【純信】俗謡「はりまや橋」にまつわる色々、それぞれの道と怪奇岩【お馬】修正整理済

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~龍馬歴史館
江戸時代つぶやき(黒人塚ほか写真追加、十年越しはりまや橋現場検証、五百羅漢寺、タコ薬師、弥助、三浦按針、新撰組BLへの疑問);2018/7/10-16_b0116271_12015416.jpg
よさこい節で有名なフレーズに、

「土佐の高知のはりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た よさこい よさこい」

というものがある。だがこれは替え歌で、幕末に山内家臣の侍どもが猥雑な場で飲み歌った下品な歌詞という。坊さんが娘さんにかんざしを買ってた、と囃し立てるだけの今のネットニュースのような内容だ。当時の真言宗は妻帯はおろか恋愛自体が禁止されていた(基本的に江戸時代は宗派問わずそうであった、厳しく咎められたら晒しのうえ僧籍はく奪、非人頭に引き渡された)。「竹林寺純信と鋳掛屋お馬の悲恋」として維新後に物語化されるのである。忘れられ現代になって研究書がまとめられているが、細部にわからないところがあるようだ。尾鰭もついている。

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はりまや橋(復刻)
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偽物

正史~

純信は佐川家家臣江渕要作の息子で幼時に京都で修業に入り土佐に戻って五台山竹林寺の脇坊の住職をしていた。37歳のころ鋳掛屋の娘、大野馬に洗濯など頼むようになったが、20歳下の娘に心寄せるようになり、五台山中などで逢瀬を重ねた。それは次第に町で知られるところとなった。「かんざし買うとこ」は鋳掛屋の暗示か。ついに1855年安政2年5月19日深夜、国外に駆け落ちする。笹口関所を抜け琴平まで行ったところで純信は関所破りで捕縛、9月に高知城下で顔を晒され追放された。伊予で寺子屋を営み晩年は久万高原で慶翁徳念和尚(中田与吉)として妻帯、明治21年に亡くなった。お馬は安芸の旅館に奉公していたものの純信のことで須崎に逃げ庄屋に身を寄せ、大工の寺崎米之助と身を固める。しっかりした家で長男徳太郎が陸軍御用大工になったことから一家で上京し、北区滝野川に住む。明治36年12月15日死去。


◆類話「西向き地蔵」
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西向き地蔵は西に離れた大方にあり、はりまや橋の話に似た学僧と村娘の悲恋に絡んだもの。こちらは娘が命をたってしまい、その供養のため作られたもののいつのまにか坊さんの去った西向きになったという。似た話が非常に多く、沖縄は石垣島にさえある。はりまや橋の話は有名で、花街で伝播していったかもしれない。いずれ後付けだろう。


◆五台山の純信お馬史蹟
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こそこそ岩
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江戸時代つぶやき(黒人塚ほか写真追加、十年越しはりまや橋現場検証、五百羅漢寺、タコ薬師、弥助、三浦按針、新撰組BLへの疑問);2018/7/10-16_b0116271_12015529.jpg
五台山のかなりわかりにくい道を登り行くと、大きな岩が尾根上に鎮座している。

このあたりの地は出会という古名も持っていた(今は屋敷頭という名もあるが、お馬さんの屋敷の意味ではない模様)。この岩はじつは、二人が人目をしのんで遭っていたという「コソコソ岩」なのである。五台山裏を見渡すことのできる場所で、二人の人目を忍んだ逢瀬、コソコソ話したから、という命名だが、夜中にコソコソ喋る岩、という話もある。石仏があるのも伝承(といっても新しい話だが)以前からのこの大岩への信仰があったことを匂わせる。今は尾鰭で心霊スポット扱いもされている。

高知往年の文士田岡典夫氏のはりまや橋考によると「こそこそ岩」は近在の男の吹いた真っ赤なウソらしい。いや近年の研究本は違うことを書いてる。歴史に100%の正解は無い。田岡氏と同じ本の中で日中戦争でや庭に生活厳しくなる話、焼夷弾おそるるに足らずと実演を見て書く者、未だ真珠湾は平和な時のこと。

物凄く見晴らしのいい場所だがつい最近まで樹木に覆われ人目につきづらい場所だったそうである。だから人目をしのぶのには格好だったわけだ。樹木伐採の末にこのあたりは牧野植物園の園地になるといい、これから有名になるかもしれない。今は誰かに聞かないと場所を見つけるのは難しい。

ここにも「都市伝説」がある。恋人同志が手を触れるとその恋は必ず成就する、というのだ。しかし一方、雨の降る日は女のすすり泣く声がする。僧侶と娘の道ならぬ恋は二人を物凄い遠くに追いやってしまう結末になるわけで、ここで死んだとかいう話はまったくないのだが、その声をカップルで聞くとやはり、恋は成就するという。

しかし現在ここに人が訪ね来ている形跡はない。恋のために山を登るなんてまっぴら、という感覚か。2005


お馬生家の井戸

五台山の裏側(北面)峰上下にある古跡で、こんな所知らなかったとタクシーの運転手のかたも言っていた。たまたま地元のご老人に教えられたずねることができた。声を掛ければ見せてくれる。
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江戸時代つぶやき(黒人塚ほか写真追加、十年越しはりまや橋現場検証、五百羅漢寺、タコ薬師、弥助、三浦按針、新撰組BLへの疑問);2018/7/10-16_b0116271_12015553.jpg

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「はりまや橋」のお馬さんの生家あとと、洗顔に使っていた井戸とされるもの。江戸末期のことでそれほど旧くはないから、多分本物だろう。ここで五台山(五本の登行ルートがあることから五大山といったという説もある)竹林寺の僧侶の洗濯を担っていたお馬さん(実家自体は鋳掛屋)が、修行僧(子院の住職という話もある)純信の熱烈なラブコールで恋仲になった。二十歳も年上だったという。お馬さんにあげたかんざしを幕末当時おもに城下の武士が嘲ってうたったのが最も有名なよさこい節の替え歌歌詞である。真言宗では妻帯が許されず、駆け落ちしたものの関所破りで讃岐で御用となり、晒のち追放され伊予の寺子屋で教えてのち僧坊を設け妻帯したという。これはかつて複数の説があった。お馬こと大野馬は追放は免れたが純信とのことで居場所を失い、寺崎の家に入ると息子の関係で東京に転居した。長らくその消息ははっきりしなかったが、戦後に該当する者が見つかり、新しくなった墓碑に墓銘もしっかり刻まれている。明治36年に亡くなっている。

◆西福寺(東京滝野川)お馬さん墓
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箪笥の中に純信お馬の検証本を発見。めくっていたらお馬って東京に出てタバコ屋を営み、平成三年時点では北区に長女ご健在だったのね。江戸の慣習でひどい目にあったが、これこそ幕末明治特有の狂騒に巻き込まれた現代的な意味でのスキャンダル事件だった。2005

~どうもみなさんの反応が薄い「はりまや橋」についてだが、東京のお馬さんの墓へ。お馬さんの墓っていっても回向院じゃないよ、滝野川西福寺。過去帖で発覚したらしい。かなりのスキャンダルの上、何せ20も年下だったから強引に別れさせられたのち苦労し最終的に遠く嫁入りし生涯を全うしたらしい。その家のお墓から近年しっかり個別に分けた個人墓。ぼんさん、純信のほうは瀬戸内のどっかの堂守になったんだったか、定かではない。

五台山中腹の実家(井戸のあるところ。鍛治屋町の鋳掛屋の娘になる経緯はわからない)から遠く東京で余生(17歳以降)と聞いていたが、ちょっと下世話なイメージもある生々しい話なので、口を濁す人が多いのは元が士族の酒場の俗謡だからみたいです(作者不明で歌詞も節もいくつかあるそう)。
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~西福寺へ行ってきた。東京都北区豊島二丁目(豊島区ではない)、王子駅から徒歩圏内の隅田川も近いあたりで酷い戦災を受けてますが豪華に復活し、いっぽう古塔も残しています。昭和までの石橋供養塔はどこのものだろう。入口左すぐ塀裏沿いに塚があります。近年過去帖から発覚したお馬さんの塔です。嫁入りしたところは寺近くの家で、まったく語らず、そのままおばあちゃんになって寺崎家の祖先(碑文には合祀とある)になったようです。明治36年ですから(スキャンダル時まだ16歳)20世紀になってますよ奥さん。高知を出たのは明治十八年とありますから事件よりかなり経っています。色々あったのでしょうか。このあたりは高知で研究本を読み歩きましたがいくつか異説があると思われます。けれど、東京へ出たのは事実で、嫁入りしたのか居候したのかわかりませんがとにかく番地までわかっていたように碑文に書いてあります。ちなみにこの家のお墓は新しく普通の角柱墓となっていますが墓銘碑の初めの方にお馬さんと言われている戒名があり、幼女名と男名が並んで、最初、となってますので、この墓銘碑の元がいつなのかにもよりますが、普通は明治になって嫁入りし当時としては珍しく遅い子をもうけたとみるでしょうね。明治以降のみ刻んでいるのはそれ以前は墓を個別に作らなかったか別の場所ないし理由があって無かったという、無くはないことです。
2006/7/14-16:土佐血みどろ怪異フォローの旅〜赤岡絵金まつり、御畳瀬幻の島、戦跡、毒蛇うようよ、鬼の袂岩、深浦神社の霊、縁切り祠、武市半平太実家、五台山はりまや橋遺跡、河伯神社、和食かっぱ_b0116271_22260240.jpg
東京、王子(滝野川)最近サイケに立派になった西福寺のお馬さん個人墓。かつて前にはりまや橋の模型があった。
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代々墓、お馬の戒名がある。こちらがもともと本墓だったのであろう。近年「発見」された。
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供養墓の方に骨壷を移したかどうかはっきりしませんが移したのではないかなと思います。紅いはりまや橋の模型が置いてあるようなことがネットに書いてましたけれどいくらなんでもそれは寺崎側にも失礼ですし、取り除かれたのでしょう。※


※できたばかりの頃の写真がありました。位置が違うようです。直したとき取り除いたのでしょう。

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現場からは以上です。2018


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by r_o_k | 2021-03-23 01:39 | 旅行 | Comments(0)