
正覚寺(新しいが江戸石仏がいくつかあり、無縁塔を大きな立派な幕末石仏が囲んでいていわれがありそう。武家墓に見られる屋根付墓も見えるが新しいか)。



大音寺(大通りに面し、おそらく10年位前まではしっかり運営されていたと思われる大寺だが、表札が剥がれ朱く面白い形の改築本堂も、窓に紙が貼られ閉鎖されており、瓦礫が散乱して正直荒れている。樋口一葉「たけくらべ」冒頭に門前町の名前が出てくる。周囲はだいぶん変わっただろう。

脇に管理されている老人の住居があるが寺としては無住?巨大な子育地蔵が圧倒する地蔵堂内は一様に埃をかぶっているが線香は新しい。人形の様子を見るに火をつけられたことがあるのかもしれない、覗いているとじっと見つめられた。



入口は閉じているが無施錠で開放されている(管理人さんには特に何も言われなかったし開けて出て行かれた)。堂は新しいのにウナギ型の敷地に参道が長大で、墓石が参道をはさみ境なく並び、木々が多いため古刹感が強い。しかし新緑の時期は剪定樹木が廃墓の残骸とともにうずたかく覗き見え(ただ現役墓が密集してちゃんと供養されてあり廃墓はむしろ他の下町の寺にくらべ割合的に少ない)、荒れた雰囲気がゲート外まで出てしまって人は入りづらい。


私は好きな、整然としない古いタイプの境内で、本堂向かって左の大きな石柱は安政の大地震の供養の名号塔。


その奥にかつては庭石などであったろう大石と墓の残骸がちょっと積まれていて、その上にのっている小さな地蔵尊は無縁供養とある。


このお寺は始めたのが遅く数は数千の規模だが新吉原投込寺三寺(ほか浄閑寺、土手の道哲(西方寺、巣鴨移転))の一つに数えられていた※。その時期がちょうど安政大地震あたりであることを思うとこのセットで投げ込み当時の供養になっているのだと推定する(他にあるのは観音銅像くらい)。ここから新吉原、それも弁天池は割と近いのである(火事や災害で遊女が死んだと伝えられる)。近所に樋口一葉が住んでいて、ここも「たけくらべ」に出てくる。)
★万治高尾とするとネームの大きさから本堂側側面の「為転(?)誉信女妙身 一念」のことを言っているのではないかと思う。西方寺などで為転誉妙身信女と墓石に戒名が刻まれている。ちなみに「月桂圓心大師」という戒名は誰がつけたのか知りません。↓



脇に西徳寺、すこぶる現代的に改築され立体迷路的な墓地の入口脇に十七代・十八代中村勘三郎の眠る墓がある、初代中村吉右衛門奉納の水盤など歌舞伎に関係ある模様)



裏に正燈寺(綺麗に整備されているが古様の本堂がすてき。無縁塔のくぼんだ柱石には延享年間の銘)すこし新吉原のほうへ行くと空の安全祈願で有名な飛不動




さらにすぐ新吉原でへりを進むと吉原神社(災害を掻い潜ったいくつかの古い石像など目を引く。お穴様は下に何かが埋まった穴があるという神秘的な、たぶん稲荷だが、吉原ならではのイメージもあるかもしれない)



角度の違う元新吉原区画




道なりに行くとほどなく吉原弁財天(吉原大火および関東大震災の供養塔として観音像をいただいた巨大な溶岩塔が有名。このあたりが広く池だった。近代石仏の中に遊女の墓の残欠もある。最近派手な絵が描かれた弁財天(その前に小さな人工池が再現されている)自体は吉原神社の管理。新吉原には多くの祠があったがそれを維新後まとめたのが今のこる神社や稲荷らしい。信仰空間として狭いが独自の江戸風情を漂わせている。ここだけを管理している人もいるもよう)。










入谷に戻りがてら太郎稲荷(前に書きました、浅草田圃の太郎稲荷、立花家下屋敷内からはじまり幕末の流行神として祠がたてられていたが開発や災害により栄華を失ったのは小林清親の寂しい絵のごとく、写真もあるが、今のような小さな境内をもった立派な堂になったのはここを信仰する講のおかげだろう、覆い堂内に集合写真がたくさんかざられています)。







