2021/3/20【白髭神社】黒人塚の正体と名前のゆらい
2021年 03月 20日

中国は言わずもがな日本も近世鎖国前は比較的異人種が入ってきておりアフリカ系も少なからずいたと言われている。鎖国後も出島経由で例えば駱駝を連れてくる動物使いもおり、異人種自体が見世物的に庶民の目を集めたが、もっと前では弥助以外にも砲兵として武将に仕えた者もいたという記述があり、弥助が生き残って仕官したという想像もあるが別人で、弥助よりは下の兵として扱われた可能性が高いようだ。

向島の白髭神社に黒人塚という石碑が残っている。塚は墓の意味で使われることもある言葉で銘文が薄く判別しづらいことからかつてアフリカ系人種の墓ではないかと憶測されたが全く異なり、黒人と号した日本人のものであった。


浜辺黒人は本芝の書籍問屋の商人で本名を斯波孟雅、シバの姓。芝浜の頭目であり、当時流行っていた万句合同様、狂歌募集して選を出版する興行を始めたという。応募者は入花料を収める。この塚は歌碑とのこと※。享保から寛政までを生きた。色黒でお歯黒までしていた。昔の本には名前がしばしば出てくる。辞世がこれゆえ誤解を招くこともあるかもしれない:
黒人が黄色の人にならんとて浜辺をすてて川岸へゆく
(顔の黒い自分(黒人)が顔が黄色い人(黄疸の出てる人)になろうとして芝浜(浜辺)を捨てて隅田川岸へ行く、隅田川はシジミが名物で肝臓に良いと知れ渡っていた。飲み過ぎで思いもよらず亡くなった可能性)
※右面にはこう銘がある。歌碑とするには内容が追悼の気配に満ちている。
天やこの人を生み 天やこの人亡る この人千人の玄 崑崙一人に選る倚る、
玄ニ号黒人、
左面はこちら。
うつせみの うつつにしばし すみた川
渡りそはつる ゆめのうきはし、
やはり追悼風。狂歌師にあてるには真面目すぎる。だが、現に「しば」と入っているのは注目点。
河辺宮人と高市黒人が絡んでいる雰囲気w(萬葉集)

向島白髭神社の黒人塚はやっぱり浜辺黒人の供養塔だと思います。芝(斯波)ですから「うつつにしばし」、「黒人が黄色の人にならんとて浜辺をすてて川岸へゆく」を辞世とし、「現身の 現に斯波氏 住みた川 渡りそ果つる夢の浮橋」と送られたのでしょう。
山部赤人
河辺宮人
高市黒人
=
浜辺黒人
萬葉集流行ってるみたいなので
「この人千人の玄、崑崙一人に選る倚る」仙人の黒人は崑崙で一人、今も千首の狂歌の中から選んで居る、というようなかんじだろうか。掛けてる方がようわからん。あんまそそる話でもないのでここまで。
素人すっこんでろと言われたらすっこむくらい興味ないですが、
浜辺黒人辞世「黒人が黄色の人にならんとて浜辺をすてて川岸へゆく」顔の黒い人(自分)が黄疸の浮いた顔の仲間になろうと芝浜を捨てて隅田川へ行きますよと(辞世のつもりも無かったか?)隅田川名物はシジミ。黄疸にきくと知れてました。
ふと神社に供養碑ねえと思った。別当寺は西蔵院(廃絶)、白髭山と。東向島蓮花寺の末寺(直接ではない!)。岩瀬忠震供養碑は百花園あたり近隣からの移設だそう。ソノテかな。
浜辺黒人は山部赤人のパロディーであり高市古人(黒人)も意識しているのかもしれない。山手白人というのもいるから厄介である。
大黒をぬすんで福を得手勝手人の心の浅草の市(当時の迷信)
厚皮な雪踏の裏のかね言も踏違えてはひぞるばかりに(金を鳴らすのが武家の粋だった)
海の景よいとや申す春駒の齒にまだ足らぬわか芝の浦(黒人は肝臓を壊すまで芝の書籍屋をやっていた)
くひたらんうはさもきかず唐大和たつたひとつのもち月の影

