先生の亡くなられた年...

先生の亡くなられた年,則ち大正六年の十月の事であった。私は少しばかりの用事を帯びて戸山ノ原を通りさる人の許に行かうとして、その射的揚の邊を歩いてゐた。すると向ふからやって來たのは漱石氏であった。丁度よいから私の宅まで來ませんかと勧めたが、先生は運動に出たのだから他人の家へ這入って話し込んでは却ってよくないのだと言はれるので、其處で立話を始めた。揚所は射的場の土手の邊りで道は坂になってゐたが,その道と平行してそれよりも少し高く尙一條の細い道があって、それが兵隊相手の休み茶屋の前を通ってゐるのである。私共は低い方の道に立って話をしてゐた。暫く會はなかった爲でもあったか、話はそれからそれへと移り随分長く続いた。送別會のだんまり屋はあれは正しく半面で、他面の夏目氏は實に巧妙なる談話家である。これは誰でも知ってゐることであるが、その話の面白いこと、あの書き物に顯はれるユウモアは寧ろその談話に於て却ってよく見られる。先生と話をしてゐると實に飽きる事を知らない位である。これは座談ではないが、嘗て上田敏君の洋行を送る会の時に於ける漱石氏の送別の辭の如きは私の長く忘れることの出来ないものの一である。扨て今その巧妙なる談話家と原の小道の真中で話を始めたのだからたまらない。話は何時までも何時までも続く。何でもその時に出來上った作の「明暗」の話なども出,その批評らしいことを私が言ひ出したので、話は愈々進み、「明喑」中の人物の話からデカダンの事になり、故人齋藤綠雨氏の話にまで及んで、話は決して盡きさうにも見えなかった。道は狭く細くて且つ足場は甚だ悪い。

立話はもう二三十分も續いてゐる。その間に通行人の妨げをした事どれ程であったか。多くは皆掛茶屋の前を通る小高い方の道を通って私共をよけて行ってくれる。その中にずるりつと道を滑ったものがあるので、私共は驚いてその方を見ると、盛裝をした美人と若い男とが相携へて來たのであったが、道が惡いのでその盛装の美人が足を取られて、傾斜をなしてゐる道を滑り落ちたのであった。見ると足はもとより着物も泥だらけになってゐる。特に戶山ノ原の泥は赤土であるから始末が恐い。私達はひどく氣の毒に思ったがどうすることも出来はしない。一寸その方を見、二人とも気の毒なことをしたといふ心を顔に見せただけで又候話を続けた。實は話の間にもどうせこんなに長く話すのなら、私の家は直ぐ近くだから茶でも飲みながらやらうと勸めたのも二三度に及んだのであるが,先生は前の通り一向に動かうともしなかったのであった。さうしてゐる中に話は盡きないが、足の方が疲れて來たのでそれではまたゆるゆる話さうと言ってー立話でも隨分ゆるゆるではあったがー分れようとした時、前の掛茶屋から先刻滑って顛んだ若い美人と男とが出て來た。二人はその家に這入って泥を落し装を整へて、恐らくは茶でも飲んで出て來たのであるらしい。孰れにしても可成な時間はあったのであるが、それ程私共は長時間立話をしてゐたのであった。

これが私の夏目氏に會った最後で、その年の十二月に先生は亡くなられたのである。初めの夏目氏はその氣むづかし屋であり、最後にはその打解けた方が出たので、初めと終りとに先生の兩側面を見た私は、面白い印象として此の事實を記して置く。
〜戸川秋骨「楽天地獄」

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〜1987荒俣宏「異都発掘」より戸山ノ原あとの戸山公園一部


by r_o_k | 2018-04-23 23:48 | Comments(0)

岡林リョウの日記☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi