〜江ノ島岩槻藩卯之介力石(三ノ宮卯之助)
〜江ノ島にもある亀甲石(太山寺、愛媛)。江ノ島にはあまりはっきりした話は残ってないようですが、こちらは「亀の石」として投げて力比べをした、とあります。
〜鯰絵(江戸東京の大地震は地下の大鯰が引き起こすとして、鹿島神宮の要石で頭を押さえられた大鯰がそれを持ち上げたから地震が起きたという「力持ち芸」に見立てたもの)
香取神宮にもある
〜戯画「竜宮遊さかなげいづくし」部分、国芳(鯛やヒラメの舞い踊りを大道芸に見立てて、クジラの背の上に水生生物による大道芸の数々を紹介している)イシモチの力もち
亀の酒樽の曲持ち
力持ち芸は日本の大道芸のひとつで、俵を持ち上げる形から「力石」を持ち上げる形になっていったのだろう。型は決まっておりこの手の絵では右手で差し上げる。
渡辺崋山「喜太郎絵本」より。力石は地面に置かれている。渡辺崋山は他にも力持ちを描いているが、これも右手で俵を持ち上げた型。こういうものは特定個人や興行を描いたものが多い。宣伝も瓦版的なものもある。
〜さまざまな瓦版
〜幕末風刺画、又野五郎(一橋の着物柄(茂徳が入る前だろう)、講武所の鐶の入った袂:幕府軍)が足芸をし真田与一(尾張の二股大根(徳川慶勝))が酒食中の侍に口上をのべる。持ち上げた石には八百貫とあるが、京屋金是持ともあり、わりよくある京屋という店のなかには金融をになうものもあったことから、八百貫文(大した額ではない)は京屋が持っています、ということなのか。
〜開化後の戯画
〜墺國ウヲジアー大曲馬「日本足芸」錦絵
〜浅草奥山フランス曲技団内の伝統的な足技
今は中国雑技団で有名な足技ですが、江戸時代には仰臥の姿勢になった力持ちが樽を足先で回したり大きな物や重い物を支えたりする男の見世物芸でした。
〜幕末頃の瓦版、さまざまな足技に力持ち業が図示されている。前掲のとおり同様のもの多数。
〜深川では伝統的な力持ち芸を伝えるべく活動が続けられています。いろいろな型があります。船を載せたこれは特に派手なもの。
幕末の伝説的な力持ち三ノ宮卯之助も芸としては足技を行っています。三ノ宮卯之助はブランドとなり当時流行った力持ち比べの力石には三ノ宮卯之助と刻のあるものがあります。日本堤沿いで首尾を願う稲荷として著名だった合力稲荷は現在山谷堀跡の横にひっそりとありますが、境内に力石にしては大きな石があり、「三ノ宮卯之助足待(持)石」とあります。近年説明板も取り付けられていますので興味があればどうぞ。浅草にしては遠いので吉原か隅田川沿いのどこかで足持ちを披露したのでしょうか。
撮影用に屋外で撮った写真と思われます。明治10-20年代浅草奥山と記載。足の上に数十貫の石を重ね、樽の中で少女が曲芸をする。このような見栄えを重視した疑わしいものはごく普通の出し物です。
伊藤晴雨は時代考証家として大道芸や見世物についての筆記も行っています。中には創作めいた絵もありますが、こちらは安政2年両国回向院境内に岩松というものが出て、両足で大船を支える力技で大評判になったときのもの。気を良くして吉原へ繰り出し一夜大尽をきめ、翌日桟敷は大入り札止めとなりました。仰向けになった岩松へ向かい太綱で吊られた大船が天井から下りてきます。挙げた両足に船底が着き、ずしりと重みが加わりますとハッ、という気合をかけ、持ち上げて浮かせる「芸」を見せようとしたところ綱を持つ者と息が合わず、全重量を身に受けてペシャリと絶命した。伊藤晴雨が国芳の弟子新井芳宗より聞いた話といいます。船はだいぶ小さくなって後世の芸に残っています。
大道芸とは別に江戸後期より戦前まで各町村にて、若者が大石を持ち上げる・投げる儀式ないしスポーツが流行り、持ち上げた者の名前と重さ、和暦を刻むものが本州のいたるところに多く分布しています。もともとは石占の一種だったという人もいます。時にお祭りとして寺社の境内で行われ、方法は肩より上に持ち上げる(差し上げる=「さし石」「差石」)という基本のほか持ったまま神域を動く、ヒモを使ってより大きな長石を持ち上げるといった例があります。力持ちの象徴ですので健康を祈願して子供に触らせてあやかる、沖縄に今もありますが持ち上げて落として音で厄を払ったり雨乞いをする、恐らく古い形として占いに使用するというところが主たる「効能」です。装飾性がないので人目を惹きにくいですが、遠野のさすらい地蔵のように、既存の石彫を若者の力自慢に使ったり、白金の達磨の彫刻しなおされたと思われる珍しいもの(刻銘には市ヶ谷)もあります。
楕円石系は江戸では深川八幡、牛嶋神社、雑司ヶ谷鬼子母神の大量のものが印象的ですが、十個程度は江戸から大正時代に栄えた社ならどこでもあります。文字刻に朱や白を入れるもの、さらに後年に刻みなおしたらしき新しげなもの、モニュメントに固めたもの、さまざまです。案外明治以降のものが多いです。
このタイプの長い巨大な力石がいつどうやって持ち上げられたかについて、雪ヶ谷八幡の説明から板橋区有形民俗文化財の明治大正期と思われる板絵(絵馬)に行き着きネットで提供されている画像を抜粋。横に穴があるものは腰に縄を回した模様。まんま丸いものは肩に手で持ち上げるか足で持ち上げる等と。
(板絵着色力石持上図、杉並区田端神社蔵 近代)
同じく細長い大石の例苅宿の新幹線高架脇に八幡宮があって(八幡宮は古くから頭に何もつけずまんま八幡宮と呼ばれるとこも多い)新幹線を通すために移転新築と。鳥居脇に細長い力石が2つ横たわって深い深い鉢状穴が穿たれて特異。さらに大きな天保年間の力石?が半分埋まっていて、薄く文字が見える。穴を穿つのは道しるべが多いが、削った砂を持ち帰って何かしら使った可能性もある。こういう例は少なくない。力石の霊性を認めたともいえるか?力持ちにあやかり子供の健康のため持ち帰って煎じて飲ませる、といったことだろうか。それにしては穴の数が少ないか。
〜新田神社の新田義興荒塚脇の力石。向かって右から二番目の石が顕著に穿たれている。
今でも「さし石(差石)」と呼ぶところもありますが、さし上げるという語意があるかないかだけです。
「さす」は差すで掲げ持つ意味。上まで持ち上げる。力石をさし石(差石)と呼ぶのはちょっと古い言い方だそうだが「さし石」と刻まれる石もある。→石浜神社にある「さし石」と刻まれた石。大正十年の刻銘の石もあるので時代は下る。力石ではなくさし石と呼んでいる神社も普通にありました。
深川八幡
力持碑と力石(さし石)ここにある力石はみなさし石と刻まれ、左のものは頂部の古い物を除き雑司が谷鬼子母神から移されたとある(未だ池袋の鬼子母神に放置されている力石は多い)。ほとんどが大正以降のもので、江戸伝来ではない。詳しく知らないがこうまとめられたのは何か祭りか興行的なものだろうか。
ちなみに雑司ヶ谷鬼子母神は文政年間を中心とした江戸時代の立派なものが見られる。市ヶ谷八幡宮寛政年間の古い力石がある。戸越八幡
さし石という表記とご利益的な話がある。一部細長い石に穴が見える。
葛飾八幡宮の力石。肩に持ち上げて社殿を一周して競ったという。昔、というのは多分戦前くらいじゃないかと思うけど、やり方が明示されてるのはめずらしい。
品川海運寺の力石(刻銘は後年)力石を持ち上げた様子が立札に書かれている。海浜の力比べの情緒。音に注目されている。
同じく品川の磐井神社。境内縮小・整理されているので位置は元とは違う。左は60貫とあるが200kg?