揺りかごから酒場まで☆少額微動隊

岡林リョウの日記☆旅行、歴史・絵画など。

2018/6/1川村~その北斎的側面(資料)補筆、文化文政武鑑参照

2018/6/1川村~その北斎的側面(資料)補筆、文化文政武鑑参照_b0116271_00265050.jpg

川村

および左内の語源について ※調査用引用メモ、Wikipediaも参照

(詳しくは葛飾北斎の記事を参照)

現神奈川県である相模国足柄郡が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原秀郷流がある。ほか清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)など様々な流派が全国分布している。

カワムラ 【川村】6 日本姓氏語源辞典より

北海道、青森県、高知県。

①河村の異形。滋賀県守山市新庄町では明治新姓時に改姓したと伝える。宮城県名

取市高舘熊野堂岩口下で伝承あり。善隣。三重県四日市市寺方町では京都府京都市から1468年(応仁2年)に来住して同地の天白神社(旧:白山神社)の神主となった藤原氏の後裔と伝える。藤原(フジワラ)参照。

②大阪府東部(旧:河内(カワチ)国)発祥。飛鳥時代から記録のある地名。高知県土佐郡土佐町古味では平安時代に河内の村を管理したことで称して室町時代に来住したと伝える。同地は早明浦ダムの水域となった土地。

③コリア系。岡山県岡山市で1954年1月22日に帰化の記録あり。本姓は金。金(コン)参照。他姓もあり。

④アイヌ系。地形。北海道旭川市の川のそばから。

⑤アイヌ系。北海道余市郡余市町大川町(旧:川村)発祥。1893年まで存在した地名。

※宮城県白石市本町では奈良県の河村(カワムラ)からと伝える。時代、位置不詳。

///

サナイ 【左内】2 日本姓氏語源辞典

石川県金沢市・京都府・大阪府。男性の名前に左内あり。

サナイ 【佐内】4 日本姓氏語源辞典

山口県。徳島県名西郡神山町下分左右内(ソウチ)発祥。南北朝時代に「佐内」の表記で記録のある地名。島根県西部(旧:石見国)での伝承。同地では鎌倉時代に佐々木氏が称したと伝える。佐々木(ササキ)参照。

ただ、左内という名前は橋本左内の例を挙げるまでもなく一般化し、庄屋の名前にまで使われるようになった。

///

姓氏家系大辞典第1巻(昭和9-11版)911ページ

河村の項(川村と書くもののみ、近世)

<地名>
備中:川村郷
相模国足柄郡川村(藤原秀郷・波多野氏):河村表記 平安~相模国

<川村>
武蔵国
江原郡上北沢村 川村左近太郎

室町(天文3)1534 上北沢住の吉良家家臣川村等、多くの家疫病に倒れる

上北沢資料(H24)
「鈴木左内」1839-1909 明治時代の名主(町民)武家屋敷ではなく長屋門等がしつらえられた。本所割下水絵図にみられる川村左内とは別人。

//

葛飾郡伊豫田村 川村氏

もし推定北斎生家の川村と関わりがあるとしたらもっとも可能性が高い。同様に絵図の、関係していても親戚程度と思われる川村左内にも言える。


北斎は一般には僅か三、四歳で幕府御用鏡師一族中島伊勢(既に戦前に菩提寺と墓ともに失われている)に養子に出されたとされるため、川村が実父(菩提寺にはこの代で入ったという)の家という感覚はほとんど無かった可能性が高いと思う。後年中島の跡取りができ、もしくは自分の息子を中島の跡取りにすることになり、中島外に出ざるを得ないとき、葛飾の百姓親父と卑下しつつも母親に流れるという(実母が中島の妾という説すらある)吉良家臣の血を誇っていたほど武家の家柄に拘りのあった北斎が、実際の職は町絵師とはいえ武家の姓を保ち戻る先を考えたとき、誰も継ぐ者のいず潰れそうな下級武士川村の維持(店もしくは宗教の屋号らしき元祖佛清など名乗り子はどこかへやってしまったか失ってしまった父市良右衛門自身にはそもそも維持する気すらなかっただろう)が思い浮かんだのではないか。尤も晩年信心深くなった頃、当時興隆をきわめ信仰した日蓮宗法性寺妙見堂の前に宗派の違う浄土宗誓教寺の父の墓に参じているところを目撃した話が今も近い話として残る。最後は応為が父の墓石とされる佛清という名の自然石下に葬ったというところまで、いつからなのか、川村なのか佛清なのかわからないが最後に思いはあったようで、複雑な家庭事情も伺えはする。菩提寺の制度があったことから、不可解なのは父の代から急にという点ではあるものの、誓教寺に写し写しで残る過去帖を全面的に信じるなら後妻の死にさいし戒名下に「川村北斎」と書いてあるのは紛れもない川村の自覚となる。自ら誇った吉良家に関わる母方と吉良屋敷一部を拝領した苗字帯刀「中島」を、出たあとも重んじて改名繰り返す中に、中島を本気の肉筆の画号に取り入れたものが残るのは有名な話。ただし年がいってからだったりするので、その数の少なさや特異な書きぶりを含め別の理由があるのかもしれない。忠臣蔵を嫌い一枚も書かなかったのは嘘で少なくとも四枚の錦絵があるからそこまで思い入れはあったのか知れないが、ほかにも使ったそれらしい苗字は浦賀時代などいくつかあって(葛飾はあくまで通称)過剰に中島を重く見るのも物証が少なすぎる。今となっては震災区画整理戦災そして戦後の再度都市計画と、この地域にはもう二度と求められない失われたものが多すぎて、藪の中だ。

2018/6/1川村~その北斎的側面(資料)補筆、文化文政武鑑参照_b0116271_01281260.png

川村は父親が、北斎墓(今の卍墓、孫娘らが建てた)脇の墓石(失われた(近年資料より今も秘蔵されている可能性あり)が一部の写る写真は見つけた↑)にあらわれる簡易な戒名3つを虚心本や過去帖に照らしおそらく北斎兄妹と推定される、その墓石の、脇に刻んであったという「川村市良右衛門」が文献以外の唯一の物証だった。父親本人は多分弟子などによって「元祖佛清」とのみ刻まれ建てられた非常に立派な墓石が残存しているが、それには裏面に年号等が簡単に刻まれるのみで、川村ないし市良右衛門とはどこにもない。北斎は父の没年は既に中島なので佛清墓建立とかかわりはないと思われるが、二十歳台の天明期に北斎は「魚佛」、佛の文字を戯作著者名として使用しているので、強引に結びつける向きもいる。

2018/6/1川村~その北斎的側面(資料)補筆、文化文政武鑑参照_b0116271_01311080.jpg
 新編風土記(文化文政編)に「当御代喜八郎の養父川村一學、駒木野小佛御関所番を勤めしが、寛永十年正月、当所番士となれり」1634年江戸前期

川村一学は比較的有名な江戸前期の名士。

※小仏関所番;寛政期には、関所間での番人の異動が行われ、小岩市川関所、房川渡中田関所、駒木野小仏関所、金町松戸関所での番替があり、駒木野小仏関所では川村一学が小岩市川関所へ番替、駒木野小仏関所で川村一学の跡に房川渡中田関所から落合源兵衛が番替となった。関所間の番替はこの時期だけだった。

石岡康子「房川渡中田関所改方制度の変遷」『文書館紀要』埼玉県立文書館、2002年、 118-88頁。

小岩市川関所は国府台駅前で現在の江戸川を渡った先になる(つまり市川)。本所からは三里12Kほどもある。房川渡中田関所、金町松戸関所、小仏関所、新郷川俣関所に並ぶ重要な関所(諸国御関所書付)佐倉道と元佐倉道が合流し、岩槻街道にも接する交通の要衝で、江戸時代には御番所町(ごばんしょまち)と呼ばれた。

現在の京成電鉄江戸川駅から南へ蔵前橋通りに至る道路部分が、史跡として江戸川区登録文化財となっている。

 伊予田村は明示22年5月1日合併し小岩村→町、昭和7年10月1日南葛飾郡全体が東京市江戸川区として編入

//

関係はないと思われるが、川村壽庵は医者にして奇人で知られている。南都より江戸に出るも真面目に医術をなすより余暇に音曲を楽しむを良しとし、腕の良さを買われ清水公治療に推挙されるもテリトリー外に出ることをこばみ、やっと引き出すと一人垢衣に薬籠を肩にした貧相な老人に屋敷皆おどろいたという。趣味で数千巻の書物を所蔵していたが天明の大飢饉を耳にすると即日売り払い東北に金を送った。ハイキングを好み、富士山頂で酒を飲み笛を吹いて案内者は狂っていると思ったという。晩年は画工に依頼し旅した各地を描かせ臥遊に供した。(日本人名大辞典2,平凡社、原典:皇国名医伝)

///

文化武鑑、文政武鑑(役職編、柏書房復刻)によれば御用町人を含めお上にお勤めする川村姓は多くはない。ただ、それらしく見える名前をいくつか見出すことができる。いずれも住んでいる場所や役目の大きさから別人と思われるが(それに佛清没後だ)、名前がいかにも似たように見えるものがある。もちろんありふれた名前であり、果たしてこの方法で突き止められるものかは疑わしい。役の低い者より以下、挙げておく。

※ちなみに中島伊勢は御鏡師として文化元年から文政八年まで少なくとも、本所松坂町一丁目より動いていないことがわかる。


御小人目付(御目付衆御支配):

川村市兵衛(小石川百間長屋)文政5-7年

※文政四年時点で同役に他に二名川村がいる。8年にはいなくなり、川村は吉三郎一人となる(本郷御弓町)


仕事的には以下も検討の余地はあるが、いささか役が上過ぎる。細工所頭、のち兼、賄頭として、

川村清兵衛(五十俵、桜田御用屋敷)少なくとも文化5-8年

///


羽後山本郡鹿渡邑の名族
藤原姓幕臣
美濃河村中に川村あり
伯耆河村中に太平記時代「伯州河村伊豆守」、一説に後醍醐天皇時代に河村秀法=川村清五郎、下野国某城主、弟秀行=川村清二

※北斎実父と推定される佛清(墓石刻名)の清が入っているが、ありふれた名前でもある

備後奴可郡(寛政文化まではいた)
紀伊 川村新三郎(天正年間)
阿波 細川附実記に河村別名として川村
豊後 相模の川村新五郎清秀

ほか上杉家臣など江戸とは遠い

※鹿児島藩士川村純義は明治時代伯爵となり子供を鐵太郎という。

・・・
小説に現れた北斎父とされる川村清七について(この名前はありふれているようだ)

群馬県立文書館
宝暦11年8月(1762), 後家入証文之事(持参金3両にて後家入に付) *家/戸口

 三波川村清七甥清左衛門他, 淨法寺村庄兵衛
慶應 午7月10日 覚(入須川村清七へ売渡し酒継戻しに付受取)*615と同

封入

渋沢栄一伝記資料
川村清七曰、御苦労ながら議長は其儘浜岡氏に托せん。

すはせの里(北須田の郷土史)
明治前期に名あり

・・・
川村清右衛門

紀州藩士、地元 ほか地方ばかり


by r_o_k | 2018-06-01 00:24 | 旅行 | Comments(0)

by ryookabayashi