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岡林リョウの日記☆Twitterまとめ日記。過去旅行の整理、歴史・絵画など。

【報道のふるさと】読売かわら版(新聞)の歴史【古いデータにもとづくので間違ってても仕方ない】

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ふと読売の源は何だろうと思った。手元に新しい本はないし買うほどの興味もない。戦前のデジタル書籍がいくつかあったが、摘み読みするつもりが書き写しになってしまったので、一部削除しました。2冊の本からとっており、前者が概説です。

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江戸の読売(菊池貴一郎)
読売というものに数種あり。三四人より六七人ずつ伍をなして、時の出来事を探り、公に関せざる珍しき事ある時は、善悪共即時に印版に起し、駿河半紙という紙に擦り立てたるを、互いに珍しそうに呼び歩く。サ此寃れは此度世にも珍しき次第は、高田の馬場の仇討などと言いて売り歩くあり。

大火ある時は焼場所を図面に起し、焼失したる戸数屋敷寺社町名町数、火消しの消し止めより死傷の次第を明細に印して売る、地震暴風天変地異ある時も同じく印して売るなり。また敷物を路傍に敷いて店を張り、坐して売るものは大火の記事を面白く読み聞かせつつ売るなり。また路傍に立って図面を手に持って売るあり、焼場方角場所付を御覧なさいと言いながら歩きつつ売るあり。

教訓の歌また心学の道歌などを小冊としたるを読聞かせつつ路傍に立って売るもあり。流行歌を謡ひて売る読売は、船頭のかむる様なる編笠、少しく形の変わりたるを深くなく浅くなく宜しき加減にかむり、笠の下には手拭の模様の粋なるを染出せるをあたまよりたれて、左右の肩にかけたるは、野辺の柳の間より衣かつぎたる女を見るが如く、流行の縞柄色合を好みて再訪も念を綿入に、三尺帯は上下に過さず、前を除けて苦労して結びたる甲斐ありて緩急の加減を失わず、手の指の先より足の指先迄、垢のあの字も止めねば、惜しむらくは衛生喧しからぬ時代、その賞を得ぬこそ残念というべく、細く削りたる竹の箸の如き棒を持ちて、左に持ちたる流行節の印本はポント打て謡出す、夜中なれば襟より小提灯をつりやるを前へ少し出し、時によりては三味線を入て謡い来るもあり、此の読売は下町辺に限りたり。」
~この文に出てくる読売の枚数は上下四枚が通例、弘化の伊予節は三枚ずつ六枚のがあり、安政のヤンレイくどきは六枚のが多い。チョンガレには八枚のが出来、阿房陀羅経は十二枚になった。其の代価は竹田信賢氏の記憶では二十五文から三十文であったという。瓦版という名称は河原版、即ち四条河原の興行物に関する板行だという説も聞いているが、角松更氏が読売は古くより棒木版行われ、後には全く瓦版が廃ったらしい。しかし元禄十年刊の俳諧塗笠に「さわがしや心中おこす土版木」というのがあるから、その頃までは所謂瓦版が棒木版と併行していたろうというのが宜しかろう。瓦版というのはこの土版木のことだ。
~三田村鳶魚「瓦版のはやり歌」S1より意訳抜粋
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「本邦新聞史」朝倉亀三M44.5
前編、新聞紙創刊以前の時代に於ける其類似物 より抜粋抄訳
上古から新聞に相当するものは童謡であり、それが落書落首に変じ、江戸時代になって読売の瓦版に一転した。しかし童謡や落書きは事実を報道するよりむしろ風刺に主眼が置かれる。読売の瓦版に至っては不完全ながらも目的は現今の新聞紙に異ならない。
読売はもともと絵草紙売または觸売(そくうり)ともいい世上の珍事奇談を直に粗紙一葉あるいは二葉に印刷し、街上を読みながら売り歩いたことよりついた名前だ。その印刷物を石版または瓦版と称した。前者は寛暦、明和の頃より言い出したことは「誹風柳多留」に石版売りが出てくるのであきらかだが瓦版の名称は古書に見られず文化以後に名づけられたものだろう。瓦版の名称の由来は二説あり、粘土に彫刻し焼いて瓦とし版木のように使うというもの、もとは印刷物を河原者等が読売したため河原版といったものが転じたというものだが、後者は強引である。しかしのちの瓦版は木版即ち桜木に彫刻された。それでも粗悪な出来で一見瓦版に似ている。彫刻が粗悪なのは珍事あるごとにいち早く摺って利益を独占しようという競争があったためで、文字や絵はひどい。近い時代には読売の印刷物は餅版といった。印刷に急を要するとき餅に彫刻し版木としたところからというが、本当にそういうものがあったかは疑問だ。これも印刷の粗悪なこと餅版に似るということからきたのではないか。
(棒木版という、棒に内容を彫りつけて紙に転がすスピード重視の粗悪な印刷法もあったらしい)
古来読売の瓦版には三種の区別がある。一は絵画を主としたもの。火事地震洪水祭礼番付等はこれである。二は事件を俗謡や歌祭文に節付けたもの。好色、心中、刑死等の類はこれに属する。三は事実を雑報的に書き絵画を挿んだもの。敵討、奇児出生等の類である。発生の順もこのとおりで、元禄の豪華な時代に二に転じたものの、享保にいたり風俗壊乱のため禁止されたのち、三におさまったものが、維新以後新聞紙の勢力に圧されて自然消滅した。現存最古のものは「大阪卯年図」「大阪阿部之合戦之図」だろう。
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元和元年五月七日大坂夏の陣の最後を描き当時近畿地方に読み売られたものだ。誰の手により刊行されたかといえば資料はないが、当時印刷技術も未熟で書籍の多くは木活字版で印刷され、絵画の印刷は極めて稀だった。これを為したのは庶民ではなかったと思われ、伝説では大坂夏の陣の勝敗が諸国に伝わらず、人心乱れ浪人結集することがあったといい、家康がこの図を諸国に配布させたという。家康は典籍刊行など行ったことがあり可能性はある。元和の落城図ののち、貞享期までの六十数年間の瓦版は残っていない。幕府草創期は俗文学も未発達で進歩しなかったのだろう。
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天和期には「好色一代男」が出て世の嗜好に応え、好色本の新刊が続出した。元禄の豪華時代に至り人心淫靡の潮流におぼれ好色・心中事件が後を絶たなかった。ここで俄然読売の勃興となる。材料は無限にあるから歌謡に作り深編笠に連れ節の流行となるに至った。「好色二代男」「人倫訓蒙図彙」などに描写があるのを見ると、当時瓦版を売るものの多くは放蕩の果て力仕事もままならず人に顔を見られることを嫌がり、深編笠に身をやつし、全盛のころに覚えた俗謡を得意の喉で歌いながら細々と命を繋いだが、いよいよ貧に迫ると終にはウソを書きたて金持ちをゆする者もあったろう。

こういう弊害があったので貞享元年十一月禁止令が出た。「享保集成」にある。元禄十一年二月二十一日にも同じようなものはあったのだが、一方で相変わらず好色、心中事件を俗謡に作り歌い歩くが、今はそういう事件は珍しくもなくなり、人々の注意を惹かなかった。「元禄曽我物語」には遊女の心中など辻売りの絵草紙にも載せずとある。俗謡の読売は衰退したかと思われるが寛永期になると従来行われてきた祭文と合体し、一転して歌祭文となると同時に、禁令もまた弛んだから、以前の倍にもなる流行をなすに至った。「松の落葉」には

~神はうけずや色祭文、仏ひきよめ奉るの、色のさかりは東なる、八百屋の娘お七こそ、恋ぢの闇のくらがりに、よしなき事を仕出して、罪は死罪に極りて、すぐに引出す哀れさよ、これは恋路の世の噂さ、歌につくりて読売の、手拍子そろふ笠の内よいよいよい~

とあるようにその初めは二人連れ節に手拍子とって歌うものだったが、後には挿図に示すように三味線弾きを従え、調子に合わせて読み売りするようになった。
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祭文はもと神仏又は故人を祭るにその趣意を文章に綴り、読誦して手向けとするものだが、其の文は悲哀を主とするので、誦する者も悲しげな声を出し、哀れをさそう読み方で人を泣かせようとした。いつしかその読み方が発達して、祭文節という一種の節を生じ、後には山伏めいた扮装の乞食、錫杖を打ち振り門に立て、祭文節に人の哀れをさそい銭を乞い歩く者が現れた。「人倫訓蒙図彙」は祭文、この山伏の所作。祭文というを聞けば神道とも仏道ともどちらが主なのかわからず伊勢両宮につき言っていることもいい加減で多く誤りがあるが知らぬが浮世、とした。謡う所は中将姫、千手寺、賽河原等仏説の因果物語ではなく内宮、外宮、羽黒山縁起のような神道に関するものであり、典節も文章もその扮装のように無意気なものであったが、元禄末期になると読売や好色本の影響を受け、一変して歌祭文となり、浄瑠璃、演劇に影響を与えるようになったのである。
このような歌祭文は祭文の一変したものなので、曲節は祭文に似、首尾に必ず敬て申奉るの句を置くが、材料はまったく正反対で、心中、刑死、好色等当時の事件を直に綴ったもので、従来の俗謡の瓦版の後を受け支柱を読み売りした。当時世の中の事件は浄瑠璃や演劇でも早くに登場し、院本脚本もすぐに刊行されたが、歌謡と切り離された新聞紙とごっちゃにされた。歌謡の読売が文学に影響を与えたことは少なからずあった。浄瑠璃や演劇も同じである。世話浄瑠璃勃興の機運を作った功績は大きい。享保三年に至り歌謡の読売は風紀を乱すとして禁止された。「享保集成」にある。それでも密かに行うものがあったので六年七月、ついに七年十二月に厳禁となる。読売界はこれにて頓挫し、俗謡や歌祭文の読売は廃絶、しかも文化が東へ移り江戸中心となってからは読売とは名ばかりのただ声をかけ瓦版を売るだけの読売となった。
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瓦版の値段は享保以降しかわからないが一葉三文上下二葉六文とは各書にある。江戸の読売瓦版の起源は定かではないが赤穂浪士復讐の翌日、街中を売り歩いた「浪士姓名附」「忠義太平記」が最古とされる。以後は江戸でも一家の秘事や好色、心中に関するものを刊行し読み歩くことが厳禁されているので、多くは敵討及孝行の記事、火事地震洪水、落雷の場所附、三つ子あるいは奇形児出産、太神宮札降、鉾の先に花が咲く珍事、祭礼番付附、異国人来朝行列附、開帳、見世物番付等となり、歌謡に作り連れ節に読み売る者もなく、「三人寄者文殊智慧」では

~サアサ、ゴトゴト、ごろふじろごろふじろ、かさい太郎が所へいでまするばけもののしたい、評判評判、うつくしいばけものじゃ、話は末代紙代はんかう代わづか四文、とんだ事とんだ事、サアゴロフジロゴロフジロ~

というように極めて無趣味の呼び声となるに至った。

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そうして世は安永、天明の太平楽時代に入り、洒落本、黄表紙の類が出現し、当時世上の風説あるいは幕府の秘事を暴き、作意したものが多く出版された。ただ当時出版法は極めて過酷だったことから、作者はただこれを文中に仄めかすに過ぎず、それでも「黒白水鏡」などは作者は追放、画工は手鎖の刑に処せられて以後は小説でも世上の風説を綴るものはなくなった。
このように時代が進むにつれ、出版法規もまたさらに厳重となったので、従来利益を独占しようと各自秘密に出版していた瓦版も、寛政五年八月になって秘密出版物として厳禁とされた。噂や火事の詳細など売り歩く瓦版は禁止されてのち多くは草双紙問屋で正規に出版されるようになった。貞享、元禄の頃、瓦版を読み売りした者の多くは、放蕩の結果落ちぶれた者であることは前述した。しこうして享保二十年に至り、十三香具師組合が制定されて以来は、多くこの輩が役を継ぐことになった。寛政期は享保期より一文高騰したという。
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以上述べた読売瓦版に記載されているのは、現代の新聞紙の所謂三面記事即ち雑報に当たる。しこうしてその二面記事即ち政治の是非および時事問題に関するものにいたっては唯わずかに落首体の瓦版によって代表されるにすぎず、また当時の法則として時事問題、時の政治の是非など書こうものなら写本刊本小説演劇問わず作者はすぐ逮捕され斬罪の極刑に処せられたことも少なからずあり、そうなると世を憤る士もしくは言わねば腹の張る者たちはやむを得ず滑稽風刺に意を言外に含む落首によって、わずかにその不平を漏らすことになった。
落首はもと落書きと言った。政事上の欠点または行為上の失態に対して、風刺を逞しくさせるもので、これを発表するに当たっては多く人目に触れやすいところ、事件の発生したところ、もしくはその目的とする人の門前に落捨てるためにこの呼称がある。期限は実に上古時代に行われた童謡に発するものだ。
童謡の記録はわからないが日本書紀崇神紀十年の条に記録されているのを最古として皇極紀および斉明紀に興盛を極めた。しかしその多くは未前の事実を暗示する予言的なものとして、落首と何ら関係がないようだが、童謡の中には現在の事実を風刺したものもなくはなく、たとえば天智紀十年の条に風刺的な歌も見られ、その性質においては後世の落首といささかも異なるところがない。
現存落首中最古のものは、天慶三年平将門が討たれその首級を京都にさらした時の落首に

将門は米かみよりぞ射られける俵藤太がはかりごとにて

と言われるが証拠が古書に見られないので信じがたい。「本朝文粹」ほか「源平盛衰記」に平清盛の宿所六波羅の門前に立札をし書きつけたり、「太平記」では五条橋詰に高札に二首の歌が描きつけたとある。「朝倉始末記」では京都の子供の落書きとして風刺歌がふたつ書かれたとある。平安から桃山時代にはこれだけにとどまらずたくさんの落首が記録されている。
そして世は江戸時代となる。代々の将軍は文事を奨励し学問所をひらき、印刷術の進歩と共に各種の書籍が刊行され従来貴族や僧侶に独占された文学もついには平民の手に帰する盛り上がりがあったものの言論の自由を厳禁された結果、落首の勃興となり印刷術を利用してさかんに天下の風評を拡げる。幕府は他の出版物や写本に対して、過酷な法令をもって処罰したのとは違い、ほとんどこれを黙認する状態だったので、ますます興隆を極め、寛永年間柳澤の弊政を嘲罵風刺した落首の如きは積んで山をなし「寛永落書」という一書を成すに至った。次いで安永天明期の田沼、天保期の水野の苛政を風刺したものはまたすこぶる多く、ことに幕末に至っては最後の盛況を呈した。嘉永六年六月米艦来航の時、幕府より日光、増上寺、神田明神に命じ、天下静謐の祈祷をさせた時の落首に、
神風はむかしの事よ千早ふる神や仏に俄ついしやう
等々。上古より桃山時代に至るまで多く狂歌によった落首も、江戸時代に入るとともに発達し、種々の形式で現れたことがわかる。
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これら落首の作者は当時既に秘密にしていたため今これを知る方法はないが、その多くは坊主や小普請組、御家人等閑散の職にあるものの手になり、幕末に至っては諸藩の士または浪士のてになるものが十中八九だという。この落首も維新以後言論自由となってから、自然廃絶するに至った。
以上上古から近世まで各時代に現れた新聞紙炊事仏の性質及び種類を述べた。しこうして以下新聞紙に関係ある昔の通信事業と広告事業とを考証し、もって本編を結ぼう。(後略)
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〜歌祭文は人前で歌って歌本を売るという点、明治の香具師の演歌師に似たものだが、歌を売るだけならもう古来枚挙にいとまがない生業。現在も。瓦版は明治に入ってのちもしばらく発行されている。

by r_o_k | 2021-04-02 10:22 | ご紹介 | Comments(0)
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