【江戸男色盛衰考】はげのことを考えていたら

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はげのことを考えていたら柳の井を思い出した。湯島天神の東側、男坂下の心城院に江戸の昔からある。デジカメ時代になって行っていないので、だからはげるのだ、とまれ、ネットに新しい記事があったので引いておく。

伝説上はこの一帯に齋藤實盛の屋敷があったといいその寄進により湯島聖天とも称する。井戸の伝承はつまびらかではないがいまは何か判然としているのか、行っていないからわからない。井戸の傍らに柳の古木があったとは明治大正の本にみられることなのでそれをもって柳の井戸と呼び、毛が良くなるとして附近の女衆が貰っていっては髪を洗う風習があった。顔を洗えば白くなるとも言った。
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この男坂下には昔陰間茶屋が軒を連ねていたといわれている、と昭和初期の本にある。陰間とはここでは男娼を意味する。ふと笹川臨風の一節を思い出したので参考までにここに引いておく。

「いつとなしにみんなが鏡花さんと懇意になったが、私が一番親しかった。鏡花さんの本郷訪問は無論「湯島詣」などよりも古い。湯島は昔し蔭間茶屋のあつたところで、お得意は上野の坊さん。日本橋の芳町や、芝神明前と相並んでの蔭間茶屋全盛の地で、一番最後まで蔭間のゐたところださうだ※。魚十の門内に生ひ茂ってゐた柳の老木は蔭間が亀戸の初卯詣でに持って歸った繭玉の柳を植ゑたのが生長したのだとか聞いてゐる。下谷の或待合の亭主は蔭間であったとか、或藝者屋は當時湯島で蔭間茶屋をやってゐたのだといふやうな噂もあった。.
蔭間茶屋が無くなって、藝者屋が出來た。之を天神藝者と稱し、下谷藝者とは全然違って、格は一段下ってゐる。後には映畫館になったが、本郷春木町には春木座があり、座附の茶屋もあったが、それが本郷座と改名することになった。喜多村綠郎君なども時々出演してゐた。
大塚や牛込に鏡花さんは居を構へてゐたから、本郷とは緣が無ささうであるが、我々の學生時代(明治二十九年まで)及其後の西片町時代には、屡々本郷臺に足を運んだものである。電車の無い自動車の無い時代ではあったが。」
〜明治すきがへし 亜細亜社s21

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鏡花さんとは泉鏡花のことである。


櫛を置き頭を撫で付け生えてきたら増やして返す、永代橋西詰高尾稲荷についてはすでに書いた。これも江戸後期の流行神であったようだが櫛の習慣は廃れている。髑髏を祀ることより頭の悩みや病に効くとされたのである。泉鏡花ときて怪談めいて終わる。


※「男色楼、芳町を第一として、木挽町、湯島天神、糀町天神、塗師町代地、神田花房町、芝神明前、此七ヶ所、二三十年巳前迄楼有けり、近年は四ヶ所絶て、芳町、湯島、神明前のみ残れり、三四十年以前は、芳町に百人余も有けるよし、此内より、芝居へ出て歌舞するを舞台子といひ、又色子とも称して、四五十人もあり、此色子共末には皆役者になれり、女形は多分此者共より出来て、上手といふ地位に至りしも多有ける由也、古評判記を見て知るべし、既に当時の尾上松緑は舞台子にて有し也、近年、舞台子絶てなし、然る故に、江戸に女形の種なし、江戸役者の女形は有やなしやにして、女形は皆上方役者のみになれり、此節、街艶郎、芳町に十四五人、湯島にも十人計も有由を聞り、宝暦の頃と違ひ、減少せし事にて、男色衰へたるとみへたり、」〜小川顕道「塵塚談」文化十一年(中公版「燕石十種」)

【参考】「藤岡屋ばなし続集」鈴木棠三(三一書房他)、原典「藤岡屋日記」藤岡屋由蔵(幕末期)〜

一、湯島天神境内·よし町、男色売(カゲマ)茶屋の義、御糺しニ相成り、踊子の由ニ付、
猿若町へ引越し申す可きよしなりとぞ。
八丁堀塗師町代地、同断ハ、不埓の筋これ有り候ニ付、取潰し、是ハ表向カゲマニて女を売りしよし也。(巻十五)
表向きは陰間茶屋で、実際は売女を置いて稼いでいる者があったというのである。〜

風紀取締の厳しい折、十代の蔭間が転職廃業を余儀なくされ身請け人をあてがわれたことも数多記されている。しかしいずれ蔭間が流行っていたということではなく制約が緩かった、商売の場の制限された遊女屋の方が儲かったということで、この記述のような偽装が起きたことが伺える。

by r_o_k | 2018-04-12 23:36 | 旅行 | Comments(0)

岡林リョウ☆フツーのつれづれをフツーに書きたいという変な欲望が囁きました。


by ryookabayashi
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