

こういう小話が出てくるのは大成功をおさめていたことの証拠だ。名士としての功績・逸話や陰口、そこに至る写真家としての専門的なものを含む話は明治大正の本に出てくるので、ここにはあくまで初期に「写真というものがどう見られていたか」肌感覚でわかるための話をもう一つ引いて置く。考えてもみよ浮世絵、せいぜいからくりの鏡絵(左様な3D洋画を以て司馬江漢が「写真」という言葉を作った)しか知らない人々がいきなり写真を見せられて、時の止まった自分の克明な姿がある、これを魔術で封じられたと思わないでおれようか。魔術というと彼らにまず思い浮かぶのはキリシタンだった。頭から暗幕を被り長いこと箱筒を向けて静止している男。怪訝な顔をした人の風景写真の少なくないことにも思いはせる。物を知る人には写真は自分の顔を公然と知らせてしまうことで、敵に精緻な人相書きを渡してしまうことになり危険であると思われた。写真嫌いにはオカルトと政治活動の二パターンの理由があった。しかし絵師が下絵に写真を取り入れるのはそう遠い先ではなく、それは西欧においても同じだった。写実の先が求められるようになる。
江崎禮二の焼芋籠城
江崎禮二苦学し写真術を修めて始めて東京に開店す、資本僅に百八十円しかも明石屋某より借りる所なり。時是れ明治三年維新草々士族は両刀を帯し平民多くはチョン髷を戴いて舊弊満城頻々洋流を罵倒す、曰く「写真は魔法なり、之を写さば国家危し」曰く「切支丹バテレンの秘密は写真術に籠れり、之を写す者は三年を出でずして死なん」と、妄語百出、萬盲相和して大に写真を排斥す、ここを以に禮二店さびれて数月に一客を得ず、薪水用を欠きて食せざるもの三日に及び、偶々知人某なるもの来って彼を慰め焼き芋一銭を買ふて之を侑む、禮二一喫膝を拍って喜んで曰く「我れに食あり天之を授く」と、因て銭若干を某より借りて之を瓶中に貯へ、一食焼芋五厘と定めて半月の飢を凌ぎ、大垣藩士松井喜太郎を説いて資金一千円を借り、家宅を浅草奥山に構えて写真を拡張し、百難を排して遂に今日の盛運を致す。(嬌溢生「名士奇聞録」実業之日本社m44/11)
ここに出てくる明石屋某とは芝西の久保明石屋佐吉といい、晩年家運が傾いたさい数千円をもって支え恩返しをした。電話番号浪花百八十二番、とは「立身致富信用公録第1編」m34-35による。もうかけても出なかろう。
