2018/4/12【江戸男色盛衰考】はげのことを考えていたら(小倉柳村追加)
2021年 04月 25日
はげのことを考えていたら柳の井を思い出した。湯島天神の東側、男坂下の心城院に江戸の昔からある。デジカメ時代になって行っていないので、だからはげるのだ、とまれ、ネットに新しい記事があったので引いておく。
伝説上はこの一帯に齋藤實盛の屋敷があったといいその寄進により湯島聖天とも称する。井戸の伝承はつまびらかではないがいまは何か判然としているのか、行っていないからわからない。井戸の傍らに柳の古木があったとは明治大正の本にみられることなのでそれをもって柳の井戸と呼び、毛が良くなるとして附近の女衆が貰っていっては髪を洗う風習があった。顔を洗えば白くなるとも言った。
この男坂下には昔陰間茶屋が軒を連ねていたといわれている、と昭和初期の本にある。陰間とはここでは男娼を意味する。ふと笹川臨風の一節を思い出したので参考までにここに引いておく。
「いつとなしにみんなが鏡花さんと懇意になったが、私が一番親しかった。鏡花さんの本郷訪問は無論「湯島詣」などよりも古い。湯島は昔し蔭間茶屋のあつたところで、お得意は上野の坊さん。日本橋の芳町や、芝神明前と相並んでの蔭間茶屋全盛の地で、一番最後まで蔭間のゐたところださうだ※。魚十の門内に生ひ茂ってゐた柳の老木は蔭間が亀戸の初卯詣でに持って歸った繭玉の柳を植ゑたのが生長したのだとか聞いてゐる。下谷の或待合の亭主は蔭間であったとか、或藝者屋は當時湯島で蔭間茶屋をやってゐたのだといふやうな噂もあった。.
蔭間茶屋が無くなって、藝者屋が出來た。之を天神藝者と稱し、下谷藝者とは全然違って、格は一段下ってゐる。後には映畫館になったが、本郷春木町には春木座があり、座附の茶屋もあったが、それが本郷座と改名することになった。喜多村綠郎君なども時々出演してゐた。
大塚や牛込に鏡花さんは居を構へてゐたから、本郷とは緣が無ささうであるが、我々の學生時代(明治二十九年まで)及其後の西片町時代には、屡々本郷臺に足を運んだものである。電車の無い自動車の無い時代ではあったが。」
〜明治すきがへし 亜細亜社s21
鏡花さんとは泉鏡花のことである。
櫛を置き頭を撫で付け生えてきたら増やして返す、永代橋西詰高尾稲荷についてはすでに書いた。これも江戸後期の流行神であったようだが櫛の習慣は廃れている。髑髏を祀ることより頭の悩みや病に効くとされたのである。泉鏡花ときて怪談めいて終わる。
猿若町へ引越し申す可きよしなりとぞ。
八丁堀塗師町代地、同断ハ、不埓の筋これ有り候ニ付、取潰し、是ハ表向カゲマニて女を売りしよし也。(巻十五)
表向きは陰間茶屋で、実際は売女を置いて稼いでいる者があったというのである。〜