三田村玄竜(鳶魚)「大名生活の内秘」は国会図書館デジタルにある。四谷大杉町全勝寺の書籍姫(本姫)の簡単に読める唯一の参考書で、webにはこちらを中心に調べた方のページも2つある(笠間まで実査されているが関連墓含め成果なしの模様)。関東大震災前既に民話化しており文献上の根拠も定かでない。図書館で地域資料も調べたが無い。牧野備後守関連の姫というのは確定だがその名があらわれる下世話な話として
牧野備後守成貞が犬公方綱吉に妻を「献上」して切腹し大名に格上げになった
ことは有名だそうだが知らない。
・・・書籍姫こと本姫様の伝説とは一切経を二度通読するほど読書家の姫が没して、一切経含む蔵書を寺に寄贈した。遺言に従い遺体の上に経蔵を作り三面に一切経や教書、書籍が並べられ自由に貸し出しされた。但し返すときはもう一冊加えなければならない。期限内に返却しないと夜な夜な本姫が現れて返却を促す、という。また夜になると経蔵の中、失われてからは墓に耳をつけると経を読む声が聞こえたという。
現在礎石が残るというが恐らく石碑のものと思われる(関東大震災で破壊)。経蔵はかなり早くに失われた。一切蔵経は本山に上納されたという。経蔵を建てた者は大奥の説教会で全勝寺九世泉長師に帰依し、後生を任せた。綱吉の妾であった。昭和初期当時の石碑は大小が別にあった。小さいほうは玉心院殿葬所とある。大きいほうは建碑の銘文がある。
・・・碑文は東京名所図会にも写されているので間違いはない。ただこれを刻んだ全勝寺の僧侶の考えは別に考慮しておく必要がある。綱吉に妻を奪われた笠間公を意識したあまり普通ではない文字を含んだ漢文である、という。まず、経蔵建立時に「玉心院殿」墓を西へ移したとある。位牌より1687年21で亡くなった長女松子のことであると知れる。経蔵は1691年建築。四年で墓の移動があった(東京名所図会には二碑は並んでいるとある)。施主は「成貞婦人某」と碑文にある。某としたのは笠間公と離縁しないまま徳川綱吉の大奥にいたからか。正式には本所弥勒寺に墓があるという。建立者は笠間公の元妻君(正式な室ではないので徳川でもない)、「牧野備後守成貞が犬公方綱吉に妻を「献上」」のその妻とわかる。
そしてこの阿久里は元禄四年に没してはいない。七十を超えるまで生きた。後生を頼んだわけではないのだ。大奥の説教のためではなく全勝寺石碑を刻んだ僧に勧められて二年前没し葬られた次女安子のため経蔵を建てたのだろうという。笠間公はのち寺も建てた。経蔵の主、本姫はタイミング的には「安子」なのだ。笠間公のそもそもより桂昌院が全ての裏にいたという推測もある。いずれにせよ公は実際自刃もしてないようだ。大名にはなっているし、綱吉の狼藉は続いた。既に嫁いでいた安に手を付け再び大奥に連れ去ったため嫁ぎ先が切腹、ゆえに系図に死因が明記されていないというところは累式の因果で芝居がかっている。
恐らく唯一の根拠である寺伝では本姫様は「常子」とされているようだ(東京名所図会、明治中期)。笠間公の系図には無い。大奥行き前に三女子もうけてのち、懐胎を禁じられたという。女子を養子にとることもなかろう。これは単に名前を隠して伝えたということと思われる。門前堂の尼僧座像は三田村調査に位牌と共にあるとされた玉心院殿(松子)と思われる。松子説をとる他の資料もある。安子も松子も20歳を越え亡くなっており仏法に明るかったとしても不思議はないが、全勝寺としては座像も立派な位牌もある姉のほうが本姫にふさわしく思われよう。本姫の姉は新宿天龍寺大戸氏墓にいるという話もあるが別の子は系図にはないので深追いしない。
【追記】高木文「好書雑載」s8は日本の文庫(ふみぐら)史をまとめているが、この玉心院を江戸前期の大名文庫のあとに位置付け写真も載せている。やはり松子説が正しいらしい。
関東大震災後の写真だが、前掲のものと異なる。広さからこちらが正しく、よく見ると墓碑も2つある。
本文に本姫の変容伝承もちゃんと載っていた。
・・・江戸時代の奇怪な常識や近代社会ととても相容れないインモラルな行動の例外は考慮にいれておくにしても、ほぼこれだけの情報ではよくわからない。せめて墓所跡さえわかれば夜にこそっと床に耳をつけ、今も経を読む声が漏れ聞こえるかどうかで、本姫が不遇でも長生きした大奥の女人か別人か、確かめようがある。
(過去記事2018から)書籍姫の墓のあった全勝寺(四谷)墓は関東大震災で地方移転(現存せず)、台石はそのままらしい(どこかはわからない)。
書籍姫と書いてホンヒメと読むように「東京名所図会」にある。全勝寺の境内は既に狭められ参道(今の大通りからの下り坂)の松も伐採されたと。常子という名は綱吉に取られる前の牧野氏の系図に無いといい、将軍絡みの話だから名を偽った等の話がある。新宿歴史博物館の資料は松子を該当の者としている。三田村鳶魚は悲惨な話も書いている。
三田村鳶魚は「本姫」としるし江戸前期、今も正体不明の大名の娘(妻)が一切経蔵を二度通読し没後墓の上に経蔵を建てさせ、そこに後年本山に返すまで一切経が収められ、いつからか本も置くようになり借りた者は一冊増やして置く風習が生まれた。声は読経だ。墓地になぜか樹叢があり、ここかも?
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