若紫哀話と若紫怪談、浄閑寺にて(書き起こし再掲)

浄閑寺といえば新吉原の投げ込み寺として著名である。
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明治になってやや事情は変わるとはいえ娼妓は年季のあけるまで、即ち楼主に「全ての」借金(事実上買値+全生活費+利息)を返すまでは苦界の身分として、死んだとしても墓石に名の一つも刻まれず、夜中に墓守りへ幾ばくかの金と引き換えに共同墓穴に放り込んでもらうものだった、といわれる。これを投げ込みといい新吉原だけで3箇所あったと聞いている。個別には供養されなかったともいう。この投げ込みというよろしくない話がいつの時代のどこの寺のものなのか、恐らくやり方の変遷もあり、生前の扱いや行いによって丸裸にし菰で巻いて人目を盗みこっそり門内へ投げ込む無残なこともあったし(人間として祟らぬよう畜生道のものとして扱うためとされる)、一方で浄閑寺等過去帖にはかなり遊女と思われる名前の記載があり、俗にいう変な名前ではなくほぼちゃんとした戒名があるともいい、格下の宿場女郎ですらそうだが馴染み客のつくような者であれば如意輪観音の一つも立てられたりした。自分で立てたものもあったろう、名のある花魁ともなれば伝説とともにそのへんの侍より立派に供養されもしたが、かなりの少数派である(没後年月が経って何らかの理由で篤く追善供養されたものが残った場合もある)。遊女屋のあった場所の無縁塔に女人墓石が山積みになっていることはざらだが、しかし、新吉原は規模が違う。明があれば倍以上の暗もある。浄閑寺も昔はそれこそ土饅頭に塔婆や線香の立つのみで、地面に骨がちらほら見えていたということである。庶民の墓でも土葬のところはそんなものだった、小塚原のような場所や各地の地獄谷と呼ばれる風葬地には髑髏がころころ転がっていた、というのはともかく、新吉原累計何万体の骨とあれば狭いお寺の墓地に土葬したら鮨詰めとなる。そのくらいの風情にもなろうものだろう。とまれ所縁深い永井荷風はそれを哀れんだのである。

「断腸亭日乗」昭和12年6月22日

若紫塚記

女子姓は勝田。名はのふ子。浪華の人。若紫は遊君の号なり。明治三十一年始めて新吉原角海老楼に身を沈む。楼内一の遊妓にて其心も人も優にやさしく全盛双ひなかりしが、不幸にして今とし八月廿四日思はぬ狂客の刃に罹り、廿二歳を一期として非業の死を遂けたるは、哀れにも亦悼ましし。そが亡骸を此地に埋む。法名「紫雲清蓮信女」といふ。茲に有志をしてせめては幽魂を慰めはやと石に刻み若紫塚と名け永く後世を吊ふことと為死ぬ。

墓石には塚ではなく墓とある。
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明治14年生まれで勝田信子という。幼少期に連れてこられ17で遊女となり、通常は衣装代や何やかやと借金を増やされ年季は遠くなっていくものを源氏物語は若紫の名に恥じぬ働きできっかり5年の予定のまま自由の身となる予定だった。その器量は写真からも伺える。これはいつか実物と差し替えるので今は仮掲載にて容赦願いたい。目下2枚しか確認できていない。

(後補)この写真は大正時代のものという話を読んだ。そうすると別人となる。写りが他の花魁道中絵葉書と似て綺麗過ぎる。古い大判写真もあるようだがどうだろうか。大正時代、文才に秀でた名妓稲本楼小紫(若紫に増し非常に多い名前で権八小紫からとっているのであろう紛らわしい、明治の花魁くらべ一等、人騒がせな稲弁楼小紫とは異なる)によく似た顔の写真があり、衣装や店名が異なるものの、店を移っていた可能性もなきにしもあらず、実際この写真に小紫と書く人もいる。ソースを調べます。それまで疑問符付き。
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明治も中頃近くなってくると江戸のような全人的な格を求められないようになったと読むが、それでも器量だけではつとまらぬ。ご維新あと同輩とことなり色を避けた西郷隆盛が遂に気に入ったのは稲本楼の若紫だった。肴だといって火鉢より摘み出した炭火をすくっと刺繍の袖で受けメラ燃え焦げるのを笑い飛ばした。機転の利くのも必要だが、こちらの若紫は出の悪くない者とみえて雰囲気があり、優しく上品であったとも伝わる。すでに現代風の美人も多い時代、豪華な和装がよく似合う。大店角海老の看板であり身請け話も多かったが靡かなかった。年季明けて恋仲にあった某と一緒になるとわかると楼をあげて大いに喜び、客も一様に祝福して名残の酒もて送り出す様子だったという。

だが通り悪魔はいるものである。無理心中するつもりの他の店で袖に振られた男が、気のふれたように匕首懐のままふらっと足を踏み入れてきた。そして禿や男衆の止める隙きもなくたまたま目の前にいた若紫の喉元めがけて匕首を抜きざま突き立てた。一面を血の海にして絶命する若紫と同時に男は刃を己へ向けて無理心中を果たした。年季の明ける5日前のことである。

嫁入り先の籍も貰えず、妓楼預かりの無宿の遊女のまま死んでしまったことを楼主や同僚は非常に残念に思い、馴染みだった客も加えて異例の墓石建立となった。それが現在は浄閑寺墓地へ潜る扉の右脇にある若紫の墓である。今も綺麗に供養されている。明治36年8月24日という、もう20世紀に入っての話である。

ところでこの有名な哀話に異説を書いた人がいる。元より確からしい話は余り出てきにくい場所だからして、憶測と想像で固めた単なる創作に過ぎない。伝えられている性格とも違う。本人も題名にしているほどである。年代も違っている(しかし角海老楼の若紫のことには違いない)。怪談は意図的に時期や名前をずらすことがあるので、それはそうと思っておいて、書き起こした。明治42年4月。事件からさほど経ってない。

三昧道人「随筆 真偽不保証」

若紫

「明治二年頃の事である、吉原の角海老に若紫と云ふ娼妓があったさうだ。


其頃は吉原繁盛の時代であるし、此花魁容貌はヅントよし、年も若く、大の才物と来て居るので、楼中肩を比べる者もない全盛であったが、少し困る事には気に向かぬ客をば、容赦もなく振る、楼主も気を揉んで時時意見を加ヘるが、意見をすると、尚更意地にかかって振ると云ふ有様であるので、頗る持てあまし者であった。


此花魁の許へ本所辺から、坊主客が一人馴染で来たが、余り繁々は来ない。併し来ると相応に金をつかって、坊主に似合はず器用な遊びをするので、内外の者の受けもよく、殊に此坊さんが来ると、何故か花魁の機嫌がよく、其当座暫くは、客を振ると云ふ事もないので、楼主は殊の外有難がって、成らう事なら此坊さんに度々来て、居続けでもして貰ひ度いと願ふのであるが、さう誂へ通りには来ない。

元より年配の和尚ではあり、無論熱くなって通ふといふ譯でないが、来るとなかなか能く世話をやいて、頼みさへすれば、相応に利益にも成って呉れる、勿論色恋ではあるまいが、若紫の方でも、力に思って居たものであらう。


或時通って来ていふには己は拠ない用事が出来て、一年計り京都へ行く、暫くは来られないからといふので、其夜は殊更金を遣って、快よく遊んで帰ったが、五六日過ぎると、若紫の新造おなみといふ女の處へ箱根から手紙をよこした、其の文面は、若紫は剣難の相がある、彼にそれと知らせては成らぬが、其方の心で、気を注て遣ってくれといふのであった。


此おなみは二十二三、まだ年若の女であったが、花魁に対しては、鏡山のおはつ其処退けと云ふ極めて忠義者であるので、和尚も殊の外目をかけて、二なきものに愛して居たのである。


おなみは其の文を一読して、愕然として驚いた、決してよい加減の事を云って寄越す人ではない、たしかに見る所があって、心附けて下すったのに相違はないが、迂闊に人に相談はならず、花魁へは尚話されぬ、ハテ何としたものであらう、と気が気ではないが、予防の仕方もないので唯一日も早く本所の旦那が帰って来て下さればよいが、と神仏を念じて待って居たなれど、何にしろ一年は帰らぬと云ったのであるから、さう直ぐには帰って来ない、手紙でも出して、孤衷を訴へ様かと思っても見たが、行先きを聞いて置かなかったので夫れもならず、心一つを傷めるばかり、おなみは困り果てて居た。


すると其夏の事である、和尚の云ったに違わず、若紫花魁ゆくりなくも剣難にかかって、非命の最期を遂げた、是より先き花魁のもとへ、本町辺の呉服店の手代が通って居たが、遣い過ぎの結果、此節流行る無理心中だ。


何處から持って来たか、来国光の短刀で若紫の喉元を一刀突たが、花魁なかなか気丈なもので、手を負ひながら、男を剥退けて廊下へ駆け出す、男は最う是までと、我と我が咽を刺貫いて、無残の死を遂げたと云ふ紋切型であるが、其折の若紫の衣裳が好い。


白縮緬へ墨書に雲を描いた寝衣を着て、鴇色縮緬のシゴキをしめ、髪は洗い髪の投島田で、遅れ毛を用捨も無く顔に乱しかけ、白絖のハンケチで傷口を押へて、梯子段の上まで駆け出したが、弱ったと見えて、片手で傷口を押へたまま、片手で欄干へ捉って、両膝ついて休んで居ると、斯くとは知らず、下からおなみが登って来た。


これを見ると、急に気が緩んだと見えて、傷口を押へた手がゆるむ、鮮血颯っと迸って、其のまま冥途へ旅立した、正に是三寸息あれば千般に用い、一日無常なれば万事休すだ、おなみは肝を潰して、梯子から下へ転げ落ちた。


随分利益に成った女ではあるし、十九や二十で不慮の死を遂げたのであるから、楼主も殊の外不憫がって、己が菩提所へ手厚く葬送をして、跡をも念比に吊つてとらせたが、浮かばれないものと見えて、其後おなみの所へ花魁が来る、何と云って来るかといふに、私はあんな男と死んで、心外で溜らないから、何うかして此の鬱憤を晴らして貰ひたい、それでないと、私は成仏出来ないと云ふのである。

一夜二夜は、おなみも思ひ寝の夢と思って、気にも止めずに過したが、余り続けて来るので気になって来た、人に話すと、それはお前さん神経のせいだよ、と排斥されて仕舞ふのである、本人にはどうも神経とは思はれない、それが果じて気病となる、心だての善い女であるから、楼主も不憫がって、いろいろ医薬を勧めたが、おなみの云ふには、私は花魁と姉妹の約束をしたのでありますから、寧そ冥途へ行って、花魁の助太刀をしませう、娑婆に居たのでは、何うにかして上げ様と思っても、仕様がありませんからと云って、其まま次第弱りに弱って、若紫の死後二月計り置いて、此稀代の忠義者は、トウトウ花魁の跡を慕って、冥途へ赴いたので、ヤレヤレ不憫なものだ、彼の所願通り、若紫と一つに埋て遣るがよいと云って、若紫の塚へ合葬した、生きては室を同うし死しては壙を偕にする、例稀なる主従であった。


其の跡へ例の和尚が帰って来た、早速角海老へ遣って来て、若紫は何うしたと問ふと、遣手若者口を揃へて、云々だと云ふ、おなみはと問ふと、それも云々だといふ、前代未聞の事でござんす、と舌を揮って居るので、和尚も今更の様に残念がったが、併し兼て期して居たと見えて、左程には驚かない。とはいへ己の帰るまでは、何うかして活かして置きたいと思ったに、残念な事をした、何にしても残り多いから、彼の元の部屋で、元の通りにいっぱい飲まうと云ふと、あの部屋は其後閉切って、一切お客を入れません、と云ふにも構はず、掃除をさせて其處へ這入り、酒肴を取寄せて、遣手のおさよを始め、楼中の者を誰彼となく呼び上げて、若紫の在りし時に少しも違わず快く酒を飲みかけた、酒酣なるに及んで、自から出るは亡き花魁の噂である、朋輩女郎の中には泣出す者すらあった、和尚の云ふには、


「若紫は居るよ、おなみも居る、ソレさよの側に居る、
「ヒエッ、
と云って遣手は飛上った、
「へ、御戯言を、
と若者の喜助が云ふと、
「イヤ戯言ではない、真個に其處に居るよ、若紫は白縮緬に墨絵の雲を描いた単衣を着て、何だか桃色の様なシゴキをしめ、髪を島田に結って、白ハンケチで咽の傷口を押へて居る、おなみは藍微塵の袷を着て居るよ、


と云はれて、一座皆慄として身の毛をよだたせた、二人の死際当時の服装を、和尚が知って居やう筈はないのに、さながら見る通り指したのであるから、凡夫の目には見えぬけれども、和尚の目には、亡き二人が此席に列つて居るが、ありありと見えるのであらう、是は容易ならぬ事と犇めいて、気の弱い女連中は、逃げ出すもあれば、早く楼主へも此噂が聞えて、楼主も大きに驚き、早速罷出て和尚様に拝謁致し、何卒二人の者の妄執の晴れまする様、御方便もあらばと願ふと、


「宜しい、そんならこれを書いて遣るから、掛物に仕立て、絶えず此部屋へかけて置くが能い、
と云って筆硯を取寄せて、雪白の鵞箋紙全紙へ書いて呉れたのは、


莫言春色如流水 花笑鳥歌二十春
一夜清風吹不絶 山頭初月似眉新


其後は和尚も来ず、幽霊を見た者も無い、寺は箕輪の浄閑寺、浮いた話ではない。」


~幽霊だけに。旧仮名等ランダムに現代化などしておりますので全部が原文通りではありません。

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〜宿場女郎図、月岡芳年(圓朝コレクション)


by r_o_k | 2018-07-22 13:06 | 不思議 | Comments(0)

岡林リョウの日記☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi