


~著者幼年のころ髪截(切)というものが非常に流行った。知り合いがふと夕寝した間に髪を切られた。しかし枕に付いたところは切ることができなかった。その切り跡はとても臭く、よだれがべっとり付いていた。ある人、これを見て狐が噛み切ったのだと言う。今思うに、桐油と胡麻油で塗り固めた時は、どんな獣も近づけてはならない、ということだ。中国にも鼠の妖怪が寝ている間に髷を取る話や狐魅が人の髪を切る話があるからだ(中陵漫録)



「狐」
私は子供の首を絞めて居る。
理由は知れない。悪さをしたのか。心中か。
妻はぴくりとも動かず台所にへたり、ねめ上げるようにこちらを見ている。
ああ命じられたのだ。
殺さなければ妻は去る。このこは私の連れ子なのだ。殺さないといけない。腕に力が込もる。殺さないといけない。
子供はにこにこ笑っていて、其の首は鋼のように冷たく、固い。汗ばむ手。子の首は冷たい。
妻の心も冷たい。私の心も。
子供は笑い乍ら冷たくなっていく。
笑い乍ら。
そうだ初めから死んで居た事にすればよい、そうだろうと振り返ると妻は居ない。限りない草の穂が月明かりに青白く映える。手には石地蔵の首が握られて居る。
私は結婚していない。ましてや子供など居ない。
人差し指を突っ込むと毛玉のようなものに触れた。左を押さえ思い切り吹くと、親指をかすり顎先まで垂れ出すものがあった。摘み上げると生ぬるく、指先からのがれるようにうねる。それは薄茶気た毛が密生した、紐のような「生き物」だった。先端にぱくぱく開く小さな口らしきものがあり、紅色の中に細かい白歯が並んでいる。見る見るうちに吐き気を覚え、思い切って引くと、簡単に抜けた。二十センチ位はあろうか。全く気が付かなかったし、鼻中の何処にいたのかもわからない。兎に角余り良いものではないような気がしたので、振り上げ床に叩き付けた。
ぎゃひいん
床に当たる瞬間、塀の向こうから悲鳴が聞こえた。それは砕け散り粉々になって、消えてしまった。
翌日、隣家の柴犬が死んでいた。
あくる日、馬5,6匹を引いてこの場所に来たところ、昨日見た石が一片も見えない。不思議に思って馬を堀の傍らに放し、区画内をあまねく探したが似た石すら見当たらず、狐に魅かされたと思って馬どもを曳いて帰ろうとしたところ、
四足の蹄がいずれも悉く鮮血に塗れていた。
ぞっとして総毛立ち片時もいられず早々に逃げ帰った。これは嘉永の末年のこと。

文政三年秋、大伝馬町二丁目きせる問屋升屋善兵衛なるものの娘、ゑい年18に突然、祐天上人がのりうつり六字名号をかきて名を則祐天としるす。昔「かさね」を解脱させた祐天僧正を一目見たい、ゑいに又降りくるのを待たんと愚人多数集まり門前に市をなす。果たして時折むすめに降りては名号をしるすがそれを酒宴に持ち来たものを見て蜀山人、弥陀のふた文字を変えたるはまさしく狐狸のわざならん、貴き名をかくをはばかりてわざと書き間違えたものなるべし。折角貴き祐天上人のお手跡を拝もうと口をすすいだ意味が無い、とまた盃を傾けて座興の狂歌を詠む。
祐天がのりうつりたる名号のひかりをみたの二字にこそしれ
(みた=見た、弥陀)
余りに訝しきことなりとて大伝馬町の名主馬込氏が自ら升屋に出向きさまざまに詮議し問い詰めたところ追い詰められて本性をあらわした、まさしく狐憑き。いよいよ厳しく問答したところ脱けていった。この娘にきつねを付けたのは升屋の後家なるもの、出入りの絹商人と通じていたその商人のたくらみであったとのこと。露顕したところで絹商人は失踪、あるじはまだ年若きとて後家は実家にかえし娘ゑいは親類に預けたあと、しばらくは支配人に店を運営させた。(文宝堂散木しるす、「兎園小説」第十一集 十月二十三日海棠庵集会の席上にて披露した話)
文政八年一年間に月一で開催された奇談会「兎園会」で披露された話をまとめた兎園小説は幕末近い文化文政期の貴重な風物記録として今も親しまれています。滝沢馬琴が中心となっていました(著作堂という字を使った)が一人でまとめたものではむろん無く、また本編以外に外集など編まれた大冊です。大田南畝の逸話となっていますが、晩年に未だ平気で狂歌をよんでいたのか、ちょっと疑問はあるものの、5年前の話(南畝は既に亡くなっていたが)だということで信憑性は案外あるのかもしれません。
狐つきは精神的な理由・・・ストレス・・・によるものとするとすんなり受け容れられそうな道具立てです。祐天上人は元禄期よりヒーロー視されていた妖怪バスターであり(累ケ淵の芝居が更に名をたかめたのは言うまでもない)学のない娘にもあるていどの知識はあった可能性がありますが、面白いのは「字を間違う」という点で、これ、狐狸や物の怪の属性としてかなり知られたものであります。弥陀の威光うんぬんは江戸人らしい合理的思考ですが、全国に少なくない狐の詫び証文系のものとして注目される「誤字」だと思いました。現物はのこってないけれど、正確に「存在しない漢字」をうつしてくれているのが貴重です。
尾根筋より降りる道を分けるところに立て札が有る。「狐峠」その下に、灰色の塊があった。積もる枯れ葉を退けてみると、可愛らしい石地蔵が顔を出す。固い線で穿たれた顔を覗き込むと、自然に文字が目に入る。死んだ赤子の墓印らしい。何故こんな処に、と思った。
崖というにはゆるやかな斜面を見渡しながら、さてどちらへ行くべきか、迷う。
・・・「水子ですよ」
裸電球に当たった小虫が落ちて、味噌汁に浮いた。もがく虫をつまんで床へ投げる。
焼魚。お浸し。漬物。汁。そして飯。唯一人の客の為に仕方なく作ったふうの、質素な食事だ。
「昔話でね、」
老婆の後ろで音も無く時を刻む古時計。
「あの辻で旅の人が倒れてね。腹のおおきな女さ。たまたま行きずりの坊さんがカイホウしたけんど、そのまま死んじまったと。子どももろともにね、可愛想に」
このあたりでは産女も水子と呼ぶのだろうか。おかずが無くなる。残った飯に汁をかけて勢い掻き込む。
「その晩、宿で休む坊さんを訪ねるもんがいる。その女さね。
坊さんどうも有難う、私はさる大名の娘です。
町の絵師と恋仲になって遂に子供まで出来た。だけんどそのことがばれて家をおんだされちまって、恋人にも逃げられちまった。
果たしてどうしたら良いものか、女ひとりでどう生きてゆけばよいものか。
死に場所をさがして、こんな峠まできてしまったのだと」
ぬるい茶を啜る。
「でも子供に罪はない。修羅の道を共に歩かせるには忍びない。どうかこの子のために、経のひとつでもあげてはもらえぬか」
「ごちそうさま」
私はそのまま老婆の昔語りを聞き続ける。
「そのとき妊婦の股の間から、ずるっと垂れ下がったものがあった・・・真っ赤な赤子さね。ぽたりぽたりと血をたらし、さかさまに吊り下がったまま、坊さんの目をにらんだんだと。でもまだ若い坊さん豪気なもので、怖れもせずに座っていた。」
「・・・随分恐ろしい話しですね」
「逆子は臍の緒を引いたまま床に降りて、ゆっくり、ゆっくり坊さんのほうへ這いずりはじめたと。そこで坊さん、両手をのばして、抱き上げた」
「ああ、その子のとむらいのために、地蔵を置いたという訳ですね」
私は一人合点し首を振る。
「・・・違うんだね。最後まで聞くね。
坊さん赤子を取り上げたを見て、産女はぱっと消えた。子供はにこにこ笑っているけれども、どんどん冷たく、重くなってくる。坊さんあわてて降ろそうとするが、しがみついて離れない。さては怪かしの類かと、経を読み始めたけれども、坊さんまだ若いから、功徳が足りなかったんだろね。赤子はどんどん重くなるばかりで、一向に離れようとしない。
坊さん遂に観念して、天を向く。すると月が見える。あれと周りを見渡すと、枯葉まみれの峠の辻、あの辻だよ。それでは手に抱えているのは、
何?」
「地蔵?」
当たりね
口中に泥臭い匂いが充満する。うっと吐き出すと、ぱっと消えた古食堂。闇夜に目が慣れて来ると、枯れ木の群れのシルエットの間で、正座をして、枯葉を口いっぱいに頬張っている。
老婆の方を向く。
あの地蔵がわらっていた。
私はまだ峠にいたのだ。
悪寒を感じて益々情無い。

土浦に当時雌雄二匹の狐が棲んでいた。名を官妙院、お竹といい地元では稲荷社を建てて崇めていた。
妙日甚五郎、いつもの如く鉄砲を肩に近隣の山野を跋渉していたところ、偶然、お竹狐にでくわした。
甚五郎は自慢の腕前で、此れを撃ち殺してしまった。
家に帰り、早速料理して酒の肴としてしまったという。
するとまもなく近隣の他国領内の農家の妻が狐憑きにあった。出たは雄狐「官妙院」、言葉極めて甚五郎を罵る。
夫はじめ村中の者が集まり、官妙院に向かって言った。
「それ程小室甚五郎様が憎いのなら本人に取り憑くのが道理。民が稲荷の使いとして崇める貴方がなぜ縁もゆかりもない他国の者をこのように苦しめるのでしょう」
口々に非難を受けると、官妙院が言うには、
「甚五郎に取り憑くなど滅相も無い!我が妻を危めた挙げ句酒の肴に食ってしまう、凄まじき人間に取り憑くことなど到底出来るものではない。今では土浦領に入ることさえ恐ろしく、仕方無くこちらに来て縁無き妻に取り憑いたのだ。不憫に思って、ドウカ憎き小室甚五郎を殺して下さい」
ということであった。
甚五郎の耳にもこのことが伝わった。烈火の如く怒った甚五郎、役人に事情を説明しその農家へ赴くとコウ言い放った。
「狐畜生の分際で人に取り憑くなど不届き千万。増して当の我に憑かず他国の人を苦しめるなど誠に許し難し。直ちにその女から離れよ。もし離れ無くば我は主人に願い稲荷の祠を打ち壊し、更にどれだけ月日がかかろうとも毎日精進して草の根を分けてもお前を探し出し、見事撃ち殺して呉れようぞ」
仁王立ちで大声で罵ったあと領内の祠に向かい、同じように罵ったところが、それに驚いたのであろう、狐は直ちに落ちて、二度と姿を現さなくなった、という。
・・・「耳袋」より編 2000

・・・今でも「憑き物」に対してこのような疑問が投げかけられることがある。なんで恨み千万の当人に取り憑かないで、周辺の他人に取り憑くのか。つよいひとは結句霊の世界でもつよいものなのだろう。
大徳寺に匹敵する広大な寺域を占める開放的な相国寺。金閣銀閣の本山だ。ここも季節以外は寺宝非公開の静かな寺ではあるが、整然と整えられた寺域の東側にある鐘楼、その裏に化け狐をまつった宗旦稲荷がある。実在の茶人宗旦に化けた古狐が立派に振舞い親しまれていたという江戸時代の伝説が伝わっている。この寺域も昔は狐の住まうほど藪深かったのだろう。最後は殺されてしまったが、祠に祀られる様になったというのはどこか物悲しい。というか個人的には狐ではなく人だったんじゃないかという感覚を抱いているのだが。狐と見破られて窓を破って出たときの茶室が残っており、その窓が大きいのは飛び出したときに大きく壊れたからだというが一般には見ることはできない。(京都)
その日の夜
便所へ行く途中、廊下の天井につくほどの巨大な人影。坊主頭しかわからない。肩幅も廊下の幅ほど。頭部分を見つめても消えない。何か別のものの影かとおもって用を足し外へ出ると、まったく何の影もない。
結局朝まで起きていたのですが、もう一回便所にたって帰るとき、階段を上がる小さな腰の曲がった老婆のようなものの後ろ姿を一瞬見た。かなり速かったので認識できたのは、着物がまるで柔道着のような生白い厚手の感じで、小さな裾がすっと階段に消えるところ。
あーもう脳おかしいわ。
そして二晩続けて金縛り。金縛り自体は除け方を心得ているので翌朝余り覚えてないもののゆえ、今思い出した。
除け方は前も書いたけど結局電気つけっぱなしにするのがいちばん。かかってるとなかなかそこから抜けて電気つけらんないのだが、そんなときでも声はそこそこ出るので、場違いなくだらないふざけたことを言ったりすると弱まる。昨日はなんだったかなー、、、
これらも結局自分の内面の病的なところを笑いに逃がすというような理で解決できそうですけど、どうなんだろう、どっちの解釈も明確にはしたくないな。
<最終的には翌々日夜また同じ廊下で、戸棚の陰に投射したような光の姿で、異様ななんともいえない形の小さい「動物らしきもの」がぽっと現れたのを見た。それから、何も出なくなった。化生の小物がついてきたということなのか?狐だと思っていたが、その異様な姿を反芻すると、豆狸のような感じもする。>
8/22追記: へんな子狸みたいな光る影を見てから何もなかったと書いておいたが、さっき顔の横の壁にまた光る小さな影が。同じだと思う。
子狸だと思ってたけど
男の顔だ。

~今週の初めから咽をやられ熱出して寝込んでいる。こんなに長い間しかも夏に風邪で臥せるなど大人になってからは無かったことで驚き苦しんでいる。つとめて怪し物とは一定の距離を保つようにしてきたが、たまにまともに正面から当たっていくと身体を壊すというのはよくあることで、しかし今回は長く、たちが悪い。腫れ上がった喉を先ず飯が通らない、腹はぐぅと減るのに食えない、飲む事さえ痛くて辛いのだ。体調を崩すと余裕がなくなり感覚が鈍るから、奇しがいるも何もわからない。不気味さに感じる気力がないから怖さは全く無い。だがこういう抗生物質も熱冷ましも全く効かず、痛くてうがいの一つもできなくて、おまけに部屋の電気が理由なく明滅を繰り返すという至極ゲンジツ的なヒガイを受けるというのは堪らない。病ますます悪化し氷を細かく砕いて喉に流し込み続けていると暗い座敷が目に入った。女がいた。天井を衝くほど異様な背丈の細女がゆらゆらうっすら、まっすぐこちらを見たまま消えたのだ。真っ白な絹地の、綿の入ったような厚い着物だった。
やっぱり。
私は部屋が臭いのは自分の熱汗のせいだと思っていた。違う。動物なのだ。そしてすっかり忘れていた或る儀式を思い出した。旧くから私のサイトをご覧のかたはご存知かもしれないがかつて全国の寺社を見て廻っていた私はいつも自分への土産は寺なら線香としていた。石彫撮影が趣味だったこともあって墓場を巡ること多く、肩が重くなると必ずその晩線香を焚いた。香のせいもあって気分がすっとしたものだ。そこで先程しら狐の立ち姿を見た途端思い出したのだ。どこの寺のものかもわからない香の箱を取り、埃を被った香台を拭いて挿しくべた。
・・・手品のようなものである。こういうものは。
喉の痛みがだいぶ引いた。電灯もおかしいくらいに安定した。全快ではないけれど、やっと眠れそうだ。
気分だとは思う。でもやはり日曜に稲荷下で化け物らしきものを見たあと、その石段を踏ん付けて降りたのだ、出たあたりを、円了先生の気分で。気散じているように見えたが、その晩すぐおかしくなったのだから疑わず迷信に従っておけばよかったのだ。勿論こんなものは幻想で気の惑いとは思うけど、原理とか科学とか理屈はどうでもいい、取り敢えず治ればいいのだ。
一応やしろには賽銭をやって「ホントにいたらごめんなさい」と語りかけたりした。が、やはり人語など通じる相手ではなかったのだろう。私は獣と人とどちらが偉いとは思っていない(能力の優劣などは別)。言葉が通じないのは、精神構造がまったく違うからだ。相手はいわば宇宙人なのだ。接点は思わぬところに顕れるが、一致はしない。
~故杉浦ヒナコ子の百物語を久し振りに手に取った。怪異が人語のくり返しをできない、人間にわかる言葉で自分から名乗り思いを語ることができない、そういった決まりごとがしっかり描かれている。これを文字だけで表現しきることは無理だ。絵の余白が、そこにひびく筆文字のみが表現でき得るものだ。てんぐの詫び証文のような意味があるようでいて全く意味の無い文字のマネゴト、そういう断ち切れた世界を人間界と接続的に浮き彫りにできるのは絵だけ、その余白だけである。
そんなことを思った。
<そして朝>
これを書いた途端みるみるうちに喉腫れ上がり気道塞がるほどで苦しさ痛さ尋常でなく、結局朝まで一睡もできなかった。暫く本件封印します(T-T)でも出勤せねばならぬゲンジツの厳しさよ。おまけにスーツの尻裂けた。2005/9
小石川から茗荷谷、大塚はきびのわるい森谷の地があった。狐が多かったのも事実でキリシタン屋敷址も近く下れば澤蔵司がいて昔はマリヤ観音のほこらもあったと記憶している。しかしここまで周辺話は出るのに義理だてをして坂下門外の変の前日には下屋敷まわりで手下がさかんに鳴いたというその大老狐、たれか。
疲れて本を閉じ寝るしたくをする。
枕元にあった鏡花の雑文集が目に留まる。ひらかれたページは「百物語」。
・・・大塚で怪談狂歌会をひらく話だ。
しかも大塚の女郎話がまくらになっている。小女郎坂をさがすのが発端だったのだ。

きつねは憑かれはじめたら怖い、京都で二回青梅で一回ひどくやられた私は早晩寝ようと時計をみたら丑三つ。
三はり除け
丑できつねをふうじ米
米は稲荷デスヨ。

埼玉県の吉見百穴は上古の横穴墓群で、中世には近く城が築かれ、戦時中は地下工場として転用されようとしたこともあり、心霊スポットとして若者が夜訪ね来、また不良が集まり若者が襲われることもあった。その位置する比企丘陵の一角に稲荷がある。県道からそこに至る細い登り道はカーブが多く走り屋のコースとなっていた。昭和55年頃よりこの一本道で迷う、「脇道」に入ってしまう、ぐるぐると同じ場所を回るといった話が聞かれるようになった。さらに稲荷の前の内側にマンホールのある一番の難所で不思議な老人の目撃が相次ぎ、轢かれて死んだ人じゃないか、稲荷の祟りじゃないかと話題になった。一人の男は般若のような顔をしていたと証言した。皆そこを迂回するようになってほどなく、マンホールのあたりが崩落してしまったという。(室生忠「都市妖怪物語」より)





「京都建仁寺町五条上ル辺に住む木村おたい(17)が去年12月頃上七軒辺より由兵衛(21)とかいう婿を迎えたが、どういうわけか連絡がとれなくなってしまった。おたいはとても憂い、たとえ夫に何か理由があって離ればなれになったとしても、ひとたび夫と定めたお人に操を立てることこそ女の道と、あくまで復縁を願って由兵衛の実家へ行ったところが大阪か大津へ行方知れずだという。びっくりしたおたいは信心する清水観音に詣で、なにとぞ夫の行方が判明し再び連れ添えますよう願いますと朝な夕ないささかも怠り無く一心不乱に祈念していたところ、去る17日午後9時頃いつものように清水寺に参詣し堂宇の前に来たところ、そこに日ごろ慕っていた前夫由兵衛がたたずんでいた。おたいは驚き喜び、おなつかしゅうございます、これもひとえに観音様が憐れんで夫に会わせてくれたのでしょうと夢うつつの心地で嬉し喜んでいたところ、どういうわけか夫の胴体がだんだんと伸びて一丈余りになったので、これは何ごと、と叫んで倒れたところを僧侶が駆けつけて、いろいろ介抱して仔細を聞いたところ、狐狸のしわざということになり早々に帰したというが、「狐狸ャ胴だ」の見出しは無理がある」(湯本豪一編「地方発明治妖怪ニュース」収録より抜粋)
わりと幼妻の一途過ぎる執念が出ていて、清水の境内に実際に出没したと言われている狐狸を例に出すよりも、若い妄念が像を結びあやかしを呼んだ気もする。観音さまも明治喪女の妄念を取り去ることは難しかったようで。



左に寺が見えてきた。表門の冠木に龍が彫ってある。前にさしかかると龍は冠木をはなれこうこうと眼光を放ち角をふり立て、紅の舌を火炎のように揺らしながら勝間の目先でくるくる廻った。門弟たちはあっと叫ぶと逃げた。勝間は刀に手をかけ、おのれ古狐ばかにするなと言って瞬きもせず睨みつけると、しばらくして冠木に戻り止まった。それみろと笑って先に去った門弟に声をかけながら道を急いだ。折しも霜が溶けぬかるんだ道、まばらな杉垣の際から足元のよい場所を選んで通る途中、垣根の間から氷のように冷たい手が延び勝間の耳をつまんで引いた。驚いて振り向く鼻先に、お歯黒をぎらぎらさせた細眉の色白の女が顔を突き出し、にたーっとえもいわれぬ気味悪い風情で笑った。不意を打たれた勝間は一声叫んで気絶し横に倒れだらしなく伏した。先に逃げた門弟たちは待っても勝間が来ないため知り合いから提灯を借り戻ったところ、失神した師匠をみつけ目を覚まさせた。
以後勝間の評判は急に落ち目となり、門弟もいなくなりどこかへ引っ越してしまった。大言壮語ぶりとあいまって笑いの種になっていたという。(思出草紙)
とくに目だったところのない平凡な話だが、既に「実録怪談」の様式が出来上がっているところが面白い。すなわち年月、(実際に存在したかはわからないが)主人公の実名と詳細な場所が明示されており、真実味を与えている。この江戸実録ものが後代の一つの怪談のフォーマットとなったのは確かである。









山口敏太郎編「魔界接触編」学研(サイト妖怪王)を参照しました。東京都江戸川区小松川七号線の噂とされています。ほんとうは「高速婆」の類の話です。高速道路をなぜか体を引きずりながら歩いている女が見える。見ていると体がどんどん崩れていって、肉片が点々と続き、最後に右腕だけが前へ進もうとしているのが見える、というのですが・・・体を引きずりながらも高速移動しているというのなら、観察する時間はあると思うんですが、高速道路で徒歩の人間の姿なんて瞬き一瞬でしょ・・・。話としては面白いし、理由もいくらでもつけられそうですが、個人的にこれがありうるとして、怖く感じるのか?と言われると、高速移動する女が真横でどんどん崩れていくって時点で不思議感のほうが強くなってしまって、
「狐に化かされた」
と思うと思うんですよね。都市伝説だから、事故でバラバラになって死んだ女が家に帰ろうという執念だけで高速にとりついてる、みたいに理由付けられそうものですが、たぶん、幽霊的な解釈って近代のもので、むしろ昔は「そんなありえない話は狐か狸」で済んだことだと思うのです。その時点で「不思議話」ではあっても「怖い話」ではない。理由がわからないことはやっぱり、怖いというより不思議で処理したほうが、下手に精神的な闇を抱えたような解釈にならなくて、清清しい気がします。
かなり不思議な社配置で、三つの鳥居を三角に組んだ三柱鳥居が丸い池の中に立っている姿、その三角の下の石積みと立てられている御幣、丸池から南に流れ出す人工の川、その短い流路を塞ぐような稲荷社、それらの構造と関係無しに並立する神社本体、意図的なものを感じる。今回一番「怖い」感じがしたのはここである。怖いというか重いというか、稲荷が「強い」。水が枯れ川に僅かに残るだけだったところも、何か信仰の途絶のような感じに見えてしまった。全般にモノ自体は新しい。三井財閥の信仰があつく東京の三囲神社に三井家にあった三柱鳥居が移築されているのは有名な話。こちらは陸上ではあるが、三角の下には井戸がある。「三角」+「井戸」=三井の洒落である(しかも「三囲」自体、三+井戸を囲む四角形といった名前である)。しかし泉の上に三柱鳥居を組むという意匠が本来のもので、神道の源流の一つの土俗的な姿かもしれないと思わせるものである。天虫信仰が併合されたのも偶然ではなかろう。鳥居は人界と異界の境目を示す門であるのに、三角に組んだら「どこにも行けない」。諸星大二郎さんのマンガにそのあたりに焦点をあてたものがあったかと思う。三角という象徴的な形に、先の晴明の墓並びに秦河勝幼少時の邂逅の伝説と絡めて陰陽道との関連を考えてみたが、いずれ想像にすぎない。
銀座は「玉の井」食堂、白狐の庇護を受け繁盛とはモウとうに昔の噺。ソウ何故玉の井と申しますかというとこのあたり妾どものとこに評判の高い井戸がありまして、伝説に、最初この井戸を堀った時に、水が出ず光りものがする。ナンだろうと段々掘り下げてみますと”白狐”のお尻にある毛の玉が出現たンだそうです。ソレを神棚へおそなえして縁義を祝いますと、井戸の水もコンコンと(洒落てンじゃありませんよ)、清泉が湧いて大層評判になり「玉の井」の屋号を受けたと申します、白木屋さんの白木観音(元日本橋東急屋上、現浅草寺域内に転居)の水のように水脈がこのあたりにもあるものと見えます。
江戸の末期、手堅くこの「玉の井」を守っておりますおばあさん、或る日魚河岸通いの芝の魚屋さんが「コー金に困ってるンだが、済まねエ、これを買ってくンねエ」ソレは芝明神の富クジの札なンです、「そンなものは」と堅気の婆さん断っても日ごろご贔屓の魚屋さん、よくよく困ればこそ、トミ籤を売のだとも考えお金を融通するつもりで買い取ったンだそうです。ソレがどうでしょう、当たり籤だツたンです。千両の。
1990/1999

鎮護堂をさがしてやっとみつけた。工事し過ぎやっちうねん浅草。狸は堂宇として浅草寺から離れているので少しもともとわかりにくいのです。浅草寺には狐がいるからね。裏の池が綺麗。(ここの狸は力が強く、伝法院の縁の下に住みフランス人大道芸人まで巻き込んでの大騒動があったという。最後に見かけられた狸は團十郎の碑そばの叢で打たれたが何の祟りも無かった、明治中期)
「太郎稲荷」
入谷は光月町の太郎稲荷。園地整理される前の浅草田甫、野中の一軒家的な「流行神」…武家の屋敷神…でも今もしっかり守られてる。もちろんオリジナルは小林清親、これは雲のような表現あるものも。後世の後刷りは灰色のグラデーションが美しい。月夜と街の灯は井上安治独自の演出。



このど真ん中が太郎稲荷です。


新吉原の大火、明治三十年
短き春の夜の知らぬ間に明け初めて後朝を急く阿波座烏の太郎稲荷の森の辺りに騒ぎ初めたる本月二十五日午前四時半〜焼失せし妓楼の内火災保険を附しある分は三十戸程にて内「東京火災」十五戸「明治火災」十二戸にて其他は「日本火災」の被保なり〜 https://pic.twitter.com/NvpvPpGWtP







「宝暦年間日本橋青物町の道を直していたら古い銅翁の稲を負った像が出た。町民、鎮守にせんと番屋に置くと悪者を取り調べる場所は不浄というものいて元四日市町の火除地に小祠を設け翁稲荷とした。近所にも知る者少なく初午の日のみ開扉し普段は子供の遊び場となっていた。ある日境内の清掃を人に頼んだところ祠のそばに小便をしたので仲間が清め詫びよと注意するもがんとして聞かない。むしろ神を罵った。鳶のろ組の人足午右衛門といった。そのうち通二丁目に火事があり男も火消しに従ったが建物の牛梁が焼け男の上に落ちた。やっと助け出すも虫の息で、しばらくして大声で「おのれ午右衛門よくもわが場を汚すのみならず、却て我をののしることの憎さよ、世の見せしめにおのれを罰するなり、あらここちよや」と叫ぶとぐるぐる回って倒れる。それを繰り返すうちに死んでしまい、ろ組の仲間は御託として社地を清め大水盥★を納めた。神の祟りの凄まじさに見聞きする者霊験あらたかなことと参詣に押し寄せた。献灯供物絵馬数多く置く場所もない。そこで社地を拡げ石鳥居石玉垣を巡らせた立派な構えとなった。雨中参詣のため玉砂利も敷かれた。毎月午の日は立錐の余地もなかった。しかし年月がたって今は少しさびれている。」(「わすれのこり上」四壁庵茂蔦、続燕石十種)


他力本願なのでリンクで逃げてしまう。茅場町の日枝神社境内に移されて合祀されているのが江戸三大流行神唯一の動物。しょうじきこの神様については余り詳しいことはわからない。もともと日本橋四日市町の稲荷だったということで四日市翁稲荷と呼ばれていた(震災後日枝神社内に合祀された北野神社(江戸二十五天の一つだったらしい)の隣の翁稲荷・桂馬稲荷が、こちら近所の祇園稲荷とあわせて震災戦災再開発で流転し、最終的に改めてこの境内に再建された明徳稲荷と合祀されたのが現在の形である、複雑。ちなみに全て焼けているので合祀はされていても当時の遺物は銅像含め一切ありません、とのこと)。



こちらにちょっと詳しい記事リンク
先の東京名所図会の描写はさておき、最終的に日枝神社の境内に安置されたのもそれほど昔ではないという話もあるが(もともと50年代に界隈の証券会社を中心に川岸に整備されたが、土地の関係でうつったあとは町会が守るようになっていると聞いた。ナビタイムなどこんな昔の情報を登録してるのでほんと注意、日枝神社で調べましょう)、祇園稲荷と合体して明徳稲荷神社として祀られており、往年の勢いは感じられない。翁稲荷というのは老人の姿をした稲荷の類型のひとつ。駿府には安倍晴明をまつった翁稲荷社がある。
暗くてすいません。。


尾を失うと力を失うのは聖書にも載ってる世界中同時多発系の伝承ですね。反じて尾が増えると人並み以上に力を得る。暗示的です。そもそも女を狐と茶気る発想、江戸時代には芸者を、化かす狐とたとえたわけで(九尾はさしずめ9人の好いひとがいたということでしょう、江戸のおとこは哀しい)、この説話の成立は平安まで遡らない可能性が大きいです。
御田八幡宮の社殿の裏手の崖にちょっと怖い場所があった、狐穴である。ライティングがされ一応こじんまりとまとまってはいるが、社中は壊れた狐だらけで小さな陶像が散乱していたりと恐ろしい。正直こんかいいちばんぞっとした場所だった。ほんとうはやってはいけないのだが倒れた像をいくつか直してやり、おそらく戦災でやられたであろう鼻をへし折られた恨めしげな狐たちと少し「会話」をして、去った。ここは崖面があらわになり古い雑木林風景を残している。あとで大回りして行くことになる亀塚が上にある。狐はともかく、この社の位置と亀塚(が神域にされた頃)の関係を歴史的背景から見直すと何か面白いことがわかるかもしれない(わからないかもしれない)。伏見から勧進されたようである。2005

4つの坂の頂点に、一本の松がある。焼けて戦後植えなおされたものだが、もともとここにあった一本松は麻布七不思議のひとつだ。家康の時代に関が原から持ち帰られた首級がつるされた、もしくは埋められた「首吊塚」の名で呼ばれた場所である。
伝承によれば、女が立ち、誘われるままにいくとほうぼうを引き回されて、狐坂の下の溝にぽーんと放り込まれるという。狐坂はやや離れた場所にある。二本松というものもあり、一本松から二本松のあたりを縄張りとした狐がいた、というのが定説だった。暗闇坂から右に行く坂が狸坂だ。非常に雰囲気のある急坂である。
ここは古狸の縄張りだった。有名な話がある。この狸は人々をたぶらかして石地蔵や石塔を運ばせるのが趣味だった。もともとさびしい捨て子の多い場所でもあったのだが、とにかくオギアオギアと声がする、また赤子捨てかと夜道をゆくと果たして路傍に泣いている。かわいそうだと抱き上げるといつのまにか狸坂に来ている。ずしり。アレと見ると赤子は地蔵様に化けている、ありゃこれが狸坂の狸かと投げ捨てる。
今狸坂沿いには綺麗な教会があり今日も結婚式が行われていた。狸坂の昔も婚礼帰りに泥だらけの石を抱えさせられて衣装台無し、ということがあったそうだ。面白い因縁だなあ。結局坂には投げ捨てられた石地蔵や石塔がゴロゴロすることになり有名になった。狸だったことを確認した者はいないが狸ということになっている。今も気だけはいそうな雰囲気である。
だいぶ急坂を下り平らかになっている。この先少し左に折れて行くと狐坂である。
さきほどの狐がつれまわした男を捨てたのがこの坂下の溝といわれる。話だけを聞いていると現代都市伝説のようにも聞こえてくる。それが狐だとは誰も確かめたことが無いのだし。女は明治の初めまで現れた。港区は坂に悉く丁寧な標柱をつけて説明するのだが、ここはさすがに余り雰囲気が無いせいか標柱がない。
「屁理屈に弱い狐」
渡辺華山の墓は三州田原城寶寺にある。里人が華山の墓に詣でれば、狐狸に憑かれていても落ちるといって、今はとくに参詣する人が夥しい。華山が生前雇っていた従僕に一人の娘があった。かつて狐に魅入られたことがあり、その時は一朝にして漢学に精通し、四書五経を暗唱できないところはなかったという。華山は早速娘に会い、おまえは深く漢籍を暗知していると聞く、然らば問おう、論語に「子曰く」は何個所あるか。憑かれた娘は言葉に詰まり、忽ち正気に戻った。そのため華山を狐払いとして崇拝する者が多くなったという。
~石川鴻斎筆「古今東西逸話文庫」M26
「狐火が憑りつく」
--寺尾を出て、国道の水名橋で三面川を渡って村上の方へ歩いていた。まだ朝日村の内である。道は下り坂。松並木の左手に墓地が続いている。時折自動車が走って来る。
雨がジョボジョボ降っていた。
七時頃だった。
フッと自分の着ているジャンパーのポケットをまさぐった。自然に目線が上着のあたりにゆく。
「アレ、なにか光っている。変だ」手で拭きとるようにさすってみる。目もこすってみる。光はとれる様子はない。相変わらず光っている。蛍光塗料を付けてきた覚えはない。そんな派手なジャンパーでもない。よく確かめると、どこ、と一点を指すのではなく、どこといわず光る。
そのうち、いくらかあわててきて、ポケットに手を入れた用事の方はすっかり忘れて
しまった。蛍が体中に止まって光っているふうである。
左手が墓地のせいだ、という思いが強くなる。もう夢中で急ぐ。どうも墓地の方は真っ暗で
光るものは何もない。
道がぐっと右へ曲がった。当人も道なりに曲がった。
ところが、気が気ではない光がパタッとなくなった。墓地は終わってなだらかな雑草地に
変わっている。
「狐に化かされるってことはあるものか、と信じていたが、やはりこの世にあるのか」
「いやいや、墓のせいか」
「人魂が燃えるというのは、これかな」
怖いもの見たさに、今歩いて来た方を振り返った。人が歩いてくる。キラキラ光っている。
自分では一向に気付いていない模様である。夜目にも黒っぽい上着の人物だった。
「それで分かった」
「あの墓地の横を二、三人で通ったとしたら、ホラ、遠くから見れば、狐の嫁入り、と言うんではないのかネ」
「これはもしかすると瀬波温泉あたりの明かりが、10キロ離れたあの松並木に当たって、キラキラの光になって砕けるのかな」
「雨が降らなければどうか」
「標高のせいだとか」
「墓は」
「狐の毛皮はオラたちの背中にホカホカと乗っかってっから」
「狐化かして捕まえるのは、オレたちの方だべ」
「ハッハッハッハッ」--
*江戸時代の「牛鬼」という怪異にもこういうものがある。科学的に説明がつくのかもしれないが、奇異なことであることは確かだ。 アオサギの火、などといった鳥の怪異にも共通するし、狐火というのはまさにこのような陰火なのだろう。(山村民俗の会「山の怪奇・百物語」エンタプライズ刊:大塚安子”上信越・山の怪奇ばなし”より)
「やかん坂」
:古い住宅地。ここは小日向公園。高台で背後は寺の墓地になっている。
この高台から右脇の「やかん坂」を廻って降りると墓地の持ち主、日輪寺があるが、そこの本堂脇に甘酒婆地蔵がある。参道にいた甘酒売りの婆さんをまつったとてもほんわかした由来のものらしいです。しあわせ系。
日輪という名前からすると日蓮宗なんだな。江戸時代、日蓮宗の坊さんは不受不施のイメージが根強く、またとにかく法力が強いと思われていたみたいで、他宗徒から人に狐をつける呪力があるといってやたら生臭い噂を立てられていた。目黒現円融寺の蓮華往生(犯罪)も力の強かった日蓮宗を貶める幕府の意図的な風説だったといわれているが、伊豆の7人の祟る坊さん伝説も日蓮宗か。蓮着寺の威勢もあっただろう。宗派闘争はかなり激しかったみたいですねえ。そうそう、怪し坂としての属性をもった「やかん坂」とか前記「かむろ坂」という名前の坂が江戸にはけっこう存在した。「やかん」という響きが「夜半に坂の上から”やかん”のバケモノが転がる」という民話に繋がったことは想像に難くない。じっさいは「クスリの缶」ということで坂のそばに薬師医師が住んでいたとかいう謂れが殆どのようだ。野干の字をあてて狐が棲むような薄暗い坂という意味にもとられている。

富士嶽神社の富士塚(明治初期)練馬

その裏にある(焼けて小祠になってしまった)寺にある祠の白狐石。石田三成が豊臣秀吉より伝わるものとして秀頼から関ヶ原にて託された名石だが越後に落ち延びるとき何故か練馬の旅籠に置きっぱなしにして、それを末裔が守り続けていたと言い伝えられる。三成はこの石を置き去りにしなければ捕まらなかった、といって宿場の守り神になっていたが、いつしか寺に預けられ稲荷社として祀られた、とのこと。

でもお寺、平成のはじめに焼けてしまいました。石も見やすく置かれていたのが祠内に薄暗く、ガラス戸越しにしか見られません。麻布(現在は鈴ヶ森近く磐井神社蔵、外から覗けマス)烏石とともに有名な動物紋様の石で市場に出たら今でもすごいかも。


装束榎跡こと装束稲荷(NAVITIMEは寺社を強化したほうがいいグーグルなら出る)、年末狐が衣装を整えるので有名な、広重の狐火画で著名な社。移転してるの初めて知った、しかも戦前。大きなものでも2回空襲に遭ってる地域、しかし装束稲荷手前で業火が止まったとか。旧地は近く王子二丁目バス停辺。 https://pic.twitter.com/cpnsG3BXRN







装束榎の写真は存在しない。郊外の土俗、そも一帯の伝承を二本の榎に象徴させたらしく残る一本を戦前に道路拡張で切り倒したが既に枯れていた。伝説の装束正して王子稲荷へ、という狐火は一帯の話で、天保初年に出てのちなくなったといい何を見ても3枚の江戸画のみ、恐らく出なくなってからのものだ。 https://pic.twitter.com/XBcVl0HCqk



(河鍋暁斎が張交絵に王子稲荷の狐があるが、聞く話だけで描いた翻案ではないか?背景の立木の類似に注目。郵便配達夫が化かされる姿が開化式で楽しい。)

王子稲荷は神気強く江戸より変わらぬ石段下が幼稚園で騒がしくても裏、崖上の霊窟より狐らしい恐象が流れ出す雰囲気は鎌倉を思い起こさせた。強く江戸を感じさせる。京風に言えばおもかる石大小あり非常に重い。崖上の辺り嘗て四箇所亀井塚なるあり供養塚と無名併せ七曜塚と呼んだ、これ十三塚だろう。 https://pic.twitter.com/eyW0BrZHX6





(明治十五年の同地の図)

(同時期の芳年戯画、丑の刻参りをする異人に狐も神主も仰天の図。王子は西洋人の景勝地で、洋装も幕末からよく見られたようである)
国芳(道外化もの百物がたり〜一部)飛んだり跳ねたりの坂田金時カシラを被せた箒で暫を形作り、化物どもを脅かす狐。金太郎人形は化物がおそれる。


戦前、木更津に寝釈迦と呼ばれる祈祷師がいた。体の自由が効かないかわりに物を治したりなどしたという。狐憑きがまだ普通にあった頃の話だ。





流行神といえば熊谷稲荷。福狐と認められる白狐社として全国に二社しかないという。戦争絡みのはなし塚のある本法寺って落語家さんにはお馴染みでしょうか、壁に錚々たる面子の名前が。

海難者というのは他の受難者よりも強く祟るとされ、沖縄から太平洋沿いの海町ではとくに忌まれているようです。夏の祭りはそういった祟り神が盆に陸地へ帰ってこようとするのを追い返す、といったいささか死んだ者にとっては哀しい儀式として行われます。
:秋葉原の密かな守護神、右手が柳森神社。江戸初期には清水山という山があり、忌み場とされていた。左右に住む武家もこの場所だけには手を出さずほうっておいたとかで、柳を植えても枯れるなどの状態だった(当時は今みたいに電車の高架なんかなかったので念のため)。杉ノ森神社と呼ばれていたこともある。大奥の三人の女が痴話の挙げ句に身を投げ死んだ、それが出るという話がいつのまにか大奥で将軍の側室を狙う女たちに信仰された「他を抜きんじる」お狸社の移転先ということになって、世にも珍しい狐と狸の共存社として今に至っている。・・・というわけで淡路町駅からちょっと歩いて万世橋(筋違御門)や秋葉原電気街を左手に神田川南べりに出ます。高架の向こう側に、さきほど書いた柳森神社がなかなか賑々しく、でも密やかに眠っています。由来因縁は前記のとおり。
チョット怪談めいた江戸噺を付け加えておきましょうか。
清水山に三人の若い娘の幽霊が出るという噂が江戸中に広まったころ。若い衆三人「こりや丁度いい、こっちも三人だ」などと言って夏の夜、一杯やってから草深い清水山に出向く。樹が茂り藪深い荒れたさまは夏でも寒々として心地悪いが酒の勢い、草を掻き分け掻き分けここが頂上かとたどり着いた。一息ついて神田川を見下ろすとそこに白い影がぼうっと浮かぶ。三人の目の前に怪し火がさっとよぎる、うわっと再び川際に目をやるとそこにはまさしく三人の若い女が草むらに蹲り肩抱きあって泣いている、オバケだ!
酔いもいっぺんに醒め転がるように逃げ出した三人、ほうほうの体。しかしその後三人が三人とも熱にうなされ、あっけなく成仏してしまったとさ。
屍骸もあがらぬ魔所清水山下の湧水穴、大奥女中頭のお浦の方という「とう」の立った老女に弄ばれ、捨てられた女中ども、毎夜穴から上がってきては三人で泣いていたのでした。同性愛のもつれというまことしやかな噂であります。もっともこの神社に今も祭られているお狸様に化かされたのだという説もあり(狸が祭られるずっと前の出来事だから時代があわないのだが)、また山を根城にしていた得体の知れない妖怪のせいだという人もいた。神田川筋はうっそうとススキやなにやらが生えていて、各武家に馬の飼葉用として区切り割り当てられていたのだが、このあたりを割り当てられた市橋某と富田某も飼葉は喉から手が出るほど欲しいものの気味悪がって手を出さず、結句くさぐさが生い茂り荒れ放題になっていた次第。枯れては植えを繰り返された柳は吉宗の命で植えられたと言われている。柳下には怪しげな商売人が小屋を連ね、明治に入って切り崩され民家や神社の社殿になってのちも胡散臭い古着の店で賑わっていたそうである。
:頭の中でビルを消して社殿を山に置き換えてください。それが清水山。
:格式ある、でも黒ずんだ標柱。このあたりも酷い戦災にあっている。
:本殿。稲荷社。
:赤い江戸文字にガイジンさんも釘付け?
:境内全景。現在の道からは下る形だが元は山。
:富士講のあと(模造富士)。しいて言えばこれが「清水山」?
:ここはさまざまなものが習合されている。これは力石群だが、呪術的要素もあったと言われ、遠目には甲府の丸石道祖神のような異様さをかもし出す。
:社殿前のおきつねさま。おごそかというか、怖いというか。
:本殿右手に並ぶ小さな勧進社のうち、一番先頭(稲荷社側)にあるのが前記のお狸さま。
:ハイ狐と狸、仲良く。




御徒町。町名が変わりましたが御徒町二丁目で通ります。二丁目はまるごと加藤屋敷でした。無残に減った大名屋敷の立花など残る(あたりはもう地主でもないところにも当時の池庭が散在しています)明治初期の陸軍地図だと、上記の話どおりこうなっています。


元の地図が二枚に渡るため縮尺違いすいません。
二筋南に行くと旧御徒町二丁目町会の脇にやはり緑の神輿倉があり、大きく鳥居が描かれびっくり。上に梯子でしか上がれないお稲荷さんがあります。距離もあり町も違うので加藤狐ではないでしょう、このあたりは下谷神社の関係だと思います。八幡神社のも旧御徒町二丁目の神輿だと思われますがこちらはどうだろう。僅かに古い雰囲気が。
※矢場稲荷神社と言う名だそうです。

二見ケ浦近くの塩間(しわい)浦の乾物商人が京都に商売に出たさい、とある稲荷の前で一休みしていたところ、老いた狐が一匹出てきて、大鳥居をあちらこちらに飛び越えた。
商人がおもしろく見ほれていると、その狐、汝も越えよ、と言う。私にはお前のようになれない、と返すとやり方を教える、羽織を脱げという。狐は羽織に長縄をつけ鳥居の上にひっ掛けて、あちらこちらと引っぱってみせた。商人は自分が飛び越えているような気持ちがしてきて、ぼうっとしてきた。
国へ帰り我が家の戸を叩くと、妻子、恐ろしい古狐が来た、中に入れるなという。亭主だ親だと言っても入るなとわめき騒ぐばかり。
自分が狐にされてしまったことにはっと気付いた商人はさめざめと泣き立ち去り以後海辺に住み藻草や魚の鱗などを食べて生活した。のちにこの元人間の狐は人に、我が子をたくさんもうけたが定まった棲み家がないので迷惑をかける、どこかに設けてくれまいかと託した。地元民たちは哀れみ小さなほこらを作って、塩間の稲荷としてまつったという。説話集としての室町期の著聞集をベースとした一連の江戸随筆のひとつで、宗教的説話や教訓を基調としているが怪しげな怪異ニュースをも雑多に盛り込んだ「新著聞集」より。著者は推定されてはいるが不詳とされてきた。

たくぞうす(江戸三寺に数えられる徳川家ゆかりの伝通院の学僧たくぞうすが実は近隣の狐だったということになり祀られたいわば庶民向け流行神の大将みたいな稲荷)の通った蕎麦屋さんの神棚とかお寺とか他にも何度も行ってるので、いつかまとめておく。今はないけど澤蔵司の境内にあったマリア観音祠なんて切支丹屋敷と絡めて考えればかなりミステリアス。とりあえず。

越中蓑谷山の頂上にある蠅池は広さ三百七十間四方で鏡のように満々と水を湛えていた。この池には神蛇が住む。毎年7月15日の夜、容顔美麗な女体が現れ、池の上で一夜遊び楽しむため、人を制し登山を禁ずる。また、この池には椀貸しの伝説がある。この里の農民が豊作の祝に村長古老を饗応しようとしたものの、貧しく宴のための器すらなかった。ある日この池のほとりに行き嘆息して歎くと俄かに池面が波打ち、朱椀など十人前が浮いた。主の同情を得たと喜び厚く礼拝して明後日まで貸してくれるよう頼み、饗応をすますと約束通り返した。村中にうわさが拡がり皆これを真似るようになったが、ことごとく翌朝必要なぶん椀など浮いたという。やがて家具なども借りるようになったが、そのうち一人の老婆、家具を三人ぶん借りてそのまま十日ばかりも返さなかった。しまいには椀を二つばかり失ってそのまま返した。すると池の波はにわかに沸き立ち雷鳴大雨洪水が起きて、老婆は屋敷ごと潰されてしまい、以後祈っても頼んでも二度と家具が出ることはなかった。今は刺刺と薮が繁茂し荒れ果てて、深さは千尋にも及び、常に太陽の光もあたらず、木々の枝が池面すら隠し狐狼の住み処という寂しく何も無いところになってしまった(北国巡杖記)
A:女にとりつきます。医薬も祈祷もききません。これを落とすには、丸裸にして木に縛りつけましょう。大量のネギトロを買ってきて、足先から首元までまんべんなくべっとり塗りつけます。そして飼い犬を連れてきましょう。喜んで全身ペロペロ舐めまわします。女は恐れ震え叫びやがてぐったりします。これで狐は落ちました。早川純夫「珍怪奇 江戸の実話」コンパニオン出版
・・・というか、狐の天敵は犬とも言われますね。博徒の親分が考え出したというのが、いかにも。
蝋燭の寸前、話者の背後でそれは消えた。蝋燭はもう消えなくなった。大変だったのはそれから。私含め何人か、首が腫れ上がり、食い物が喉を通らなくなった。風邪ともつかぬ熱にうかされ便所に向かう途中、暗い座敷が目に入った。唖然とした。そこには天井から、花嫁衣裳の女がぶら下がっていた~狐だ!
のち、狐は稲作の神の眷属で食べ物を司るものであることを知った。手も合わせず不躾に写真だけ撮って回ったから、食べ物を食べられないバチが当たったのだ。そう思った。以来、信仰もないのに狐社だけはどこでも丁寧に手を合わせることにしている。
よし、人の死なない怪談だ。








竹筒(クダ)に入れて飼い、使役する。人に憑くのは「狐憑」と同じ。しかし姿は「甲子夜話(たしか東洋文庫)」図によれば本物の狐と変わらず、大きさが異常に小さいだけのようだが。あとは、イタチに似て毛は少々黒又は赤みがかり、尾は太くて大きいともいう。ネズミくらいの大きさで群れをなすともいう。キツネより小さいこと以外は、話しによってまちまちで、諸々の小動物の総称でもあったようである。ただし、クダキツネの本領はその取り憑く力だ。背景には根深い民間信仰があるらしい。巫女などが飼うがその巫女が死ぬと消える。凡人にはこれを退けることはできない。人糞を食させて殺せるともいう。これを飼う家筋にはしきたりがあり、また財力の増減はこれの現消に依るとも考えられた。
「峰の薬師様の山には、昔から横引きという道があってね。今ではその道の下に立派な県道ができましたが、昔は細い横引き道が、二つの村をつなぐ主要道路だったんです。狐火はその道へよく出たんですね。私が見たのは十六歳のときだから、昭和二年の七月十三日か十四日でした。日まで憶えているのは、お盆の花を買うので、中野町まで行ったからですね。その日は自転車で出掛けて、その帰り道でしたが、そのとき日暮れ間近で、雨も少し降ってきました。坂道を下りながら、ふと薬師様の下の横引き道を見ると、変な明りが一つ点いて、それが見る間に二つ三つと、次第に数が増えてゆくので、”あっ!狐火だ!”と、思ったね。自転車を止めてしばらく様子を見ていると、点々と点いた火がどんどん横に広がって、しまいには何十という火が一線に並んだわけですね。ところがね。それが一度にパッ!と消えてしまうんですよ。するとまた元のように点いて、そんなことを何度も繰り返しましたが、実に不思議に思ったですね」
--高遠町芝平地区の鈴木捨男さんの実に珍しい話がこれです。
「その奇妙な火を見たのは、今から三十五年位前ですから、昭和二十六年頃のことです。自分の家の前には田圃があって、その先は傾斜した土手になっているんですが、その田圃の畦道に狐火が出たんですね。その畦道と自分が立って見ていた所との間は、たった四十メートル位しかないんですよ。
それは火の玉のようではなく、赤い火炎がいくつもボーボーと燃えながら、次から次へと、左から右へ進んで行ったんですよね。それは十分間位続いたと思います。よく見ると、前へ前へと進むうち、後から順に消えてゆきましたね。季節は十一月頃でした。その頃農家の便所は大抵外にあったので、夜便所へ行こうと庭へ出たときだったですね。」(角田義治「自然の怪異 火の玉伝承の七不思議」創樹社刊より)



狐の変名だが、そもそも日本ではキツネ自体様々な伝説を付けられ無数の呼ばれ方をされており、これも調べると微妙に違うらしい。江戸初期くらいには野干をキツネをひとまわり小さくして尾を大きくして木によく登るという書かれ方をしている。仏教に出てくる「ジャッカル」を翻訳したことばを真相としている人もいる。クマグスはジャッカル→シャッカル(仏・露語)→射干→野干と書いている。人肉を食らうとか。
「オサキ狐」
ちょっと意外だったのです、こんかい調べてみて。オサキってコトバから勝手に何かの「先」触れの化け物というか、眷族というかそんなものだと思っていたのですが、尾裂き狐だったとは。九尾のキツネのミニチュア版だったのか。クダと同じ呪術的なイメージを持っていたのに、なんだか夢が無くなりました。
「隠岐島にて」
境港・水木しげるロード、御大の父方は島前の武良の血筋みたいです。同じ名字の人が六甲山でオカルト三昧してUFO呼ぶ確率で有名になって山口さんの事務所に所属したのはやはり血筋?今日も若い人が、狐つきが出て、調べたらイタチだったとか平然としゃべってた。明日なんとかフェリー前までに行く濡れ女系の岩、御大が来てよじ登って岩にじっと触れてたそうな。

「こわい(狐者異)」
「ヨク(短狐)」
「日蓮宗徒の狐使い」
「黒狐」
「蛇窪社の独特狐」
#荏原七福神めぐり #久しぶり #大井の大佛 #明治中期に西大井に来た #烏蒭沙摩明王 #トイレの神様 #ほんとの便所に祀られてる #蛇窪弁天 #個人の信仰から祀られており素朴な白蛇や白狐像が独特
「姫路城の刑部姫は狐」
ミステリアスジャパン 、姫路城 の 妖怪2体。 簡潔な説明 。 お菊井戸 は 中世の物語 で 古い信仰を江戸時代に 芝居にした模様 。 お菊神社にも触れている。 長壁姫 は 天守 最上段 に現れる 妖怪 として知られるが 元々 秀吉 の 初期 姫路城 により移転させられた長壁明神 ヘの信仰の名残。 もう一社移転させられている。 それが物語化して 二人の城主にたたったような話になったそう。 古くは 無視をした 城主。 江戸に入ってからは 宮本武蔵の 偽長壁 明神 退治。 長壁を名乗ったのは 狐でした 。元々 はおそらく当時の若者の 武勇談 だったのでしょう とのこと。 これらを総合すると もともとこの辺りにあった信仰の 景色は作り変えられたとしても 建物に染み入り残る 様を思い描き 伝わっていったのでしょう。
「「京濱伏見稲荷神社」は狐のワンダーランドだった」
富士塚では、ないね。 https://pic.twitter.com/q2m857JMLb

おしり狐 https://pic.twitter.com/CgKLXLCHKN

ドリル狐 https://pic.twitter.com/TINugCMxX8

すっぱいぶどう稲荷 https://pic.twitter.com/MbJdsTaywc

家政婦は見た稲荷 https://pic.twitter.com/NSjOVR9VZ7

病気平癒の御守りをもらってきました。 https://pic.twitter.com/0A1elSbGse

こりゃそうじしないとだめだ。。
なかまがふえました(京都伏見大社のおにんぎょう) https://pic.twitter.com/OshCTsSoyB

京濱伏見稲荷神社でした。駅そば。これは歩いてけるな。戦後に生まれた地元密着伏見稲荷系の大社みたいですが、切り株に大岩が載っていて謂れがきになる(イワクラ的な存在)
「管狐はオコジョの変名」
管狐と言われるオコジョの獰猛さが解る。急所を極めてれば大きさよりスタミナなんだなあ、計算されたウサギ狩り。"Stoat kills rabbit ten times its size - Life | BBC" を YouTube で見る https://youtu.be/HNbqvqf3-14
※クダないしクダキツネは狐同様の使役神として管状の竹筒に「収納」するものと長らく思っていたが、それが単なる形状からのオコジョの別名であると知って振り上げた手が下せないかんじです。
「爪の間から入り込む狐」
脇の下から入り込む、というはなしもある
・霊柩車を見たら親指隠さないと親が××という言い回しの起源と写真
松屋筆記巻二(十八公舎筆記巻之二)
松屋 高田興清文儒稿
二十五 魂門魄戸
同書十五の巻に「魂門魄戸」事問何答或云、
左大指ノ爪ノ本ト爪ト肉トノ間ヲ「魂門」ト云ヒ、
右ノ大指彼處「魄戸」ト云フ、
彼處ヨリ魂魄出入故「怖畏ノ事」有時ニハ余指ヲ以テ大指ヲ握リ彼處ニ隠也
「同書」は冒頭に眞俗雑記問答抄(文応元年十二月上旬、薩州頼順)とある。
松屋筆記を「霊柩車を見たら親指を隠す」の最古の例とするものが多いが、少なくともこの記述は書写である。松屋筆記は日記のように綴られた随筆で、文化十二年以降のものとされる。明治時代の活字本では晩年弘化二年まで続いたことが示唆されている。この文は冒頭近くのため文化年間で間違いないだろう。
親指の爪と肉の間が幽門(魂・魄は死者を構成する二要素)となり、新仏や狐狸の入り込む隙となる話は近世のもので、コレラの流行時に親指を隠す旨記録がある。だが幕末明治初期、写真を撮られると手がでかくなるから隠す風習(実際に手を隠した写真がある)と同根であることを期待して調べたが、そもそも写真が魂を奪うものだとしても、大きくなる意味がわからなかった。
「明治前期、コックリさん大流行」


















伏見稲荷千本鳥居







はい。羽田の大神社。穴守稲荷です。


羽田が米軍に接収されたとき移転、残された鳥居の一つが「壊そうとすると災いがあったので駐車場に残された大鳥居」だったわけです。大鳥居というほどに巨大なのではなく、基礎が頑丈すぎて壊すよりほかない、むしろ羽田の米軍飛行場の象徴として留め置かれたともいわれています。20年近く前に今の場所(この穴守稲荷とは別の運河沿い)まで動かされて何も起きなかった、というオチがつきます。そのころ文献検証などしても、もちろんアメリカの話なので限界はありますが、それらしい「災い」があったという記録はなかったと聞きました。


びっくりしました。















主要な祠はこちらにまとめられている。





幸稲荷がいらっしゃいます。
















ほんと?アメリカ、ラジウム(蛍光塗料)塗布したお狐様を日本に落とし社会不安を煽る作戦。海に落とす作戦は洗い流されるので失敗。そもそも狐をしつけられない。米国での実験はUMA化してそう>The Unsuccessful WWII Plot to Fight the Japanese With Radioactive Foxes https://www.smithsonianmag.com/history/unsuccessful-wwii-plot-fight-japanese-radioactive-foxes-180975932/#.X3lMFGEV7D0.twitter…
posted at 13:16:57
これが戦中戦後の狐火目撃談の正体だったりして