












栃木県足利市は足利学校からも遠くない、徳蔵寺の五百羅漢を喜多院(後述)より日本三大羅漢とすることのほうが多い。しかしながら像のインパクトで水をあけられているようだ。小さく端正な木彫で、ピラミッド状に配置されている。耶馬渓が石彫、こちらが木造、そして次の建長寺が銅造ということで、三大に含まれている可能性がある。文化財としては地方自治体レベルの指定だが、五百羅漢自体新しい概念なので滅多に指定されるものはない。堂が開いていなければ申し出るとよい(開帳日を限っているようなこともネットでは読める)。おそらく現在撮影禁止だが画像はたくさん出てくる。




鎌倉建長寺山門楼上五百羅漢像、これは私も見たことがないので昔のパンフの表紙を。なかなか焦点が当たらず春秋の風通しでもこちらに上げることはなかったが、近年鎌倉観光化施策の試みとして抽選で毎年4月頃に解説いただいた上で登らせてもらえる機会が出来、そのときの写真がネットに多く見える。もっと開かれたときには私も行って見たい。こちら銅像という特色があるが原型は江戸仏師による木造で、それは別所で焼けてしまった。バラでは時折展示されたり書籍に載ることがある。面白い格好をし特色あるものだそうである。



(明治中期の書籍より)






石像羅漢としては瑞逸の出来を誇り、屋外庭園の風情も相まって人気を集めている。栃木、埼玉には同様の造像がみられる(少林寺など)。撮影は自由。カメラ好きは飽きないだろう。日本三大五百羅漢に入れる場合もある。







五百羅漢石仏(北条町北条1293羅漢寺 1700まで)200円
室町末期~江戸時代の石仏として棒状の特異な形態を示しており、民間信仰の五百羅漢の極致を示したものとして非常に有名。棒状のソッテやトーテムポールにも似ているものがある。優しい顔に注目されるが、数でいえば険しい顔のものが多いのは飢饉供養等の何か理由があると思われる。鼻と目だけを直線で切り出したモアイのような顔がおそらく最初のもので、追刻や修復、墨入れで印象の変化したと思われるものも多々あるが(後年追加されたとおぼしきものもある)、それもまた味となっている。門前の蓮華座に胡坐をかく仁王二尊石仏は剥落が目立つが非常に個性的で、素人手による造像であることを想像させるが、それにしては大きくて構造的にしっかりしている。これと境内の宝形印塔残欠には慶長年間など江戸初期前後の刻銘があるという。

(参考)住吉神社・酒見寺
※羅漢寺と関係あり。重文建築2(江戸初期)広大な境内に元は同じ寺社が弁天池を境にそれぞれ壮大な伽藍を配しており圧倒される。とくに酒見寺は修行堂や三重塔、仁王門といったものがきれいに揃っていて美しい。災害により古い建物を失っているのが残念だが、現在のものも江戸時代であり、迫力はある。
~修那羅と並んで近代民間石仏群で知られる北条五百羅漢を見てきた。昔より整備され草木は刈られ雰囲気は垢抜けている。ひときわよく見えるのは繰り返されたであろう修復痕。彫りが深く立体的なのは折れた石柱に再刻されたものではないか。目に墨を入れるなど面白い。単純な手なのに個性的。 https://pic.twitter.com/zwxghBmCnm





蓮華座に乗る仁王も不思議。表情がにこやかなのは五百羅漢の一部(多くは険しい)と共通。この仁王に江戸初期の刻があるというが荒いノミ跡に確認不能。宝篋印塔残欠に慶長年間刻があることの誤解か。近在酒見寺の施設だったといい、そちらは寺社揃って大伽藍。だが何度も被災し国重文2塔江戸初期のみ https://pic.twitter.com/gCc9nOCsst






石仏は雨の日に撮るのが定石。最近は愛用の水中カメラで撮るのだが、今日もピーカンでむいみでした。
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報恩寺(盛岡)



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玉宝寺(多古の五百羅漢)小田原
江戸中期



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建物もかなり傷んでいた様子。檀家を持たなかったため資金に苦労。五百羅漢像も回廊配置ではなくなった。この時期からお鯉さん姉妹再興の間に廃仏令、二度移転、被災などで数像を売却などしたとされる。明治時代の一般的な資料でその模様はあるていど追える。


天恩山さんの提灯。お茶屋さんで休んでいきたいとこです。


旧本堂、黄檗宗様式ですね。墨東の毘沙門堂や目黒で戦火を掻い潜った同様式の堂を見ることができます(後者国重文)今は黄檗宗ではないと思いますが、三代でこの広大なお寺が確立され江戸の名所となりました。隅田川景色をさざえ堂2階舞台(ベランダ)から眺める北斎画が有名(当時3階建は許されなかったか、三層構造だからサンソウ堂とはいわれる)。
江戸とは関係がないが紆余曲折あって徳川夢声の小説で有名な元新橋芸者のお鯉さんという方が大変な才覚を持ち、出家して目黒のお堂を再興し、その妹さんからの古い堂は現在の本堂の位置にあった。
お鯉さんはかつて山縣有朋から桂太郎の妾に推挙され正妻とも折よくやった。羽振りは良く銀座のカフェを経営するが、そこでは客が喧々諤々の議論をやっており、日露戦争ポーツマス条約締結への反発でついに暴動となった折、日比谷焼打事件に巻き込まれ店を失ってしまったらしい。当の総理桂太郎の妾だからだろう。

戒厳令が敷かれたあとはこのマンガのとおり。参考。





心の強いお鯉さんはこのあと桂太郎を失っても色々活発に活動しているようだが、事件に巻き込まれ罪を着せられてからは髪を落とし仏門に入り、ほぼ何もないところから五百羅漢寺を再興すべく行脚した。ただ、ここまでくると確からしい資料が少ない。
閑話休題。
古式の寺院ではあるが中の諸像配置は今に似ていたと遠く記憶している。それはそれでとても仏式で興をそそられるものだったが、76年頃に現在の新建築となり驚いた(幼少のみぎりよく覚えていると我ながら)。中に入ってお参りしたのはそれから10年以上たってのことだった。じつはこの回廊式が本来の姿と知った。現在はすっかり勢いを盛り返し整備もされ、展示も充実している。本堂右手にある原爆碑は元お鯉さんと徳川夢声によるものだ。平山蘆江の追悼碑もある。












前はここだけ行かなかったんですよね。案外小さかった。あと、五百羅漢トーテムポールの配置が変わって数も物凄く増えてたみたい。雨の中、観光客がいないので電飾も消えたまま。とくに地獄めぐりがまったく電飾なしなのは足元怖かったな。


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かなり高精細の写真なのにこの画質。うーむ。カメラ三台持ってて取材と間違われた
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目黒行人坂・大円寺(江戸三大大火の「明和の大火」の火元で被災者の菩提を弔う五百羅漢石仏(多くはレリーフ状で被災者以外も含まれる)があります。明和の大火事は無頼僧の放火によるものですが、それより遡ること一世紀弱、八百屋お七の情人の吉三が隣の現雅叙園にあった明王院へ入り、西運と名を改め菩提を弔ったといいますから奇妙ないきさつです(芝居が元の俗説とされていますが)。明治に廃寺となったあとその墓はこちらに移され(非公開)お七吉三の比翼塚など後世の碑文が残っています。広重の富士図でも有名な太鼓橋は明王院の脇でしたが架け替え後こちらに石材が残されています。ほか清凉寺式の釈迦如来像(国重文・正月公開)など公開範囲内でも見どころは多いです)
(大火の火元として長らく堂宇を作ることを禁じられ、五百羅漢レリーフも被災者の冥福を祈る目的ははっきりしているが誰が作ったものか、配置も含めて変更や追加もあったよう謎が残る。堂内に入らないとはっきり見えないが、(元)吉三の彫ったお七地蔵は拝見できるものの、元大円寺下に庵を営み今は大円寺に併合された(元)吉三の像もあるとされる。但し本尊右手にあるというが外から見ることができない。その他、大黒天は家康の顔をまねた功徳あるものとして非常に有名だった。背後に平安仏の顔も見える。国重文の清凉寺式(鎌倉時代前期)は正月のみ開帳だが他はいつでも外からなら覗ける。墓地は檀家以外不可。キリシタン羅漢については以下参照。例の記号論的なキリシタン炙り出しなのでかなり疑わしいところもあるが、以前「目黒キリシタン」について項をあげたとおりたとえば権之助坂にキリシタンが潜伏していた話※があり、早い時期に行人坂上の高台(大円寺を見下ろす位置)に刑場と投げ込み寺が作られた可能性があるという。造成時に大量の骨が出土したからである。※目黒は潜伏キリシタンがいたとする説があり、実際大名屋敷庭園や寺地が多く隠れやすい(大円寺五百羅漢の中の洋風石彫や大小散在する切支丹灯籠はともかく坂の途中の商家内の一軒が切支丹というのも読んだ)。呪術イメージから陰陽師と混同されたり邪宗門と一括にされたりも。







デジ化時の色褪せとともに謎の緑の映り込みで賽の河原写真がだめになってる。



伊藤若冲の人となりはこういうもののほうが出るのかな
これも仏画様式の一つとして禅ぽい考え方で作られたんだろか






現在は回れないらしい日本寺千五百羅漢は初期デジカメの写真はあるが紙焼きは膨大なので躊躇。時代は埼玉のものより遡る大野甚五郎手だけれど似た印象をいだく、これは多分日本三大羅漢の筆頭株、耶馬渓羅漢寺の五百羅漢石仏がモデルだからでしょうね。カメラないし書写も禁止となると記憶で持ち帰る。









京都国立博物館委託品・国指定重要文化財
きょねん東京にもきた。一木鉈彫り特集のひとつとして豪快な像群の中に静かに直立されてました。文庫版「表徴の帝国」の表紙でした。たしかにインパクトあります。でもちょっと即物的に解釈しすぎな感じがある(バルトふうに言えば意味性から開放された「記号」ってことなんだろうけど、そこまで言うほどプリミティブな国ではないよなあ日本)。宝誌和尚の説話はあくまで比喩的なものと解釈するのがムコウでは定説だったようなじゃなかったような仏教よくわかりませーん(いいかげん)和尚というよりむしろ仙人や行者のイメージであり、その修行期の行いは何一つわかっておらず、ただ言えることは修行から世俗に還ってきたとき、別人のように変人かつ超人になっていたということだ。説話自体は後代とくに唐のころに誕生し流行ったものらしく、日本にもそのころ伝来したのだろう。あるいはだいたいみんなこの像を語るときソースにしている「宇治拾遺物語」(鎌倉期成立)巻九にみられる話そのものがあるていど日本における空想的信仰の結果かもしんないけどどうでもいいや。像は平安末期のもので、鉈彫りという比較的新しい日本独自の手法も和尚の修験者的側面や自然児的性格(ああ語彙のない奴・・・)をよくあらわしている。仏教アナーキスト、一休禅師のご先祖さんと言ったら怒られそうだけど言ってしまうごめん。この説話で何故か個別に十一面観音があらわれるのは、唐代に和尚が十一面観音の化身として信仰されたせいだそうだ。
説話:神通力にたけた怪僧として和尚は有名だった。その性格の特異さ(錫杖に鋏や鏡をさげ長髪をたらしたぼろぼろの身姿も修行の内容もまるで今のインドの修行僧のように怪異だったらしい)と気まぐれな能力(分身とか予言とかいろいろランダムに行ったらしい)の特異さで生き仏のようにあがめられていた。あるとき梁の武帝にその姿をうつした絵を求められた画家が、座前で紙を拡げたところ「その内なる仏性が自ら顔を出した」。すなわち和尚が自分で顔の皮を掻き毟ると面が割れ、中から十一面観音の顔が現れたのである。画家が畏れながらもその姿をうつそうとするものの、十一面ある顔をめまぐるしく回転させたため、遂にうつすことができなかったという。

平安末期の爛熟した仏道のさまを見せるものというより、仏教の庶民宗教化の結果として誰にもわかりやすくビジュアルで脳直に訴えられるようにしつらえられたものなのではないかと見てとれる特異な像様で、京博に展示されているが西往寺(京都市下京区高辻通り大宮西入ル )の所蔵。庶民仏教が呪と乱神の民間信仰と紙一重の位置にいたことがわかるけど、フランス人にはたんにシュールなからっぽの像(もちろんポジティブな意味ではあるけれど)ととられたみたいですね。五百羅漢に腹をひらいて仏性を見せる独特の人がいるが(名前失念ってことで)この人と和尚が同一人物と考えられたりもしてるらしいです。大徳寺(一休さんのお寺)伝来の五百羅漢像には和尚が描かれてるとwikiに書いてあった。ボストンにいっちゃったそうだけど。
で、おもしろがっていろいろらくがきしてみたのだが、しょうじき、やらしい。

顔が真ん中で裂けて中から顔が出るようにすると、どうしても顔の大きさが一回り小さくならざるをえず、これでは顔面に×××があって生まれるみたいではないか(自主規制)額のポッチまでモノのみごとに(自主規制)で、やっぱり真ん中で裂けるのはどうかしてるので、横から裂けさせたりいろいろやってみました。まあ、思ったのが、

痛そう。
そして、
このあと和尚はどうやって元に戻ったんだろう?大魔神みたいに腕をかざしたら元の顔に???
うーむ。
しかし中国でこんなダイレクトな像様の仏像って残ってるのかなあ?
日本人のキッチュな想像力おそるべし。ポップとアートはつながっている。宗教が間に入る入らないにかかわらず。
記号論とか話題を振るなかれ。授業はとってたけど嫌いだったし。一国の文化って関係諸国との相互的影響のもとにあらゆる表現要素が複雑に離合集散絡み合い存在するもので、また文化という存在自体非常に煽動力のあるものだから、政治など外的要素による進化退化停滞もよくあったことで(江戸後期の歪んだ庶民文化のありようを想像してもみなされ)、歴史の経緯とも不可分なもので、それを混乱した歴史観のもとにまさに現代の表徴だけでとらえヨーロッパと比較するというのは如何にも単純にすぎる。つか、この本あんまり覚えてない。。


羅睺羅尊者というと胸内から仏性を発する(?)即物的な姿でゆうめいだけど、今は京博寄託となった萬福寺(正面は憚られたので斜めね…)十八羅漢の圧倒的な姿が日本で広まる元になってるという。。江戸より前は普通の僧形。嘉永年間には女形。。いや二番目のはね。。(一般撮影可能なもののみ)




