<鹿苑寺まぼろしの金閣寺渡り廊下>
1872年からあったと思われる復元「長虹」(焼失していた1860年代の写真には写っていない)。一階、二階への道を兼ねた渡り廊下をこう呼んだ。拱北楼はこの先の義満が執政したという建物であり渡り廊下のことではない。誤解しているページがあった。金閣寺。
1887-1907の二十年の写真等を調べたところ長虹は見られない。1894年一般有料開放以降は一時的なものを除き無い模様。うーん。
金閣寺は無限に外国土産写真が撮られた被写体なので絵葉書だけでもゴマンとあり追うのはやめてるのですが、この写真はフランスから。下のものも同時期だろう。いつ頃のものか明治初頭焼失再建の2階入口回廊、拱北楼(と茶室)がある。多分20世紀初頭の改修で再び取り除かれたのだろうか。二階にいるのは被写体としての芸者さん他と言われている。
殆ど焼けてない京都の古写真はあんま手が伸びない中で戦後焼失した金閣寺は一応雰囲気随分変わったし細かく変化してるので良いと思いきや、昭和始めはもう戦後とおんなじ、触れるが中にも入れん状態。2020年現在工事中。
金閣寺はかなり弱ってて、下層階のぐるりに屋根支えの柱がやたら立てられるようになります(既に回廊や茶屋はありませんが人が入ってますね、昭和には人は入れませんでしたが建物に触れることが出来、それが最終的に火をつけられる隙となったもよう)。八坂の塔は周囲は変わりましたが地理的には変わらない。明治中期のイギリスの写真集、大正昭和初期頃の絵葉書
足利公はこの形の炭になった(記録は多い)
<金閣寺3層を茶席に???>明治維新後檀家制度の崩壊等で窮地に陥り寺宝や建物放出を余儀なくされるところが多かった時期、観光収入で寺を維持する草分けとなった鹿苑寺(舎利殿「金閣寺」)みな心易く拝観料を払い外国人も勿論女性も本堂に上れた。茶室への渡り廊下が復刻されたことも。三層目も使った?
「南天の床柱」は夕佳亭のもので現存し、この絵(昭和3年)でいうものは別のものか、茶室利用のため移動したのか、あるいは筆者の勘違いかと思う。この角度で池を見るのは夕佳亭も高台上のためありうるし、二層目から三層目に登るのも大変だったはずで、現実的には記憶のミスか。
これはほんとに金閣寺なのか不明。。遠近感がないし流石にボケボケすぎる。形式的には金閣寺だが背後の木が大きすぎる。。左右反転してるかもしれん