【圓朝怪談】鏡ヶ池操松影の浅草寺寝釈迦てんまつ

〜下総国香取郡大貫村の田舎医者倉岡元庵の娘お里が、鬼も十七、番茶も出端で、村の名主源右衛門の倅源太郎の恋嫁といふので、支度金五十両を請取る。父親のないお里は老母の喜びに他愛もなく、うかうかと江戸へ来まして、母と娘は婚礼を急がれるままに、芝日蔭町の四間間口に袖蔵さへある古著店江嶋屋治右衛門方で、嫁入衣裳に古著はいけませんから、仕入物でも新しいのを、かれこれ見繕つて、金四十二両の買物をする。天保三年十月三日は婚礼の当日で、花嫁のお里は文金の高髷、地赤の縫模様、大和錦の帯に白い掻取、名主の家まで三町半ばかりですが、田田舎の慣例で、赤青萌黄の三枚蒲団に化粧鞍を置いた農馬に乗る。これが乗掛といふのです。花嫁は乗出した半分道、僅か一町半ばかり往きますと、変り易い秋の天気は忽ちに降り出しました。雨具の用意はありませんから、近辺で借りた手傘で、横降りのする中を、ずぶ濡れの花嫁を名主どんの玄関へ送り込みました。

三々九度の御盃を済みますと、この地方の習ひとあつて、花嫁が給仕をして村中の人達に食事をさせる時になりました。塗盆を持つたお里は、座敷に居並んだ大勢の間を、右往左往に周旋します。村の若い人々は恍惚として、この掻取姿の花嫁を眺めずには居られません。嫁ツ子、おらア方へもと叫んで牛太君が茶碗を出せば、おらアにもと田吾作もいふ。お里はハイと答へて起たうとした機会に、誰か著物を踏んで居つた。それを知らずにスクリと立つと、掻取と共に間著まで、帯から下が剥げ落ちて、花嫁の半身は湯巻だけになったのです。座上の誰彼は思はずワッと笑ひを揚げましたので、お里は顧みて自分の姿に仰天し、エエ情けない、とその場へ身を投げたやうに泣き倒れる。源右衛門は名主の権威に拘ると大立腹です。

仕入の衣裳には贋物といひまして、いろいろな罪悪が行はれ、奸商は勝手を知らぬ田舎客を見かけて、冒葉巧みに売付けます。お里の買つて来た嫁入著物も、例の贋物であつたので、一針も使つてない、糊付けの代物でありましたから、乗掛の上で俄雨に濡れたところを、大の男に袖を踏まれて落したのです。源右衛門は、俺に恥を振かせたのは、萬事を取はからつた村年寄の権右衛門だ、五十両といふ大金を出した支度が、雨に濡れれば切れるやうな物とは怪しからん、サア五十両返せ、詐欺するつもりだつたのだらう、と怒鳴り散すおめでたいなどはどこかへ飛んで往つてしまつて、果もない一家の混乱に、座上はただゴタゴタして居ります間に、花嫁のお里が見えなくなりました。お里がゐない、嫁が見えない、とまた騒ぎ出しました。
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〜藤ケ谷新田の十三塚、芝居の筋はもう少し複雑で、江嶋屋番頭逗留の家がお里の母親、婚礼衣装に火を付け呪いをかけているのを見る(鏡ヶ池での仇討ちまでが流れ)

お里は混乱に紛れて名主の家の台所口から脱出しまして、裸足で田園道を走り、人目にもかからず、一里余りの神崎土手の上に立ちました。雨は益々降りしきる。下を流れる急湍は名に負ふ坂東太郎、水嵩が増して川の瀬音も凄まじい。お里は身を躍らせて、逆巻く流れに飛込んでしまひました。ここから銚子へ落す水勢は激しく、お里の死骸さへ上りませんでしたが、息を切つて逐つて来た権右喬門が、神崎土手の柳の枝に嫁入著物の片袖が引掛けてあつたのを見付けて持ち返り、お里の最期を涙片手に話したといひます。それから江嶋屋に怪しい事が続きました。番頭の金兵衛が上総へ得意廻りに出て、図らず神崎土手の身投げ一件を聞き出し、主人の治右衛門に告げましたので、浅草寺内へ寝釈迦堂を建立した。敵討や泥坊は寝釈迦堂に闘係がありませんから失敬して、この怪談めかしい江嶋屋の建立した建物を探して見ませう。
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蓮雲女史の歌碑
寝釈迦といふのは涅槃像のことで、ここのは鋳銅で長さが六尺四寸五分、台石に蔦の紋が付いてゐて、觀室了音信士俗名萩原長右衛門と施主の名前が彫つてあります。元藤十丁丑歳四月二十九日とあるのは製作の日附でせう。正面の位牌にも觀室了音普信士、武州江戸富澤町俗名關岡長右衛門とありまして、蔦の紋がついてみる。關岡長右衛門は柳屋の代々名で、隅田川で觴(盃)流しをやらうとした馬鹿息子鯉三郎の家です。本郷本富士町二番地の書店齋藤英一郎といふ人の母は、富澤町の關岡から来たので、そこの話では關岡は維新前に破産したが、営業だけは關岡の暖廉で番頭が継続したとかいふことです。柳屋が涅槃像を寄附したのは浅草寺だけでなく、駒込の焙烙地蔵と越後の某寺と都合三体だといつて居ります。
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鯉三郎の親父の野洲良は、八王子の小門といふところの金持梅原某の末子で、柳屋へ婿に来た者ですが、萩原といふ昔字を關岡と改めたのも、野洲良の先代からだといひます。富澤町の古著商柳屋は随分古い家らしいですが、たちのよくない家で、贋物を売つて金持になつたのです。富裕になつて見ると、今更のやうに奸商であつたことが苦痛なわけでありまして、現在の煩悶が遠い過去の罪悪に根ざすのを見れば、解決の方法も眼前には得られません。詮方尽きて混繋像の寄附もしたのですが、それでも気が済まぬので、苗字も変更し、商売も古著をやめて能装束と出かけたのです。

八王子の故老の伝説は、僅かに後悔して過去を苦にした柳屋を語るのみで、怪談に至つては全く話されて居りません。もし怪談があつたとしても、古著の東北廻しが始まつたのは元禄のことで、圓朝の話すやうなナマ新しい天保の椿事ではないのです。「鐘ヶ池繰松影」では大いに忌避して、日蔭町の江嶋屋が物を買ったことにしてありますけれども、寝釈迦堂を建立したといふので、關岡の話なのが知れます。現に本富士町の齋藤英一郎さんも、柳屋のことを資料にしたのだと云つて居ります。とにかく奸商柳屋に幽霊話が附されたのは無理もありますまい。過去の悪事が祟つて現在の悩みになつたのですから、焼酎火や薄ドロがなくても怪談らしい。怪談の産物が寝釈迦堂なのか、寝釈迦堂の産物が怪談なのか、いづれにしてもその怪談と並んで迷信の人丸堂があります。認草寺の面白さはかういふところにありませう。
〜江戸の史蹟、三田村鳶魚

寝釈迦堂は関東大震災で無くなり寝釈迦は写真のように本堂から仁王門にしまい込まれた。仁王門は戦争で焼けている。今はどうなっているかわからない。

2021/1/19

by r_o_k | 2021-03-18 22:42 | 不思議 | Comments(0)