2021/4/13【木乃伊】日本のミイラは即身仏だけではないです【殭屍】東博江戸人、妖怪ミイラ、藤原鎌足、福澤諭吉、藤原三代、江戸人、弥生人ほかエピソード
2021年 04月 13日



子供連れの参拝者が多かった。ちょっと観光化していたが基本無住のままのようだ。牛鬼の系譜に見える。顔だけ奇妙な整形がみられる。虎の皮の腰布をつけていた。ノートには願い事がたくさん書いてあった。石段の下で塩を振って体を清める。遠隔からの車での参拝も多いのはICが近いからだろう。それに車なら、耶馬溪も近い。周辺はちょっとした寺町で鄙びている。東西本願寺別院がミニミニ京都みたいな配置で面白い。幕末に作られた九州最大級の二重式山門の彫刻が素晴らしい。その他、街角に恵比寿さんの石仏が座っていたり。今回いちばん鄙びた町だった。開けてはいるけど。四日市横穴墓群という装飾一基の文化財が寺の裏の崖下にあるのだが、けっこう歩きそうなのでやめた。



中津から耶馬溪は泣きながらタクシー。バスなんて待っていられない。私は翌日の予定のため中津に泊まったが耶馬渓に泊まれるのならそちらをお勧めする。とにかくここでも時間が押して、乗らないつもりのリフトに乗って旧参道をカットするとかいろいろあった。くすんだ絵はがきしか残ってない、焼けてしまった小鬼のミイラは仁王門のあたりにいた鬼を捕らえたものだそう。この写真はゆうめいですね。桃太郎神社にも写真が置いてあるとのこと。

○山ほどある「捏造ミイラ」

























ドレスデン万国衛生博覧会M44出品の侍と遊女?(上臈)と農夫のミイラないし死蝋(一部写真か)が両国武道館の世相博覧会s11にも出品されていた話(名古屋などでも出品されたらしい)
>面白い!だがそれ以上の知的好奇心はそそられないのでぐぐったら勝海舟と親交のあった溝口伊勢守のことだろうなあ。ちょうどいいくらいに情報が無い類の幕末明治の旧旗本。真物とは思えない。
>溝口勝如(渋沢栄一談話にも陸軍奉行として名前が出る)のこととすると時代的に明治末〜昭和初期の衛生博覧会へ遺体が出るのは妥当、ただ丁髷を掴めるとある。溝口伊勢守勝如は新軍方につき明治まで生きてたぽい数百石取りの旗本。丁髷?没年知れずとある。戦死したのか。少し前の直道の方か。→
2020/6補筆、直道でした。
有楽社「グラヒック」1909 1-18
発掘記事と博覧会の話が載っている。ここには深川海福寺より墓地移転の際、溝口伊勢守源直道の白装束の豊満な木乃伊を掘り出したこと、また上臈の木乃伊を掘り出したことも載っている。屍蝋の奇瑞に感じた遺族当主から東京帝大法医学教室に献納され、それがとことん博覧会に出されまくったらしい(割とこの傾向は他の木乃伊でもある)。片山博士は保存液を塗ってはいたが、衣類は虫干しなど現代では考えられないことで、ぼろぼろになったろう。

座棺でなるほど丁髷がある。濃灰色という。

こちらは女郎ではない。徳川家斉の大奥の上臈をつとめ溝口家に嫁いだ山の井という人(天保8年56才で死去)。念入りにしつらえられた棺に収められた衣類なども絢爛たるものだったそうだ。黄褐色の屍蝋化。
〇浅草生まれの鬼のミイラ


○津軽公のミイラ




○藤原三代のミイラ



近藤守重「辺要分界図考」巻之三に樺太アイヌの人工ミイラの話があり、墓の絵もある。間宮林蔵も報告している。「酋長」に対して行われるが妻が出来に責任を負い文字通り命をかける一方、失敗も多く当時既に北樺太のみの習俗に減退。藤原三代ミイラの時代に東北にありその習俗からアイヌ民族であることが疑われたとしてもミイラの形質的にはアイヌ民族ではない。鼠等の被害により中身があまりなくはりぼて状態の今は推測しかできないが、アイヌ同様肛門より傷みやすい腸を抜くなど何らかの手段で人工的に保存された可能性はあるが、甲子夜話の南方製法説はデタラメらしい。また死後いくぶんたって世情がおさまってのち、まとめて保存方法を施されたかもしれない。
アイヌの習俗(酋長のみミイラにし浅く埋め妻は特殊な墓標をたて庶民は火葬)間宮林蔵
参考:神像
「忠衡」の首(四代は首桶のみ)釘打ちなど記録上の処刑の手順をうかがい知ることができる。
○藤原鎌足のミイラ

昭和九年偶然に発見された7世紀末期の阿武山古墳より漆塗の木棺が出土、通例の鏡剣を伴わない金糸に覆われた生々しい遺体が現れた。発見者たちによれば髪や髷、髭に顔の皮膚が残っており頭の下に玉枕が絹に巻かれており、文献上希少な冠が検出されたことから藤原鎌足と推定された。髪などは木の根の可能性を否定できないが下半身には(発掘担当の畑違いの理学教授により手づかみにされ荒らされはしたが)レントゲン写真によっても肉が残っていることが確認でき、現在は皇室関係の御陵として指定される前に4ヶ月で急いで埋め戻されて後、再発掘はあたわず当時の調査資料でしか内部をうかがい知ることはできないが、十分な高精細写真の分析が近年なされている。
〇1800年前の弥生人の脳
倭国大乱の遺跡ではないかと推測された鳥取の青谷上寺地遺跡出土の大量欠損人骨の中に三体、脳の組織が残存しているものが発見された。中国ではさらに古い同様の脳組織が出土しているが本邦では最古の人体軟組織とみられる。非公開だがたまに限定公開される模様。
○茨城の子供のミイラ
北斎の画稿(大英博物館が購入)より。山海経ネタないし故事奇談と中国や琉球台湾朝鮮などのものが目立つ。博物学的版本だったのか、絵物語だったのかわからない。木乃伊又は蜜人、とある情景は当時ミイラに染み付いた没薬を漢方に使ったことによる。
焙烙島に庵を結び、このたび入定いたします(天命を悟ったので手順を踏み深い穴に入り生きたまま往生するという、厳しい方法ではミイラとなることで有名な「修行方法」で中世から結構多かった)と木戸のあちこちに張り紙をして日付を示した。回向の儀式は夥しく物見高い人々を集めた。日付が近づくと江戸中に噂が広がった~入定の穴には抜け穴がある。
馬鹿にしやがって、と誰から言い出したことでもなく当日町中から若者が集まった。そろりそろりと鉦の音に応じて穴の中に僧侶を降ろしていき、下へ着いたとなると回向となって、上から蓋をした。途端、江戸じゅうの若者が群がり蓋を捨てると、逃げないうちに埋め殺せといって土や石を夥しく投げ込むと、土を塚のように盛り上げ、その上に大勢上って踏みつけた。見物人でごった返し、けが人も多く懐の物や履物をなくして命からがら皆帰ったという。
~このての話は同じ話かどうか知りませんが他でも見たと思います。既に伝説化している話のように見えます(入定窟がすでにあやふや)。次が紀伊国屋文左衛門の話なので古いことは古いでしょう。「江戸真砂六十帖」
〇ツタンカーメンとおばあちゃん
スーパープレミアム「探検!ツタンカーメン王墓」再放送録画見。エジプト物は食傷気味だがエンタメ感付加で面白かった。ツタンカーメンがお祖母さんと遊んでもらった思い出を胸に寝てた、、お祖母さんの髪の毛が一房棺の中に、、そのお祖母さんがこのミイラです!という良い意味での酷さ。

死蝋という言葉を最近聞かなくなった。遺体の脂肪分がローソクのような成分に置換され、干からびて白骨化するより先に、真っ白い肉を保ったミイラの感じになる。。。更に稀に[石鹸化]現象にまで行き着く。全身が成分的に石鹸と化したソープウーマンというミイラの名を聞いたことがあるだろうか。米国のムター博物館に標本展示されている古い遺体で、南北戦争頃の上流階級の中年の女性が、贅沢暮らしの結果得たふくよかな体躯に満たされた上質の脂肪分を、埋葬後絶妙の環境のもとで腐敗させることなくそのまま石鹸と置き換え、生前の姿をミイラなりにではあるが保ったまま、現在も眠り続けているのである。珍しい現象ではあるが、ある程度の蝋化はよくあることで、そのあとにどろどろと崩れることなく原型を保っていて、たまたま棺をあけて目撃されたところが、キョンシーだのゾンビだの吸血鬼だのキリスト教の教えに反いた悪魔だの、もしくは逆に神仏に加護された不滅の尊いものと言われるミイラになる。見る人によって評価は別れるが、ほんとに稀な条件下で原型をほぼ保ったままとなる遺体もあるわけで、その皮の下には石鹸が詰まっているかもしれないけれども、とりあえずは、怪しきものと思われて仕方ないだろう。中には人為的に原型を留める張りぼてのようなものもあるようだが。。。
大学構内でヒトが行方不明になった。今は珍しくないが、広大なキャンパスを持つ郊外の学園都市でのこと、森林や茂みのようなものも多く、ただ真冬だっただけに泥酔して帰宅する途中消えた、彼の安否が気遣われていた。
おりしもUFOアブダクションブームのころ、
「うちゅうじんにゆうかいされたんだ」
という偏差値の低いうわさ迄出る始末。
さて学生時代の私は同居人とよく夜中のジョギングをたのしんでいた。
毎回コースが違う。それが面白い。思うが侭に走るから、ときどき迷うことはあっても大抵は家に辿り着ける。
行方不明の話しも、何の解決もせずに風化したころのこと。
その日は普段行かない方角をえらんだ。畑中の知らない道が続き街灯の灯りも心もとない。引き返して大学沿いの大通りが見えて来るとほっとした。その明るい灯を目掛けて走る。
ふと道路脇の草ツ原・・・休耕田の雑草地が、気になった。
そこだけ少し暗い。何か、闇がある。
「なんでだろ、なんか、妙なかんじだ。気持ちが悪い」
「早く行こう」
この日は走りすぎていた。いつもじゃない方向を選んだだけに疲れていた。
吐き気がしてもおかしくない状況だ。
そのまま大通りに出て、家に戻ると一杯やって、寝た。
翌日。
テレビが騒然としていた。
「行方不明の某大生、近所の草叢でミイラ化して発見」
大学のすぐそばの、道路脇の草叢に一冬、誰にも見つからず、
そして
その場所。
・・・昨日通りかかった、あの草叢だった。
稲を植えるため雑草を刈っていた最中にみつかったそうだ。
死因は凍死。
ぞっとした。そりゃそうだ。


谷中から発掘されたんだって!ミイラ化前の写真は撮ってないのかな(記録ビデオに開封時の映像はある)。心臓など残っている。…死者の尊厳のため撮影は遠慮くださいとのこと。てきとう絵ですいません。小さい画像は下の科博のリンク先。上野科博で見れます(昔からあった輸入物のミイラや干し首は由来不明なので撤去されました)。
江戸時代の庶民、とくに農民は意図的に貧乏に封じられていたので食生活も豊かだったのは成功した商家やら限られた人々だったとかききました。
自然ミイラ化(乾燥)とは一定の湿度の保たれた中で体内の脂肪分が石鹸のような長期保存可能な成分と置換され生前の形を保ついわゆる死蝋化遺体が、外気に触れてしまい、肌の湿気が失われたことをいいます。作ったわけではない。
※現在2階に展示:江戸時代のミイラ



- 300号が該当(下の瓶)


湯島の墓地から出た姫様と思われるミイラ。密封を開いたため浸水しすぐ壊滅したという。
研究室に白羽二重を掛けておいたところ右袖外に薄黄色の紋所が見えたそうだ。しかしそれは一度きりで二度と現れなかった、という。この姫様が誰なのかは闇に消えた。自然に消えたのか、身分を明かしたくなかったのか、と記されている。
〇欅の下に眠る老婆を人工ミイラ化
港区大使館内の欅の巨木を整地のため切り倒したところ根方からカメと骨壷が出た。そのカメの中に老婆が発見されたが、頭と腕、下腿は東大が持ち去った。慈恵では残った身体にまだ肉が多くつくことから人工的にミイラ化した。
※保存の意図もあるのか、谷中で出たものも(自然乾燥と伝わるが)ミイラ化されている。現在科学博物館などに残るものも処置されているはずである。





もはや言うまでもない、一晩しかもたない人頭牛身の怪物で、予言をして死ぬ。江戸末から明治大正まで、おそらく仏教説話用の道具化、見世物としてそのミイラと称するものがはやった。予言の部分は同じような寄り来て予言し去る「予言獣」が、それこそ門前に来て疫病除けのお札を売りつける図像として使われており、それは伝統的な行事のような、職業のようなものでもあったから、実証のためのミイラ捏造もあったかもしれない。説話としては畜生道に落ちるなよ、という戒め(脅し)か。都市伝説化したのは図像的なイメージといくつかの小説によるものと思われる。また、実際に顔の潰れる奇形は世界のニュースではひんぱんに流れることで、薬物などなかった時代にも稀に人の顔に見える薄命の奇形が生まれたことはもちろんあっただろう。
河童のミイラ(模造)を捧げて、あとは怪談を待つのみ、というわけです。
〇星を見る少女
学校怪談。毎晩”シラノ”よろしく女子棟3階の窓辺で、いつも星を見上げている少女に恋をする男。或る日いてもたってもいられなくなりその部屋へ向かうが扉を叩いても返事が無く、聞けば住人を最近見かけた者がいない。異常だということになり管理人が鍵を開けると・・・窓縁のカーテンレーンに紐を掛け首をくくった少女のミイラ化死体が・・・これは校内の「一の矢」の森だという説もあった。学生の相次ぐ自殺で図らずも有名になってしまった当時の学校を窺わせる噂だ。
〇乾蟻子

雲南地方には鉱山が多く、落盤で坑夫が生き埋めになると、死体は10年から100年の間そのままでミイラ化する。これをこう呼び、妖異とする。
坑夫が地中に入ると、これらにでくわすことがある、と雲南雑志はつたえる。妖者は喜び、寒くて堪らないからとタバコをねだる。そのあと跪いて、連れて出てくれ、とせがむ。ある炭坑主人が7、8体を連れて出たところ、外気に触れるなり服も体躯も液状化し、腐臭激しく、これにあたった者尽く疫病にかかり死んだ。以後これに会って連れてきてしまったら、欺いて持ち上げる縄を断つことにしたという。坑夫の方が少ないとまとわりつかれて放してくれないが、坑夫のほうが多いならみんなでこれを縛って壁にもたれかけさせ、四面を泥土で封じ固めて土の塚をつくりその上に橙の壷を置けば祟らない。
炭坑で死んだ者の化物は日本にもあるが、日本では幽霊・夢幻の類であるのにたいし、こちらは肉体を持ち、まるでゾンビのようだ。キョンシー(殭屍、朽ちない屍体変ずる妖異の総称)もそうだがリアリストの国ならではである。炭坑掘りの暗黒の伝説は古今幾多にのぼる。
〇地仙
唐の開元年間の流言によると、キョウ人(ミイラ)が地中に有ること一千年、墓が崩れたので復活し、五穀を食せず、水を飲み風を吸うのみ、時人これを称して地仙といった。地下に金玉の積もっている証拠だと言う者もいた。「太平廣記」より。俗に天に昇れぬ仙人のなれの果てともいう。
〇発凶

秦中は地下4.5尺掘っても水脈には達しない(ためにミイラ化する可能性が高い)。鳳翔以西の俗では、人が死んでもすぐにはほうむらず、野ざらしにして遺体が朽ちるのを待ってはじめて葬する。そうしないと「発凶」する、すなわち凶悪な力をはっすると信じられていたのだ。一度”地気”を得ると、消化しきれないまま葬られた体は全身に毛を生じ、人家に入って災いをなす。白いものを白凶、黒いものを黒凶と呼ぶ。
・・・「野人」伝説と「キョウシ」伝説が混合されたものと思われるが、キョウシ(朽ちず何百年もそのままの死体、すなわちミイラ)の体に「毛」が生え人を襲うという話しは広く伝わる。地衣類のしわざだろうか?
〇飛天夜叉

キョウシ(ミイラ)は長い年月を経ると変化し妖物となる。これもその一つで、熊ほどの大きさで夜間に人家の作物を荒らす。全てのキョウシは久しくすればよく飛び、もはや棺の中にはいなくなる。全身に長い毛を垂らし、出入には光がある。「飛天夜叉」はその中でも強力な種族で、雷撃か鉄砲でしか倒せない。福建省の山間の民は、これに出遭うと漁師仲間を呼び集め、木の上に待ち構えて撃つ。直隷安州の某山中でも小児をとって食う空飛ぶキョウシがいた。村人はその穴を掘るが深くて測りようがなく、某道士の方術で鈴を振ってこれをしとめたという。ちなみにかれの話ではキョウシは変じて旱魃となり、さらに変じてコウとなる。
・・・ムリヤリ話しのつじつまをあわせて妖物象を解明あるいは説明しようという御仁は古今東西枚挙に暇がない。この老人もさぞ面白い人物であったことだろう。
<ミイラ展ダイジェスト>
2019/11-2020/2
ミイラ作ったときに使っていいよ
・ねこのミイラの耳と鼻は造り物
・江戸っ子兄弟のミイラは江戸っ子がいかに現代人とかけ離れ、浮世絵に酷似した顔だったかわかる
・本草学者のミイラは上野の博物館所蔵
・南洋の首ミイラは故人の研究家コレクションで水木先生のものではない
・縄文土偶に酷似



