2016/4/29【坂本龍馬】お龍さんの晩年と姉妹のお墓の謎ゆるく【近江屋など】
2021年 04月 18日
おりょうさんのお墓参りでした。
信楽寺(墓地整理前は門前にありました) 龍馬の仮位牌に並んで新調された位牌のうしろには晩年の有名な新聞写真がある。
このお寺にお骨がおさめられたのは事実のようですが、坂本龍馬の奥さんだったと認識されて個別にお墓が建てられたのは(のち別のところに嫁いでますが色々あったそうで)大正時代になってからのようです
(20161217横須賀お龍さん晩年住まい・信楽寺再訪)
サムライ幕末大嫌いだけど。海援隊士に嫌われ横浜の料亭に流れ着くもプライドが邪魔し、池田屋より懇意の西村氏と再婚したら酒に溺れ実妹に取られ、転居して亡くなった。のち夫が賛助、妹が建立、墓石は海軍工廠寄贈で坂本龍馬の妻として墓石が立った 2016年5月26日
晩年の複雑な事情は明らかではなく、離婚しないまま実妹と夫が懇意になり、別の退役軍人に引き取られて市街に蟄居した。お骨は何の経緯か一時期住んだ大津の寺に流れてきて、それがだいぶんに時間のかかったあと、軍港のドックから石材を頂き、妹と夫が墓石を立てた。小石の龍馬の顔が塗り潰されてる。いくら後夫が甲斐性なしだったとはいえ当然だろう。
坂本龍馬命日だと。(近江屋跡の写真がなかったので酢屋)
若くして死んでしまった龍馬より、お龍さん姉妹に興味があるのはあるんだけど、べつに誰か調べてるだろうし、行き当たりばったりでいいわなー。寺田屋(復刻再建)→亀山社中(床柱以外再建)→横須賀市大津(信楽寺)→芸西(妹君枝の嫁ぎ一時期滞在した菅野家)2016年12月10日
横須賀・楢崎龍(西村ツル、お龍)晩年生活の地
大津の墓を門前から第一墓地へ移動した際(位牌だけ新造されている親戚墓はパッとしない家ばかりだったがゆえすべて無縁として除けられたと思われるそうだ)、中身は空っぽだったと聞いたが(くわしくは住職さん不在でわからなかった)、龍馬の墓に合葬されたのかなあ。中岡さんも居心地が悪い。近くが葬祭場になっており、親切に中へ案内していただいたが、なぜか地元の方の作った資料がある一角は閉鎖されていました(いいけど)。生涯史が書いてあり、他の記録と違って面白い。お龍さんの晩年独り住んだ連棟長屋(会館奥脇の短い路地左向かい)、亡くなった場所。横須賀は賑やかで広くて、でも中央からすこし外れるかな。米が浜。2016年12月17日
坂本龍馬墓(京都)
横須賀でトンビがカラスといっしょにゴミ漁ってて、地面をピョンピョンはねる姿は猛禽類にはみえなかった(スマホしかなかったのでこんな写真しかない) 2016年12月10日
龍馬にも幕末にも興味ない(戦国だの物騒な日本史自体興味ない)けど、どこの町も何か歴史に結びつけて観光資源化しようとしてる昨今、どこを歩いても史跡にぶつかるから、自然とこんな写真が貯まるんだよなあ、、
お龍妹君枝(もう一人います)のお墓とか。天現寺から麻布十番まで歩いてしまった寒い。
お二人とも没後しばらくは墓碑を建てなかったみたいですね。足尾銅山などで有名な古河財閥の墓域でかい。光林禅寺(光林寺)、立派なお寺です。明治時代の新興大墓が多いような。見事な障壁彫刻のある、でも墓じまいしたらしい墓域もありました。たしか樹木希林さんの葬儀も・・・
旗本大名家の墓所も比較的小さいながら点在しますが、幕末に江戸入府禁止の西欧人の仮墓地として土葬を引き受けた唯一の名残、ヒュースケンの和洋折衷墓石。最近はよく人が参るようですとお墓のお手入れをなさっている方が。刺された中ノ橋まで足を伸ばした。斜め前に同じ通詞となったが嫌われ斬殺されたボーイ伝吉の両面墓。ヒュースケンは遺体写真まで残され、当時は他の西洋人同様に好色ぶりから紅毛久助と嫌われた一方、仕事は評価する人もいます。ボーイ伝吉も同様。ネットに有名な善福寺をヒュースケン埋葬場所とする記述がありますが明治以来ここが墓です。