(大幅追記)写真を称してキリシタンと呼び荒神様に怒られると

江崎

明治四年、江崎禮ニ橫濱より歸來して其宇田川町荒物屋武藏屋の二階借りして寫眞師となりしが、まだこの頃ほひは、寫眞を称してキリシタンと呼ぶ迷信なり、御客といって極めてあらず、赤貧縫うが如き生活、或時飯を焚かんとすれど燃料に苦しみ、隣家で捨てた古下駄を拾って、彌々飯を炊いてゐる處へ、武蔵屋の妻君に見付かり、荒神檨に罰が当ると叱りを受け、折角燃いているを搔き消し、切火を打つやら、塩を振りまく喧ぎ御蔭で、出来損ひ飯を喰って禮に大に困窮中の滑稽も大方ならざりしと。

〜加藤教栄「滑稽百話」文学同志会M42/11

さきほど朝日新聞のニュースで浅草の著名写真師、江崎礼二撮影の十二階凌雲閣から新吉原俯瞰写真が見つかった(おそらくヤフオクに出て落とされ判明した)という話があった。本気で調べていないので詳細不明だが、浅草では二人の写真家が勉強先の横浜から越してきて競っていたが、その一人が下岡蓮杖である。湿板写真で時間のかかるものだったところに速乾の乾板写真を持ち込み、隅田川競艇で実況写真を撮影し皇室に収められて名を挙げた。朝日新聞のニュースにもあるが江崎の写真を貼り付けた厚紙にはこのような絵が描いてある。
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日月の表現も興味深いが競艇と水雷写真が湿板では考えられない瞬間を切り取っていた(このあたりの写真はいくつか書籍化されている)。以後冒頭の赤貧状態は解消され乾板写真のパイオニアとして煉瓦の立派な写真館を建てた。凌雲閣の社長をつとめたこともあり、まだ網で転落防止のされていない展望台から望遠で見晴らしを撮っていた。私のものは冬の浅草寺の拡大写真だが残念ながら薄くなっている。新吉原写真は克明で、のちに網のかかったパノラマ写真にもうつりこんではいるが識別不可能である。他に似たような写真があるのではないかと調べたが目下この地域を撮った航空写真もなく、それは浅草が江戸の田舎に接していたから吉原も方向が逆となりとてもあのような大きさで、意味を持って撮る対象になっていなかったのだろう。十二階裏から北で写真があるのはほとんど山谷堀と日本堤くらいのものである。江崎ならではのナイスな記録だ。それにしても一枚しかないとは考えにくい。店頭で売っていた写真(公園で売るような格ではなかった)だから、私のものも含めてもっと発掘されてほしい。乾板写真ゆえの消えやすさもあるのだろうか。

このあたり、詳しくは十二階の記事にまとめている。かなりのボリュームですが、ご興味があればどうぞ。
ほか日記にも触れたものがある。

閑話休題。
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江崎氏は浅草区議会議長から市会議員にもなっているが、同輩が刺されたさい(物騒な時代だ)腰を抜かしたとして、「腰を抜かした早取写真師」という異名を頂いたという。

こういう小話が出てくるのは大成功をおさめていたことの証拠だ。名士としての功績・逸話や陰口、そこに至る写真家としての専門的なものを含む話は明治大正の本に出てくるので、ここにはあくまで初期に「写真というものがどう見られていたか」肌感覚でわかるための話をもう一つ引いて置く。考えてもみよ浮世絵、せいぜいからくりの鏡絵(左様な3D洋画を以て司馬江漢が「写真」という言葉を作った)しか知らない人々がいきなり写真を見せられて、時の止まった自分の克明な姿がある、これを魔術で封じられたと思わないでおれようか。魔術というと彼らにまず思い浮かぶのはキリシタンだった。頭から暗幕を被り長いこと箱筒を向けて静止している男。怪訝な顔をした人の風景写真の少なくないことにも思いはせる。物を知る人には写真は自分の顔を公然と知らせてしまうことで、敵に精緻な人相書きを渡してしまうことになり危険であると思われた。写真嫌いにはオカルトと政治活動の二パターンの理由があった。しかし絵師が下絵に写真を取り入れるのはそう遠い先ではなく、それは西欧においても同じだった。写実の先が求められるようになる。

江崎禮二の焼芋籠城


江崎禮二苦学し写真術を修めて始めて東京に開店す、資本僅に百八十円しかも明石屋某より借りる所なり。時是れ明治三年維新草々士族は両刀を帯し平民多くはチョン髷を戴いて舊弊満城頻々洋流を罵倒す、曰く「写真は魔法なり、之を写さば国家危し」曰く「切支丹バテレンの秘密は写真術に籠れり、之を写す者は三年を出でずして死なん」と、妄語百出、萬盲相和して大に写真を排斥す、ここを以に禮二店さびれて数月に一客を得ず、薪水用を欠きて食せざるもの三日に及び、偶々知人某なるもの来って彼を慰め焼き芋一銭を買ふて之を侑む、禮二一喫膝を拍って喜んで曰く「我れに食あり天之を授く」と、因て銭若干を某より借りて之を瓶中に貯へ、一食焼芋五厘と定めて半月の飢を凌ぎ、大垣藩士松井喜太郎を説いて資金一千円を借り、家宅を浅草奥山に構えて写真を拡張し、百難を排して遂に今日の盛運を致す。(嬌溢生「名士奇聞録」実業之日本社m44/11)

ここに出てくる明石屋某とは芝西の久保明石屋佐吉といい、晩年家運が傾いたさい数千円をもって支え恩返しをした。電話番号浪花百八十二番、とは「立身致富信用公録第1編」m34-35による。もうかけても出なかろう。


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〜大混雑の海運橋から第一銀行を撮影中の写真師が、目の不自由な人とぶつかって大迷惑の図。互いに見えていない状況をうつしたもの。明治前期の写真は下手に絵を描いてもらうより高くつくものだった。器械や薬品などとても手に入らない。ゆえこれは素人カメラマンではない。

by r_o_k | 2018-07-26 15:10 | ご紹介 | Comments(0)

揺りかごから酒場まで☆少額微動隊

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。

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