江戸時代つぶやき(黒人塚ほか写真追加、十年越しはりまや橋現場検証、五百羅漢寺、タコ薬師、弥助、三浦按針、新撰組BLへの疑問);2018/7/10-16
2018年 07月 18日








深川深川と書いてきたけど本所ですね。五百羅漢寺、明治初期 安政大地震で被災し、正面の三匝堂が百観音さざえ堂(舞台付)ですが屋根などボロボロ、左は山門すかすか、右奥本堂は左右羅漢堂倒壊で羅漢さん鮨詰め。横浜開港資料館蔵アルバム、ファーイースト、東京名所図会(江戸名所図会含)より https://pic.twitter.com/987NvHMbNn









本堂、黄檗宗様式ですね。墨東の毘沙門堂や目黒で戦火を掻い潜った同様式の堂を見ることができます(後者国重文)今は黄檗宗ではないと思いますが、三代でこの広大なお寺が確立され江戸の名所となりました。隅田川景色をさざえ堂2階舞台(ベランダ)から眺める北斎画が有名(当時3階建は許されなかったか、三層構造だからサンソウ堂とはいわれる)。
江戸とは関係がないが紆余曲折あって徳川夢声の小説で有名な元新橋芸者のお鯉さんという方が大変な才覚を持ち、出家して目黒のお堂を再興し、その妹さんからの古い堂は現在の本堂の位置にあった。
お鯉さんはかつて山縣有朋から桂太郎の妾に推挙され正妻とも折よくやった。羽振りは良く銀座のカフェを経営するが、そこでは客が喧々諤々の議論をやっており、日露戦争ポーツマス条約締結への反発でついに暴動となった折、日比谷焼打事件に巻き込まれ店を失ってしまったらしい。当の総理桂太郎の妾だからだろう。

戒厳令が敷かれたあとはこのマンガのとおり。参考。


心の強いお鯉さんはこのあと桂太郎を失っても色々活発に活動しているようだが、事件に巻き込まれ罪を着せられてからは髪を落とし仏門に入り、ほぼ何もないところから五百羅漢寺を再興すべく行脚した。ただ、ここまでくると確からしい資料が少ない。
閑話休題。
古式の寺院ではあるが中の諸像配置は今に似ていたと遠く記憶している。それはそれでとても仏式で興をそそられるものだったが、76年頃に現在の新建築となり驚いた(幼少のみぎりよく覚えていると我ながら)。中に入ってお参りしたのはそれから10年以上たってのことだった。じつはこの回廊式が本来の姿と知った。現在はすっかり勢いを盛り返し整備もされ、展示も充実している。本堂右手にある原爆碑は元お鯉さんと徳川夢声によるものだ。平山蘆江の追悼碑もある。
https://twitter.com/ryookabayashi/status/1017281869979611136…





posted at 15:54:33
メモ。この写真、東京景色写真版(M26)にあるものだが、公式サイトのトップ画を見る限り蛸薬師こと成就院(目黒)。現在本堂向かって左にある入り口は正面にあった。本堂の型式的には同じような形をしている(広さは違う模様)。境内に今も秋葉大権現社を併置しており、小社であるものの徳川家光による勧請で江戸南部の秋葉講の元であるらしい。神仏分離で一斉に秋葉神社と改名、時勢がら寺の名より上に置いたと思われる。 https://pic.twitter.com/4chK0j1dDX



posted at 18:23:05
3年以上前のTwitterネタだが続報は?子供っぽく煽りが現代的で不審に思っていた。新選組をリアタイで男と認識できる世代は曾祖母じゃ済まないのでは。嘉永生まれ?ただの伝聞?>新選組屯所の隣の家から土方歳三と沖田総司の官能小説が発見され話題に #ldnews http://news.livedoor.com/article/detail/9894334/…
posted at 15:19:49
伝聞とすると明治に入る(まずそうだろう)。明治でもこのてのものを書くことは凄いかもしれないが、一般的な層とすればしっかり創作して文字で書けることが大前提だから明治でも少し下るのでは。すると読める字体で書かれている可能性高く何故専門家にあたったのか。 https://twitter.com/ryookabayashi/status/1016930040150257664…
posted at 15:25:04
マジレスしてしもた https://pic.twitter.com/nhYBodGxJM
(これは海援隊士、麻布に眠ってます)

posted at 15:27:37
HGの嫁広告まちがって踏ませるふざけんなよ。昨日から大量の自動ツイートしたせいで焼け野原のようなアナリティクス結果となっていることに気づいたが、ついでにブログも荒野のようなアクセス数になっていて連動感。篠崎はでかい松のある善養寺がオススメ。十年前にブログ書いたな、リンクツイートしよ https://pic.twitter.com/CbMliSOqxO

世界ふしぎ発見の弥助回を思い出しワクワクしてきたところでファーイーストの三浦按針遺跡探しの回を思い出した。「按針町に住む庶民はそこが誰かの名前であったか一切知らない」と蔑む様に嘆く文章、Wikipediaだと見つかった墓に埋葬はなく、平戸の供養墓に分骨された三浦家の骨と、、何故左が無縁仏 https://pic.twitter.com/p9fo6qAoET






〜ファーイースト(明治初期)より、按針町風景(もっと画質の良いものが復刻されている)、三浦按針夫妻墓、位牌の写真
弥助の映画はぜひ、敗走・釈放後に帰国して、異国人に狩られるのではなく、異国人とわかりあい、時に闘う戦国の心を伝える侍としてほしいもんだ(モザンビーク島でなければならなくなるけど)
中国は言わずもがな日本も近世鎖国前は比較的異人種が入ってきておりアフリカ系も少なからずいたと言われている。鎖国後も出島経由で例えば駱駝を連れてくる動物使いもおり、異人種自体が見世物的に庶民の目を集めたが、もっと前では弥助以外にも砲兵として武将に仕えた者もいたという記述があり、弥助が生き残って仕官したという想像もあるが別人で、弥助よりは下の兵として扱われた可能性が高いようだ。

向島の白髭神社に黒人塚という石碑が残っている。塚は墓の意味で使われることもある言葉で銘文が薄く判別しづらいことからかつてアフリカ系人種の墓ではないかと憶測されたが全く異なり、黒人と号した日本人のものであった。



浜辺黒人は本芝の書籍問屋の商人で本名を斯波孟雅、シバの姓。芝浜の頭目であり、当時流行っていた万句合同様、狂歌募集して選を出版する興行を始めたという。応募者は入花料を収める。この塚は歌碑とのこと※。享保から寛政までを生きた。色黒でお歯黒までしていた。昔の本には名前がしばしば出てくる。辞世がこれゆえ誤解を招くこともあるかもしれない:
黒人が黄色の人にならんとて浜辺をすてて川岸へゆく
(顔の黒い自分(黒人)が顔が黄色い人(黄疸の出てる人)になろうとして芝浜(浜辺)を捨てて隅田川岸へ行く、隅田川はシジミが名物で肝臓に良いと知れ渡っていた。飲み過ぎで思いもよらず亡くなった可能性)
※右面にはこう銘がある。歌碑とするには内容が追悼の気配に満ちている。
天やこの人を生み 天やこの人亡る この人千人の玄 崑崙一人に選る倚る、
玄ニ号黒人、
左面はこちら。
うつせみの うつつにしばし すみた川
渡りそはつる ゆめのうきはし、
やはり追悼風。狂歌師にあてるには真面目すぎる。だが、現に「しば」と入っているのは注目点。
河辺宮人と高市黒人が絡んでいる雰囲気w(萬葉集)

posted at 22:55:23
弥助の映画、ぜひ短編アニメーション「アーム・ジョー」も製作して同時上映してほしいな。アーム・ジョー。
posted at 23:08:54
近代日本は対外比較してはゆるやかな階級社会だった、運と時代次第だけど下剋上的な身分の飛び越えもあった(逆に侍でも人にあらずの身分に落とされた)とはいえ心の中身は非常に差別的で「ハシタメ」の漢字は田中貢太郎も使うがギョッとする。下男下女奉公人は奴隷扱いな書き方を、昨日弥助の件でも見
posted at 22:07:06
どうもみなさんの反応が薄い「はりまや橋」についてだが、お馬さんの墓でも行ってこようかと考えたり寝ようと思ったり。お馬さんの墓っていっても回向院じゃねーよ、西福寺。過去帖で発覚したらしい。かなりのスキャンダルの上、何せ20も年下だったから別れさせられたのち結局遠く嫁入りし生涯を全うしたらしい。その家のお墓から近年しっかり個別に分けた。ぼんさん、純信のほうは瀬戸内のどっかの堂守になったんだったか、定かではない。五台山中腹の実家(井戸のあるところ。鍛治屋町の鋳掛屋の娘説が強いらしいけど)から遠く東京で余生(17歳以降)と聞いていたが。ちょっと下世話なイメージもある生々しい話なので、口を濁す人が多いのは元が俗謡だからみたいです(作者不明で歌詞も節もいくつかあるそう)。コソコソ遭ってたコソコソ岩。




posted at 23:00:16
(後補)西福寺へ行ってきた。東京都北区豊島二丁目(豊島区ではない)、王子駅から徒歩圏内の隅田川も近いあたりで酷い戦災を受けてますが豪華に復活し、いっぽう古塔も残しています。昭和までの石橋供養塔はどこのものだろう。入口左すぐ塀裏沿いに塚があります。近年過去帖から発覚したお馬さんの塔です。嫁入りしたところは寺近くの家で、まったく語らず、そのままおばあちゃんになって寺崎家の祖先(碑文には合祀とある)になったようです。明治36年ですから(スキャンダル時まだ16歳)20世紀になってますよ奥さん。高知を出たのは明治十八年とありますから事件よりかなり経っています。色々あったのでしょうか。このあたりは高知で研究本を読み歩きましたがいくつか異説があると思われます。けれど、東京へ出たのは事実で、嫁入りしたのか居候したのかわかりませんがとにかく番地までわかっていたように碑文に書いてあります。ちなみにこの家のお墓は新しく普通の角柱墓となっていますが墓銘碑の初めの方にお馬さんと言われている戒名があり、幼女名と男名が並んで、最初、となってますので、この墓銘碑の元がいつなのかにもよりますが、普通は明治になって嫁入りし当時としては珍しく遅い子をもうけたとみるでしょうね。明治以降のみ刻んでいるのはそれ以前は墓を個別に作らなかったか別の場所ないし理由があって無かったという、無くはないことです。




供養墓の方に骨壷を移したかどうかはっきりしませんが移したのではないかなと思います。紅いはりまや橋の模型が置いてあるようなことがネットに書いてましたけれどいくらなんでもそれは寺崎側にも失礼ですし、取り除かれたのでしょう。※
※できたばかりの頃の写真がありました。位置が違うようです。直したとき取り除いたのでしょう。

現場からは以上です。