「明治二年頃の事である、吉原の角海老に若紫と云ふ娼妓があったさうだ。
其頃は吉原繁盛の時代であるし、此花魁容貌はヅントよし、年も若く、大の才物と来て居るので、楼中肩を比べる者もない全盛であったが、少し困る事には気に向かぬ客をば、容赦もなく振る、楼主も気を揉んで時時意見を加ヘるが、意見をすると、尚更意地にかかって振ると云ふ有様であるので、頗る持てあまし者であった。
此花魁の許へ本所辺から、坊主客が一人馴染で来たが、余り繁々は来ない。併し来ると相応に金をつかって、坊主に似合はず器用な遊びをするので、内外の者の受けもよく、殊に此坊さんが来ると、何故か花魁の機嫌がよく、其当座暫くは、客を振ると云ふ事もないので、楼主は殊の外有難がって、成らう事なら此坊さんに度々来て、居続けでもして貰ひ度いと願ふのであるが、さう誂へ通りには来ない。
元より年配の和尚ではあり、無論熱くなって通ふといふ譯でないが、来るとなかなか能く世話をやいて、頼みさへすれば、相応に利益にも成って呉れる、勿論色恋ではあるまいが、若紫の方でも、力に思って居たものであらう。
或時通って来ていふには己は拠ない用事が出来て、一年計り京都へ行く、暫くは来られないからといふので、其夜は殊更金を遣って、快よく遊んで帰ったが、五六日過ぎると、若紫の新造おなみといふ女の處へ箱根から手紙をよこした、其の文面は、若紫は剣難の相がある、彼にそれと知らせては成らぬが、其方の心で、気を注て遣ってくれといふのであった。
此おなみは二十二三、まだ年若の女であったが、花魁に対しては、鏡山のおはつ其処退けと云ふ極めて忠義者であるので、和尚も殊の外目をかけて、二なきものに愛して居たのである。
おなみは其の文を一読して、愕然として驚いた、決してよい加減の事を云って寄越す人ではない、たしかに見る所があって、心附けて下すったのに相違はないが、迂闊に人に相談はならず、花魁へは尚話されぬ、ハテ何としたものであらう、と気が気ではないが、予防の仕方もないので唯一日も早く本所の旦那が帰って来て下さればよいが、と神仏を念じて待って居たなれど、何にしろ一年は帰らぬと云ったのであるから、さう直ぐには帰って来ない、手紙でも出して、孤衷を訴へ様かと思っても見たが、行先きを聞いて置かなかったので夫れもならず、心一つを傷めるばかり、おなみは困り果てて居た。
すると其夏の事である、和尚の云ったに違わず、若紫花魁ゆくりなくも剣難にかかって、非命の最期を遂げた、是より先き花魁のもとへ、本町辺の呉服店の手代が通って居たが、遣い過ぎの結果、此節流行る無理心中だ。
何處から持って来たか、来国光の短刀で若紫の喉元を一刀突たが、花魁なかなか気丈なもので、手を負ひながら、男を剥退けて廊下へ駆け出す、男は最う是までと、我と我が咽を刺貫いて、無残の死を遂げたと云ふ紋切型であるが、其折の若紫の衣裳が好い。
白縮緬へ墨書に雲を描いた寝衣を着て、鴇色縮緬のシゴキをしめ、髪は洗い髪の投島田で、遅れ毛を用捨も無く顔に乱しかけ、白絖のハンケチで傷口を押へて、梯子段の上まで駆け出したが、弱ったと見えて、片手で傷口を押へたまま、片手で欄干へ捉って、両膝ついて休んで居ると、斯くとは知らず、下からおなみが登って来た。
これを見ると、急に気が緩んだと見えて、傷口を押へた手がゆるむ、鮮血颯っと迸って、其のまま冥途へ旅立した、正に是三寸息あれば千般に用い、一日無常なれば万事休すだ、おなみは肝を潰して、梯子から下へ転げ落ちた。
随分利益に成った女ではあるし、十九や二十で不慮の死を遂げたのであるから、楼主も殊の外不憫がって、己が菩提所へ手厚く葬送をして、跡をも念比に吊つてとらせたが、浮かばれないものと見えて、其後おなみの所へ花魁が来る、何と云って来るかといふに、私はあんな男と死んで、心外で溜らないから、何うかして此の鬱憤を晴らして貰ひたい、それでないと、私は成仏出来ないと云ふのである。
一夜二夜は、おなみも思ひ寝の夢と思って、気にも止めずに過したが、余り続けて来るので気になって来た、人に話すと、それはお前さん神経のせいだよ、と排斥されて仕舞ふのである、本人にはどうも神経とは思はれない、それが果じて気病となる、心だての善い女であるから、楼主も不憫がって、いろいろ医薬を勧めたが、おなみの云ふには、私は花魁と姉妹の約束をしたのでありますから、寧そ冥途へ行って、花魁の助太刀をしませう、娑婆に居たのでは、何うにかして上げ様と思っても、仕様がありませんからと云って、其まま次第弱りに弱って、若紫の死後二月計り置いて、此稀代の忠義者は、トウトウ花魁の跡を慕って、冥途へ赴いたので、ヤレヤレ不憫なものだ、彼の所願通り、若紫と一つに埋て遣るがよいと云って、若紫の塚へ合葬した、生きては室を同うし死しては壙を偕にする、例稀なる主従であった。
其の跡へ例の和尚が帰って来た、早速角海老へ遣って来て、若紫は何うしたと問ふと、遣手若者口を揃へて、云々だと云ふ、おなみはと問ふと、それも云々だといふ、前代未聞の事でござんす、と舌を揮って居るので、和尚も今更の様に残念がったが、併し兼て期して居たと見えて、左程には驚かない。とはいへ己の帰るまでは、何うかして活かして置きたいと思ったに、残念な事をした、何にしても残り多いから、彼の元の部屋で、元の通りにいっぱい飲まうと云ふと、あの部屋は其後閉切って、一切お客を入れません、と云ふにも構はず、掃除をさせて其處へ這入り、酒肴を取寄せて、遣手のおさよを始め、楼中の者を誰彼となく呼び上げて、若紫の在りし時に少しも違わず快く酒を飲みかけた、酒酣なるに及んで、自から出るは亡き花魁の噂である、朋輩女郎の中には泣出す者すらあった、和尚の云ふには、
「若紫は居るよ、おなみも居る、ソレさよの側に居る、
「ヒエッ、
と云って遣手は飛上った、
「へ、御戯言を、
と若者の喜助が云ふと、
「イヤ戯言ではない、真個に其處に居るよ、若紫は白縮緬に墨絵の雲を描いた単衣を着て、何だか桃色の様なシゴキをしめ、髪を島田に結って、白ハンケチで咽の傷口を押へて居る、おなみは藍微塵の袷を着て居るよ、
と云はれて、一座皆慄として身の毛をよだたせた、二人の死際当時の服装を、和尚が知って居やう筈はないのに、さながら見る通り指したのであるから、凡夫の目には見えぬけれども、和尚の目には、亡き二人が此席に列つて居るが、ありありと見えるのであらう、是は容易ならぬ事と犇めいて、気の弱い女連中は、逃げ出すもあれば、早く楼主へも此噂が聞えて、楼主も大きに驚き、早速罷出て和尚様に拝謁致し、何卒二人の者の妄執の晴れまする様、御方便もあらばと願ふと、
「宜しい、そんならこれを書いて遣るから、掛物に仕立て、絶えず此部屋へかけて置くが能い、
と云って筆硯を取寄せて、雪白の鵞箋紙全紙へ書いて呉れたのは、
莫言春色如流水 花笑鳥歌二十春
一夜清風吹不絶 山頭初月似眉新
其後は和尚も来ず、幽霊を見た者も無い、寺は箕輪の浄閑寺、浮いた話ではない。」
~幽霊だけに。旧仮名等ランダムに現代化などしておりますので全部が原文通りではありません。