個人的に心乱された週末週はじめの記録2017/4/13-4/16のツイッターまとめ(壊れたので再度編集)※Twitterは制約が多い場です。流れて消えてしまう場です。コメントなど、できればブログのほうにしていただけると、ユックリ反応ができます。ほんわかします。するのです。お願いします。
そういや最近、納経して御朱印もらう人見かけないな。そういうもんだと思ってやらなかったんだが、今やどこでも待ち行列、人気寺ではアルバイトさんらしき人が書いてる。
今じゃ古めかしく堅苦しい言い方でも、当時は進歩的な最先端の言い方だったりするので、仰々しいとか直感的に思うのもだめだなあ。
身内の話を切り売りする気にはなれんなあ。ましてひどいことを。「この世界の片隅に」アニメ、爾来戦前戦中戦後を語るのが変なブームになっていて、穿った見方をすれば身内の戦争体験をまるで「手札」のように使ってバズることが目的のような、このツイッターの世界の片隅に思う。
執着とは病気である。比喩ではない。周囲が止めなければならない。
ここ数日の恐怖はネットで人気版画買うこと。古くから沼なので知識なしに手を出してはいけない領域だが、最近中国からの購買が増えているようで、そこにヤフオクを通して偽物(後世の刷り等)を半端に安く売った形跡を見つける。売り主が責任回避文をつけているのはそういう経緯の上でのことと思う。後刷り(刷りミスも含めてのデッサン直し、刷りの改善、汚れなど一切なく新しい、平坦で迫力がない、手書き文字が活字になってる等)はネットの画像ではわからん。安治の東京真画は元が安く大量に種類があるのでそもそも難しい。師匠の簡略丸写しが六割、ダリ式に名前だけ清親と入れ替えてるものが多い。自分の手元のものなんてほとんど清親コピーだと思う(わかってて手軽で安いから買っただけ)。刷る色違いがあるので自身のものでも別物に見えるやつがあるのだからほんとややこしい。また清親とは少し「変えた」劣化描き直し版も出している。梅若神社なんて師匠は特殊な技法で雨を描き、個人的には凝り方が元の情景を損ねて好きではないのだが、それを模写した安治は安っぽい感じはありながら普通に描いているので、雨の暗い雰囲気がまんま出ている(ブログに載せてます)。ややこしい。さてこれは清親。ほんとはもっと赤が出ているのだが劣化してしまった(水をかぶったか擦ってしまったか、恐らくもともと薄かったものが退色したように思われる)。写真対照、九段坂上の高燈籠(今は移動してる) https://pic.twitter.com/sF77mMd0OO
※色の退化していないものを手に入れた。全体的に状態が悪く、それを直すためだろう、一部隅の塗り重ねを含め黒ずんで、前もって聞かされていたより傷や補修痕も多いので一長一短だが、赤の入ったものがオリジナルに近いため、こちらのほうが光線画らしい極端なコントラストは感じ取れる。スキャンではわかりにくいが、灯明台の木造部の色が前者はかなり赤い。後者はドーム部に緑色を重ね緑青を表現しているようにも見える。単に前者は塗り重ねた色を失っただけかもしれない、後者の彩色のほうが多いように思う(後者の灯明台の金属棒の上が欠損し(摺りが上のほうにずれているため縦棒がもとから枠外に切れているが)わずかに補修痕があり、だが黒ずんでもともと曖昧のようだから、摺りが甘いようにも見える)。決定的な違いは雲の形で、刷るときにややずれただけにも見えるが、基本的にはかなり異なる。時期(摺り)の差はわからない。色の付け方が手が込んでいるぶん後のほうが古いか。坂下の街の灯りはこちらのほうがハッキリ多い。
広重二代(三代)。
(下はワーグマンコレクション(オランダ→長崎大学蔵)より、古い柵)
清親は主観に景色を合わせるけど、安治は正確に書くのでこの九段坂上も安治のがあってる。構図は同じで人物・人力車をシルエットでかなり減らし、清親の味を消している(人力車は無人だが画面配置が同じで、構図だけ真似したとも言い難い)。清親が灯篭の高さを誇張し暗闇にまぎれた上部構造は色を赤っぽく変え明かりを表現してはいるが、省略したり位置を少しずらしているのは写真や現物を見ればわかる(位置は現存しない登攀台とのバランスで当時少しずらしていたのかもしれないが)。一番違うのは灯明台の下の石積みを小粒に省略していることで、安治はしっかり描いている。ちなみに柵の大きさを見ると灯籠だけを囲っている清親の方が古く、安治は偕行社側全面覆っている。この差は時期の違う写真で確認できる。個人的に清親が古い風景を後で起こしただけで時期は安治とあまり変わらないのではと思う(別項参照)。
実物がこちら
※今は逆側(北の丸公園、武道館側)に移築され登攀台を外されて保存されている。清親がかなり上部を省略してるのはわかります。角度の問題で低く見えますが
結構高いです。この灯台、明治初期のもので日本人による初期写真にもすでに被写体として出てきます。
灯籠築造当初の明治六年の写真。用いた石の残骸が下に積み上げられている。柵は灯籠のみ囲っている。
同時期。「灯明台」という名称で「ザ・ファー・イースト」掲載の写真。
「東京そのむかし」より
陸軍偕行社の立派な建物が出来た頃(現存せず)。
絵について。この手前の靖国前の馬場風景では安治は清親を完全模写し、結果、小型ということもあってか劣化している。安治の、画題が小さい活字のはまず手抜き作か作風の確立期以降とでもいうのか。色がどぎつく絵が簡単で、後刷りかもしれないがこのへんは沼の住民の方々の領域だろう。堀切も簡略模写なんだけど、これらは銘もなく別人の作のような気もしてきた。
九段坂に鉄路が通された写真。右に当時から独特の造り(石を積み上げて高くした)といわれた前記の燈明台が見えます。手前林中が偕行社。お堀際を掘り下げて通していたのです。今は地下鉄が通ってますが。
九段坂下から往時の繁華な様子。もともと登城の武家を含め人通りの多い大きな坂道で栄えていましたが、靖国神社となってからお祭りではことに盛り上がり下世話な見世物も出たそうです。
牛ヶ淵と九段坂、幕末
九段坂上から花火、広重二世
一景(右上は花火)
当時話題になったカラクリろくろ首のブロマイド。こういう写真が路傍で売られていた、そういう雰囲気だったと。
カラクリ斬首写真。以上「東京そのむかし」より
九段坂上のワインの宣伝。明治26年「東京景色写真版」(同様の写真は総てこちらから)
こんなことも。同上
まだ靖国神社前は大村益次郎(もともと騎馬像)と鳥居だけの大広間でした。大名屋敷の馬場があったため今の広大な参道があるようなもので、馬場写真も残されていますが気が遠くなるような広大なものです。今は建物や舗装道路や木々があるからわからないだけで(わかるか)、えらく広いんですね。脇の麹町公園(現存せず、今の神苑か)は奇麗で味があると評された。でも、靖国神社自体が最初は社格を持たない招魂社だった(神社として改称のちもしばしば招魂社と呼ばれた)こともあるのか、今より庶民的で、偕行社の敷地もそうだったというようなことを読みましたが、子供も遊べるほどの園地をあわせもってました。社殿向かって右奥に奉納相撲の場は広く現存します。靖国神社は境内整備の変遷がありますが、旧社殿のころは内苑(内陣外の向かって左)に西洋式噴水があり評判となります。安治はこのような記録写真のような絵を残しています。 https://pic.twitter.com/C9ugrAjqZj
(参考)最初期
※京都東山招魂社(慶應4年)こちらを東京招魂社として移したという記述も見られる(正史には含まれないので憶測か)。現、霊山護国神社
(福羽美静が幕末京都で邸内社として津和野藩士らを秘祀した祠を維新後東京へ移し、昭和初期に遺族により靖国神社へおさめられたものが「最も古い招魂社」としての元宮らしい(異説もある模様)。ごく小さな社。現在は警備上からか立ち寄りができなくなっており、正式な末社説明からも除かれている模様。遥拝可能)
招魂社時代(明治6-7年)〜「明治の東京写真」
「東京そのむかし」
内陣より外は当初は馬場。つまりほんと、なんにもない感じです。
明治26年にはだいぶ整備されています(前掲書)銅造鳥居奉納前後くらいか。洋式燈籠2基は鳥居内側(神門内)に移されて現存。
もともと大名屋敷附の馬場がありましたが日本初の競馬場となりました(外国人居留地(根岸など)を含めると初かどうかわかりません)。
「ファー・イースト」掲載(建立当初頃)
銅造鳥居に交換された姿は長く人々の印象に残り、記録されました。このころには参道や九段坂上の整備が行われ現在の靖国神社の敷地が整えられていきます。
本殿改築のあとは省略。遊就館近辺も園地のようになってたようです。今の姿はより軍事的な展示施設が共に出来たあと、戦争の時代に形づくられたものです。現状は「とうきょう魂やすめ」なる13年前の記事参照。
入口の石灯籠も当初は無かった。
現物を見てない(開通前に描いたとも推定されている)絵の他の例
ペリー献上の汽車、これが原案と思われる(原典Wikipedia)
まじで日本のヒエラルキーってああいうのがまかり通る形で維持されてるので、というかまさかバブル崩壊後30年近くたってまだそれなのは「世代交代しない、偉くなったら体質が承継される」腸が煮えくり返る思いなんだが、ほんと日々実感してますわrt事務次官のセクハラ&態度
風景好きからすると二代のほうが実景に近く想像しやすいから良い絵に見えるんだなあ。rt広重亀戸梅屋敷臥龍梅比較
あんまりにも限界が来ないので忘れてたがSanDiskのmicroSD400GB、カメラや表示に不具合を生じた使用初期からすると安定してきて書き込み速度も遅いながら許容範囲です。
まんがなんて直感的影響力の強い手段は扱いにも読む方にもリテラシが必要になるので、こどもに見せるまんがとして何のチェックも通ってないネットのものを与えるのは反対。レイシストの強烈な一枚を見せていいわけがない。ひどいのは規制すべき派。酷い内容のまんが描いたら罰金取る、江戸時代的刑罰ではどうか。
難しいこと考えてると禿げるので、フサフサの人は何にも考えてないのだ。ぜったいそうだ。
捨て垢は重罪に処すべきである。フォローフォロワー一桁、プロフなしは見つかり次第他人にコメントできない刑に処す。
自分のツイートについたクソコメントに「クソリプ」タグを付けられるようにしたらいい。そんでクソリプタグついてるコメント非表示にすればいい。Twitterじゃ140字で済むかんたんな論が勝つので、議論なんか成り立たない。
土俵の上に石長姫は登らないでください!アテナ神はいいです。(神差別)
漫画も読むと面白かったんだなあ、と思ったその漫画が何だったのか思い出せない昨今、当座の楽しさだけを提供する消費財としての漫画と文化、文芸(連作絵画)としての漫画はおそらく全然別物で、前者は無料当たり前のような感覚の層にリーチしてしまってて、イタチごっこなんだろかなあ。 https://pic.twitter.com/kNYIHebwiL
ネット規制が表現の自由の侵害…?通信の秘密の侵害など問題は認めるが、ネットなんてもともと無かった。無かったんだからべつに問題ないんじゃない遵法なひとには。リアルな交流の場は多いんだし。
明治神宮の名木代々木。代々樅の木が植えられることから村名の元となった。井伊家下屋敷をへて御料地内の大樹として知られたが、江戸後期には50mもの高さ・幅で登れば江戸を見晴らせると評判となり、幕末は黒船を見張ったとも。明治半ば枯死し、こんなになった。山手空襲で焼失。戦後植え直されている https://pic.twitter.com/YDhDME5noM
末期だと思うが十二階の木造十二階部分(展望台)に「十二階」と看板をめぐらせてる写真があるのね。気が付かなかったが、必死さが伝わる。人気が陰ってたとこに地震でひび割れ、破滅的な本震でそこから割れて転落死が出た。凌雲閣は会社として続いたが、書籍以外で十二階なき瓢箪池北側写真は無いのね
書籍より震災後(元は絵葉書らしい、噴水位置より十二階の対角の模様)
手彩色写真は手彩色は美しいが元の写真とは異なる絵の技術が邪魔してる。おもっきし塗る大正昭和の半絵画の絵葉書は美しいしリアルだけど、よく撮れた白黒写真は手を加えないことにより原型の細部を残し迫力がある。今回の花やしきからの十二階は殊の外細部まで写っており構造が明瞭。値段差がわかる。
ネットは煽り文句で引き付けるのが常套だが、中身が煽りに負けているのはどうにも気に入らないのでそのままにする。だからアクセスが稼げないのだろうと思ったが、よく読んだら八割方引用の記事だった。
(スタッフより)先程アカウント主の脳に羽根が生えて東の空に飛んでいってしまいました。