この絵馬は品川の市場稲荷神社の絵馬だそうだ。似た画風のものがいくつかあったが、社殿もろとも現存はしないらしい。
これを「不明」としてあった。大蘇鉄と火を手向ける小姓、少々風変わりな格好の王らしきもの。これは大坂堺の妙国寺の蘇鉄であろう。土佐人が大量に腹を切った場所として記憶している。ただここは安土城。織田信長が妙国寺から巨大な蘇鉄を奪い、移植したものの、夜な夜な不可解な声をあげ帰りたがった(切りかかると血を吹いた、等で寺に返され、現存する)という妖怪話。芳年の絵で知られる。だが通常、森蘭丸が一人で体験し蘇鉄を追求する話である。二人の小姓が描かれるのは不可解だが、小姓となった森三兄弟のうち二人が絡む話があったのだろうか。蘇鉄に乗るほうは恐らく向い鶴の家紋、右は鶴の丸で森氏のものである。こういう芝居があったかどうかは知らない(光秀と蘇鉄と蘭丸の絡む話は
時今也桔梗旗揚)。時代は芳年と同時期か下るのだろう。こういうものは何か理由があって描かれる。大阪の話なので東京で盛り上がるには芝居か何かの理由がいると思う。いずれもう現存しないのだけれど。
〜岡田玉山「絵本太閤記」
〜瓦版か。元は書物の模様
〜堺妙國寺の千年蘇鉄、通常拝観(有料)可能だが、私が行ったときは前もって時間も確認したにもかかわらず拝観不可(貸切)となっていた。ちゃんと見るには本堂内から。塀外にはみでているのは庭園のほうの蘇鉄で違う。内庭にある蘇鉄が該当で、思ったより細長い幹が上に伸び、根本は見えなかったが(覗き見だけさせてもらった)古木なりの勢いのものだった。よくわからないが少なくとも本堂内からは撮影禁止。
外(本堂右鉄扉、土佐藩士切腹・フランス人遭難供養碑側(墓は向かいの幼稚園のある寺に山内容堂の出資で建てている))から近くに行くとネットで見るような様態で見えるようで、新しい標識や切腹場所石碑ほかがその向いに置かれている。鉄扉を開け檀家さんが案内されていくのを遠くから見るだけだったのがこれです。寺勢のあるところなので東京の天妙国寺(もとは妙国寺で中世創建)と宗派は違うかもしれないが、昔は何かつながりがあって、冒頭の絵馬は近在の天妙国寺に仮託して描かれたのかもしれない。
明治末〜大正時代。現在も堂宇との配置関係はこのままになっており、先の方の細めの枝ぶりもこのままだ。堂宇の裏側(絵葉書の右手前)に庭園があり、大きな蘇鉄があしらわれているが戦前にそちらがあったかどうかは不明。戦前の妙国寺は五重塔など一揃えを備えており、現在の現代的な建物ではない。
土佐藩士墓
参考、この裏が襲撃土佐藩士がフランス人に囲まれて切腹するという恥にさらされて内臓を投げつけたりおぞましい光景になり止めるよう通達が出ても切腹は完了した。この石碑の左後ろにあたり、墓ではない。墓はここには作れなかったのだろう。
〜ここまで立ち上がれば化け物感あるのに(グラバー邸)
2019/11/19