すると妻、
あれ、それは秋も終わりのころで御座いましたか
ああ、秋陽の長く影を落とすころ、仕舞いの紅葉の舞い散る庭で、子供が犬と戯れていた
ああ丁度そのときでございましょう
子を犬とあそばせて、縁先で縫い物をしておりましたときに、貴方の御姿を御見かけいたしました、ええ、確かで御座います
垣の外より家の中を覗いて、スグ消えて仕舞われましたね
何々月の何々日、何々時のことでございました。
長十郎はゆっくりうなづくと一言、
まさしく。
・・・
今ひとつ。こちらは「耳袋」の収録になる。
長崎奉行の用人、福井某という者、主人とともに長崎に赴いたが、風の便りに母親が病に臥していると聞き、以来江戸のことばかり思って、自ずもまた病身となってしまった。食も進まず痩せ衰え、主人も心配し思い付くばかりの治療を施したが一向に良くなる気配が無い。するとある人「オランダ人の医師に見せれば何か良い法があるかもしれない」と入れ知恵する。主人ただちに通辞を立てて出島のオランダ屋敷にそれを伝える。
オランダ屋敷のかぴたんは早速医師に話す。医師、診断して言うには、回復の法ありとのこと。かぴたん、福井某を商館に呼び寄せた。
医師、大きな盤に水を汲み入れ、福井某の前に置くと、
この水に顔を漬けるべし
と言う。
福井某は指示にしたがい顔を漬けた。すると医師、頭を押さえつけ、しばらくして
目をあけよ
と言う。
静かに開けた目の前に、
紛れも無い我が母が帷子を縫っている姿が、ありありと浮かんだ。
その刹那、医師は福井某の顔を引き上げて、なにやら薬を服ませて
これでよい
と言った。その日より福井某の病は薄紙を剥ぐように快方に向かった、という。
一年ほどして御役交代の沙汰があり福井某は無事江戸へ戻ることができた。
そのとき母が言うには、
今より丁度一年前になりましょうか、お前のことを恋しく思いながら、送る帷子を縫っておりましたとき、ふと目を上げますと、隣家の小笠原様の塀の上に、お前の姿がありありと浮かび、しばらく顔を見詰め合ったことがあります。あまりにもはっきりとした姿であったので、もしや長崎で変事でもあったのではないかと随分と心配をいたしましたが、ややあって消えてしまいました。
きっと私の気の迷いでもあったのでしょう
その日限、時刻を質するうちまさしく福井某が、かぴたんのもとで盤の水に顔を漬けた、まさに同じ日限、時刻であった。これはまさしく幻術、オランダ人は今でも伴天連宗門を信じているそうだがこれも切支丹の妖術の一つでもあろうということになった。
2000編
長崎、左手が国宝大浦天主堂、日本最古の教会建築ですが、カクレキリシタンの貴重な資料が展示されている右の建物も重文。フランス人居留者のために建築されたものですが、禁教の解かれていない明治初期にカクレキリシタンがここを訪れ、数百年ぶりの信徒発見がなされたのは有名な話です。撮影はできませんが、踏み絵、カクレの使った道具(カクレキリシタンはカトリックに吸収されたり集落が過疎化するなどしいなくなっていきました。ひそかに伝えられた遺物はこういった教会に納められ展示されており、ここにもマリア観音など集められています)は貴重です。いざ破壊しやすいことからつくられたという陶製のマリア観音は後世偽作も多いようですが、、、東京小石川の澤蔵司稲荷の境内にむかし陶製マリア観音をおさめた祠があったと記憶してますが、カクレキリシタンは小石川とはちょっと関係があるようですが(切支丹屋敷の存在とは別に)、恐らくは伝統のものではなかったのでしょう、現在はありません。
天主堂の現在の名称は日本二十六聖殉教者聖堂。言わずと知れたキリシタン弾圧の絶頂を示す26人虐殺は現在のJR長崎駅そばの丘の上で行われました。そこには有名な慰霊碑があります。
殉教はすなわち神の国に迎えられるという考え方がありました。長崎各地に散ったあと発見され虐殺された信徒も、カクレキリシタンの中で信仰の対象となっていきました。
外観のわりにこじんまりとしていますが、カクレキリシタン関係は堂崎ほどではないにせよそれなりに見ることができました。本日通りかかった小社の床下から見つかったという切支丹地蔵。背に十字架をしょっており、誰も由来を知らなかったそうですが、恐らくカクレキリシタンが弾圧を逃れるため密かに隠してそのままになったのではないかといいます。
殉教した二十六聖人の一人ヨハネ五島を記念して創設された。磔刑像は穏やかな入り江の景色のうちにあって異様な雰囲気を醸す。
この島にカクレキリシタンはもう1家しかないそうで、そもそもキリスト教は上五島のほうが盛んだとか。いつか行こう。
キリスト教が土着している独特の風景。とはいえ渾然一体となっているわけではなく、宗教宗派毎に集落が別れ生活しているのが独特の細分化された文化形態を示しているのは前に書いたとおり。墓地も宗教別につくられています。ここではキリスト教墓の中に蘇鉄の木が植わっているのが見えます。五島に限ったことではないように思いますが、蘇鉄は家の敷地に植えない習慣があります。これは蘇鉄が金属をよく腐食することから、金を食うといって忌んだことよりきているそうです。離島ではいざというときの食料とするところもあったよう。福江島の切支丹ももとがよそ者で差別がたいへんだったらしい。
井持浦教会です、ここに日本カトリック教会で初めてルルドの泉が設置されたとか(東京でもカテドラルなどで見ることができます)。
前掲の墓地写真はこの立谷教会跡のものです。
上古より特有の民族が居住し(宮古の池間民族を思わせる)、後期遣唐使が最後に碇を下ろし、決死で旅立つミミラクの地、弘法大師もここから船出したということで今やお大師信仰がけっこうな勢いですが、江戸時代にはキリシタンが弾圧をのがれ流れ流れてきたあたりでもあり、教会が多くあります。半島先には寄らなかったので港の柏崎や伝説の姫島は見ませんでしたが、半島の中央を占める広大な自衛隊設備など内側から覗き見。
ミミラク・・・弥勒信仰を想起するのが自然でしょう。西方浄土を望める地、とくに南西諸島でよく聞く「ミルク」のこと。美しい夕景の中に溶け込む西のさいはてのミミラクは、亡くなった人と再会できる島として蜻蛉日記にかかれた地とも推されています。思いはせると水平線に懐かしい人の姿がしばし現れる・・・「隅田川」を思わせ、雅な哀しさというか、都との関係深さを感じます。五島灘では怪しい水怪の話が明治以降も報告されていますが、福江には死んで魚人になった父親に助けられる長助の話というものが伝わっていて、このミミラクと関係付けるかたもいらっしゃるようです。
松浦電鉄たびら平戸口駅。日本最西端の駅(那覇モノレールを除く)。まさにほんとに最果ての雰囲気がある。バスに接続。バス停混乱するけど駅前で大丈夫ぽい。ま、平戸までそんなに遠くないのでバスじゃなくても大丈夫。
平戸大橋をバスで渡ると広大な平戸島。ずいぶんと高い橋。昔はほんとに離島ってかんじだったんだろうなあ。
終点の平戸桟橋、平戸駅BTでタクシー。一時間に一本バスが通りますが、この日は時間があわないので急行しました。このあたりのタクシーはとても良心的。
ダイナミックな海山の風景を横目に西へ。右目に聖地中江ノ島を見ながら生月大橋を渡ると更に最西端の島、生月島。かつては捕鯨で名を馳せた島。このさいはて感はすごい。ただ、車があれば佐賀から来ても雑作ないだろう。カクレキリシタンの息づく最後の場所として戦後大きく取り上げられ、それでも現在はさすがに衰退を余儀なくされているようだが、この日、一年に一度のオラシオが博物館で上演されるという。
「海の館」はなかなか立派な博物館で民俗資料が充実している。海峡を見渡す見晴らしよい高台にあるがこの日の曇天では今ひとつ。捕鯨資料が一階に、二階にはその他民俗資料がわかりやすく並んでいる。興味深いものがいくつか。
虫送りの実盛さまの人形が変わっている。オバサンの嬌声が響き渡るのを背に奥に入ると、聖堂を模した別室がある。カクレキリシタンにかんする展示がここまで充実してるところは研究機関を除けば大浦天主堂くらいだろう。
このような絵は一年に一度描き直された。禁教時代の証拠隠滅用のやり方か。記憶は破却されない。素朴なタッチは昭和に下るものが多い。
更にその奥に農家を模した薄暗いコーナーがある。ここがカクレキリシタンの間で、オラシオ上演の場所だ。
この島のカクレキリシタンについてはきりがないので細かくはかかない。講のような形ではあるが今も堂々としっかり行事が行われているのはここくらいだと聞いた。そもそも生月を知ったのは昭和30年代の文献で今回の旅を長崎に決めたのもここが目的だったのだが、なにぶん資料が古かった。長崎市街や福江島で覚悟はしていたが、ここまで綺麗に整理されていると拍子抜けしてしまう。納戸神という独特の祀り方があり、それは農機具などを置く狭い納戸の扉奥に和装の聖母子像を飾り(神棚や荒神様などは当然のように各所に祀られている・・・カクレキリシタンは多神教なのだ)、隣の部屋で車座になって、襖を閉め、わざと納戸の方向に背を向けた恰好で祈祷文を暗誦する。口伝で密かに伝えられた祈祷文、賛美歌〜オラショは生月島でも特にカクレキリシタンが多い壱部集落に伝わる方法、「一通り」で演じられた。一通りとは全部の祈祷文を詠むということだろう。
テキストを手に混雑する板の間で、5名の方による祭文含1時間近くにわたるオラシオを聴いた。びっくりするほどカトリックのミサで謳われる唄に忠実なものが多い。現在普通に教会で唱えられるものと殆ど同じものが混ざる。言葉や形式は和風に翻訳されているし謡いはほとんどご詠歌だが(島ではご詠歌も盛んだというから韻律はそこからとっているのかもしれない)これが16世紀に布教されたとおりとしたら物凄い口伝の力だ。ただ、明治時代禁教が解かれて以降にリフレッシュされている可能性もあると思う。突然、ご詠歌やお経のような曲調の中に、異質のものが現れる。これか・・・グレゴリオ聖歌だ。これは明治時代以降に入ってきたことはありえない。信徒発見時、既にヨーロッパでは忘れられた聖歌なのである。招かれて歌ったこともあるという。聞くところによれば計3つのオラシオがヨーロッパ直伝の聖歌として確認され、2つはポルトガルからのものだったが、残る1つが該当する歌詞のものがなく謎とされていた。近年になって、スペインの図書館で古書の中に発見されたが、題名はほとんどそのままだった。いいものを聴いた。言語が三つも四つも入り混じった、知らない人ならまず呪文と思うであろうような声が耳から離れないままに、博物館を後にした。
観光タクシーを頼んでいた。博物館に近い小川の河口にハッタイ様という祠がある。神様の川を渡ろうとして死んだ切支丹の娘と思われる水死体があがったと言われている。この島にも切支丹弾圧の手は非情に伸び、様々な残酷な仕打ちが繰り返された。娘の死んだ本当の理由は恐らく処刑か逃亡の果てだったのだろう。ただこの名前が曲者である。この島に八体様という名の祠は他にもある。そちらでは七人の切支丹が処刑されるさい、妊婦が胎内の子の助命を願い出たが聞き入れられず、実際には八人の処刑となったことからハッタイの名がついたとされるが、お産の神様になっている。ハッタイ様という名はよそにも見られる。8(7)という数字自体が日本の海ではポピュラーだ。八大竜王、龍神の名前なのである。恵比寿神なんかに近いものなのかな、とも思う。近くに伝わる切支丹と関係のない話の類話という推測もある。いずれカトリックは神道とも仏教とも混交して土俗化している。もちろん、本地はイエス(でうす、ゼウス?)と考えられていたのだが。余りに綺麗に整備されているのがちょっと拍子抜けではあった。
天気が悪く夕景が望めないので、先に島の西側、外洋側の道を北上する。ダンジュク(ダンジク、暖竹)様はまさにこの島における聖家族を祀る祠である。急峻な崖地を海岸まで降りると鬱蒼とした細い竹藪の中に巡礼地としてある。弥市兵衛という切支丹が妻子と共に隠れ居たものの、子が声をあげ見つかって虐殺された場所という(但、追われる家族が子供の無邪気な振る舞いで見つかり虐殺される話は古くからの類型ではある)。とても険しい場所だが、海からだと見つかりやすい場所かもしれない。ダンジュク講というものが存在し、そこで三人はキリストの家族と同一視されている。禁教時代の方法の一つとしてあくまで殉教者一家を悼む形態をとりながら、実際は聖家族を拝んでいたということかもしれない。この島では殉教者を神様とみる祀り方がポピュラーである。取り潰された屋敷を聖地としたり、護符が見つかって虐殺された人の身体の一部を入手し埋めて屋敷神のように祀ったり、大航海時代のカトリックの特定宗派布教の凄絶なさまにある意味忠実な形態かもしれない。そういう殉教切支丹の聖地が散在している。
幸四郎山は幸四郎様のなまった言い方とも教会の跡とも言われる。幸四郎は踏み絵を踏ませる役人であったが事故で失明したのを切支丹によって療治してもらい、切支丹となった(聖パウロの話と換骨奪胎されたのではないかという説もある。切支丹に放った矢が返って自分に当たったというのが原話らしい)。のち殉教しここに祀られている。松の大木が昭和初期まであり、この山へは履物を履いて入ってはならず、焚き木の一本も取ってはならないという禁忌があった。幸四郎様講もある。
ガスパル様はこの島最大の聖地である。松浦鎮信にはむかい島の切支丹信仰を護ろうとした西玄可の殉教地であり、かつて十字架が掲げられていた丘であったことから今このとおり復元されている。
その奥にひっそりと祠がある。もともと木が植えられていた。
山田教会は大正元年の建築だが補修が多いため文化財指定されないそうである。カクレキリシタンとカトリックが別の宗教なのは周知のとおり。
生月観音は新しいはずだが錆びてる。
生月大橋を遠目に港の道の駅へ。そばに千人塚という千人の殉教切支丹をまつった場所がある。元は千人松という松が目印の海岸砂丘だった。じっさい骨が出たそうだが先史時代のものである可能性もあるらしい。
小さな鄙びた道の駅からバスで平戸へ戻る。遠目に中江ノ島。ここは禁教後のカミロ神父(平戸で焼殺)による布教に絡み生月・平戸の切支丹の凄惨な処刑が行われた聖地。岬の谷の清水が聖水として使われている。
生月島はほんとうに何にもないが、橋でつながっているにもかかわらず離島情趣は他にないものがある。時間が2時間弱しかなかったので壱部の聖地は廻れなかったが、滞在して、西側の海をゆっくり愉しむのもいいだろうなあ。晴れてれば。広大な平戸島もまた探索しがいがある。
「さんじゅわん様」でぐぐる。
結果をみてみよう。
一様に、漫画とその映画化にかんする、更に漫画の設定をヒョウセツした事実上の二次創作。
「サンジュワン様」でぐぐる。
結果をみてみよう。
カクレキリシタンのオラシオの名称ないし信仰の対象。
Google日本語版頑張ってね。
諸星大二郎先生が生命の樹で描いたのは断片的知識を材とした完全なる創作であり、ボルヘスの描く知識とないまぜの幻想のようなものだ。
カクレキリシタンをいかがわしげなオカルトとみなす以前に、まず後者のような知識を身につけなせえ。偏見や差別は素朴より育つ。現代の素朴は辺鄙な田舎ではなく町に無数に存在する密室に生まれる。
参考の無断リンク
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/7829/texts/yougo.html
サン・ジュワンは聖ヨハネ、とくに洗礼者ヨハネのことをさす。
迫害され潜伏した長崎のキリシタンにとって、ひそかに宣教師が来訪し人々に洗礼を授け、「海の上を去っていった」「殉教した」という伝説はそのまま洗礼者ヨハネからキリストそのものと重なるものだったようだ。従って「生命の樹」のアンチカクレの神父の「サンジュワンは聖ヨハネのことで3人という意味ではない」という指摘は妥当性があるように思われる。
しかしおおかたのカクレキリシタンにとって、それが洗礼者ヨハネだという意識はなかった。三人の聖ヨハネという意味ですらない。実のところそれはもっと身近な、日本人、ヨハネ(ジュワン)という洗礼名を授けられた殉教者のことだった。サンジュワン様はいわば抽象化された先祖(三人・・・三位一体説が関係しているのか仏教式の混合なのかわからないが)の通り名として各地に残った。
はっきり伝承が残っている生月平戸近辺では、「さんじゅわん様」がはっきり一名の殉教者として伝わっている。平戸で壮絶な死を遂げた宣教師カミロ神父の家主だった、ジュワン坂本左衛門がそれである。転びを拒否したりカミロに関わったため、当時刑場として血に塗れた「天国に一番近い」中江ノ島での殉教者の中にはジュワン次郎右衛門やジュワン雪ノ浦次郎左衛門とヨハネ名の者が相次ぎ、結果、御三体サンジュワン様という裸体の三体像が中江ノ島の聖なる崖地に奉られ、そこに湧く聖水は現在に至るまでカクレキリシタンにとって「奇跡の水」とされている。同体の三体像は代々生月の民家でも奉られてきたが博物館で見ることができる。洗礼名が限られていたことからジュワンの名は広く使われた。中江ノ島でも三人には留まらない数のジュワン様が首を落とされたに違いない。象徴として初期の三名が奉られ、象徴として複数形によるジュワン様の名が使われていったのだ。
「サンジュワンは聖ヨハネのことで3人という意味ではない」というのは、仮にもカトリックの神父として(舞台は青森とはいえ)現実にはありえない見識の狭さである。エンターテイメントとして楽しむ一方、ここに引っ掛からずに二次創作までやらかし、Google検索結果を占有するとはいかがなものかな。
東方の三博士との混同のような表現もあるがこれは漫画の空想でしかありえない突飛さなので寧ろ看過できる。旧約と新約が無造作に混ざること自体キリスト教としての布教の実際においてありえないわけで、また、長崎のカクレキリシタンと南部のキリシタン(ハリストス派の宣教師が八戸より五戸へ流れ土着した可能性がある)が布教時期も宗派も違う可能性が高いことも考えると、ま、架空なのである。
近年、呪術的因習を抱き秘密に隠されたカクレキリシタン村の都市伝説がよく聞かれるようになった。密室や狭い見識の中でいかがわしげに感じたものにレッテル貼付けて喜ぶ連中が目立つ。子供ならいざ知らず。キリスト教が現在どういう組織でどのような基本教義を持っていて、いまはどういう位置付けで何をやっているのか、どのくらい貧乏か、どのへんが新興宗派で儲かっているのか、地域とどう関わり最近何が問題とされているのか?
基本スペックを知らず見た目と噂と短絡的調査だけでとっぴな結論。それは諸星大二郎クラスの幻想作家にのみ許されるクリエイティブである。本気なら、遠藤周作になれ。
甑島調査する奴いないかの。離島の風の強い土地の家(カクレは荒れ地に敢えて根をおろした)は異様に塀を高く作るものだ。人がなくなったら船で運ぶゆえ時間もかかるから、白い布でぐるぐる巻きにしているのを見かける。そういうのは私なんて少ない経験から言ってるだけだが、実際秘境でもなし公式に取材することが難しいわけないはずだけどねー。さすがに差別的呼称を固有名詞として伝える声は聞かれなくなったが、いずれそれは夢とは言わない。(2010)
海に面する急斜面に壮大な墓地を持つ日蓮宗のお寺
崖下はすぐ海だったという。
勝海舟、シーボルト親子等が滞在。
★「切支丹遺跡」
ここはサン・ジョアン・バウチスタ教会及びハンセン病のためのサン・ラザロ病院の跡地である。しかし禁教令により破壊され跡地に本蓮寺が建てられた。
遺構として今も内庭(入る時は声をかけて許可をもらうようにしましょう)に残る
★「南蛮井戸」
・・・教会が火を放たれた時、逃げる信者が次々と身を投げた(一説には放り込まれた)という。
以後お寺の片隅に残されたこの井戸の脇の部屋に寝ると、人の次々と歩くような姿やうめき声、すすり泣く声が聞こえるとのうわさが立った。また、いわゆる枕返しに逢う人もいた。老人の姿の刻まれる南蛮杉戸で区切られた部屋は「寝返りの間」と呼ばれた。
日親という僧侶が怪の正体を突き止めるため懐刀を持って泊まったところ、夜中に何者かの歩く足音がする。見ると杉戸から怪しげな老人が抜け出して歩き回っている。
咄嗟に老人に飛びかかり目を抉り抜いた。
翌朝、日親は高熱を出し、数日苦しんで死んでしまった。目の抉られた老人の杉戸は大事に保存されたが、原爆によって寺屋ともども煙と消えてしまった。
井戸も枯れてしまったが、南蛮幽霊井戸とも呼ばれてひっそりとその跡を残している。
・・・この井戸には海への抜け穴説もある。切支丹が逃げ延びるための井戸だったというのである。距離的には海までわけなく逃げられただろう。
★「切支丹遺跡」
トードス・オス・サントス教会の跡地。1569年長崎初の教会だったと言われる。
時代は下るがシーボルトの居館に近く、シーボルト親子が滞在したこともあるお寺。
少し郊外の高台にあり風光明媚。ここの内門で区切られた小さな庭園の隅、外壁の脇にこじんまりとある
★「切利支丹井戸」と「祭壇石」
教会時代に掘られ江戸時代には外道井戸とも呼ばれた長崎の著名な不思議スポット。ここは必ず事前に電話して行くこと!
共に想像よりかなり小さかった。
山の上なのにしっかり(今でも)水が湧いているのが不思議。四角い石組の下は岩で周囲が固められがっちりと深く掘られた井戸穴が闇に沈む。本蓮寺の井戸同様切支丹の抜け穴だったのではないかと言われた。
祭壇石は後世発掘されたもので、教会時代の貴重な遺物だと思われる。けして大きくは無いし摩耗しているが大理石。真ん中に石仏を置いて、間違って座ることのないようにしているんだとか。
青々とした森の中にところどころ吹き出す蒸気が地獄模様を伝える。今はかなり小さくなっていると思われる。
★「切支丹殉教地の碑」
http://www.nagasaki-tabinet.com/junrei/1064/
1627-1631年の間、棄教しない切支丹を拷問し処刑した。
その悲惨な模様は島原城内の切支丹資料にある銅版画からもうかがえる。
★「清七地獄」
清七という切支丹が拷問処刑されたとき噴出したと言われる。
天守等は近年のもの。どことなく今治城を思わせる石垣と掘割が綺麗。天守閣内は民俗資料館になっており、切支丹資料、とくにカクレキリシタンの遺物が貴重。
噴火資料館や北村西望記念館もある。
犬の墓に十字が描かれてるのは偶然の産物なのか切支丹関係なのか島津の家紋なのか(鹿児島)
長崎の明治新政府後、続いた浦上キリシタンの迫害により犠牲となった切支丹墓地。手前の墓石は新しい。奥の苔むした散乱が薩摩に処遇を任されたキリシタンの最後。この下に福昌寺住職代々墓があり、フランシスコ・ザビエルと問答した忍室和尚の墓もあり、ここは島津墓所と共に切支丹史跡となっている。
悪名高い明治新政府による切支丹拷問、浦上四番崩れ(崩れとは一斉切支丹摘発弾圧のこと)は結果外国からの非人道行為として駆け引きの道具に使われかねなかった。薩摩は寛大な方だが一割30人以上亡くしている。ラゲ神父により集められた粗末な墓石と、新しい棺式記念碑が残る。
切支丹は江戸時代もあとのほうになると緩い地域も増えたといい、九州では踏み絵の形骸化もあったと推測されているそうですが、さすがに将軍おひざ元の江戸では厳しく禁制でした(でも潜伏していたという噂)。小日向は江戸初期に切支丹屋敷という通称の山屋敷=牢獄があり、陰鬱で、拷問や処刑にも使われた土地だったといいます。その最後の犠牲者は有名なシドッチ神父、獄中死で、近年遺体が発掘されました。
:左の線路部はもともと川筋、際に住宅が並んでいたそうで、このあたりに実録怪談作家の田中貢太郎の住居があった。つくづく奇談文士の町である。
:きりしたん坂と呼ばれる坂は茗荷谷を挟んで二つある。これは春日側の小坂。正確には庚申坂といったが漱石は由来を知らずに暗くてきびがわるいといっていて、話者によってはこちらがほんとうの陰惨なキリシタン坂だという人もいる。じっさい見た目ちょっと変というか、坂がばくりと削られて階段になっているのも怪談ぽい(駄洒落か?)。このあたりがいわずと知れた江戸の暗部、キリシタン屋敷界隈となる(実際屋敷があったのは逆側)。徳川の世になってすぐ、造られたキリシタン奉行の屋敷では禁制のキリスト教徒の収容、拷問が日々行われ、一部の者にはわざと贅沢をさせてスパイに仕立てて放っては、更なる摘発を行った。たとえば穴の中に吊るして数日がかりでアタマを血だるまにし拷問死させたりなどの狂気、あるいは品川など各所刑場にて磔にし屍が朽ち果ててもおろすことを許さなかった。当然陰惨なめにあった者たちの天国からの反撃もあってしかるべきだと思われるが、江戸の世できりしたんはそもそも禁句、黒魔術を使う悪魔というイメージの植え付けられたままに人々はそのての著述を残さなかった。
:坂上から谷をみおろす。高架がなかったころを想像する。今、高架下になっているあたり奥に川があって、橋がかかっていた。これが「ごくもん橋」、幽霊橋と呼ばれた木橋である。前記のとおり由来は余り伝えられていない。その名からすればキリシタンもやはり祟っていたのだろうか。名が悪いとのちに庚申橋の名がつけられた。ちなみに坂下に庚申塔は残っていない。
:ふうふう言いながら自転車が登ってくる。このかなりの急坂を自転車で一気に下ったのは志賀直哉だったか。
:谷へ降りかえして高架下をわたる。陰うつな雰囲気。夜は勘弁だ。
:橋の袂に制札があり、ひとびとを震え上がらせた。キリシタン圧政の現場である。
:谷むこうにわたって小日向側、これが正式に「切支丹坂」と呼ばれている坂。左右にキリシタン奉行の井上筑後守下屋敷、牢や取り調べ所を兼ねたいわゆる「キリシタン屋敷」があった。案外短い。巡回中の警察官に聞いてもすぐには正確な位置が出てこなかったほど忘れ去られているらしい。どの坂にも標識があるのにここにはない(界隈でいちばん有名な坂だと言うのに)。登って少し右へいくと屋敷あとの標柱がたっている。道が小さく入り組んだ古い住宅地といった風情だ。向かいの寺町とはかなり雰囲気が違うように感じた。ひろびろとしている。江戸初期の話だからもう400年弱。さすがに恨みも消えたか。
:坂上から谷をのぞむ。
:昔はこんなものなかったのだが。そして、この標柱の横に並ぶのが、私が長年(?)探してきた「八兵衛の夜泣き石」である。
:石は3、4個ある。私が聞いてきた話だといちばん右の小さな地蔵の首がわりに載っているのが八兵衛石なのだが、「キリシタンの八兵衛が穴の中にさかさまに生き埋めになり、その上に天国へ行けないように置かれた重し石」とするには小さすぎる。昭和初期の本に三角形の石(板碑のような縦型の大石)だという記述があり、そうするといちばん左があやしい(埋まっていそうだ)。でも、まあ、「その後石からは泣き声や言葉が聞かれるようになり、「八兵衛、苦しいか」と尋ねるとごとごと揺れるなど異変が続いた」という怪談(異説あり)を勘案するならば、人型をしていたほうが「それらしい」だろう*。この石はもともとこのあたりにあったカトリック教会が移転とともに持ち去ったものである。その教会が併合されたのがカテドラル教会で、つまりはこれこそが私が別項に書いた「カテドラル教会の泣き石」*2なのである。教会が穢れを忌んでこの地へ戻したのか、経緯を知る者はいない。この場所に八兵衛が埋まっていないことは確かだ。
* 今は別名で文庫化されている比較的新しい書籍、田中稔(荒俣宏監修)「東京戸板がえし」に載っている写真は恐らく上の石が外れた地蔵部分を撮影したと思われる。右横に写った切支丹灯篭(織部灯篭)はカテドラル教会に残されているが、この本の更に10年前の本では今の配置のとおり、四角い伝承碑を右にして置かれている。教会ではけっこう邪魔者扱いされて動かされていたのか。文庫では写真は割愛。
*2 2004/9/25「カテドラル教会泣き石消滅」の項参照。「泣きモノ三題」にも書いてます。
:大きく見えるが身長30センチくらい。晴れててよかった。曇ってたら何か煙立ちそうでコワイ・・・
上の石に触れて「八兵衛苦しいか?」と言ってみたが、体にしっかり接着されて揺れないようになっていた。。
:右の石は由来を書いているが読み取れない(それほど古くはないと思うのだが)。カテドラル教会の茂みの中に一緒に置いてあったもの。
:ちなみに背後はこんな感じ。この道はキリシタン坂ではない(もともと道ではなかったのだろう)。住んでてコワイことなどないのかな???
さんこう:カテドラル教会に寂しく取り残された織部灯篭。十字架ぽいから残したのか?あと、右は茂みの中に沢山放置された石。この中にホンモノの夜泣き石があったりして。中にはじっさい碑文が書かれているものも・・・何か顧みられないさまが寂しくもブキミだ。
:参考。最後の3つが八兵衛石の原型ですが、三角のてっぺんないし根元がどんどん折れていったようです。関連項目あり
掛札功「切支丹屋敷の池」掛札功画集 東華堂出版部T13 切支丹屋敷に池があったのね
<カテドラル教会に八兵衛石をさがす>2005
関口教会にうつったのが恐らく昭和30年代(今日の話しでは小日向にあったカトリック教会を吸収したときに一緒に持ってきた、という経緯はなさそうで、遺構というか石だけ運ばれたっぽい。ちなみにシドッチさんの埋められた大木あともあるということがすぐそばの目白台図書館の本に書いてあった)。そのときは確かにあり(写真も残っている)、しかしリッパなモダンなカテドラル大聖堂が作られ、石のある茂みから向かって左脇にルルドの泉が作られたあと、何故かいわれをしるした御影石?の石碑(小日向に現存)の脇にあるのは三尺の大石ではなく一尺にも満たない石仏の頭に小石を載せたもの。昭和60年のガイドブックには既にこちらのほうが掲載されているからその間に何かあったのだろう。昼に新宿の古本市で「東京戸板がえし」(1990くらい)を再度手に入れたが、その写真では頭石が落ちた石仏が載っている。
売店のかたにお話をそれとなく伺ってみたのだがストレートに怪異物探索とは言えず切支丹弾圧を調べているキリスト教者(ウソではない)ということで無い知恵を振り絞ったら、なんだか親切にしてくれて、いつのまにか切支丹山屋敷における弾圧の実情と明治以後のカトリック復権、そして現在カトリック教会が無いのは何故か、なんてほうに興味がシフトしてしまった。個人名は避けるが偉いかた三人くらいが詳しいので聞いてみたらと言われたが、会社を抜けてきてる(休みはとったが)以上カテドラルにおいては今日はそこまで踏み込めなかった。切支丹弾圧本を一冊取り寄せお願いしておいたが、最近じつは同じ調べ物をしている人が多いようだ。途中でピンときたらしく、ああ、切支丹灯篭のこと?と聞かれてしまったと思った(このへんの経緯は昔のブログか本サイトの日記を見て)。まあマジメなカトリシアンは別にして怪異マニアだったとしたらご苦労なこった。私は怪異も宗教も文学も歴史もごっちゃになった個人的興味をもって、今後50年くらいかけて突き止めようと思っているので、とりあえずこのへんにした。個人的興味といってもあくまでまじめだよ。
元石の写真の載っている本、コピーはあるのだが掲載するにはコピーじゃ辛いので現物が手に入ったら本サイトのほうに載せておこう。ついでに切支丹屋敷の配置図対照や異説なども、のちのち整理して本サイトのほうにのせていきたい。切支丹坂のほんとうの場所といって書いてあったのは屋敷跡石柱の前の道だった。やっぱり土地が平らにならされて本当の場所がずれてしまったらしい。
上の写真は今の茂みの状況。前に書いたとおり茂みのかなりの部分が司教の家建築のさいに失われており、今はその建物とルルドの泉の間に、雑多な石がごろごろして、二つほどの石碑(ひとつは大正時代、もうひとつは新しい。前者は時代的に違うが後者は土台になっている石が若干怪しい)と、山ほどの石くれが積んである。
なんか怪しい根の深そうな石。頭部分?
教会ではこの切支丹灯篭だけが残り香として認識されているようだが、織部灯篭ともいうこの形は必ずしもキリスト教とは関係なく、ただ文字と祈る像と十字架的な形だけが大名屋敷の灯篭様式にファッションとして取り入れられたにすぎない説濃厚。但し、文京区にはかなりの数分布しているということを考えると、ひそかに信仰していた大名もいたという想像を掻き立てられなくもない。
わりと注意してるのは目を惹く突飛な風俗は殆ど一時期の流行である場合が多く、現代を念頭に江戸時代をみると250年全く同じ風俗であるはずがない。江戸時代のうちに伝説化していたこともある(録音もなく筆記すらされなかった事柄もある)から江戸の文献を信じすぎるのも良くない。歴史考古学の意義。
キリシタン弾圧はあったが、切支丹屋敷は江戸前期で早々無くなった。忌み地になったのは処刑場(山屋敷内も当然刑場がある)であるとともに切支丹の魔術視で、情報不足と意図的な情報操作、とくに思想宗教しかも特定宗派が流した作り話だろう。結局人家は建った。
アルバム
済海寺。これも確か移転寺である。ここあたりから北がだいたい切支丹処刑地として忌み地とされていたようである。広々として近代的な寺だ。人工的な趣すらあるが、ここは最初のフランス公使館あとである。だいたい大使が最初にあてがわれたのは寺である。
この先の墓地と東急の集合住宅の間に道がある、しかし今は閉まっていた。そこで墓地から行けないか・・・プリンス裏手の元和キリシタン遺跡まで・・・こころみた。そして、驚いた。
階段が途中ですっぱり切れている、そこには完全に切り崩された平地と、とてつもなくでかい建造物が構築されつつあった。
既に壊滅されているからしるしくらいしかないとは聞いていたが、ここまですっぱり切られてしまうと、もうなんだか・・・
不思議なのは崖の一角、雑木林の中に花畑が残されていたことである。ここには何かあったのか、「何かあるのか」定かではない。だが何かせつないかんじがした。この白い花々はひそやかに暖かく目の前の人々のいとなみを見つめている。古い三田高輪の雰囲気がここにかろうじて残っている。
ちなみにここのキリシタン殉教にかんする碑文等はまったく別の場所の教会内に建てられている。プリンス(当時)のこのあたりももともと寺であり明治のあとになって売られたところである。ホテルとしてはそういういわくいんねんめいた話は避けたかったのだろう。でも標識はあったというが。何はともあれ、削られ完全に消え去ったところで晴れて穢れが晴れたと考えるのがよいな。防衛庁跡地みたいな事故がなければいいのだが。
:正確な位置的にはブルーシートのあたりかと。
等覚寺には切支丹灯篭がある。
月の岬より札ノ辻、切支丹処刑地跡
:沢口集落
:通称キリストの丘
:丘の上右手にあるキリスト塚
:右手の十来塚ことキリストの墓
:左手の十代塚ことイスキリの墓。背後はまるで教会のような伝承館(展示室)
漂着ロシア人神父が住んだ、ユダヤ系の人が事情あって流れ着いたなどの説が濃厚とのこと(二墳墓の間にはイスラエルとの友好の石板が埋められている)。異人館跡が発掘されているというが正式な学術調査じゃなさそうなので成果はマユツバ的。まあ、キリストであろうと流れ外人であろうと、沢口さんは末裔とされている。ちなみに教会チックな伝承館ではミズーリから来た外人さんが面白がって見ていました。沢口家紋の桔梗紋(こんなしっかりした家紋を持つ農家も珍しいのではないか)は「ユダヤの星」に似ているともいうが今は墓石に刻まれるのみである(墓石の古さから少なくとも江戸には遡る)。隠れキリシタンや宣教師は全く存在しえない地域だそうで、沢口さんがピンポイントで伝えてきた古来の奇妙な風習・・・新生児の額や痺れたところに十字を書く風習、服に独特のヘブライチックなところがあったり、日常用語にヘブライ語らしき方言が残っていたりするといった現象は、明治以前からあるらしく、面白おじさんの奇想の及ばぬ世界ではある。こんな山里に、面白いなあ。それにしてもこの集落に田中さんという一族もいるそうで、沢口さんとの関係が不思議ではある。ちなみにキリスト教はこの地にいっさい入ってきていないといわれているが、家家の壁に「神の世がくる」とかよく見るキリスト教系の看板が沢山貼り付けてあったんだけど。
:沢口家家紋の入った戸板(レプリカ・原物は廃棄)
:丘の上左手(キリストの墓の向かい側)に一段低く設けられている墳丘上の沢口家墓所。太古の昔よりキリストの墓を守りつづけてきたという。古碑は文字が確認できないが、新墓の家紋と同じ桔梗紋が入ったものもある。
:この梅家紋も使われている。澤口と沢口は同じ家系らしいが。
そんなこんなで旅は終わりました。JRころす。
蛇足:言うまでもないことだが、命日の6月某日にキリスト祭りで踊られ、ヘブライ語疑惑のある「ナニャドヤラ」という踊りは分布範囲が桁違いに広く(南部全域から日本海側に至る)この村発祥とは現時点ではとても言い難い。思い切り日本語説もあり、征夷の勇ましい行軍歌であるとするものさえある。明治の面白おじさん武内(竹内)巨麿のこれも妄想ですな。
先週、千葉の考古学史料を山程捨てたが姫塚からでた独特の象形埴輪の中に丸高帽を被った髭の巻髪がいるのとか頭椎大刀(握り拳の曲がったような形の頭だけがよく出土する)を腰から提げるのでなく肩から穿くのとか、芝山って渡来もしくはその影響を受けたとこなのね。外房から来たのか。ユダヤ人埴輪ねえ。いっろんな民族がいるし国もあったし、大陸はわからないですねえ。 http://www.fuwaiin.com/kofun/tiba-sibayamamuseam-hitogata-haniwa/hitogata-haniwa.html…
国会図書館デジタルがつながりづらい。遊歴雑記が閲覧できない。大冊だから仕方ないが、初編しか復刻されてないのでつらみ。(今は復刻しか小石川にない元切支丹ローマ人宣教師・岡本三右衛門の本墓は調布の教会にあるそうです)
つながった。安心。(この本は幅広いがそれほど新しい情報や深い情報はないです。記録に近い。)
映画関ヶ原でも珍妙な扱いをされ、没後の検視ができなかったと難癖つけられ首の皮一枚の没落となった福島正則に拘るのはこれを読んでいたからである。キリシタンを論ずるなら全国的展開と長崎の役割、殉教主義の流入、カクレの特異性ほか読む本は沢山ある。
こんな広島、長崎に原爆落としてキリスト教会吹き飛ばしマリアを焼いたアメリカはキリスト教をどう考えてるんだろうなあ。敵国だから宗教関係ない、なんて考えてたらイスラムのことなんて言えないわ。