【現地確認】江戸神仏願懸重宝記(文化11年)2019/21【江戸の流行神を令和に訪ねる】

現地確認<江戸神仏願懸重宝記 文化11年>2019/6/26

:江戸の流行神を語るに欠かせない基礎資料、願懸重宝記。江戸と大阪の2冊のみ残っています。重宝記の形式に則った簡易ハンドブックで、当時流行っていた現世利益をもたらす小さな神々を列挙しその場所と願掛けの方法、効能を書いています。西は喜多見、東は亀戸と当時としては広範にわたりますが、全部を巡ることは想定されておらず、治癒を願う病等にご利益のある場所のみに向かい、叶えば方法に則ったお礼参りをしました。七福神巡りのような半物見遊山ではない点、私のように全部回ることに意味はないけれど、江戸後期には特定の願のみならず万願の叶うとする神が増えており(浅草寺の久米平内は恋愛成就だったのがいつのまにか諸願叶うになったと記録にある)、この重宝記も「諸願」叶うと書いてあるものが多くなっています。時代小説にみられる「何箇所も願掛けに回る」という記述は恐らく実際にあったことでしょう。以下漸次調査中の項目もありますが、現地写真(現存しない、非公開、個人宅であったり祭りの時期のみ見られるなど撮影困難な場合は近所)とできれば現物の写真や絵画を載せています。絵画は正確さに欠けますのでなるべく多くの別の絵を載せています(メジャーなものを除く)。考証的なことはさほど重視しないというか、物証第一としており、文献調査や管理人への直接取材は薄くなっています。多分学者さんがやってるはずですので。重宝記は簡易ガイドゆえ、何をどうやって願掛けしたかはあまり詳しくはかかれておらず、目次に書いてあるレベルで十分と判断し本文中に簡単に触れるのみにしました。本文を翻訳したものは公式には無く、ネットで現物が見られますので参考にどうぞ(日文研)。絵入重宝記の絵は全部掲載しました。


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プロローグ、江戸の流行神〜
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             井戸にまつわる迷信は多かった。東高野長命寺のように自分の顔が映らないと命がないという話は本家の高野山の井戸から持ってきた話と思われる。各地の「星の井」のように昼間でも星が見えたなどというものは、念仏宗等何らかの仏教的な話と結びついている。伊藤晴雨はくり返しこれを描いている。
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             明治神宮の清正の井戸。今はひっそりとしているが、2011年前後テレビの影響で携帯の待受にすると幸福が訪れるといい一時期大行列を作っていた。背景に東日本大震災があったとも考えられる。パワースポットと言われるが、災害とも結びつき、ご利益目当ての典型的な流行神だ。京都の安井金比羅宮の縁切り石はさほど古くないが、現役の、しかも外国人までお参りするインターナショナル流行神と言える。
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             鰯の頭も信心から(江戸時代に既に迷信と皮肉られていたらしい)
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             鳥羽絵「軽筆江戸車」
・・・・本文・・・・
目録(〇は現存(移転含む)△は跡地探訪可能(影も形もない場合は除く)×は不可、無印は不明)
・・・・・・・・・・
〇高尾稲荷の社戦災等で小社として近所に移転新築、但し櫛の願掛けは廃れた模様。改築のさい中から髑髏が現れ、今も収めている。これは高尾太夫が吊るし切りにあった川岸に流れ着いた髑髏と思われる。それを高尾に見立てたということで、流れ着いた神、水死人神様のようなもの。別項あり) 頭痛の願
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×おさんの方(飯倉善長寺お珊の方、地蔵、歯神なので絵では歯ブラシ楊枝、餅、火打石と火打鎌 戦前の本では盛況のように書かれる地蔵だが、戦後見当たらず、寺院の行方も不明。おそらく戦後に近所の鑑蓮社に合併され鑑蓮社善長寺となった。当該社は現在一般住宅の規模で遺跡なし。二体ある石仏も無銘で近世再刻の模様) 虫歯口中一さいの願(もとは国元の福山(一説に横須賀の位牌)の話であり墓所の土を移したのが江戸の祠という、移入物件)
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※横須賀常福寺の備後福山城主息女「珊誉女」位牌(寛永十一年八月八日没)が歯痛持ちで亡くなる際に祈らば歯痛に効あらんと言ったことからきている。東京(善長寺内の小堂内に境内の小堂の中に水野日向守勝成の室、お珊地蔵)福山(定福寺、女の墓を載せ水野氏の妾女三と記す、當寺の牌は安永九年因州鳥取良正院住僧見誉、故ありて彼定福寺より移す所なり)にそれぞれまつられるが、もとは福山であり墓所の土(歯?)を移し整えたのが東京(文政3年~天保8年)、新編相模國風土記(原本・天保十二年))にもあるが、ここでは地蔵ではなく櫛楊枝についてある。戦災後の現在の鑑蓮社善長寺(芝公園)は関連があるか不明、いずれ残っていない(小さな増上寺子院で石仏三基と卵塔程度残存、元の名前は鑑蓮社のみだったので移転合併か)上大崎の隆崇院は無住の善長寺に合併移転したものというが飯倉から移ったのは寛文年間。
鑑蓮社の位置は今もこのあたり。但し一般住宅のようで2つの寺が一緒になりさらに同じ規模の寺と隣り合っている。宝珠院の手前に別項の子の聖神の祠があったが、この地図にはもうない。
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△榎坂の榎(「印の榎」は江戸初期に溜池の堤に植えられ近代早くにはすべて枯れたとされる。葵坂(消滅)頂部の祠は不明。溜池交差点南・アメリカ大使館前、坂はあるが頂部はビルの間、地形自体が変形し祠も木もなく厳重な警護で散策困難) 歯の願
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:霊南坂が上って右手をさらに上がる。従って左手側に榎木が生えていて祠があったのだろうか(坂上写真は左下に見下ろす形なので右手のビルのあたり)ここについて他のウェブサイトでは別の写真が出ており、本来どの位置にあったのか知りたかったが、テロ対策で警察及び警備員により公道上の立入禁止及び撮影禁止の区域が拡がっており、地図の確認すらできず不審者扱いされたので断念せざるをえなかった。

調べると溜池の虎ノ門滝口の浮世絵に描かれる葵坂がまず出てくる。滝口脇に上がり左に屈曲するまでの溜池下の坂で、坂上の榎が「印の榎」と呼ばれる並木の手前部分。ここで続きとなる堤上経由での榎坂、汐見坂と霊南坂の三叉路となる。その榎坂は幕末切絵図を見ると頂部以外は武家屋敷間であり、そうするとここでいう榎(並木)はむしろ池沿いの葵坂上の堤防の路傍、馬場と玉川上水の取水路沿いに植えられていたと思われる。ちなみに絵入重宝記の絵には榎坂ではなく「葵坂」とある。この絵はつまり滝口脇で右手に水流があるのは溜池とその川下。番小屋の後ろに榎と祠があるというわけである。ベアト写真にも葵坂と滝口が写ったものがあるが(肥前守屋敷とあるが時期的に切絵図の通り加納屋敷)このあたりの治水記念に堤に並木を植えた一部ということだろう。道割は明治時代に溜池埋め立てのため坂ごと削られて完全に変わっている(榎坂上の三叉路から見て左方向に堤、葵坂があった)。切絵図の葵坂は消滅している。三叉路から左、溜池(元)方面へ降りる道はあるので、溜池の元馬場沿いの部分は斜面として偶然あるにはある。

※探訪記

話には聞いていたが赤坂から榎坂を撮ろうと歩いて、霊南坂下より振り向き何枚か撮ったら有無を言わさず写真消せとなったので坂上からの俯瞰撮影に失敗。確かに大使館は当然として、警備の体制も撮られるとダメなので全面ダメはわかるが、昔はこんなんじゃなし何となく腑に落ちないよ。
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ネットでばら撒かれるようになったからのことだろうが、むしろツイートしたくなった。ウェブ探せばしっかり撮ってる写真はたくさん出てくるのにね。。ああいうのには削除依頼しないのかな。まあ榎坂自体、歴史的にもはや有名無実のものとして記録。
posted at 17:52:49
※大阪G20のため東京の警備もかなり前から厳しくなっていたことが判明
この絵入願懸重宝記の挿絵を見るとどう考えても沢はアメリカ大使館にかぶっているので同位置特定は難しいが、文献上は溜池(逆側)の傍に榎数本ありと、虎ノ門に落ちる水を築き止めた記念に植えたものの残りとある。(誤認あり、後述)
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榎坂と葵坂:馬場の脇に玉川上水が引かれ堤になっている。江戸初期浅野左京大夫幸長が溜池を作った功績を後世に伝える為、家臣矢島長雲の植えた印の榎が並んでいて、三叉路(頂部)まで榎が残り坂の名になったか。亜欧堂田善の時代にはもう榎があまり見えない。広重の構図はベアト写真にも
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亜欧堂田善
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葵坂(上り詰めて辻番所左折、馬場脇の堤を進み三叉路で右折する下り坂が榎坂)と榎並木の右端、明治初期と前期
(「ベアト写真集1」横浜開港資料館蔵ほか)

従って絵入願懸重宝記の絵が正しいなら願掛けするのはほんらい榎坂ではなく葵坂上の榎で、枯死等で残った榎にシフトしていったため、はっきりしなくなったのだろう。葵坂は溜池埋め立て用土で掘削壊滅しており、それらしい方向に狭い下り坂はあるが、この願掛け自体が明治中期既に「壊滅」とみていいと思う。
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溜池は要するに江戸のダムだったのですが一説には滝口を絞りすぎて枯れてきてしまい、埋め立てに踏み切ったといいます。けして枯れてなかった説もあります。
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榎坂下あたりから赤坂の町・溜池・山王神社 (「写真で見る江戸東京」横浜開港資料館蔵)

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△大木戸の鉄(くろがね)(雪駄の尻鉄を拾って大木戸(片側現存)石垣に挟む、尻鉄が落ちてないので△) 脚気の願

脚気等患う者、芝牛町の大木戸へ行き願込めする、即ちこの辺に古い雪駄の尻鉄を沢山捨ててあるので心に数を定め拾い取り挟み願掛け紙を敷いて拝むとその苦痛平癒すること神憑りのよう、古い尻金は大道に沢山落ちているものだ(江戸神仏願懸重宝記より適当訳)
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尻鉄(上方)
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幕末(暁斎)牛町の牛小屋
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:かかとにある黒いものが尻鉄。粋として最初は茶人が始めたもので、侍が金属音を鳴らして歩いたり、細工を施して個別の贈答品ともしたらしい。いわゆるベタガネに近いものです(こちらは京阪の雪駄ですが)。今のベタガネより少し小さい(守貞謾稿)。絵は河鍋暁斎、陸側の牛小屋と海側の大木戸石積み。

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×頓宮神(亀戸天満宮内、老夫婦を2体の鬼が縛りあげようとする奇妙な仏像、バラバラの出自という話もあった、祭もあったが祠ごと近代焼失、社ごと消滅) 諸願
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江戸名所図会より、頓宮神の文字が見える。
頓宮明神 (花園の社と)同所にあり。昔菅神筑紫へ左遷のとき、同国榎寺にて夕陽に至りけれど御宿もさだまらず。しかるに賤の家を求めさせたまふに、あるじの翁、左遷の人にてましませば御宿はかなふまじきよし、情けなく申しけれど、その家の老女は情けある者にて、扉の上に新しき薦を敷きて請じたてまつり、麹の飯を松の葉に盛りて捧げたりしに、「志は松の葉に包むとのたまひし」とある診を表したり。頓宮とは、その老嫗をさしていへり。老夫は縄をもって縛す。いづれも後ろに青赤のニ鬼佇みてあり。~江戸名所図会

つまり亀戸のものは筑紫から何らかの形で分祀されたか、真似て作られた異神だろう。筑紫の榎寺(道真公没後120年をへて建立された浄妙院の改名)は現在の天満宮飛び地の榎社。道真公の終の棲家跡である。天満宮の神幸祭で神輿の御旅所となるため、頓宮の名を付けられたと思われる。松の葉に麹を盛ってくるなど日頃のお世話をしたというのはもろ尼御前浄妙尼のことで、社の後ろの浄妙尼祠には祭のとき神輿がまっさきに行って宮司が御幣を納める。すなわちこれが頓宮神だろう。老夫にあたるものはない。江戸の創作かもしれない。(似た像容のものを見た気がするが失念)
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広重「東都名所」部分、江戸名所図会を参考にしてるっぽい
ほか浮世絵をいくつか。ズバリはないです。
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豊国は配置がよくわかんない。
花園社の右先すぐ、とすると明治初期のこの写真の藤棚を越えた右先に何か軒のようなものがごちゃっとあるが、この右の軒先だろうか。戦前まであったようなので、この位置が写されることはあまりないが、探してみる。
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こちらは明治末年のもので太鼓橋は女橋のほう。右端の花園社(現存)との間に恐らく頓宮社があるが、樹叢のなかに垣間見える程度。
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一枚目は花園社前、右には石碑群と脇出口のみがあり、先に御嶽神社、舞殿がある。礎石等に痕跡を探したが見つからなかった。さほど立派な建物では無かったのだろう。二枚目は逆側から。
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比較的旧跡を再現しているが、戦災全焼の影響は無いとは言えない。
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(参考)「江戸から東京へ」より〜
菅公左遷の折、兵洲辺(ひょうすべ)という野川の縁に出で、日暮れ橋なきに困じておられると、一匹の河童が現われ、大井川の雲助のように、菅公を負うて向う岸へわたした。そこは兵洲辺というところであったから、後人兵洲辺のオカツパサマと敬称して、これを神に祀り、そのかわり、水難除けの御利益を負担させた。
 また頓宮さまの方は、悪いじじいと、いいばばあとを、対照させたものである。悪いじじいは、菅公が武蔵野温泉(太宰府の側)に行き暮れて、とある貧乏寺に、一夜の宿を乞われた。すると悪いじじいが出てきて、 『流されもんにやあ、宿貸すととならんばい』と突慳貪に、拒んだ。これを聞くと、いいばばあが出てきて、 『爺さん、そげいなこといいなさんな、さあさあ、むさくるしい所でござすばってん、雑炊ぐらいの事ア、上げるによござすたい。ほーんになんぼか、おしろしう御座いましつろ?』と手をとらんばかりにして、扉の上へ新しい真菰を敷いて、菅公を請じ入れた。菅公には、ばあさんのいう言葉が、充分聞きとれぬけれど、その溢るる真情が、地獄で仏に逢ったように嬉しかった。いいばあさんは、古椀などで差上げては、かえって失札と思い、朴の広葉のようなものに、炊き立ての飯を盛って、菅公に捧げた。かねてならば、咽喉にも通らぬ粗食であるが、遠たくの旅路に頼む木かげの人の情が、しみじみと味わわれた。悪いじじいは、物かげで、婆さんをつかまえて、口をとがらし 『あの流人は、厭にツラがノッペリしているので、お前が大騒ぎをするのだな』といいかけると、 『なんごといわっしゃるとな、いい年をして、馬鹿なこといいなさんな』と頭ごなしに、叱られた。後人は善いばあさんを、頓宮明神とあがめて、その善行を表彰すると同時に、悪いじじいの木像には、荒縄をかけ、うしろに青鬼赤鬼を立てさせて、永久に罰することにした。〜

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○熊谷稲荷の札(格式の高い白狐の祠という。早い時期に浅草寺裏から厚く信仰していた熊谷氏の墓のある本法寺に「本人の申出により」移転(勧請)、震災空襲・戦後再建現存) とうぞく除(現在も本法寺にて授与)
※なお浅草寺にも熊谷稲荷の祠は残り、願掛けを受けていたとも書かれている。震災後千勝神社に合祀、後に戦災で不明。

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切絵図によれば元位置は浅草神社前とあるが、そののちの祠も含め位置関係はアバウト

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墓地に熊谷安左衛門墓も現存。
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(浅草寺内、千勝神社(消失)これ以前は「旧六十六仏堂あたりにあった」)
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△京橋の欄干(荒縄を北側真ん中の擬宝珠へ結ぶ、明治8年に石造となり大正時代の石造欄干(擬宝珠)が現地と日比谷公園にある) 頭痛の願
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現在の京橋の欄干、擬宝珠(石橋再建時のもの) 京橋跡と日比谷公園
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※久々に調べ物をスマホだけでやってて嫌になった。めまいはあまりないが頭痛。京橋の擬宝珠に頭痛止めをかけてくるか。 https://pic.twitter.com/rv2kVGgJ5P
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伊藤晴雨(場所は不明)

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×女夫石(小さいもので、大正時代に三田村鳶魚等により南本所番場町(今の本所では浅草を中心とすると比較的北)から本所柳原町二丁目11番遠藤初五郎、現在の江東橋二丁目、石屋の祠もしくは仕事場の棚に移転して現存を確認されているが、錦糸町駅南西の両国高校との間のこのエリアは開発も激しく、タイミングとしては関東大震災で消失していると思われる)
夫婦の仲のむつまじくなる

文献については以下記事の真ん中あたりに書いています



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ちなみに伊藤晴雨は本所石原(ここも比較的北)に明治まであり五之橋(亀戸1,6丁目すなわち亀戸駅南口前一帯)に移転と書いている。いずれ現存しないだろう。
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錦糸町移転先は今の丸井の裏あたりにあたる。
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影も形もない。WINSと居酒屋の一角。
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近所の錦糸堀公園
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〇石の婆々様(木挽町築地稲葉屋敷にあったものを正則公創建の向島弘福寺へ委託、境内祠に安置) 小児百日咳の願

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〇目黒の滝壺 小児の月代(月代を剃るとき塗ると子供がぐずらず「不動」になる)目黒不動尊
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○痰仏(錦糸町、法恩寺門前千栄院たんぼとけ霊場、痰病守護道晴尊、非公開) 一さいの痰
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×孫杓子(文京区海蔵寺内、日本一社疱瘡神湯尾大明神(廃れたとあるが稲荷社を該当とみなす人も(冨士講の領域にあるため違うと思う)萬霊塔に異形の双体人物像がある→鉄板にコンクリを塗った近代高砂像で異形は首が折れただけ。熊手がちりとりになっている。墓の副葬物だろう。ただ、これも含め煉瓦基壇の無縁塔(3群ほどある)は今の石小屋以前に何か建っていたような感じがする。本堂からすぐ脇の墓地入口の位置になる。鉄香炉があり、これが該当の残存物の可能性もある。冨士講やペット供養など(相撲取りや久米平内夫婦供養墓もある)古今様々な小遺跡があるので断言はできない)) 疱瘡の願
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:本堂左脇の無縁塔、基壇が築かれており、香炉が社の残存物かもしれない。


※国を行き来した挙句近代廃絶、萬霊塔に異形の双体人物像があるそうで安倍晴明と疱瘡神かも→後述)
疱瘡神:昔の日本人は疱瘡神を追い出すのではなく祀れば治るという考え方だった 身禄行者の墓域内に稲荷社があるが、これではないかと言う人もいる(疑問)
関東大震災直前の境内写真
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稲荷社
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:富士塚上から、赤い祠
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△錐大明神(両国橋、旧橋現存せず、中央(江戸時代は小屋があった)北の欄干から水面に錐を3本落として願かけをするが現在は怒られると思われるので△) 疱瘡の願 永代橋にも小錐で願をかけた記録がある
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両国橋(かつての橋とは位置が少し北にずれている)
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擬宝珠といえば擬宝珠。錐を落とす。
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×鶏卵の守札(八重洲とあるのは八重洲河岸(内堀南岸)で今の大手町二丁目、現在のKITTE裏の区画。織田上屋敷内の住宅で発行していたが早くに無くなったらしい) けがせざるる


こんな江戸城近くに。。道割が変わってるのでわかりづらいけど林大学頭屋敷跡から推測し大名小路沿い織田上屋敷内長屋だろうと推測。東京駅前、郵便局KITTE裏だろうということに。後で写真追加。
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織田上屋敷あと。間違いない。林大学屋敷はなんにも標識がないのであてにならず。
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丸の内仲通りは無いのでもっと広い(長い)んですけどね。
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・・・
ヤン・ヨーステンの銅板(現在の八重洲側にあり上記とは真逆)

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△日本橋の欄干(京橋同様石造再建でこちらは極めてモダンで擬宝珠を作らなかったがそれらしい擬宝珠つきの柱が記念碑にあるので△) 百日咳の願
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日本橋、記念碑の欄干
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※万治年間の擬宝珠が漆器店黒江屋に保管されている。願掛けが行われた時期と違うと思われるが、かなりしっかりした実物を見ることができます。
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△北見村伊右衛門 蛇よけの札(札は発行していない模様だが子孫及び呪術(区指定)は現存)
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形を変えつつ斎藤伊右衛門末裔の一子相伝非公開の術として現存;世田谷区指定無形民俗文化財 喜多見のまむしよけ | 世田谷区 http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/106/152/d00129079.html…
札は4月8日に配布していたが今は行っていないと思われる。廣田家という家でも男系でハチ除けマムシ除けの法が伝えられているそう。農家の多い土地ならではだが、今は蝮はおろか青大将すら居ない→2019/10多摩川氾濫時、野球場裏からマムシがマンションに逃げ込み未だ生息していたことが判明。喜多見は喜多見不動の金色姫を見たい(うつぼ船に乗ってる)ので夏に行ってみたい。その前にそろそろ9月の予定が。。 http://www.kaikologs.org/archives/1773

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△鎧の渉の河水(日本橋兜町一丁目、鎧の渡し(記念碑あり)のあたりの水、鎧橋は首都高下で暗く高く水を汲むのは至難と思われるので△) ほうそうの願
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旧鎧橋(昭和30年代)
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鎧橋から(明治前期)「各地勝景」より
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○痔の神(本性寺)台東区清川1-1-2 痔で苦しみ亡くなる間際自分に祈れば痔を治そうと言い残した秋山自雲墓(痔神)が境内にある。武家ではなく庶民なのが特筆される。戦前までかなり栄えた模様 痔の願
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雪中褌男の衝撃が強いが平賀源内との関係もわからない(近場に平賀源内墓あり)。卒塔婆(?神なのに卒塔婆?)の「秋山自雲功雄」を現代読みしてしまい何やら。痔は苦しい。巨大題目塔は寛永年間の個人供養塔。浅茅ヶ原跡。三枚目左は亀有移転した遊女供養塔のくさもち寺(投込寺)跡地。 shape="rect">https://pic.twitter.com/1vzEltYCKw
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△幸﨑甚内(鳥越橋) 瘧の願(甚内橋遺跡記念柱あり、甚内神社(昭和現地移転)あり、願掛けの札を川(今は暗渠?)に流す方法なので地上だができなくはなく、何もないが△にはする)浅草橋
川は東西(大通り・鳥越神社と平行)に流れておりそこに願かけをした。橋は南北にかけられていた。甚内は悪者だが瘧で病んでいたところここで捕まった。死罪となるとき瘧がなければ捕まらなかった、自分を拝めば瘧を治すと言い残した。歯や痔など同じような【神】はこの本にも多い。
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川の流れ
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橋を通って鳥越神社まで遠景
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甚内神社がすぐ近くにあるが、橋の袂にあるから甚内橋となったという話は、甚内神社が関東大震災後に浅草消防署近くから移転してきた話と一致しない。
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△粂の平内(浅草寺内祠、戦災で原像・前立・祠及び文付け願かけは現存せず(個人的に恋愛祈願は現在もあり)、現在は別の像を小祠に祀る) 諸願
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:現在中にあるとされる像(浅草寺今むかし より)
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:絵葉書や古書に見られるこれが正しく平内像という。石屋がこしらえたヘンテコな袖なし裃の像がなぜか流行神になったと書かれることもある。
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(追記)しかし裏面に思いっきり文政8年とあるため、祈願成就感謝の奉納されたものであろう。研究本に「奉納像」とある。
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今戸焼の浅草人形、明治時代まで恋愛成就の奉納品として売られていた。堂前の店で奉納品として商われていたという瓦製人形はこれのことだろう。これもおかしな裃姿であり、奉納品の仕様なのだろう。(久米の平内研究 より)

とまれ諸説はあるが戦災で失われ現在の像(浅草寺ガイド参照)をかわりに納めた。

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:江戸名所図会のこの大きな仁王坐の石像は写真もいくつかあり戦前まで文付けの願掛けがほそぼそと続いた模様。(別項参照)
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:伊藤晴雨
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:宮尾しげを(昭和初期)
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:明治末年の縁起掲載のもの。
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:絵馬(国芳版画にもこの図柄が見える)
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:平内堂と五重塔(共に戦災焼失)
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:これでも小さくなったと書かれている(昭和初期)
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:久米平内のお守り(紅白)

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:駒込。松村家のうちにある。久米平内も謎の人物。松村一族墓は戦前まで浅草寺境内にもあった。現在二尊像の裏に並んでいる3石仏のうち立像の裏面を見ると松村氏の名が刻まれているが、これが唯一の名残であるようだ。
:真ん中あたりに書いています

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△浅草寺の仁王(右の阿形像、戦災焼失復刻、股くぐりの願掛けは不可) 疱そうはしかの願



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豊国初代「浅草観音之図」左の吽形の手に子供の手を合わせるようにしている。手形は何かしらの霊力を持つとされてはいたものの、これはこの願掛けとは関係ないかもしれない。
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写真(明治前期)は吽形のほう
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昭和初期
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伊藤晴雨の考証的記録。江戸後期は伝法院で鍵番に仁王門の鍵を借り賃を払って(こういうところできっちり経済活動の輪が形作られていたのが江戸らしい)仁王の股くぐりをしたという。但し縁日の関係の毎月8,17日に限られた。当時は女子が多かったが顔に痘痕が残らぬための願掛けだろうとある。
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戦後再建、経蔵の機能も吸収(二階)
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〇縄地蔵(南蔵院、業平橋から葛飾に移転現存「しばられ地蔵」)諸願
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※願懸重宝記では業平橋辺にあった大岡政談のしばられ地蔵(水元へ移転、坐像か立像か現地ではわかりませんでした。伊藤晴雨によれば宝珠錫杖を両手に持った立像)、百円で荒縄買って縛る(かなったら解きに来る。ちゃんと縄捨て桶がある。もともと大岡政談のとおり盗難・失せ物の発見の願掛けだが、子供の病気平癒といった一般的な縛られ地蔵祈願も行われた)
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ついでに小日向林泉寺の「しばり地蔵」
品川願行寺の縛られ地蔵、首を持ち帰り倍で返す風習もあったが余り盛んには見えない
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子安地蔵立像なのではとおもった(南蔵院しばられ地蔵、わかりにくいが絵入願懸重宝記参照)が、違うらしい
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こんなの

調子悪いところに歩いて心身苦しい夜をむかえました。こんな優しい顔のおじぞうさんを縛った罰だ。おわりです。
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業平橋と南蔵院縛られ地蔵。お寺は水元に移転し(境内の業平神社は廃止)現在は小屋の三面を開放して自由に縛ることができるせいか、繭モナカのようになってしまってるが、明治後期の写真は伊藤晴雨画と対照するとわかりやすい。子供のための祈願らしき様子が伺え子安地蔵にも思えるが単なる立像とのこと。犬張子(赤子の初午)が奉納されてる。江戸双六にも犬張子が。
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右上(東京名所図会)

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かつては四面のある堂内にあった。
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×松屋橋の庚申(八丁堀3-1)(弾正橋の脇にあり松幡橋が正式名称(川は道路に)。東側八丁堀側橋詰に近代まで祀られていた。東京駅・京橋の東 現在現地にも中央区にも庚申塔は見当たらない、消滅 諸願
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〇子の聖神の祠(芝増上寺内、旧徳川霊廟裏の宝珠院管理下だったが明治の地図には既になく独立した祠は無くなったと思われる。子ノ権現像は宝珠院に現存。諸像とも2019年末まで千葉で修復中、本堂改築中でもあり写真展示のみ(飯能の子ノ権現からの移入か) 腰及下の病

goo古地図(江戸切絵図)より部分。宝珠院隣が子ノ権現と明記されている。現在の宝珠院は向かいの弁天池(一応残存)傍にある。
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東京名所図会より、宝珠院。この脇にあるとされる(当時の地図では確認できない)。
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左端
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明治前期の増上寺本堂、これでも江戸後期から何度も火災等にあい建て直されてる。願懸重宝記にこの裏の山あたりにあった祠(子ノ聖神)がでてくるが、堂宇は既に燃え落ちてたのかもしれないな。→
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(追記)2021/10現在
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○堀の内の御張符(妙法寺) 諸願
高いところに貼っておき病気平癒を祈る。今も変わらず、またお札は必ず一定期間後(正月は一か月後)返すことになっているが、一般にはこのような札のかわりに茶を包んだものが渡され返す必要はない。
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○日限地蔵(白金三鈷坂下遊行寺→松秀寺、秘仏 日本三日限地蔵(会津、明石法音寺とならぶ)) 諸願
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:白金の都会の辻にある時宗のお寺で、ここから奥には大久保彦左衛門一族廟(大久保彦左衛門墓は閉扉、巨大すぎて覆堂の屋根に穴が(伝承もあるらしい))・一心太助の墓のある大きな立行寺がある。大題目塔もあるが法春塔ではありません(安永年間建立)。礎石も新造で鉢状穴なし。その裏の神社も白鳳時代創建という。
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:寛政年間(年号剥落)の銘のある石造達磨。時代はやや古いが力石だったのでは。奉納市谷八幡とある。願懸重宝記には市谷八幡内茶ノ木稲荷がある。

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×三途川の老婆(二本歯の欠けた古い奪衣婆像でそこから口中の病にきくと噂になった。戦前まで(一説に戦後まで)浅草寺奥山閻魔堂、橋本薬師堂(寅薬師堂と同一視する文も読んだが本堂左に小社としてあったもの。今は十王も納めていること(堂内は狭く暗く十二神将は確認できるも十王は見えなかった)になっている、近年移築)の2軒横、本堂北西にあった。震災で閻魔堂は焼失、歯抜けの奪衣婆は無事だったようだが閻魔像は頭だけ焼け残り、共に寅薬師堂に収められた。戦災で消息は無い(寅薬師堂が焼失)。現地は駐車場になっている) 口中の願
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伊藤晴雨、道祖神の項目にあるが(三途の川境というところから含まれたのだろう)「歯のまじない」ということは浅草観音のもので間違いないと思われる。浅草寺自体に残っているかは別として、この像が描かれた(写された)唯一の記録と思う。綿のおばばでもあったようだ。
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東京名所図会(堂内は描かれない)
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明治末年(右)※本により違う記載があるが東京名所図会の絵よりこちらで正しいと思われる

明治29年閻魔堂再建、閻羅殿(額には閻王殿)とも。震災で焼失。閻魔の頭部と奪衣婆が残ったという記録がある(昭和初期の宝物記録には無く、閻魔堂は敷地ごと無い)。橋本薬師堂は十二神将(現存)と、今は雷門にある風雷神を収容していた。
尾張屋板切絵図「今戸箕輪浅草絵図」幕末
閻魔堂と橋本薬師堂はばらばらに見えるが近くにある。うろ覚えだが震災後、寅薬師堂に狭ぜましく焼け出された像がぎゅう詰めになっていて、さらに戦後雷門ができるまでは風神雷神も詰め込まれていた。戦災で閻魔の頭部がなくなったのは確実だと思うが、どの時点で奪衣婆がなくなったかはあまりはっきりしない。かなりの古像であったことから現存しまい。 →
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雲長作と伝えられた閻魔像(本により運慶と書いている)。この向かって左(右と書く本もある)に奪衣婆像があり前歯が二本欠け、歯磨き楊枝を納めると明治末年の縁起に書いてある。堂内には他にも近作の小像が溢れていたらしい。閻魔は子供と有縁のため人形も多数収められていた。(左側が撮影されなかったのは残念)
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昭和に入っての写真だが関東大震災前、もしくは参道脇などにあった別の閻魔像(近作)だと思われる。
観音堂裏の閻魔堂のあった辺り
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寅薬師堂(焼失)
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橋本薬師堂
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〇茶の樹の稲荷(市谷亀岡八幡宮内、戦後建築 石段途中にかなり大きな摂社として現存) 眼病の願
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:今も大変人気でインターネットでも話題になったそう。


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○王子権現の鎗(王子神社現存「御槍」授与、8月上旬例大祭(本、陰交互に開催)期間のみ) 諸願
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:江戸後期
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:明治時代の槍祭り
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:伊藤晴雨による槍祭の「花奪い」の様子。現在は田楽が途絶えたため槍祭りも途絶していたが昭和59年田楽復活に併せて行われるようになった。現在は槍祭という名前は例大祭そのものを指す。田楽を槍持ちが守る形になり、舞台の四隅で踊り手の花笠が奪われないよう警護する。踊りが終わると花笠が投げられ、ご利益の奪い合いとなる。ご利益は現ナマであることもあった。各地で行われる形態ではあるが、槍の形を模した槍守りはこのときに主として盗難除として頒布されるのである。
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×痣地蔵(築土神社、筑土八幡の地所から九段へ移転。本地堂(松霊山無量寺)に聖観音本地天台将軍身観音立像(木造)と地蔵尊があったが現存しない。近代まであったということだが東京名所図会には既にない。) いぼの願
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※明治前期の筑土明神と筑土神社
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この向かって右方向に寺があった。
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現在の筑土八幡神社
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○節分の札(浅草寺本堂、明治十七年迄節分に俗称「般若の札」等を外陣柱に上って三千枚団扇で信徒に撒いた、節分の「分」は人の下に力と書くため、この文字だけを切り取り飲むと安産と俗信があった 現在の節分札の般若心経の方と思われる) 難産
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:浅草寺今むかし
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:江戸名所図会
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by r_o_k | 2021-03-29 10:27 | 不思議 | Comments(0)

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